2-5
いつかの日と同じ打ち合わせ室の中には、あの日のメンバーに夜坂を足した五人が座っていた。
「久しぶりだな、夜坂」
「ええ。いつぶりかしら?」
「去年のバンケットで、顔ぐらい合わせたんじゃないの?」
各種大会のあとに催されるパーティーは、選手やコーチ等の関係者が集う、華やかな社交の場になっている。東山の指摘に夜坂は軽く肩を竦めた。
「去年はショーがメインだったから、競技の仕事はあんまりしてないの」
「そうなの? 頼むわよ、ちゃんと点とれるモン作ってもらわないと困るんだから」
フィギュアスケートは採点競技だ。個々の技ごとに厳密なルールが定められているのは勿論のこと、要素加点や全体の演技構成に対する点数が存在する。現在の採点基準にあった、点数がとれるプログラム──それは当然、ただ必要な技を組み合わせればいいというものではないのだ。東山の釘を差すような言葉に、夜坂は「あら」と目を眇めた。
「このワタシが、他でもないショウを踊らせるのに、生半可なモノなんて作ると思う?」
「……ならいいけど。それで、曲は何にするとか、もう槻木とは話してるの?」
東山は言いたいことを堪えるような顔をして、無理やり話を切り替えて尋ねる。
「他の子の振付だってあるでしょうし、ずっとこっちに居られるわけじゃないんでしょう」
「……それは」
「ああ、それなら、俺からもう提案済みです。俺たちの来期のフリープログラムは、」
夜坂がちらりと槻木を見て、槻木は応えるように自信満々に笑う。東山が微かに眉を寄せて、それをまるで見ない顔で槻木は言った。
「──『オペラ座の怪人』にしたい、と。そう考えています」
そのタイトルを聞いた瞬間、榛名の頭に、音楽がくわんと鳴り響いた。同時に脳内に再生される──あまりにもうつくしい、黒衣の少年のトリプルルッツ。
(……あれは、いつだっっけ?)
エンジェル・オブ・ミュージック、のフレーズがあまりに有名な、フィギュアスケートではメジャーすぎるともいえる曲目だ。シングルでの声入り曲解禁もあって更に人気が加熱した節のある、ある意味では手垢のついた曲──だからだろう、堂々たる槻木の言葉に対する東山の反応は冷ややかだった。
「……あんた、馬鹿なの?」
「な」
冷たい視線で見据えられ、槻木もまたきゅっと眉を寄せる。東山はため息混じりに腕を組み、道理を解くだけの口調で言った。
「だってあんた、オペラ座なんて、他と被ったらどうするの? 今のレベルで上と比べられたら相当キツい、っていうかそれ以前に、つい最近メダル獲ったペアも居た曲じゃない。あんた達、それ以上のモンが滑れると思ってるの?」
「? 当然でしょう」
槻木が胸を張って答えると、東山がおもいっきりその頭を引っ叩く。「何するんですか!」と騒ぎ立てる槻木を尻目に、東山は「どう思う?」と広澤に視線を向けた。
「私は、正直きついと思うんだけど。内容的にもね。どう構成してもハードになるわ」
「……槻木。何故、この曲を選んだ?」
広澤は東山の問には答えず、真っ直ぐに槻木を見据えて尋ねた。槻木はぴっと背筋を伸ばし、瞳に冷静な英知を湛えて答える。
「榛名には、この演目がふさわしいと思ったからです」
「え」
突然己の名が出てきて、榛名は小さく声を上げた。
アイスダンスは氷上の社交ダンス、であるからには当然に、女性が中心となる競技である。榛名を基準に曲を選ぶのは当たり前のことで、けれども榛名には、槻木の言葉がピンとこなかった。きょとんとしたままの榛名に視線を向けることもなく、槻木は言葉を重ねる。
「クリスティーヌは、心優しく、無邪気で、ひたむきで……純真な、透き通るようにうつくしいヒロインです」
「……二股女によくそこまで夢抱けるわね」
「その表現は不適当です。彼女がファントムに抱いていたのは、ただの感謝と同情だ」
