夜を駆ける
眠りは思ったよりも深かった。
目覚めれば空はもう暗くなっている。夜。けれど夜にしてはやけに明るかった。
立ち上がる。高い場所だからか、強い夜風が彼の長い髪をさらい、体を通り過ぎていく。その時、ふと気付いた。
「俺、裸だったのか」
今更ながら思い至る。竜の血液を浴びてからずっと彼は全裸だったのだ。
「ハ……、そうか。そんな格好で人の群れに飛び出たのか。なら、笑われても仕方がないな」
自嘲を零す。自らの状態すら把握していなかった浅慮を恥じる。
何気なく吐いた溜め息は白く昇っていった。寒い季節なのだろうか。息が白くなるわりには寒さを感じない。体の芯がいつでも熱を発しているのを感じて、これも竜の血による作用かと納得した。
少し歩いて屋上の端から恐らく街と思われるものを見下ろす。夜が明るい原因はすぐにわかった。
「…………」
絶句。けれど良い意味で言葉がなくなる光景だった。
見下ろす街は様々な色に輝き、次々と形を変えながら、夜を美しく彩っていた。あれは炎の明かりではない。全く未知の発光物。綺麗だった。本当に綺麗だと思った。それが果てしなく続いている。見渡す限りの光の列。まるで血管に血が巡っていくかのような生物的な軌道。街そのものが生きている。そんな風にすら思えた。
同時に、ここが異界である事を痛感した。
夢にすら描かなかった光景を目にして、彼の情緒は激しく揺さぶられる。自然と涙が零れ落ちた。それは感動の涙でもあったが、帰れぬ故郷を想う悲哀の涙だった。
「不撓不屈の戦士が聞いて呆れる。異世界に漂着しただけで、こんな……涙する……なんて……」
涙はとめどなく頬を伝う。止め方なんてわからなかった。誰かの涙は数え切れないほど見てきたけれど、自分が悲しみで泣くなんて事は初めての経験だった。
「……なんで。なんでだ。俺は、俺はこんな事……望んだんじゃない」
否応なく嗚咽は漏れる。
どれだけこの夜景が美しくとも、彼は彼の生まれた世界で生きていたかった。本心からそう思う。涙はしばらくの間、止まらなかった。
◆
泣くだけ泣いた。少しだけ心は軽くなった気がする。
「あー……」
だからか、思わず間抜けな声が出た。
自分の気の抜けた声を久しく耳にする。ここ一ヶ月は竜との決戦を控えていた為、常に気を張っていた。さっきの涙もその余裕のなさが原因の一つだろう。
「…………」
無様に泣きわめいていた自分を改めて振り返り、衝動的に頭を掻く。誰に見られていた訳でもないだろうが、なんだかとても気恥ずかしかった。
「十七にもなってあんな醜態を……俺は……」
彼がいたカゲートという世界では十五で成人と認められる。故に大人のくせしてボロボロと泣いてしまった事実が、ボディブローのように後から効いてきたのだった。
彼──ブルーノは落ち込んで、その場でうなだれる。全裸である以上、当然ブルーノのブルーノが視界に入ってきた。
「……とりあえず、この状態をなんとかしなくては」
神に連なる竜を殺めた竜殺しは、目下のところ衣服の確保を目標に定めた。衣類と言えば、さきほど女性に与えられ、そのまま持ってきてしまった外套──つまりはコートがあるにはあったが、流石に女性から受け取った物を恥部隠しに用いるのはよろしくないと自重する。着ようにもサイズが小さく、長身の彼では袖すら通らない。とはいえ、ずっと握っているのも手間なので肩に羽織ってから両袖を結び、マントのように身に纏って持ち運ぶ事にした。
「よし」
全裸よりも変態性が増したので全然よろしくはなかったが、ブルーノは気にせず夜の街に飛び降りる。百メートル以上も高さがあったにも関わらず二本の足だけで着地し、かつ無傷だった。
「ううっ……、裸であの高さから飛び降りると股関があらぶって気持ちが悪いな」
