前を向くという事
龍。ソレは蛇のような細長い体を持ち、翼もなしに天を駆ける架空の存在。曰く聖なる獣。曰く神の獣。龍は雷雲を操り、嵐を呼ぶ。ブルーノが読んだ本にはそう書かれていた。正しい。その本はほとんどが正しかったけれど、ただ致命的に間違っている箇所がある。
──龍は架空の存在などではなかった。
「この世界に竜はいないのではなかったのか!」
この三年間、竜に関しては入念に調べあげた。支配者たる竜がいないなど、カゲートの人間からすれば信じ難い事だからだ。本を読み、新聞を探り、ネットの海に飛び込んだ。信頼する老人もまた竜などいないと笑って答えた。結果、竜及び龍は架空の存在。フィクションの中にしか登場しないと知った。だからこそ、この世界における人の文明はここまで発達したのだと納得した。
「だが違ったのか」
認識を疑う。調べた結果が揺らぐ。しかし、老人が嘘を吐いていたとは思えない。あんな存在が生息していたら、三年間の内に耳に入ってこない方がおかしい。だからわからない。
ブルーノは混乱したまま佇んだ。
そうしている間に湿気を含んだ風が音をたてて吹き荒ぶ。湿った臭いは嵐の到来を予感させる。そして次の瞬間──雷が落ちた。
常人の目から見てもはっきりとした落雷。ビルの避雷針に落ちた雷は、しかし、意思を持つように縦横無尽に走る。避雷針によって逃がされる事なく、膨大な電流が建物を襲った。遅れて轟音が響き渡る。一瞬で出火し、ビルの中と外で悲鳴がこだました。
異変に気付いた住宅街の人々が、次々に家から顔を覗かせる。まず黒い空を見て、遠くの悲鳴を聞いて、更なる情報を得る為に外へ出た。そして龍を目撃する。この世界の住人をして、信じられない光景が眼前に広がっていた。
それからの反応は多様だった。呆然と様子を見つめる者。状況を記録しようと携帯電話かカメラをかざす者。早々に荷物をまとめ始める者。様々だった。
その中で撮影を試みた者達が異変を訴える。
「おい、撮れねぇぞ! 動画も写真も、あの龍を画面に入れてるとシャッター押しても記録されないで、それどころか中身がどんどん消えてく!」
「スマホもダメだ! 撮影はできねぇし、ネットで呟こうにも回線が死んでる! どうなってんだよ!」
「テレビも映らない……。NHKまで砂嵐だ。……これ、マジでヤバいんじゃないのか」
嬉々として前代未聞な光景を記録しようとしていた者達の表情に恐れが生まれた。これは馬鹿騒ぎできるようなイベントではないのだと、深層に隠された根源的な恐怖が浮上する。その恐怖は伝播し、多様だった人々は逃げ惑う者に統一された。
皆が思うの一つ。──『一刻も早くこの街から離れなければならない』。ただそれだけが保身に繋がると本能的に感じ取る。
「まっ、まだあの龍は遠い! ここにはすぐに来ない! 今すぐ逃げれば助かるはずだ!」
誰かが自分へ言い聞かせるように叫ぶ。その判断は正しい。この中で最も正確に龍の力を把握できているブルーノは肯定する。今すぐに逃げだせば、この住宅街にいる人達は助かるだろう。一日あれば渋谷どころか東京都を壊滅させられるだけの力を持っているだろうが、今ならばまだ間に合う。幸運だ。実に幸運な人達だ。対して龍の直下。渋谷の代名詞たるスクランブル交差点にいる人々は不運だった。助からない。どうあっても助からない。たった数キロメートル。その距離が絶対的な命運を分けている。
「あ」
龍が降下する。ついに全様を晒した龍の全長はおよそ六百メートル。日本一高い建造物とほぼ同等の大きさを持つ金色の龍は、白い稲光を纏いながら一直線にスクランブル交差点へと舞い降りた。悲鳴。爆音。崩壊。炎上。遠目から見てもその地獄絵図が窺えた。
「──ッ!」
ブルーノは思考を停止させる。考えを放棄して、その衝動に従う。この状況。少しでも悲しみを減らせるとしたら、それは自分以外にいない。ならば──
「考えるのはやめよう。そもそも俺はあまり頭が良くない」
馬鹿の考え休むに似たり。けれど、この体は疲れを知らない。だったら動かなければ損だ。その損が人の命だというなら尚更彼は行かなければならない。立ち止まってる暇は一瞬すらないはずだ。
