鬼は断罪する
片翼を失ったテオバルトはあれから一時間以上飛行し続けた。
空から血を降らしながら、生き残る為に歯を食いしばる。連なる山脈の合間にある山林へとなんとか辿り着いた男は、休息を取るべく、木々に身体をぶつけつつも地上に降りた。
「ハァッ……! ハァッ……!」
着地した男は長距離マラソンを完走したかのように、息絶え絶えな様子で仰向けに倒れ込む。大の字に寝そべって、乱れ切った呼吸を整えた。
気付けば日が傾き、空は茜色に染まりつつあった。
「逃げ……切ったぞ……」
達成感を呟く。
ここまで来るのに山や川をいくつも超えた。地上を進むカズトでは追い付けない道程だ。故に逃走し切った事を確信する。
とはいえ、長々と休憩しているほどの余裕はない。増援を呼ばれ、検問が敷かれる前にこの国から去らねばならない。
「まずは連絡を……」
白衣をまさぐり、携帯電話を探す。しかし、見つからない。
「クソ……車の中か」
ならば今頃消し炭だ、と地面を叩く。
「一度人里に訪れる必要があるな」
疲労困憊の肉体に鞭を打って、とりあえず四つん這いになる。息を整え、四肢に力を込めた時──
「ようやく地上に降りたのか。随分と待ちわびたよ」
──自分の影が喋った。
続いて顔が浮かび上がる。綺麗な容貌。美少女に近い美少年の顔。天使のような悪魔の笑顔がそこにあった。
「な──」
驚きの声すらあげる隙もなく、男の影が男を縛る。身体の表面を黒い影が走り、両手両足、胴体から頭部に至るまで、その全てを拘束した。
「空を飛ばれると影が届かないからね。長々とキミの逃避行に付き合ってしまったじゃないか。まったく不愉快この上ない」
影から出てきた少年が文句を垂れる。
吸血鬼カリナはカズトの影からテオバルトの影へと潜伏先を変えていた。
「影を操る……だと。貴様、吸血鬼か。次から次へと切りがない」
「安心しなよ。追手はボクで最後だ。そしてキミの最期でもある」
「ハハ。それを聞いて安心した。貴様を殺せば、僕の勝ちという訳だ──ッ!」
無詠唱で魔法を行使する。風の刃。鋭き一閃はカリナの首を通過し、骨に至るまでを切断した。繋がりが断たれた頭部は前に傾き、ぽろり、と首が落ちる。
「おっとと」
落ちそうになった頭部を両手でキャッチし、カリナは元にあった場所へ戻した。傷口は一瞬で癒着する。何事もなかったかのように、彼は首を回した。
理解し難い光景を目の当たりにしたテオバルトは一心不乱に攻撃し続ける。
殺しても死なないのなら、死ぬまで殺し続けてやる──と、魔力の限りを尽くす。放たれた風の刃はカリナの身体を切り刻み、切り刻まれた端から癒着していく。刃が肉を切り、通り抜けた時には、既に回復していた。まるで流れる水を切ろうとしている感触。やがて男は攻撃を断念した。
「デタラメが……! これだから夜界の住人は嫌なんだ! 斬られたら、ちゃんと死ね! それが生物だ! 貴様等は断じて生き物ではない!」
怒りを込めて男は叫ぶ。
人体を偏愛するが故に、人型でありながら生物的ではないカリナに対して苛立ちを隠せなかった。
「クソッ、クソッ、クソッ! 両腕さえ使えれば貴様程度、我が魔道によって犯し尽くしてやるものを!」
「試してみるかい?」
実に気軽な態度でカリナは言う。
「なん、だと」
「遠慮する事はない。君に出来る事を尽くしてみなよ。その上で殺してあげるから」
男に両腕を縛る影の拘束を解く。そして「さあ、どうぞ」と両手を広げた。
絶対的な自信に満ちた表情。男はそれを笑う。己の不死性にあぐらをかいた愚か者を笑う。世の中には上がいる事を。不条理すら凌駕する悪がある事を。テオバルトはそれを証明せんと両腕を掲げた。
「侵食。暴虐。凌辱。我が前に倫理はない。あらゆる秘匿は暴かれ、あらゆる尊厳は地に堕ちる。──光を喰らえ。我が悪性!」
男の心が姿を現す。
黒々とした泥のような波動。圧縮された悪意の濁流。傷付け、損なわせ、侵食する暗き魔法。
それが小さきカリナの体躯へと注がれる。彼を飲み込み、暴れ狂い、通過する。負の嵐が去った後、吸血鬼は姿を見せた。
