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わたしのファントム  作者: 逢坂景
第二章
10/24

2-4


 基本のステップだけを流して早めに練習を切り上げたところで、リンクサイドに置かれていた鞄からスマートフォンの着信音が鳴り響いた。誰だろう、と思ったところで、傍らの槻木がぱあっと顔を輝かせる。


「レイ! 珍しいな、電話してくるなんて」

(……レイ?)


 一年組んでいて、初めて聞く名前だった。女性名と楽しげな声音に榛名が固まったのに気づきもせず、槻木は鞄に駆け寄ってスマートフォンを取り出す。


(っていうか、着信音でわかるんだ!?)


 わざわざ個別登録している相手、ということだ。


「もしもし! いきなりどうした?」


 榛名が呆然としている前で、槻木はそのまま鞄を置いていたベンチに座った。榛名は立ち去ることも出来ず、かといってなにかやることがあるわけでもなく、呆然とその姿を眺めてしまう。


「うん、丁度練習が終わったところだ。そっちは……え? 日本についた? 来日は来週じゃなかったのか」


 来日、ということは、『レイ』は日本人ではないのだろうか。槻木のカナダ時代の友人か何かか、と考えを巡らせる榛名の前で、槻木がひどく残念そうに「成田まで迎えに行くつもりだったのに」と言う。


(……わざわざ、空港で出迎えるぐらい、親しいひと)


 作り顔でなく顔を輝かせる槻木、というのが珍しくて、榛名はついまじまじと見つめてしまう。やっとのことで槻木が気付いて、槻木はちょっと慌てたような顔をした。


「……あ、いや、悪い。ちょっと待ってくれ、場所を変えてこっちからかけ直すよ。……え? 今日? 会えないことはないが……ああ、わかった、わかったよ。じゃあ、店の場所をメールしてくれ」


 それじゃあ、と言って、槻木は名残惜しそうに電話を切った。榛名はなるべく無邪気を装って、槻木に向かって問いを投げる。


「彼女さん、とかですか?」

「……は!?」


 槻木はぎょっとした顔で榛名を見て、あれ、と榛名は目を瞬いた。


(違うのか)


 違うのか、良かった、と、ごく自然にほっとする。槻木はぶんぶん手を振って、「違う!」と却って怪しいぐらいの大声で否定した。


「お前がいるのに、どうして俺に彼女が居るだなんて思うんだ?」

「へ?」


 今度は、驚くのは榛名の方だった。


「いや別に、わたし、槻木さんの彼女じゃないですし。関係無いですよね?」


 榛名は槻木の競技におけるパートナーであって、プライベートでのパートナーというわけではない。アイスダンスやペアには公私ともにパートナーというカップルも数多く存在するが、少なくとも榛名と槻木はそうではなかった。

 そこに『まだ』とつけていいのかは、榛名にはわからない。槻木が目を見開いて固まるのに首を傾げていると、後ろからくつくつと笑い声が聞こえた。


「榛名さん。そこらへんで勘弁してあげてくれ」

「え」


 振り向くと、どうやらまだ滑るらしい白神が、ペットボトルを片手に立っていた。


「いくら将一が打たれ強くても、無傷ってわけじゃあないからさ」

「慣れ……?」

「黙れ一夏」


 榛名にはいまいち理解できない白神の軽口を、槻木が低い声で制する。白神は「おーこわ」とおどけた調子で笑って、榛名の隣を通りすぎてリンクへと入っていった。そうして滑り出し際、ふっと槻木の方を振り向く。


「夜坂さんに、よろしくな」

(……夜坂さん?)


 唐突に出てきた名前に、榛名は目を瞬かせる。誰だろう、と榛名が問うより前に槻木が「ああ」と頷いて、白神の姿はあっという間にリンクの中に消えていった。




* * *




「槻木さんに、彼女?」


 どうにももやもやする思いを一人で抱えていられなくて、榛名は翌日に桃井を同じ喫茶店へと呼び出した。桃井は現在名古屋に拠点を移していることもあって、都内にいるときはほぼオフなのである。


「引退のこと聞いたんじゃなかったの?」

「それも、聞いたんですけど。あ、いや彼女のことは聞いたわけじゃなくて、ていうか別に、彼女じゃないって言ってたんですけど」

「なによ紛らわしい」


 桃井はほっと息を吐いた。


「そりゃそうよ。あの人に彼女なんか居るわけないって」

「え。なんでですか?」

「なんでって」


 桃井は一瞬、言いかけた言葉を回収するように口を閉じる。少し考えるようにしてから、桃井は言葉を選ぶようにして言った。


「……雪みたいな手のかかるのがパートナーで、彼女なんか作ってる暇あるわけないでしょ」


 どこかで聞いたような台詞だ。榛名はちょっと考えて、「ああ!」と手を叩いた。


「槻木さんもそれ、言ってました。『お前が居るのに、彼女なんか居るわけない』って。……そっか、どういう意味かよくわかんなかったんですけど、わたしが迷惑かけてるってことだったんだ」