とか、そんな感想を漏らすくらい当然のように紐なしバンジージャンプを成功させた彼は、ひとまず物影に身を隠した。この街が明るい事は判明している。大通りは明る過ぎて隠れながら進む事は出来ない。比較的暗く、死角の多い路地を進みつつ、衣類に該当する物を入手しなければならない。
当然、土地勘はなく、どのような障害が待っているかもわからない。一歩一歩、様子を見ながらの行動を強いられるだろう。それを覚悟して、ブルーノは移動を開始した。
人の気配を避けて夜の街を走る。それは意外と簡単だった。想像以上に入り組んだ構造のこの街は極めて見通しが悪い。道を横断する時などは例え誰かに見られていようとも、目で追われるよりも早く次の路地に逃げ込めた。加えてこの建物の多さだ。上を向いて歩いている人は滅多にいない。故に建物の壁から壁に飛び移って行けば、ブルーノ本人ですら驚くほどスムーズに移動できた。余計な音が出ない裸であったのも功を奏したと言える。
「騒ぎにはなってない。問題ないな」
定期的に立っている石柱──電柱の頂点で足を止めたブルーノは来た道を振り返りながら呟く。
三十分ほど時間が経過しただろうか。賑やかな喧騒からは離れ、比較的静かな場所まで辿り着いた。背の高い建物も少なくなり、その代わり彼がいた世界でも似た形を見た事のある住宅が多く目につくようになった。先程までいたのは繁華街で、今いるここは住宅地なのだろうと判断する。
建物は低くなり、見晴らしは多少よくなってしまったが、対して明かりも減った。多くの家に明かりはなく、寝静まっている。この世界に来てから寝てばかりだったブルーノにはわからないが、現時刻は午前二時。草木も眠る丑三つ時である。
「……っと」
移動しようと足に力を入れた時、視界の端に女性の姿が映った。反射的に身を低くし、息を潜め、夜に紛れる。女性は疲れた足取りでブルーノのがいる電柱の方へと歩いていく。幸いこの道に街灯は少ない。目を凝らして上を見ない限り彼の存在が露呈する事はなかった。
その想定通りに女性は電柱を通過する。それを見届けた彼は、しかし、動かなかった。
「…………」
視線を女性から闇の中に移す。女性を追うように一人の男が小走りにやってきた。全身真っ黒の服にフードまで被っており、見るからに怪しい。
「暗殺者か。狙いはあの人だな」
物騒な発想だったが、そういう世界で生きてきた彼にはそういう考えが真っ先に思い付いた。だが、すぐには動かない。あの男が犯行に及ぶまでは見定めなければならない。ましてや、ここは異界。もしかしたらあの暗殺者ファッションが流行しているのかもしれないという可能性も彼の頭にはあった。
ブルーノは男の動向を監視する。本来そんな事をしている暇はなかったが、目に付いた誰かの危険を無視する選択肢は持ち得ていなかった。
黒衣の男は女性に近付いていき、なぜだか話しかけた。ブルーノは首を傾げる。暗殺者ではなかったのかと、自分の勘違いである可能性が浮上した。
「あ、あのっ、かおりさん! あなたの事が好きです!」
不意に男のうわずった声が聞こえた。頭痛はしない。彼の脳は完全にこの国の言葉を理解した。今ならば流暢に話す事すら可能だろう。曰く竜の血には全ての言語を理解する力があるという。彼もまたその作用を受けていた。
男の顔は紅潮し、極度の緊張が見て取れる。なんだ、愛の告白をする為に機会を窺っていただけの男だったのか。そうブルーノは思い、微笑む。恋愛には縁のない人生だったが、人の恋路を応援する程度の関心はあった。
「え、あっ、えっ」
対する女性は動揺している。無理もない。突然愛の告白を受ければ誰だって動揺するさ。けれど出来る事なら、その勇気に応えてあげてくれと、もはや恋愛ドラマの観客になっているブルーノは思った。