「はい、残念でした」
平気な顔で立っていた。
黒泥が未だに付着しているが、一切気にする様子もなく、カリナは肩をすくめる。
「馬鹿な。馬鹿な……!」
死ななかっただけならば。不死性によって耐えたのならば。まだ理解は及ぶ。だが、傷一つないのはどういう事だ。耐えたのではなく、そもそも害されていないのはおかしいではないか──そう、テオバルトは驚愕する。
理解不能。
納得のいかない男は再度魔法を撃ち放とうとして失敗した。魔力がまとまらずに霧散する。単純な魔力切れ。半日の間に連戦してきたが故に、ここで限界が訪れた。
「もうやめておくんだね。無理されて勝手に死んでもらっては困るんだ」
「うるさいッ! こんな不条理認めてたまるか!」
「不条理なもんか。至極真っ当な事だよ。──ボクは吸血鬼。悪の象徴。怪物の代名詞。だから、キミ程度の悪性では傷一つ付ける事すら敵わない。ただそれだけの事なんだから」
吸血鬼は夜界の上位者。その一角。存在そのものが一つの神秘。しかして、その方向性は闇。悪。負。暗き世界を司る彼等の前に、個人が抱く悪性など無きに等しい。魔法で具現しようとも、純粋な“悪”として誕生した吸血鬼に勝る道理はなかった。
「そんな……そんな事が……」
世の中には上がいる。不条理すら凌駕する悪がある。それを逆に思い知らされた。
「ま、相性が悪かったね。今度生まれ変わったら聖なる魔法を覚えておくいい。もっとも、キミに来世があるとは思えないけれど」
カリナを手をかざす。
影の拘束が男を包み、縛りあげる。その際、四肢が雑巾を絞るようにねじられ、骨が砕け、肉が分離する音が響き渡った。
「──────ッ!!」
この世のものとは思えない絶叫が山林に轟く。
男は手足を失い、目と口は影に覆われ、自由を奪われる。許されているのは鼻からの呼吸と聴覚のみだった。
テオバルトを支配したカリナは自分の影で椅子を作り、そこに座る。頬杖をついて、愉快なオブジェと化した男を見つめた。その視線はひたすらに冷たく。どこまでも無情。怪物として望まれた吸血鬼の姿がそこにはあった。
「さて、ボクはキミの影の中でずっと考えていた。キミに処すべき死刑はどのようなものが良いかと。……あろう事か、キミはボクの掛け替えのない仲間を──友人を傷付け、挙句殺害した。その罪は一万回死のうとも贖えるものではないが、しかし、残念ながらキミの命は一つしかない。ならば、その一度だけの機会に、どれだけの報復が出来るのかをボクは考えた」
無感情に吸血鬼は述べる。
「最初に思い付いたのは、吸血鬼らしく全ての血を抜き去り、殺してやろうと考えた。だけれど、これは無い。キミの血は犬のゲロにも劣る不味さだろうし、何より血を抜いて死ぬのは案外と気持ちの良い死に方らしい。そんな上等な死はキミに相応しくないので却下だ。……逆にボクの血を与えて、ある程度の不死性を付加させた後に、なぶり殺しにしてやろうとも考えたが……、これも却下だ。ボクの高貴な血をキミ如きに与えるなど、産んでくれた我が両親に申し訳が立たない」
淡々と発せられるそれは恨み言だった。
「そこまで考えたボクは思い付いた。ボクの裁量ではなく、地球の法に則ろうとね。とはいえ今の法律では甘い。甘過ぎる。キミは村一つ殺し尽くした訳だから、当然のように死刑宣告されるだろうが……それでも精々電気椅子か絞首刑だ。それではボクの気が晴れない。よって古きに遡り、ボクは記憶を探った。──キミは『目には目を、歯には歯を』という言葉を知っているかい? 確かこの世界における古い法典の一文を訳した言葉だ。被害者に行った事を加害者にも味わわせる。同害報復というやつだね」
吸血鬼は重い腰をあげて、男へと歩み寄る。
「つまりはキミが行った事をキミにも行う訳だ。──さあ、言ってごらん? キミが彼女にした事を。正直に」
口を塞いでいた影が下がり、男は発言を許された。恐怖で緊張する男の口はたどたどしく答える。
「薬物で殺してから、臓器を摘出──」