榛名は槻木の言葉を聞きながら、必死でストーリーを思い返した。
クリスティーヌは歌姫で、ファントムは彼女に歌を教えた怪人。ファントムの教えと工作により、クリスティーヌはオペラ座のヒロインに抜擢される。ファントムはクリスティーヌを愛していたけれど、クリスティーヌは……あれ、ヒーローが別に居た気がするんだけど何者だっけ、と榛名が内心で首を傾げる前で、槻木は淡々と言葉を続けた。
「それは決して、愛になることがないものです。それを理解できなかったファントムは勿論哀れでしょうが、クリスティーヌが責められるべき謂れはどこにもない」
「なるほどね」
青臭い解釈ねえ、と東山はやる気なく言って、ちらりと榛名に視線を投げる。どうしよう解釈とか聞かれたら、と明後日な緊張をした榛名を指さして、「つーか」と東山は言った。
「あんた、百歩譲って無邪気ぐらいは認めてやるけど、ひたむきでうつくしくて、そんでクリスティーヌってんなら、『Point of No Return』の色気も必要よ? 榛名の何処がそんなヒロインに見えるって言うの」
「……東山さん、ちょっとはオブラートに包みません?」
ストーリーについて意見を求められなかったことは幸いだったが、どちらにせよ榛名には辛い話題だ。確かに榛名の色気の無さは、女子シングルの選手ならともかく、アイスダンサーとしては致命的だった。自覚はあれどどうしようもないと開き直っている榛名は乾いた笑いで返し、槻木もまたぐっと言葉に詰まる。
(槻木さんも、さすがにわたしが美しいとか色気があるとかは言えないよねえ)
榛名はどちらかと言えば童顔だし、少し癖のある黒髪は肩を越える程度で、筋肉の付きづらい身体は華奢で平板、総じて『大人っぽい』の対局に位置するような見目だと自覚している。ジャンプ跳んでたころは胸が無い方が良かったんだけど、と思いながら、自分のまな板と言っても差し支えない胸を見下ろす。ま、今だって軽いほうがいいし、とあまり慰めにならない慰めを自分に投げていると、「そもそも」と東山の隣の広澤が言った。
「それを言ったら、選べる曲が無くなるだろう」
「まあ、それもそうだけど。ていうか、あんたホントに女子大生よね? 小学校で発育止まってんじゃないの」
「その辺にしてください。榛名に失礼でしょう」
「っていうか、場所が場所なら、それと言ってるアナタが女じゃなきゃ許されない発言よ? 言葉に気をつけなさいな、スズ」
「別に体格だけの話をしてるつもりはないわよ。身体がどうであれ、色気なんて作り出せるんだから」
「……ていうか、誰もわたしの擁護はしてくんないんですね……」
まさか、広澤にまで言われるとは。
ちょっとバストアップ体操とかしてみようかなあ、と割と本気で思い始めた榛名の前で、「色気はともかく、ワタシは悪くないと思う」と夜坂が言った。
「クリスティーヌは、槻木の言うとおり、割りと純粋なイメージがあるヒロインだから。少なくとも、カルメンやトゥーランドットよりはこの子に似合う」
「……レイが槻木の味方だってことはわかったわ。それじゃあ、榛名は?」
「はい?」
話を向けられて、榛名は小さく目を瞬いた。
「アンタはどう思うの。……オペラ座、やれると思う?」
『オペラ座の怪人』について、榛名はあまり詳しくない。
ミュージカルはもちろん見たことがないし、有名な映画版だって未視聴だ。ゆえに、榛名にとっての『オペラ座の怪人』のイメージは、氷の上で演じられたもののみで構成されていると言っていい。
けれども榛名は、ひとつも迷わず頷いた。
「はい。……あ、いや、やれるかはわかんないですけど、やりたいです」
「……へえ?」
東山が少し眉を上げて、面白いものを見る顔をした。榛名が己の意志を明確に示したのが、随分久々だったからだろう。そのまま、尋ねる。
「そりゃまた、どうして?」