地面を蹴る。全力だ。他人の目など気にしない。龍というデタラメが現れた以上、わざわざ自身の力を隠す必要はない。大地を砕く竜の一歩。ブルーノは一度の跳躍で一キロメートルほど移動する。近付き、龍の暴威をよりはっきりと視認した。大通りは火の海。車が連鎖的に爆発し、炎は蛇のようにうねりながら伸びている。建物は悉く炎上し、炎と雷の熱によって助からない高さから飛び降りる人が見える。道路は見渡す限りの黒い死体が敷き詰められ、肉が焼けた鼻をつく異臭で満たされていた。
龍は雷と共にビルの谷を駆け抜ける。龍が通り過ぎた跡には燃えカスしか残らない。渋谷を覆う暗雲もまた稲妻を落とす。通常の気象現象ではあり得ないほどの間隔で次々と街を焼いていく。姿を見せてから僅かに数分。たったそれだけの時間で龍は街一つを支配した。
ブルーノは一歩遅れて渋谷駅前のスクランブル交差点に降り立つ。周囲に生きている者はおらず、普段ならうるさいほどの喧騒も当然ない。大型ビジョンは何も映す事はなく、ただ火花だけを散らせ、有名な犬の像は原型がないほど溶け落ちていた。
龍の姿は既にない。今はビルの合間を縦横無尽に動き回り、殺戮を続けている。直線的な速度ならばブルーノも劣らないが、あれほど素早く自由自在に空を飛ばれると機動力の差で追い付けない。がむしゃらに追い続けるよりも、機会を狙って渾身の一撃を叩き込む方が効果的だった。
故にその機会を待つ。待ちながら生存者を捜す。絶望的な光景がどこまでも広がっているが、こんな地獄の中でも生き残っている人はいるはずだった。そういう人間の逞しさをブルーノは知っている。カゲートの人間とは肉体の造りに差があるとしても、この世界の人間も根底の性質は変わらない。往生際の悪さに関して人間に勝る者はないのだから。
そう信じるブルーノは絶望にも眼を曇らせなかった。
◆
彼女──倉科めぐみが渋谷へ来たのに大した理由はなかった。友達と遊ぶ。ただそれだけの普通の理由。久々に都内へ行こうという話になったから、千葉から電車を乗り継いで渋谷に来ただけ。そんな友達の気紛れに付き合っただけの事。
──なのにどうしてこうなった。
理解が追い付かない。空は黒く、風は吹き、道路は炎が走っている。一瞬だった。全てが一瞬だった。誰かが叫び、空を指差し、その方向を見上げようとしたら、光に包まれた。そしたら全部が終わっていた。
うるさいほどの喧騒が消えた。煩わしいくらいの人混みが消えた。その代わりに誰もいなくなった。
「みほ……、美穂……?」
心細くて友達の名前を呼んだ。何も返ってこない。
もう何も見たくなかったけれど、友達を見捨てる事なんて出来ないから、ゆっくり、震えながら、ゆっくり、周りを見回した。
「────」
口から零れたのは呼吸が止まる音。吐き出すべき空気が喉に詰まる。
見たのは黒。人の形をした黒いモノがマネキンみたいに固まっていた。マッチ棒みたいに燃えているモノもあった。いっぱいあった。いっぱいいっぱいあった。数え切れなかった。その中に知っている靴を履いたモノがあった。渋谷に来て買った靴。大学生になったのを記念して買ったお揃いの靴。せっかくだから履いて帰ろうと履き替えた新品の靴。今彼女が履いているのと同じ靴。溶けたり、焦げたりしていたけれど、同じ靴を履いているモノがあった。──そのモノは友達だった。
「ぁ……、ぁぁ……!」
喉に詰まった空気を漏らしながら友達だったモノに駆け寄る。ミイラみたいに乾き、引きつり、黒焦げになったそれにかつての面影はない。靴が残っていなければ判別できないほど容赦なく炭化していた。
彼女は絞り出すように涙する。友達が死んで悲しい。沢山の人が死んで悲しい。でも、それ以上にこの光景が恐ろしかった。生き残ってしまった事を怨むほど、この場所が怖かった。怖い。怖い。怖い。──……怖いけど、同時に思った。こんな怖い思いをしている誰かがいるのではないかと。震えている誰かがいるのではないかと、彼女は思った。
