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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第三章
13/24

3-1

「『オペラ座の怪人』?」

「はい」


 頷くと、桃井は「へえ!」と顔を輝かせた。

 シーズン開始直前の、残暑の厳しい夏の日だった。


「昔、槻木さんがシングルで演ったことあったよね? すごい、見るのが楽しみ!」

「桃井さんとは出る試合が被りませんから、最初に見せられるのは全日本になりそうですけど」


 日本代表のペアとしてグランプリシリーズに派遣される桃井と違って、榛名がエントリーされているのは自国開催であるスケート・ジャパンだけだ。桃井はスケート・ジャパンにはエントリーされていなかった筈だから、確実に出場が被るのは全日本だけだろう。榛名達はスケート・ジャパンまでは去年と同じく地方大会に参加する予定で、暫くは互いに慌ただしい日々を送ることとなるな──と思っていたところで、桃井は「あ」と声を上げた。


「そういえば、その全日本なんだけど」

「うん?」

「多分だけど、あと、勿論関東大会の結果次第だけど。もう一組、アイスダンスのカップルが出場するらしいって」

「え?」


 榛名は、驚いて目を瞬いた。


「アイスダンスのカップルって、わたしと槻木さん以外にも居たんですね!?」

「……昔からのこととはいえ、榛名、もっと周りに興味持ったほうがいいんじゃないかなー」

「う」


 それはまさしく、東山によく叱られていることだ。榛名は紅茶を一口啜ってから、「だって」と小さく言い訳を口にした。


「わたしたちが去年強化指定されたのは、他に誰も居なかったからですし」

「ああ、うん。でも、話ぐらいは聞いたことあるでしょ? 去年は、男性の方が怪我してて、試合に出られなかったんですって。私も一回、四大陸かな? で顔合わせたことあるよ。年は私と同じだったはず。幼馴染でジュニアの頃からずっと組んでて、もう八年になるって話だったかなあ」

「は」


 八年、ということは、小学生の頃からのカップルということだ。桃井もまた幼馴染とずっとペアを組んでいることを鑑みても、ペアやアイスダンスの世界では決して珍しいことではない。

 それでも、──人生の半分近くだ。


「そう。勿論、榛名たちには去年の実績があるから、強化指定とかは変わらないと思うけど……でも、全日本では」


 桃井がごく無邪気に笑う。


「きっと、榛名達の良いライバルになるんじゃないかしら」


 ライバル。

 女子シングルの頃に、世界での争いよりも国内での代表枠争いのほうが厳しいという世界も経験している。けれどもアイスダンスを始めてから、榛名はすっかりとそのプレッシャーのことを忘れていた。

 ほんの少しだけ身体が強張るような思いを感じながら、榛名は問う。


「……えっと、その二人の名前を聞いてもいいですか?」

「勿論。ええと、たしか、――」






「三波・佐倉組、か」

 画面に流れているのは、関東大会の映像だった。

 曲目は『カルメン』。こちらも『オペラ座の怪人』に負けず劣らずの人気を誇る曲で、女性の赤と黒を基調にした衣装が曲調を表して随分とセクシーだ。


「去年はたしか、佐倉の方の怪我でシーズン通して休養していたんだったか……今年は復帰していたんですね」


 日本のアイスダンスはどうにも層が薄いですから、と、槻木の口ぶりは本気で二人の復帰を歓迎しているようだ。東山が「何言ってんの」と叱るように言う。


「コイツらが復帰して来なきゃ、今期も世界選手権は確実だったのよ?」

「東山、口が過ぎる」

「そうは言ったって、事実じゃない」


 というやりとりも、殆ど榛名の耳には入ってこない。榛名の目はただ、画面に釘付けになっていた。


(三波さん、って……桃井さんは、わたしの一個上って言ってた。ってことはまだ、二十歳なのに)


 胸元と背中が大きく開いた衣装は、血のような真っ赤なレースが手元と胸元を縁った、ひどく扇情的なデザインだ。体格は(榛名ほどではないにせよ)華奢で少女めいてさえ見えるのに、その動きが醸し出す空気ときたら。


(こういうのを、『色気』って、言うのか)


 黒いウエーブがかった髪は顔のサイドに落ちて、後ろ髪は衣装と同じ色の赤いリボンを絡ませるようにしながら首のあたりで一つに括られ、ターンのたびにふわりと怪しく揺れる。スピードこそ然程ないもののエッジワークは深く的確で、榛名はそこに圧倒的な年季の差を感じ取った。