吸血鬼の爪が男の右耳を切り落とす。短く悲鳴を漏らした後、男は「なんで」と呟いた。
「つまらない嘘を吐くなよ。──さあ、言え。己が犯したその罪を。次偽れば目玉を抉るぞ」
サクラの血液から男の所業は読み取っている。それを理解した上で、吸血鬼は男に問い掛けたのだ。この期に及んで嘘を吐く、男の醜悪さを暴く為に。
ガチガチと歯を鳴らして震える男は言う。
「い、いき、生きたまま、内臓を……取り出した」
「ならば、それを行う。些か温いが……まあ、妥当ではあろうよ」
「まっ、待って──」
耳障りな声を再び遮断し、吸血鬼は男の腹部を突き出させる。男は最期の力を振り絞る暴れるが、影の拘束は微動だにしなかった。
「貧弱なキミの肉体では、恐らく二つか三つ、内臓を取り出しただけで死ぬだろうけれど、……一瞬でもいい。彼女が味わった苦痛を知れ。ボクはそれを慰めとしよう」
吸血鬼は爪を伸ばした腕を引く。
男の腹部へと手を入れて、その内臓を掴み取る。──そうしようとした時、殺気を当てられ、突き出される手が止まった。
「──ッ!」
気配を探り、自身に殺意をぶつけてきた不届き者を吸血鬼は発見する。見上げねば見えぬ山肌に一人の男が立っていた。距離は優に三キロほど離れている。そこから殺意を向け、他人の獲物を狙っていた。
「ハッ……クハハッ」
それを知り、吸血鬼は愉快そうに笑う。
あの男が殺気を向けているのは自分だけではない。今まさに手を下そうとしていたテオバルトに対しても、明確な殺意を突き刺していた。
「ボクの獲物を横取りする気かい? それも先に手を出せば、ボクから殺すのも辞さないって感じじゃないか。……ククッ、いい気迫だ。オーケー。そこまでの気持ちを見せられては野暮な事は出来ない。紳士的に手を引こう」
文字通り突き出そうとしていた手を引いて、吸血鬼はコウモリのような羽を広げる。テオバルトの拘束は維持したまま、この場から飛び去る。その去り際に男へ告げた。
「──どうやらキミは竜の逆鱗に触れたらしい」
◆
連なる山脈の頂きに彼はいた。
起伏の激しい土地を一望できるほどの高い山。そこから世界を見通した。
先に行った仲間を追い抜き、更に先へ進んだ仲間に追い付き、竜殺し──ブルーノ・ランバージャックは仇敵を見据える。
直線距離にして、およそ三千メートル。
その先にある山林の中に仇敵と仲間の両方が存在していた。
けれど、この場から動こうとはしない。彼の足なら一分程度で辿り着ける距離。急げば自らの手で仇敵を殺せる距離だ。──否。それは違った。この場は既に彼の間合い。動かずとも。急がずとも。その剣は仇敵を葬り去れる。
ブルーノは己が牙を天に掲げた。
槍のように柄の長い剣──『竜の顎』。竜殺しの為に製造された一振り。その力をここに解放する。
魔力を流す。
剣身の刻印が光を放ち、機械化された鍔が変形した。装甲が外側に外れ、内部の放熱板が露出し、その表面を数多の線が走る。蓄積されていく魔力が暴風となって渦を巻いた。山頂の希薄な大気を貪欲に飲み込みながら、暴風はその規模を増していく。
「──口を開け、竜の顎」
剣身が割れる。
中央から二つに分かれ、左右に開く。割れた断面には螺旋状の溝が掘られている。それは魔力を収束し、加速させる魔術機構。ライフリングに似た役割を持つ。即ち、この剣身は砲身でもあった。
この剣のコンセプトは簡潔にして至難だ。
対竜種剣『ジークフリート』と魔力収束砲『ドラゴンブレス』の両方を併せ持ち、かつそれぞれの特性を改良した一振り。竜殺しの為だけに造られた予算度外視の専用装備である。
そんな無茶なコンセプトの末に誕生したこの剣は、最強の竜殺しに見合う性能を確かに有していた。
莫大な魔力が渦巻く。その負荷に耐え、アギトは魔力を一時的に受け止め、貯蔵する。収束し切れなかった余剰魔力は宙に放射されるが、散布されたその魔力を使って、鍔に内蔵された機構が自動的に、剣の先に二つの魔力輪を生成した。それは照準装置。二つの輪によって精度の安定を示す。
