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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第二章
12/24

2-6

 槻木の住んでいる1Kのアパートは、確かにリンクから程近いところにあった。

 徒歩で二十分程度、榛名が利用しているのとは違う側の駅の近くだ。


「もともと、大学に行くために借りたアパートだからな。そちらの沿線上なんだ」


 言い訳みたいに言いながら、槻木は扉の鍵を開ける。そういえば、と、榛名は思った。


「槻木さん、大学は推薦じゃないんでしたっけ」

「ああ。あの頃は、スケートを続けるつもりがなかったから。……結果的に続けることになって、一昨年は休学してしまったが」


 あっさりと槻木は言って、榛名を中へと招き入れる。八畳ほどのスペースはベッドと折りたたみのローテーブル、テレビ台とパソコンデスクが入るともういっぱいで、全く散らかっているところがないのに随分と狭いような印象を受けた。


「悪いな、どうもモノが多くて……とりあえず茶でも淹れよう。適当に座っていてくれ」


 榛名のコートを受け取って壁際のハンガー掛けに掛け、槻木が言う。適当に、と言われて、榛名はちょっと考えた。


(ええと、テレビを見るんだから、その正面とかのほうがいいよね)


 テレビ台の前にはローテーブル、それを挟んだ向こうは簡素なシングルベッドだ。榛名は綺麗に整えられたそのベッドの上に、ちょこんと腰掛けた。


(わ、ふかふか)


 軽く滑った程度とはいえ練習後で、ふかふかのベッドはいかにも魅力的だ。しかしながらさすがに他人の家でいきなりベッドに横になってはいけない、という程度の常識はわきまえていて、榛名はぐっと誘惑に耐えた。


「……眠いなら、日を改めるか?」

「へ? だ、大丈夫です!」


 が、もしかしたら顔に出ていたのかもしれない。不揃いなマグカップをふたつ手にした槻木の呆れた声に、榛名は慌てて顔を上げる。槻木はマグカップをテーブルにおいて、「本当か?」と少し笑った。とはいえ言いながらプレイヤーにディスクをセットするあたり、榛名を追い返す気は流石に無いのだろう。榛名は温かい紅茶をひとくち啜って、一人暮らしにしては過分に見える大画面に映像が映るのを見て顔を上げた。



『The Phantom of the Opera』



 蝋燭の炎が幻想的な、オープニングの画面。

 槻木が榛名の隣に座るのを感じたけれど、榛名はもう、画面から目を離すことが出来なかった。

 画面はモノクロになり、朽ちた劇場、オークションの会場が映し出される。劇場にまつわる様々な品が売りに出される中、ひとつの猿を模したオルゴールが画面に映った。老女と老子爵が少しの競り合いの後、了解づくで老子爵のもとにオルゴールが渡る。

 そうして次に出てきたのは、布が被せられた大きなシャンデリアだった。



 ――掛けられていた布が、ぶわりと、舞い上がるように一気に取り払われる。



 同時に鳴り響く、有名すぎるメインテーマ。引き上げられるシャンデリア、巻き上がる埃とともにすべてが色を取り戻していく──その光景の圧巻さたるや!


(――これが)


 見開いた目を、瞬きする間すら見つけられない。


(『オペラ座』。今まで幾度となく演じられてきた、ファントムの愛の物語……)


 榛名は大きな目いっぱいに絢爛たるオペラの舞台を映し、ぐっと息を詰めて、物語の世界へ沈んでいった。










「……榛名?」


 声をかけられて瞬きを思い出して、榛名の目から一つ涙が零れた。

 じわりと目が痛むのは、乾いていたからだろう。補いたがるみたいにじわじわ水は溢れて滴って、榛名は慌てて机の上の箱からティッシュを二枚引きぬく。


「ご、ごめんなさい」


 映画はもうとうに終わって、画面にはメニュー画面が映るだけだ。真っ白い仮面を見ているとぐっと胸が痛くなってきて、榛名はティッシュで顔を覆うようにする。


(――赤い、薔薇)


 モノクロの画面に一つだけ、鮮やかな色彩が脳裏にこびりついて離れない。

 哀しい、と、榛名は思った。他に表す言葉を持たなかった。


(なんて、哀しいものがたりなんだろう)


 哀れなファントムの嘆き。歪んだ愛の物語。幼い榛名にはそれを愛と称していいのかすらわからなくて、どんな言葉も見つからなくて、ただぐすぐすと鼻をすすり上げるだけになってしまう。

 かわいそうだ、と、ただひたすらにそう思った。こんなの、あんまりに──思いながら槻木の顔を見ることも出来ないでいると、ふと空気が動くのを感じた。


(え)


 榛名はもう、槻木の体温を知っている。

 氷の上で一年、共に滑ってきたのだ。まだまだカップルとしては未熟だけれど、槻木の暖かさはもう榛名にとってすっかり馴染んだものになっている。

 けれどもそれは、氷の上での話だ。


「つ、」


 槻木の腕が己の身体に回って、大きな掌が後ろ頭を掴んで、視界がぐっと暗くなる。槻木さん、の声は吸い込まれて消えて、榛名は大きく一度瞬いた。


(抱きしめ、られてる?)