「え」

「別に、わたしのことなんか気にしなくていいのに」


 そう言ったほうがいいですかね、と桃井に尋ねると、桃井が慌てた様子でぶんぶんと首を横に振る。


「絶対、絶対言っちゃ駄目。ていうか、今の会話全部言っちゃ駄目だから!」

「え? あ、はい」


 槻木さんすみません、と何故か桃井は小さく呟いて、「じゃなくて」と話を最初に戻した。


「そもそもなんで、槻木さんに彼女とかいう話になったの?」


 それは、と、榛名は昨日の電話のことを端的に桃井に説明した。


「……『レイ』ねぇ……」

「ほんとに、すごい嬉しそうだったんです。それで、わたし、もしかしてって思って」

「でも、彼女じゃないって言ってたんでしょ」

「彼女なんじゃないか、じゃなくて。その、……その人が、槻木さんの『天使』なんじゃないかって」

「天使?」


 桃井はきょとんと榛名の言葉を繰り返した。


「いや、そりゃ雪のことでしょ?」

「へ? ……やめてくださいよ、シングルの時のそれ、ええっと、黒歴史? っていうのなんですから」


 榛名が『天使』だなんて呼ばれたのはもう随分昔、鮮烈なシニアデビューと四回転ジャンプ、今よりさらにあどけなかった顔と少し無邪気すぎる受け答えの結果、お茶の間へのアピールとしてテレビや新聞社が『氷上の天使』だなんて騒ぎ立てていた頃の話だ。

 槻木は確かに、榛名を『ほんものの氷上の天使にしてやる』だなんて言っていたけれど、それはつまり、榛名は天使ではないということでもある。


「そうじゃなくて、槻木さんが言ってたんです。槻木さんが引退しなかったのは、『天使に会った』からだって。だからわたし、『レイ』さんがきっとその『天使』なんだろう、って――」

「あー、待って、整理させて。……つまり、引退の話はちゃんと聞いたのね?」

「はい」

「それでそれに対する回答が『天使に会ったから』で」

「そうです」

「ロマンチストか……で、その話と『レイ』の話は繋がってないのよね?」


 榛名はちょっと首を傾げた。


「わたしの中ではつながってるんですけど」

「ややこしくなるから繋げないで」

「でも、他に思いつかない、……っていうか」


 榛名はちょっと俯いて、ティーカップの水面を見つめた。


「……わたし、その頃の槻木さんのこと、何も知らないから」


 というよりも榛名は、槻木の何をも知らないのかもしれなかった。桃井は「そりゃそうでしょ」と肩をすくめる。


「知らないなら、聞けばいいだけじゃない。パートナーなんだから」


 なんでそんな、簡単なことみたいに言うんだろう。榛名は「ええ」と情けない声を上げた。


「そんなの、なんにも知らないパートナーだって、自分で言っちゃうようなものじゃないですか!」

「事実なんだからしょうがないでしょ。……あのねえ、アンタと槻木さんは、まだ組んで一年しか経ってないんの。ジュニアからずっと一緒ってのもざらのペアやらアイスダンスやらの世界じゃあ、まだまだぺーぺーの域だってわかってるのよね?」

「……それは、そうですけど」


 己自身が幼馴染とペアを組んで長い桃井の言葉はひたすらに正論で、榛名は結局、自分がただ恐れているだけなのだと痛感する。俯いたままの榛名に向かって、桃井は「大丈夫よ」と笑った。


「アンタがそんな顔してるって知ったら、なんだって答えてくれるって。……ていうか」


 そんな顔ってどんな顔だろう、と榛名がぺたぺた己の顔に触れる前で、桃井は不意に、意地悪く唇を歪めた。


「それより、今期どうするかって話はもうしたの?」

「……え?」

「昔の話より、そっちが先じゃない?」


 しましたよ、と答えかけて、はたと榛名は言葉を止めた。槻木にジャンプを跳びたいか聞かれて跳びたくないと答えて、榛名はすっかりそれが、今年も変わらずパートナーであるということだと思ったのだけど。


(……でも結局、新しいプログラムの話とか、してないし)


 練習も、最近はごく軽いものだけだ。再び不安になってきた榛名に向かって、桃井は「やっぱり、秋穂とふたりで枠取りかしら?」と意地悪な笑みを浮かべた。





 桃井と別れた榛名がホームリンクにたどり着くと、受付の側に一人の男が立っていた。


(わあ)


 榛名は思わず足を止めて、その男の姿をまじまじと見つめてしまう。日本人ではないように見える顔立ちと、ひょろりとした細身の長身。年の頃は三十前後だろうか──顔立ちそのものにはそこまで奇矯なところはなく、何よりも人目を引くのはその、肩をすこし越えるぐらいに長い髪だった。

(すごい、きれい)

 きらきらきらめく、光みたいな金の色。透き通るように白い肌とも相俟って、男の姿はまるで一服の絵画のようだった。視線に気づいたのか男がこちらを向いて、榛名を認めて目を見開く。