天に向けた切先を仇敵へと構え直す。
柄を脇に挟み、両手で支える。その為の長い柄だった。
仇敵の近くには仲間である吸血鬼がいる。彼もまた彼女の仇を討とうしていた。
──邪魔だ。どけ。それは俺の標的だ。
殺気を飛ばす。
吸血鬼は彼の憎しみを感じ取り、不本意ながら、しかして、愉快そうに離脱する。ご丁寧に獲物を動けなくしてくれていた。
──余計な事を。だが、まあいい。どうでもいい。この憎しみを晴らせるのならば。
もはや狙いをつけるまでもない。仮に拘束されていなくとも、彼の千里眼から逃れる手段はない。どの道、あの男はここで死ぬ。それは決定事項。彼女を殺した時点で確定した運命の固定座標。覚醒した竜の瞳は男の可能性すら見通した。
「俺は初めて憎しみで人を殺す」
心に刻むように彼は呟く。
己が愚行を忘れぬ為に。この憎悪を忘れぬ為に。愛おしい人を忘れぬ為に。
報復を。
復讐を。
──果たす。
「…………」
心のどこかで正論を言う自分がいた。
「憎しみは何も生まない」「報復して彼女が蘇るのか」「復讐は虚しいだけだ」「あんな男の為に手を汚す必要はない」
──黙れ。
「何かを生む必要はない」「報復しても彼女は蘇らない」「復讐はきっと清々しい」「あんな男だからこそ殺す必要がある」
正論も一般論もお呼びじゃない。
報復という結果が重要なのだ。復讐という行為が重要なのだ。憎悪という感情が重要なのだ。──そして、それらからの解放が必要なのだ。
この黒く渦巻く嵐のような憎しみを吐き出し尽くさねば、この先マトモではいられない。胸に空いた穴が塞がらずとも、そこから生じる膿だけは取り除かなければ、彼女のいない世界を生きてはいけない。
それだけ彼女は特別だった。
思い返せば輝いた日々だった。
故に──憎しみを引き摺って、それを汚したくない。
「竜の息吹よ。我が憎しみを焼き尽くせ」
狙いをつける。
彼女に教わった照準の定め方を一つ一つ確認し、彼女を殺した仇敵を狙う。
あの男に望む事はたった一つ。──死ね。ただ死ね。痛みは不要。苦しみは不要。懺悔も贖罪も、何もかも求めない。自分に殺され、この世からいなくなれ。欠片すら残るな。消滅しろ。それ以外に望む事は何もない。
膨張室が限界を迎える。これ以上は魔力を内包出来ないとアギトが悲鳴を上げる。
時は来た。
復讐はここに果たされる。
二つの魔力輪が重なり、放熱板が輝く。限界まで蓄えられた膨大な魔力が螺旋を描いて収束し、剣身の中を加速する。──そうして彼の憎しみが吐き出された。
それは砲撃。山の頂上から眼下の山林までの三千メートルを魔力砲が駆け抜ける。
赤い。朱い。紅い。燦然と輝く真紅の閃光は夕暮れの中にあって尚、赤かった。それは一筋の流れ星が如く飛翔し、やがて地の落ちる。
仇敵は何が起こっているのかわかっていない。聴覚しか自由の利かない男には、次の瞬間に襲い来る赤い彗星の事などわからない。いつか来る死の瞬間に怯えながら、男はただ震えるだけだった。
そして──ほうき星は落ちた。
誇張なしに隕石が落ちたかのような破壊が広がった。
テオバルトを中心に山林は丸ごと消失し、水を張れば湖になりそうなクレーターだけが残る。当然ながら男の亡骸はない。残るはずもない。恐らく自分が死んだ事すら気付かなかった事だろう。
確認をするまでもなく、テオバルトは死亡した。竜の瞳もそれを認める。復讐は成し遂げられた。
「…………」
ブルーノは深く、長く、息を吐く。
胸中にあるのはやるべき事をやり遂げた達成感とちっぽけな自己満足。虚しさや虚脱感はない。けれど、想像していたような清々しさもなかった。
でも、それでよかった。結局として彼女は死んだままだ。清々しい気持ちになんてなる訳がないし、元より善し悪しの話でもない。だから、これでいいと思った。
しかし、明瞭な感情はあった。
「……サクラ」
──悲しみだ。
憎しみを吐き出し、復讐を果たした今、それを押し留めるものはない。
いつかと同じ夕日に照らされながら、竜殺しはもう一度だけ静かに涙した。