恐怖を知るからこそ顔を上げる。同じ恐怖を抱えて動けなくなっている人がきっといる。同じ恐怖の中、動きたくても動けない人がきっといる。絶望の中、その思考に至った。
彼女は泣き続けてもよかった。悲劇的な被害者として、ただ助けを待つ存在でいてもよかった。彼女にはその資格があった。権利があった。自分を優先するのが当然で、誰かの為に危険を冒す義務などなかった。けれど──
「……助けなくちゃ」
まだ立ち上がれる自分が手を伸ばさないでどうするんだ、と彼女は自身を奮い立たせる。現実逃避ではない。この極限状態で自分が出来る事を決断する。それは正しく勇気と呼ぶものだった。
亡き友に寄り添う彼女は決意と共に前を向く。前を向き、視線を上げる。そして──その決意を嘲笑うかのように眼が合った。
「──ぁ」
道路を挟んだ反対側。百メートル以上あるビルの上から龍は顔を覗かせる。その双眼が彼女を見つけ、射抜くように見つめていた。魔力持つ龍の瞳は見る者全てに恐怖を発症させる。常人たる彼女には抗う術はなかった。
先程とは別種の恐怖。明確な死の具現を前にして、奮い立たせた心が折れそうになる。死ぬ。きっと殺される。そう思った。その想像通りに龍は牙を剥き、電流を垂れ流しながら、彼女へとなだれ込んだ。圧倒的な質量。圧倒的な暴力。圧倒的な存在。それが襲う。逃れられぬ暴威に彼女はただ震えるしかない。暴威からは逃れられない。逃れられないのならば──戦う他にない。
「────」
それは爆音に似ていた。実際空気が弾けていた。龍が飛ぶ。自らの意思ではなく、他の力によって吹き飛ばされる。彼女の眼前に迫った瞬間、横から来た者によって殴られ、大き過ぎる身体が風船のように飛び跳ねた。
龍の代わりに彼女の目に映り込んだのは一人の人間だった。漆黒の長い髪。ありふれたジーンズ。夏なのに黒の長袖シャツ。首にはなぜだか『なんでも屋。一回百円』と書かれた看板を下げている。極めつけに女物のコートをマントのようにまとっていた。変な男だった。けれど、その灰色の瞳は強さを──ひたすらな強さを感じさせた。彼女の恐怖を燃やし尽くすほどに。
恐怖が取り除かれたと共に思い出す。男のコート。あのコートは三年ほど前に失った彼女のお気に入り。なぜ失ったのか忘れかけていたが、それを思い出した。その記憶に繋がって、男の事も思い出した。
出会った頃とは全然違う。弱々しく頭を抱えていた記憶の中の男は、龍を殴り飛ばす強い男としてそこにいた。
◆
ブルーノは一人の女の子を見つける。ちゃんと生きている人間だった。大通り。見覚えのある建物の隙間。奇跡的に炎が燃え移っていないその場所で、炭化した遺体に寄り添う人がいた。
その人の顔を見て、ハッとする。少し大人びていたけれど、焼き付けた記憶が本人だと断定した。見覚えがあるのも当然だ。あの建物の隙間はこの世界に放り出された最初の場所。そして、そこで初めて優しさを感じた。優しさをくれた人がいた。それこそがあの女の子だった。
袖を結んだコートに触れる。もし彼女がいなかったら、自身もあの龍のように暴れていたかもしれない。そう思った。
彼女の下へ駆け出す。駆け出した瞬間、彼女と向き合うように龍が顔を出す。殺意に満ちた眼。次の瞬間には彼女は殺される。故に、それよりも先にブルーノは動いた。爆発。そう表現すべき突進だった。音を置き去りにして、彼女へ迫る龍の横顔に拳を叩き込む。龍の血を浴びてから初めて振るう全身全霊の一撃。かつての彼よりも遥かに上回る出力で放たれたそれは、全長六百メートルの巨体を吹き飛ばし、一時的にも沈黙させた。
痺れる拳を払って、ブルーノは彼女に向き直る。彼女の頬は涙に濡れていた。寄り添う遺体は友人か知人か、或いは肉親か。それはブルーノにはわからなかったけれど、誰かの死に涙していたのだけはわかった。その光景が重なる。元いた世界。竜に襲われた彼の村で同じ光景を見た。炎に焼かれ、炭と化した遺体に寄り添い涙する娘。その涙を痛いと思った。その涙を辛いと感じた。アレは『よくない』ものだった。彼が竜を討とうと決意した原風景。それと同じものがここにあった。