「ええっと。わたしがちゃんとクリスティーヌやれるかはわかんないですけど、『オペラ座』やるってことは、また、槻木さんのファントムが見れるってことでしょ」
東山がちょっと目を見開いて、「あれ」と榛名は首を傾げた。
「……槻木さんが、昔、演ったことあったと思ったんですけど……わたしの記憶違いでしたか?」
「いや、合ってるよ」
声に顔を向けると、槻木は心底驚いた顔をして榛名を見ていた。
「ジュニアの頃だぞ。……よく覚えてたな」
「あ、よかった。まあそういうわけで、わたし、オペラ座、やりたいです。曲が被るとか、よくあるじゃないですか。大丈夫ですよ。見てる方だってそれぐらい認識してます」
人気曲というのはどうしたって存在するし、気にしていたらはじまらない。女子シングル時代に培った開き直りとともに、榛名は言った。
「それに、わたしが色気のないクリスティーヌでも、その分槻木さんのファントムに色気があるはずですから!」
はっきりきっぱりとした榛名の言葉に、「ふふっ」と夜坂が吹き出して、続いて東山がげらげらと笑い出す。
「ユキったら、最初っからショウ相手に負ける気なの?」
「っていうか、これで槻木の役どころがファントムじゃなくラウルだったらどーするつもりなんだか」
「……らうる?」
って、誰ですか? と首を傾けると、あっけにとられた顔で固まっていた槻木が、「榛名!」と叱りつけるときの声をあげた。
「もしかしたら、と思っていたが……お前、『オペラ座の怪人』を、スケートの演技でしか見たことがないな!?」
「え、……あー、いや、わたし、ミュージカルとかよくわかんなくて……バレエは東山さんに習ったから、有名どころは知ってるんですけど……」
へらっと誤魔化すように笑ったものの、槻木が誤魔化されてくれるわけもない。
「よくわかんない、じゃない! まさかこの人気曲を知らぬわけはないと思っていたが……これは曲決め以前の問題だな、映画版だが、うちにD∨Dがあるから貸してやる。音源はこれのサウンドトラックを使う予定だったから、先ずはそれで」
「って、言うか」
槻木がいつもの調子で榛名に告げるのを遮って、夜坂がぽんと手を叩いた。
「ショウが持ってるなら、ショウのところで見せて貰えばいいんじゃない? リンクの近くに住んでるって言ってたでしょ」
「――は?」
「今日の練習は早めに切り上げて、帰りにショウの家に寄って見ればいいじゃない。一緒に見たほうが、イメージも摺り合わせやすいでしょう?」
「あ、それ、ありがたいです」
夜坂の提案に、榛名は思わず顔を輝かせた。
「わたしひとりで見ても、多分途中で寝ちゃうと思いますし!」
「寝るな阿呆! というか、駄目に決まってるだろ!」
「え。なんでですか?」
「なんで、って」
榛名の視線の先で槻木が絶句し、夜坂がくつくつ肩を震わせて笑う。助けを求めるみたいに槻木の視線が東山と広澤を見て、けれども二人もまた槻木に救いの手を差し伸べることは無いようだった。
「ああ、いいんじゃない? 善は急げっていうし」
「そうだな。榛名は曲想の解釈が得意な方ではないし、槻木の助けが合ったほうがいいだろう」
東山はにやにやと、広澤はごく生真面目に頷く。槻木は裏切られた顔で二人を見てから、顔を榛名の方へと向けた。
「そういえば槻木さんのおうち、初めてですね! 楽しみだなあ」
槻木の実家は横浜の豪邸と聞いたが、そちらにも榛名は行ったことがない。初訪問という事態にすっかりわくわくしてしまっている榛名の顔を見て、槻木はがっくりと肩を落とした。
「……レイ。後で覚えておけよ……」
「え、むしろ感謝して欲しいくらいなんだケド。……さて、と」
ぱん、と夜坂が手を打ち鳴らす。
「お楽しみは取り敢えず後ほどってことで。ちょっと滑ってみてくれる? 大体のイメージは固まってるけど、やっぱり、組んでるところを直に見てみないとね」