 槻木の胸に顔を押し付けるような姿勢で、強く抱きすくめられている。その腕の力強さと暖かさは榛名のよく知るもので、驚きはあっさりと安堵へと移り変わっていった。

 榛名はもう、ここが、何処よりも安心できる場所だと知っている。一度驚きでひっこんだ涙がまた溢れてきて、榛名はティッシュを抱えていた手で槻木のシャツの胸元を掴んだ。


(オペラ座の怪人。――ああ、だからみんな、ファントムを演るんだ。クリスティーヌとラウルの恋ではなくて、ファントムの孤独が。報われぬ愛が)


 『私が居なければ駄目だと言って』。


 繰り返される有名なフレーズ。三人が歌う同じ歌詞の中で、けれども人は決して、恋を語らう二人の掛け合いを選ばない。クリスティーヌに請い願うように言う、ファントムの姿こそが──そして、それが故にただ哀しい、救われぬ歪んだ愛の形が、『オペラ座の怪人』のタイトル通り、この物語のもっともうつくしい部分だから。


(人の心を捉えて、離さないんだ。ああ、だとしたら、わたしは……)

「……つきのき、さん」


 槻木の手が、そうっと榛名の頭を撫でる。榛名の頭を撫でるのなんてすっかり慣れきっているはずなのにどうしてかその手つきがぎこちなくて、榛名はちょっと頭を持ち上げた。

 槻木の顔がすぐ近くにあって、榛名はその整った、ファントムとはあまりに遠い美しい顔を真っ直ぐに見据える。



「わたし、演りたいです」



 オペラ座の怪人は、哀しい、愛の物語だ。

 榛名の奥からふつふつと湧いてくる熱が、外に出ようと藻掻いている。こんな気持ちははじめてだ、と思った。滑りたい、と思った。ただ滑るだけではなくて、――オペラ座を、滑りたいと思ったのだ。


(滑りたい、……違う、わたしは、『表現したい』んだ)


 今己の中に宿る熱を、哀しみを、愛しさを、そのすべてを乗せて滑りたい。


「わたしと槻木さんで、わたしと槻木さんだけの、『オペラ座』が演りたい」


 クリスティーヌになって、表現したいものがある。

 けれどもそれは、シングルでは、榛名一人では決して演じ得ないものなのだ。榛名の視線を受け止めて、槻木はふっと、びっくりするぐらいに綺麗に笑った。


「ああ」


 槻木の手が、そっと榛名の手を握る。


「演ろう。俺とお前で、最高の『オペラ座』を」





 * * *





「どうだった?」


 夜坂の声に、榛名は振り向いて首を傾げた。

 無事に曲が決まったとはいえ、まだ振付には入っていない。榛名と槻木は相変わらず基礎の練習を繰り返していて、夜坂はリンクサイドからじっとそれを見つめていた。槻木曰く、『ああやってイメージを固めているんだ』と言うことらしい。

 しかし今は、槻木の講義の関係で、リンクに居るのは榛名一人だ。練習中の他の選手に紛れながらウォームアップがてら流しているだけの榛名の姿なんて見ても何のイメージ湧かないだろうに、と思っていたが、つまり夜坂は榛名と話すためにそこに居たということなのだろう。

 槻木が居ないところで、榛名と二人で話したかったのだ。榛名は少しばかり警戒しながら、「何がですか」と問いを返した。


(……そういえば)


 槻木は夜坂と己の関係について、『年の離れた友人』という言葉を使った。


(だとしたら、夜坂さんは、槻木さんの『天使』じゃない? ほんとうに?)