「ハルナ……サン?」

「は、はい」


 反射で頷いてから、槻木に『俺の居ない時に迂闊に来客と口を聞くな』と言われていたことを思い出した。どんな扱いだ、と思わなくもないが、一応のこと榛名は有名人なのだ。どうしたものか、と思っていた先で、男がぱあっと顔を輝かせた。


「聞いてた通り! ハジメマシテ、ユキちゃん!」

「へっ」


 テンションの高い、そしてあまりにも流暢な日本語とともに手をぎゅっと握られて、榛名はぴゃっと跳び上がる。あからさまな驚愕にも気づかぬふりで、男は握った手をぶんぶん振りながら言った。


「会えて嬉しいわ。ワタシはレイチェル。ショウからなにも聞いてない?」

「……ショウ?」

「ショウイチ・ツキノキ。あなたのパートナーのことよ」


 パートナー……そう、槻木将一は、確かに榛名のパートナーだ。彼──いや、彼女──? はつまり、とすっかり混乱した頭の中でぐるぐる廻る思考を遮ったのは、自動扉が開くと同時に駆け込んできた槻木の大声だった。


「――レイ、もう着いてたのか!」


(あ、やっぱり)


 そうだろうと思ってはいたが、やはり彼が昨日の『レイ』だったのだ。『レイチェル』と名乗った彼はぱっと榛名の手を離し、にっこりと笑って槻木を見た。


「ゴメンナサイ。ちょっと早かったみたいね」

「いや、オレの方こそ、もっとはやく来るべきだったよ。待たせたか?」

「少しね。ショウ、ワタシのこと、この子に言ってなかったの?」

「うん?」


 真っ直ぐに男に歩み寄り話をしていた槻木の顔が、やっとの顔で榛名を見る。榛名のぽかんとした顔を見て、「ああ」と槻木はなんでもないみたいに笑った。


「そういえば、言っていなかったかな。昨日電話していただろう? 彼は、夜坂レイモンド」


 レイモンド? レイチェル? レイチェルは女性名だから、源氏名みたいなものだろうか。混乱する榛名に向かって夜坂は「レイ、って呼んで」と可愛らしく言った。れい、と言うと嬉しそうに微笑む。


「カナダでアイスダンスを学んだと言っただろう? その頃に知り合ったんだ」


 ふわふわした雰囲気のひとだなあ、と思いながらぽかんとしている榛名に、槻木が絵説明を付け加える。夜坂は「そうそう」と楽しげに頷いた。


「一目惚れして、声をかけたの。ショウみたいにキレイな子、はじめて見たんだもの」

「いやあれは……うーん、声をかけたと言っていい出会いだったか……?」


 一体どんな出会いだったというのか、懐かしげに会話するふたりを眺めて、榛名はちっとも動かない頭を必死で動かした。


(ええっと、……確かに、彼女、じゃないけど)


 槻木は見たことがないぐらいに楽しげだし、夜坂のうつくしい金髪、輝くような笑顔、どこか浮世離れして見える言動は、『天使』と表するに相応しい。つまり──榛名ははっと目を見開いて声を上げた。


「あ、そっか!」


 そうだ、確かに『レイちゃん』は『彼女』ではない。口調と所作は女性的で、服装は中性的だけれど、肉体はどうやら男性だ。何事だ、とこちらを見た槻木の目をまっすぐに見据えて、榛名はぱっと笑って言った。


「彼女さんじゃなくて、彼氏さんだったんですね。大丈夫です、わたし、偏見とか無いですから!」

「……は?」


 きっぱりと言い切った榛名に、槻木は目を丸くした。


「一体何を、……いや待て、待て榛名! 違う! 誤解だ!」


 槻木は慌てた顔で榛名の肩を掴むとなりで、夜坂が吹き出した後に口を抑えてくすくすと肩を震わせている。あれ? と目を瞬く榛名の前で、槻木は「勘弁してくれ」とがっくり肩を落とした。


「榛名お前、本当は、俺のことが嫌いなんじゃないだろうな?」

「へ? そんなわけないじゃないですか、大好きですよ?」

「……ああもう!」


 槻木の指がむにっと榛名の頬を摘んで、思いのままにぐにぐにとする。


「い、いひゃいんでふけど……」

「うるさい絶対俺の心のほうが痛い」

「仲良しはいいけど、お客を放り出してじゃれないで?」

「こら、レイ。お前は客じゃないだろ」


 散々榛名の頬を弄んで満足したのか、槻木がぱっと指を離す。頬を抑える榛名に向かって、槻木は言った。


「改めて紹介しようか。彼は元アイスダンサーで、現在はコーチ兼振付師。──つまり、俺達の次のプログラムの」



 俺達の、次の、プログラム。



(槻木さん――わたしと、まだ、滑ってくれるんだ!)


 榛名はぱっと顔を上げて、視線を夜坂へと向ける。得意げに胸を張る夜坂を見せつけるよう両手を広げて、槻木は朗々と言い放った。


「衣装と、振付を担当してくれる男だ」




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