表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/47

暗雲


 適当な喫茶店に入った二人は腰を落ち着けて会話する。どのように出会ったのか。老人はどういう人であったか。どんなところを放浪したのか。他愛ない事を二人は語り合う。


「ほお。では関東はおおよそ踏破したですね」


「ええ、今思えば型破りなホームレスでしたよ。一つ所に留まらず路銀が貯まれば、なるべく誰かの記憶に残らぬように次の土地へ移る。そういう御仁でした」


「らしいですな。して路銀はどのように?」


「それがすごいんです。ゴミ置き場を一見しただけでどれが高く売れるのかわかるらしくて、二、三個拾うだけでホテルに泊まれた事もありました。その慧眼もあって道中金銭に困る事はなかったんです」


「ハハハッ! お金に困ってる時期がありましたからなぁ。目効きはその時養ったのでしょう」


 談笑は軽やかに行われた。

 夏の日差しが入り込む窓際の席で、若い男と老いた男の楽しげな声が店内に響く。他の客達は微笑ましそうに、その様子を見守っていた。


 やがて日が傾き始めた頃、老紳士は時計を見て所用を思い出す。


「いやぁ、予想以上に話し込んでしまいましたな。名残惜しいですが、次の用事がありまして、そろそろこの街を出なければなりません」


「いえ、いい頃合いですよ。流石にコーヒー二杯でこれ以上居座ったら店側が気の毒です」


「ハハッ、ですな」


 立ち上がり掛けて、老紳士は座り直す。


「最後に一つ聞いてもよろしいですか」


「ええ、どうぞ」


 老紳士は遠慮がちに、けれど、しっかりと口にする。


「先生を看取ったのはアナタですよね?」


「……はい。冬の寒さに体調を崩し、そのまま……。あっという間でした」


「聞き苦しいですが、最後の言葉はなんと?」


 思い出す。雪が降った十二月の夜。意識がまだあった時、呟いた老人の最後の言葉を。……思い出すまでもなく、それは心に刻まれていた。


「──『旅、楽しかったね』。そう言って笑ってました」


 あんな満足そうな笑顔は忘れられない。全部やり終えた男の顔だった。


「そうですか。ああ、それを聞けて良かった。きっと幸せな最期だった事でしょう。……僕もようやく心のつかえが取れました」


 目の前の老紳士もまた満足そうに笑う。それは老人のものとよく似ていた。


「ブルーノ君。君はこれからどうするんだい? もしよければきちんとした仕事を僕は用意してあげられるが」


 老紳士は提案する。ブルーノが善人であるのは言葉を交わしてわかった。ならば前途ある若者に真っ当な仕事を与えてあげたいと老紳士は考えたのだ。


 けれどブルーノは首を横に振る。


「そのお気持ちだけ頂きます。……俺、今、金を貯めているんです。その金で少し高い、でも性能の良い自転車を買って、まだ見れてないこの世界を見に行きたい。そう考えているんです」


 指標となってくれた老人はもういない。だが、今はもう向かうべき場所を自分で決めていける。それだけのものを彼は貰い受けていた。


「それはいい。若い内に見聞を広めるのは大変有意義だ。うん、君にはいらぬ世話だったようだね」


 老紳士は今度こそ立ち上がる。


「ではさようなら、ブルーノ君。君の旅に良い出会いがある事を祈っているよ。……おっと、ここの支払いは年長者である僕に任せてくれたまえ」


 茶目っけのある笑みを零しながら、老紳士は伝票を持ってレジに向かう。ブルーノは自分の分をちゃんと支払うつもりだったが、その生真面目さを見抜かれていたのか、先んじて動かれてしまった。観念した彼はその厚意に甘える事で返礼する。


「ご馳走様でした」



  ◆



 午後三時。傾き始めたと言っても夏の日はまだまだ高い。

 喫茶店から出て、老紳士と別れたブルーノは迷い猫を探しながら街を歩く。かつて全裸で奔走した時とは見えてくるものがまるで違う。あれほど異質に見えたものが、当たり前の風景に変わっている。それは順応したという事だったけれど、自分が故郷の風景を忘れてしまったようで少しだけ寂しかった。