「カルメン、と聞いた時は驚きましたが、よく練られたプログラムですね」

「よく滑り込んでいる。怪我の影響もあってか、速度と体力にはまだ問題を抱えていそうだが」

「その点はまあ、こっちが有利と言えるでしょうね」


 東山が腕を組み、冷静な目線で画面を見据える。


「ウチが去年それなりに評価されたのは、基礎のスケーティングが出来てるのと、ふたりともシングル時代が長いから、魅せ方をよく知ってたから。その上、ふたりとも体力があってトップスピードを最後まで維持できるからよ。つまりは全部、シングル時代に培ったものの恩恵ってこと。だから、リフトやらツイズルやらの技術を差っ引いても、まあ、見栄えがいいのよね」


 珍しく褒められている気がして、榛名は画面から東山へと視線を流す。東山は榛名を見て意地悪く笑って、「でも」と言葉を続けた。


「三波結衣? この子、なかなか良い性格してそうじゃない。榛名には出来ないことをわかってやってる、って感じ。カルメンだって、もしかしたらこっちを意識した選曲なんじゃないかしら。全身で言ってるもの」

「……なんとなく何言われるかわかったんですけど、一応聞いときますね。何をですか」

「『コレが大人のスケートの世界、本物のアイスダンスだ』……って、よ」


 それこそ、榛名が感じていたことだ。榛名達の側が挑戦を受けているはずなのに、画面に写る演技からは逆の余裕、貫禄のようなものが感じられた。広澤が冷静に付け足す。


「雰囲気の問題だけではない。男性の方は小柄で、体格差のあまりないカップルだが、見た目より随分と筋力があるようだな。最後に大技のロングリフトを入れているが、安定感がある」

「それは、俺も思っていたところです。リフトに入る際の動作にも一切のブレがありません。体の線が出ない衣装のせいで、ぱっと見にはよくわかりませんが、おそらく随分と鍛えているのでしょう」


 槻木が指摘する通り、男性の側は白いドレスシャツと黒いズボンのごくシンプルな衣装で、殊更に肉体を誇示することもない。振付も相俟って、とことんまでに女性側を立たせようという意図を感じた。


「……わたしたちのとは、随分違いますね」


 つまり彼らの演技は、いっそやりすぎているぐらいに、『正統派のアイスダンス』だった。物語性が強い選曲と振付、槻木も凝った衣装を纏っての演技であるこちらとはあまりにも対極だ。


「そうね。そりゃそうよ、こいつらとあんた達じゃあ武器が違う」


 東山はあっさり頷いた。


「キャリアが違うの。こいつらはその経歴自体が武器だと思ってるから、とことんまでに『アイスダンスらしい』構成になる」

「……じゃあ、わたしたちの武器は?」


 榛名がちょっと不安げに聞くと、東山の指がぬっと伸びてきて榛名の額を弾いた。


「すこしは、自分の頭で考えなさい」

「ったあ……」


 思わず額を抑えると、槻木が「女の顔に何をするんです!」と東山に向けて怒鳴った。そうして、慌てた様子で榛名の顔を覗き込む。


「大丈夫か? 傷になってないだろうな」


 槻木の顔がごく近くにあって、その指先がそっと榛名の手をどけて額を検分しようと髪を持ち上げた。「へ」と榛名は思わず息を呑み、槻木の真剣な瞳にきゅっと胸のあたりを掴まれたような心地になる。

 氷の上でなら、このぐらいの距離だって別に狼狽えたりしないのに。


「……ん、痕にはなっていないようだな」

「な、ならよかったです……」


 槻木の手が離れた前髪を撫で付けていると、ふと生ぬるい視線を感じた。恐る恐る見た先で、東山がなんとも言えない笑みを浮かべてこちらを見ている。


「あ、東山さん?」

「……真面目に話してるほうが馬鹿みたいな気分になるじゃない。すっかり色ボケしちゃって」

「いろぼけ?」

「そこで首傾げるのはいただけないけど。槻木、アンタの教育方針どうなってるの?」

「どうもなにも、見ての通りですが。大事に大事にしているに決まってるでしょう」

「いい切ったわねー。さすが童――」

「東山」


 広澤の手が、唐突に東山の口を塞ぐ。もごもごと未だ言い足りなさそうにしている東山を視線で黙らせて、広澤は言った。


「お前たちの武器は、お前たち自身が一番よくわかっているはずだ」


 広澤の目が、強く榛名と槻木を見据える。



「それを忘れなければ、世界に行くのはお前たちだ。──外に目が向くようになったのは悪いことではないが、過剰に振り回される必要もない。まずは己を見据えろ。お前たちが立っているのは、まだ、その段階であるはずだ」







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