 あれ以来話に上ることもなく、謎は未だ以って謎のままだ。夜坂なら知っているだろうか、と思いながら夜坂に尋ねることもなんだか悔しいような感じがして、問えぬままに榛名は夜坂を見る。


「何が、って、ショウよ。ちゃんと部屋に行った?」

「あ、はい。見せてもらいました」

「部屋で、二人で?」


 なんだか質問がくどい。榛名はきょとんとしながら「はい」と頷くと、夜坂はすこし、緊張したような面持ちで尋ねた。


「何か、あった?」

「へ?」


 何か、とは何だろう。榛名は律儀にあの日のことを思い出して答えた。


「あー……ええっと、槻木さん、何か言ってました? わたし、泣いちゃって、吃驚させちゃったかな」

「な、」


 夜坂の声が裏返り、「泣いた!?」と大きな声がリンクに響く。


「ちょ、待て、ショウってば何を、……ああ、チェリーにできることなんてたかが知れてると思ったのに……!」

「へ?」


 なんだかいつもと違う調子で榛名に駆け寄ってきて、リンクサイドの壁越しに榛名の肩を掴む。その慌てた様子にきょとんと目を瞬いて、「何かって」と榛名は首を傾けた。


「あの、『オペラ座』を見ただけですけど……? わたし、すごい夢中になっちゃって、多分、目が乾いちゃったんだと思うんですけど、見終わってからなんか、……涙、止まんなくて」


 思い返せば、随分と恥ずかしいことをしたものである。照れて頬を掻く榛名の前で、夜坂はがっくりと脱力した風情でため息を吐いた。


「ああ……そういうこと。でも、……ああ、そうか、だから」


 夜坂が気を取り直したように榛名を見上げて、相変わらずの、天使みたいにふわっとした顔で微笑む。


「あの日のあと、確かにあなたの顔つきは変わってた。ショウが言うから、とか、ショウのファントムが見たい、とか。そういう理由じゃないものが、あなたの中にちゃんと出来てた」

「……そう、見えましたか?」

「ええ。じゃなかったらあの東山が、あっさりオーケー出したりしない。そうでしょ?」


 『オペラ座の怪人』を見た翌日、槻木と榛名は改めて今期のプログラムに『オペラ座の怪人』を使用することを宣言した。おそらくは強硬な反対に合うだろうという予測はけれども外れて、東山は仕方がなさそうに「好きにすれば」と言ったのだ。


「そっか。……うん、そうですね。わたし、オペラ座を見て、クリスティーヌを演りたいって、思ったんです」


 きっぱりとした榛名の言葉に、夜坂が少しだけ驚いたような顔をする。


「わたしがこういうこと言うの、変ですか?」

「いや、そういうわけじゃなくて……あー、あなたはその、クリスティーヌをどういう女だと思ってる?」


 夜坂は幾分か聞きづらそうに尋ねた。


「どういう?」

「ほら、ショウは、何ていうのかしら、……クリスティーヌを、神格化してるところがあるでしょう。原作版ならともかく、ミュージカル版を二股って言わないのは無理がある、って、ワタシは思う。まあショウがクリスティーヌをそう思ってる分には、ファントムもそうだっただろうから構わないんだけど」

「ああ」


 榛名は、槻木の言葉を思い出してぽんと手を叩いた。


「『心優しく、無邪気で、ひたむきで、純真』……でしたっけ?」


 なるほど確かに、それもクリスティーヌの一面だ。夜坂のなんとも微妙な顔に、榛名は軽い笑いを返す。


「流石にそれは、都合のいい見方ですよね。クリスティーヌはまあ、無邪気とは言えるかもしれないですけど、純真というよりは……うーん、『夢見がち』? かなって、そう思います」

「……ワタシ、アナタも割と普通の女の子で安心したわ」

「なんですかそれ。わたし、普通の女子大生ですよ。……でも、そうですね。クリスティーヌが二股じゃない、っていうのは槻木さんに同意かなあ」


 夜坂を見下ろして、榛名はあの日の、『オペラ座』を見た日の熱を心に思い起こす。そうして、夜坂の最初の問い、『クリスティーヌをどういう女だと思うか』に答えるために口を開いた。


「夜坂さん」


 心優しく純真で、少しばかり夢見がちな、――お人形みたいな、おんなのこ。



「わたしはクリスティーヌのこと、可哀想だ、って、思います」



「……ファントムが、じゃなくて、クリスティーヌが?」

「はい」


 『オペラ座の怪人』は、哀れな愛の、物語だ。だから榛名は、槻木と、『ファントム』と『クリスティーヌ』を演りたいと思ったのだ。


「……榛名」


 少し考えこむようだった夜坂の目に、きらりと鋭い光が宿る。夜坂は榛名を見上げ、くいとリンクの外を指さして行った。


「どこか、部屋空いてないかしら。ちょっと、曲をかけてお話しない?」

「え? 別にいいですけど……この時間なら、いつもの部屋が空いてると思います。そこでいいですか?」

「ええ」



 夜坂が頷いて、榛名は氷の上を降りる。そうして小さな部屋で交わされたどこか秘密めいた会話はごく短く、夜坂はひとつ頷いて、――そうして、『オペラ座の怪人』の筋書きは整った。








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