「…………」


 老人が亡くなってから、この渋谷の街に戻ってきて、もう三ヶ月が経つ。最初の街。老人と出会った街だからか、随分と長居をしてしまっている。


「そろそろ旅に出よう」


 金はだいぶ貯まった。老人が残してくれた分と合わせて二十万円と少し。長距離に向いた自転車を購入しても、しばらく路銀に困らない程度はあるだろう。元より竜の血を浴びた彼の体は超低燃費。数ヶ月は飲まず食わずでも生きていける上に、よほど強い毒素を取り入れない限り用便も必要ない便利な肉体へと変質している。およそ野たれ死ぬ事はない。


「その為には猫を見つけないとな」


 この迷い猫探しが渋谷で最期の仕事になるだろう。そんな事を思いながら住宅街を歩いていると──


「いた」


 ──早速、捜索対象らしき猫を発見した。

 日陰になっているブロック塀の上に丸まっている、白が見当たらない茶と薄茶の猫。二色の三毛猫ニケとはコイツの事で間違いないだろう。


「…………」


 無関心を装って、さりげなく接近する。警戒心を刺激しないように近付き、チラッと様子を窺う。


「あ」


 不運にも目が合ってしまった。目があったら最後。彼に宿る竜を感じ取り、猫は一目散に逃げ出した。ブロック塀から民家の屋根へ。屋根から隣の屋根へ跳び移って行く。


「しくじったな」


 そう呟きながら駆け出す。他の人に怪しまれない程度に速度を加減して走る。猫はまだ目で追えているが、加減していてはいずれ見失う。故に人のいない路地に入る。前後上下に誰もいない事を確認してからギアをあげた。踏み込んだアスファルトがめくれ、放射状の亀裂が走る。公共の道路を損なった代わりに莫大な運動エネルギーを得た彼は瞬く間に路地を完走し、猫より前に躍り出た。


 そうなれば猫の進路に先回りし、屋根から屋根に飛び移るタイミングでジャンプしてキャッチ。見事確保した。


「ふぅ」


 捕えられた猫は全てを諦めたように大人しくなった。恐らく『自分は食べられてしまうんだ。もうダメだぁ。おしまいだぁ』とか思っている。


 そんな猫の絶望を知らぬブルーノはこれで後顧の憂いはないと、軽い足取りで三丁目の池田さん宅を目指した。



 ──そうするつもりだった。



 捕まえた猫の毛が逆立つ。髭はピンと伸び、何かを受信するように毛先が天を突く。途端。絶望していた猫は大きく暴れ始めた。狂ったように鳴きわめき、絶望するほどの存在だったブルーノに対して爪を出す。猫の爪は彼の竜鱗を傷付ける事すらなかったが、この世界に来て初めて動物に反攻された事に驚き、猫を解放してしまう。


「あっ、おい!」


 呼び止めてみたものの、猫は真っ直ぐ三丁目の方へ走り去ってしまった。


「……また鬼ごっこか」


 溜め息を吐き、自らの失敗に頭を掻く。その時、何かおかしい事に気づく。


 暗い。今日は快晴だったはずなのに暗かった。空を見上げ、理由を知る。さっきまで眩しいまでに輝いていた太陽はどこにもなかった。あるのは暗雲。黒い雲が空を覆っている。いつからそこにあったのかわからない雲からは低い音が鳴っている。雷様が鳴っている。


「夏だから……夕立でも降るのか?」


 違う。自ら口にしながら否定する。あれはそんなものじゃないと、内側から感想が漏れだした。


 僅かに何かが見えた。雲の切れ間。そこから僅かに金色の腹が見えた。と思えば、その五十メートルほど隣からも同じモノが現れる。それは流動していた。波打つようにうねり、雲をかきまぜるように動いていた。雲の中で雷が発光する。雷は連鎖し、激しさを増していく。いつ地上に落ちてもおかしくないにも関わらず、稲光は暗雲の中を駆け巡った。


 そして決定的なモノが顔を覗かせる。


「……馬鹿な」


 暗雲の中より現れたソレは巨大な顎だった。ソレは牙だった。ソレは角だった。ソレは髭だった。ソレは眼だった。ソレは──龍だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