竜は憎悪する
誰もいなくなった部屋に彼はいた。
一人。ただ一人でそこにいる。正確には一人と一体。人間一人と死体が一つ。それ故の静寂があった。
ブルーノはもう動かない彼女をみつめる。残骸となった彼女に手を伸ばす。
下顎のない顔に残された僅かな頬の部分を指でなぞった。冷たい。でも、まだいくらかの柔らかさは感じられた。そんなもの、なんの慰めにもならなかったけれど。
「……サクラ」
もはや面影すらない死体の名を呟く。
何度目かの呟き。彼女の名を口にする度、身体の奥が抉られた。スプーンで心をほじくられるような、そんな感覚。
痛みよりも息苦しさを感じる。
溺れるような。窒息するような。──そう。空気とか日常とか、そういう、あるのが当たり前なものを失った気分だ。
呼吸を求めて必要なモノの名を呟いてみても、余計に息が詰まるだけ。楽になる事なんてなかった。
「…………」
だから口を閉ざす。
求めても得られないなら。求めると苦しいのなら。これ以上は求めない。それでいいはずだ。
──その途端、喪失感に襲われる。ぽっかりと空いた胸の穴が代わりを求めて暴れ出す。
人が死ぬのは悲しい事だ。
誰かに殺されたのならもっと悲しい。
それは彼だって知っている。わかっている。父親が死んだ時に学んだ事だ。
彼も人の死には悲しんだ事がある。
今日だって罪の無い村人達が死んで悲しかった。
誰かが死んだ時、人は悲しむ。
悲しんだ後、立ち直る。傷が浅ければ浅いほど立ち直りが早い。傷が深ければ深いほど立ち直りは遅い。肉体的な損傷と同じだ。
特効薬となるのは代替品を用意する事。悲しみに代わるものを。或いは失ったものに代わるものを──あてがえばいい。
「──代わりなどあるものか」
本心を吐き出す。
彼女に比類するモノなどない。彼女に及ぶモノなどない。彼女に届くモノなどない。あるとすれば彼女自身の他にない。
特別だった。
彼女だけが特別だったんだ。
──俺にとって彼女は……。
「────」
涙が溢れた。
突然に。止め処なく。目から零れ出す。
何かが氷解していく。春日井咲良が自分にとって特別な存在だと認めた瞬間、抱えていた不安が押し寄せる。かつてない感覚だった。
なぜ自分は案じていたのか。
なぜ自分は恐れていたのか。
なぜ自分は苦しんでいるのか。
なぜ自分は悲しんでいるのか。
その答えにようやく気が付いた。
「そうか……。俺は、サクラの事が、好きだったんだ」
そんな恋心を初めて自覚した。
そして、それはもう二度と実らぬ恋だと痛いほど思い知った。
自覚してから。彼女を失ってから。それに気付く。あまりに遅すぎる認識だった。
特別な存在が出来る。
それは素敵な事だ。人生に色彩を与え、生きる為の励みになる。だが、それを失えば──致命的だ。絶大な傷痕を残す。場合によっては立ち直れない。
手から竜の顎が滑り落ちる。武器など握っていられなかった。
零れる涙は彼女に降り積もる。凝固した血が溶けて彼の涙は赤くなり、一筋の流れとなって彼女を伝う。悲しみは深く。苦しみは果てしない。こんな事になるのなら好きになんてならなければよかった──なんて事は思わない。それだけは絶対に思えなかった。
「サクラ。俺は君が好きなんだ」
素直に好意を言葉にして、いつから好きだったのかを考えてみる。
考えて──思い至る。
あの日。渋谷の雑居ビルの窓枠に座る彼女を見た時に思った。──美しい。そう、思った。
なんて事はない。よくある事だ。初恋ならば尚の事。
「きっと一目惚れだった」
一目見た時から好きになっていた。
色の無い容姿に。透き通った雰囲気に。消えてしまいそうな儚さに。──どうしようもなく心を奪われた。
「馬鹿な男だ。君を失ってから口にしたところで、なんの意味も持たないというのに」
大切なものほど失ってから気付く。今更使い古された定型文。だが、共感を生む言葉だからこそ使い古されたのであり、多くの者達が経験してきた教訓であるのだろう。──彼もまたその一人となった。
だからこそ苦しい。
だからこそ悲しい。
代替を求める。
そんなものはない。
代わりを求める。
そんなものはない。
ならばこの穴はどうやって埋めればいい。
自問して胸の奥に感情が芽生える。胸に空いた穴から感情が噴出する。
それは炎に似ていた。それは熱情に近かった。それは愛の一側面だった。それは黒く渦巻く嵐のような──
「──ああ、これが憎しみか」
自ずと理解する。
この穴は恐らく一生塞がらない。
その“代わり”に彼は“自分の復讐”を手に入れた。
誰かの憎しみではない。
誰かの苦しみではない。
誰かの悲しみではない。
誰かの為ではなく。
誰かの押し付けではなく。
誰かのモノを背負うのではなく。
自分自身の憎しみで。苦しみで。悲しみで。報復する機会を得た。
──彼は自分の為に剣を執る。
それは断じてサクラの為ではない。彼女の仇を討つ為では決してない。──だって、そんな事を彼女は望まない。自分が殺されようとも「そんな事より規則の方が大事です。確保対象は殺さずにお願いします」とでも言うに決まっている。自分以外が殺されたら率先して仇討ちしそうなくせに、自分が死んだ時だけはそれを許さないのだ。自分よりも他人を尊重し、他人よりも仲間を大切にする。彼女はそういう女の子だった。
だから、これは自分の為だ。憎しみに突き動かされた愚かな行為だ。けれど、今の自分にはそれが必要だった。
涙は拭わず、剣を片手に部屋を出る。
カズト達が通った道を進み、太陽が照らす外へと辿り着く。
竜の血が騒ぐ。
正しい憎しみに呼応し、彼に超常なる力を与える。
体中の血管が赤く発光した。──瞬間、遠くを見通せた。
走る車と、それを追うカズトの姿。遥か彼方の光景が目に浮かぶ。
それは千里眼。竜は世界を見渡せる。その力の一端。三年もの間、連れ添い続けた竜の心臓。それが彼を祝福する。
その祝福を当たり前のように受け取り、竜殺しは大地を砕いて走り出す。己が憎しみをただ晴らさんとする為に──