彼はただ、誰にもこういう涙をしてほしくなかっただけ。それが剣を執った全て。戦うと決めた原初の記憶。彼は再び心に刻む。──コレは『よくない』ものだと。
ブルーノは彼女に歩み寄って頬の涙を拭い、三年間大切に扱い続けたコートを持ち主に返す。
「このコート……。あっ、あの、あなたは──」
「──仇は討つ。そんな事しか俺にはできないが、せめてもの恩返しだ」
彼女の言葉を遮って、ブルーノは背を向ける。自分の事は気にせず悲しみに涙していいように彼は言葉を交わさない。辛い思いをしたのだから、君はそこでいなくなった人を思っていればいいと気遣った。
──その間に、俺が龍を殺す。
竜殺しに戻る時が来た。彼女のような涙をこれ以上流させない為に、男は竜殺しへ立ちかえる。相手が龍だろうと関係ない。一回は殴れたのだ。同じように殴り続ければいつか死ぬ。生きているならいずれ殺せる。単純な話だ。
ブルーノは龍を見る。沈黙したまま動かない。ならば追撃を入れ──
「あのっ!」
──ようとして彼女の声に止められた。
横槍を入れられて不本意そうな顔をブルーノは向ける。けれど彼女の方を向いて彼は目を丸くする。彼女はなぜだか百円を突き出していた。
「あなっ、あなたは、あの怪獣を倒せるんですね!」
問われて反射的に頷く。頼まれずともあの龍は殺す対象だ。殺せるだけの力もあると自負している。
「だったら仇討ちとか恩返しとかそういうのはいいですから、なんでも屋さんとしてお願いします」
この百円はその依頼料として彼女は差し出していた。そういえばなんでも屋の看板をぶら下げたままだった事を、ブルーノは今更気付いた。ようやく意図を理解し、彼女の声を聞く。
「出来るだけ早く怪獣を倒して、もしかしたらいるかもしれない、私みたいな人を助けてあげてください」
彼女は言う。この地獄の中で自分のように九死に一生を得ている人の為にあの暴威を退けて欲しい。自分の為には何もしなくていいから、今だからこそ救える命を救ってほしい。彼女はそう口にした。
結局として彼がやる事は変わらない。龍を殺す事に変わりはない。ただ、その意味合いは正反対だ。彼は死んだ者達と死んだ者を悲しむ者の為に龍を殺そうと思った。彼女は今生きている人の為に龍を退けて欲しいと願った。そのどちらが正しいかなど定めたところで意味はない。──だが、どちらが前向きであるかは言うまでもないだろう。
「…………」
言葉もなく、ブルーノは自身の根暗さを笑う。対して震える手で百円を差し出す彼女の前向きさはなんだ。辛いのも悲しいのも、全部彼女の方が上なのに、傷付いた自分よりも本当にいるかもわからぬ誰かを救えと言う。この優しさ。この健気さ。この尊さを重んじずして何が男子か。
「……できます、か?」
黙ったままのブルーノに不安そうな彼女が問う。返答はもう決まっていた。
「君の気丈さには感服したよ」
ブルーノは跪き、差し出された手を取る。突然の事に彼女の頬が赤く染まる。そんな事は気にしないブルーノは騎士の真似事をしながら、なんでも屋としてその百円を受け取った。
「その依頼、承った。なんでも屋のブルーノに任せておけ」
かつての竜殺しに戻る必要はない。今の彼はなんでも屋。なんでもやるのだから竜殺しもその内だ。そして、どうせやるなら“悲しい涙の為”なんていう辛気臭い動機より、“誰かを救う”という未来に伸びた理由の方がいい。正しさなんか抜きにして、そっちの方が気分がいい。三年間をこの世界で過ごした今はそんな風に思えた。
沈黙していた龍が再動する。動き出した巨体はもはやブルーノしか見ていない。唯一の外敵としてブルーノを認識する。それを察し、彼は彼女に路地へ隠れるよう指示を出した。
「さて──」
ブルーノは受け取った百円を親指で弾くと、ジーンズのポケットに落とす。準備運動は要らない。身体はここまで来るので十分温まった。気力、体力共に十全。だが、まだだ。数度の呼吸。それだけで世界最高の魔力炉──竜の心臓は膨大な魔力を生成する。魔力は滞りなく全身を廻り、その強靭な肉体を更なる高次に引き上げる。最強。それが決して誇張ではない存在がここにいた。
「──三年ぶりの竜退治だ」