バレンタインチョコだけどそうじゃない
二月一四日、これまではそんなに意識はしなかった。 ただ、友達とお菓子交換をする日、という認識でいた。 それが今年は違う。 少しだけドキドキして吐きそうになる。 何度も「これは義理」と自分に言い聞かせて、落ち着かせてきた。
こんな調子で仕事ができるのかの不安もあるし、渡した時どんな顔になってしまうのか想像もできない。
吐きそう。 こんなことなら、作らなければよかったかもしれない。 でも、まぁ、何もしないのは勿体ないと思った。 ただそれだけで作らずにはいられなかった。
結城 香奈子、今日は特別頑張ります!
私は保育士をしています。 年少組のチューリップ組を担当しています。 園児もそれぞれが違った個性があって、毎日が忙しくも楽しくあります。 特に仲良くなっているのが、延長保育をしている中村 将くん。 ちょっと変わった口調をしていますが、そこがなんとも可愛らしい子です。 本来、この園では延長保育をしていないのですが、将くんの家はちょっとした事情があって特別に許されています。 そのおかげで、給料もちょっとだけ増えました。 出会いもちょっとだけ……。
「いい、将くん? 先生が言ったこと絶対に守ってね」
「もうわかってる。 なんかいも、きかされた」
「うん、ごめんね。 でも本っっっ当にお願いね」
そろそろ将くんのお父さんが迎えに来るころ、将くんに何度もカバンのチェックをさせた。 何度も約束したことを繰り返し言った。
これでいい。 これで十分。 十分……じゅうぶん。
不安が頭をよぎってしまう前に教室のドアが開いて、将くんの父さん————中村 静がやってきた。
「お疲れ様です」
「セイさん、おそい~!」
「いつもこれぐらいだろう?」
お疲れ様です、と私が言う前に将くんは中村さんに抱き付いた。 中村さんもうれしそうに将くんを抱きかかえて、雑談をしている。
「あぁ、すみません」
「いえいえ」
早く家路についてほしい。 悪い意味ではなく、恥ずかしい意味で。
「また寒くなっているので風邪には気をつけてください」
「ありがとうございます。 将、先生にあいさつして」
「セイさん、チョコいくつもらった?」
「将くん!?」
なるべき早く帰るって約束したよね?
「えっと……」
中村さんは指を折りながら数えていく。
あぁ、中村さんも思い出さないで……。 指より足を動かして……。
「四、五個、もらったかな?」
「うぇ、そんなに!」
すぐに口をつむぐ。 あまりのことに敬語を忘れる。 私の清楚で綺麗なイメージが崩れてしまう。 中村さんがびっくりしている。 あぁ、積み上げてきたイメージが……。 私の理想像が……。
「義理、ですので、はい……。 女子力アピールできる日ですので、女性社員の力が入ってまして。 それで……」
「そう、ですか……。 よかったですね」
私はよくないけど。
「ええ、まぁ。 でもお返しするのが大変で三倍にして返せ、なんて言ってきたり、手作りは重いなんて言われたり……。 今年はどうしたものか、悩みものです」
「大変ですね」
「義理ほど面倒くさいものはありませんよ」
心を抉られる。 痛い。 でもほっとしてる。 よく分からない。 この感情はなんだ。
よく分からない感情と格闘していると、今まで静かにしていた将くんが、中村さんのズボンを引っ張って「チョコいらないのか?」と聞いた。 あの仕草は可愛い。 傷ついた心が癒される。
「そう、だな。 もういいかな」
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
「じゃあ、これショウがもらってもいい?」
「ちょっと待って! それは————」
ショウくんはカバンからリボンの付いた小さな黒い箱を取り出した。 中村さんはそれを手に取って、軽く振り、中身を確かめる。
約束したのに。 家に帰ってからカバンを開けるって。 それに今のタイミングは絶対にダメ!
「それは?」
「チョコ!」
「チョコ?」
「センセイの」
「先生……。 結城、さん、の……」
こくりと頷く、将くん。 気まずくなる私と中村さん。 「へへへ」とお互いに愛想笑いをして、お互いがお互いの気持ちを隠す。
私はとてもとても、ここにいられない。 きっと中村さんも同じことを思っている。
「今日は、その、バレンタイの日ですが、ですがそのあの、ほら……ね?」
誤魔化す理由が出てこない。 またお互いに愛想笑いをする。
「ねぇ、もらってもいいか?」
「ちょちょちょちょ、待って待って待って!」
将くんの手からチョコを奪ったが、どうする。 渡す? 直接渡すのが恥ずかしいから、将くんから渡してもらうようにしたのにできるのか。 面倒くさいと言われた義理のチョコを。
じゃあ、どうする。 渡さない? 悶々と悩みながらせっかく作ったのに、それなりの時間もかかって喜んでくれると、内心ワクワクしていたのに。
引いても攻めても後悔しかない。 なら攻める、といけないのが私です。 引きます。
「将くん、やっぱりこれ食べていいよ」
引くけど食べてもらいたい。 わかままかな?
私の顔とチョコを何度も見て、ようやくチョコに手を伸ばすが、それよりも速く中村さんがチョコを奪い去る。 二人して中村さんを見ると、中村さんは目を泳がせていた。
「あの、これは、そのあのえっと……ねぇ?」
さっきまでの自分を見ているよう。 「へへへ」と三回目の愛想笑いをし合う。 ちゃんと愛想笑いらしくできているだろうか。 ニヤけていないだろうか。 ぐっ、やばい……、手に取ってもらえるだけでうれしい。
「セイさん、たべるの? いらないっていったのに?」
「あれは、アレ。 これはコレ、だからな」
「よくわからない」
「大人の事情、というやつだ」
「すぐこれだ。 オトナというのはヤだね~」
中村さんはチョコをポケットにしまい込んで、速足に教室を出て行った。
渡せた。 いろいろあったけどちゃんと渡せた……。
「ふぅ……、今日は終わりだ」
いつもより充実していた気がする。
翌日、将くんを迎えにきた中村さんからお菓子の箱をもらった。 開けてみると、抹茶に包まれたお菓子がコロコロと入っていた。
「あ、あの、これ……」
「先日の、お返しです。 バレンタイ、用のやつじゃない、とのことだったので……はい、お返しも別に、あの日じゃなくても、と思いまして……、はい」
本当の気持ちはバレンタイのチョコだけど、それを口にするのも恥ずかしく、この気持ちを伝えるのも恥ずかしい。 だからそれでいいのだ。 あれはバレンタイのチョコではなく、お疲れ様を伝えるためのチョコであったと。
「えぇ、ありがとうございます。 ひとついただいても?」
「どうぞ」
一つ口に含む。 中は、いちごだったのか。 うん、……おいしい。