「好きなんです! 愛してます! 幸せにします! 僕と結婚してください!」
男は頭を下げて、手を差し出す。
そうだ。掴んであげてくれ。あれだけ熱のこもった告白だ。少しでも好意があれば、最悪でも「考えさせて下さい」という保留の返答はもらえるはずだと、手に汗握りながらブルーノは思った。
女性は口を開けては閉じ、それを数度繰り返して、ようやく言葉を絞り出す。
「というか……誰ですか?」
大きな困惑と少なくない恐怖が混じった言葉だった。
「んー?」
傍観していたブルーノは再び首を傾げる。あの二人は知人ではなかったのか。元より交友関係にあったのではないのか。少なくとも男の様子はそんな風であったじゃないか。疑問は次々に沸き上がる。
女性の言葉を受けて顔をあげた男の表情は引きつっていた。
「えっ……誰って。やだな、僕ですよ。ほら、毎日電車であなたの前に立っていたでしょ?」
女性は小さく首を横に振る。その目は既に恐れを映していた。
「は……? だって何度も目が合いましたよね? それに二回も挨拶したじゃないですか。なのに覚えてないって酷いな。かおりさん、酷いよ」
男は今にも泣き出しそうな顔で女性に迫る。女性は一歩後ずさる。男は女性の恐怖を感じ取った。
「な、なんでそんな怖がってるんです? ただ好きって言っただけ。ただ好意を伝えただけじゃないですか。いいんです。今までの事は覚えていなくても。これから僕の事知ってもらえればそれで僕は大丈夫ですから。今日から始めましょ。僕等の恋人生活を。ねっ、だからそんな怖がらないで」
手を伸ばす。震える女性の顔に男は手を伸ばす。その手は乱暴に叩き落された。衝動的に女性は自分に伸びる手を払い除けた。それは明確な拒絶だった。
自分のした事。そして男の呆然とした顔を見て、女性は悲鳴よりも先に逃げ出す。震える体を酷使し、もつれる足に渾身の力を込めて。男から逃げ出した。
「……なんだよ、それ」
走り去った女性の背中を見つめながら男は呟く。なんだよ。なんだよ。なんだよ。そう何度も繰り返す。繰り返す度に語調は強くなる。それが臨界に達した瞬間──
「──んだよ、それぇ!! 誘ってきたのはお前からだろうがよぉ!!」
爆発した。
涙と唾液を撒き散らして吐き捨てた言葉と同時に男は走り出す。怒りに満ちた目を向けて、逃げ出した女性を追った。
「…………」
その一部始終を目撃していたブルーノは恋愛ドラマが思わぬ方向に展開し、唖然とする観客の如くぽかーんとしていた。
「…………この世界ではああいう恋の形が普通なのだろうか」
ないな。うん。それはない。
そう判断して、ブルーノは二人が去った方向へ跳躍した。上空から俯瞰し、二人を見つける。男は既に女性へ追い付き、道の真ん中で覆い被さっていた。
「……あれはよくない」
近くに着地し、すぐさま男の首根っこを掴み、女性から引き剥がす。
「なっ……! なん……!」
男はいきなり自分が浮き上がった感覚を得て当惑した。女性は男を引き剥がした誰かがいるのに気付き、安堵と共に涙を零す。そして自分を助けた者が“全裸マントの男”であるのに気付き、絶望した。「あっ、今日があたしの命日なのだわ」と、その時、彼女の脳裏を走馬灯がよぎった。
だが、その真なる絶望が彼女の真価を呼び起こす。
サービス残業を終え、くたくたの体で帰路についていただけなのに。会社はブラックでも、それでも社会人を頑張って続けていたのに。お茶くみから書類作成、上司のご機嫌取りに同僚からの嫌味、その他諸々と一人で戦っていたのに。なのに、その挙句が最大級の変態二人に襲われているという現状。その嘆きが、その痛みが、その辛さが。そしてなにより、そのストレスが社畜の胃をぶち抜いて、内なる獣を目覚めさせた。
「おい、大丈夫か」
ブルーノは自分を見て固まっている女性へと問い掛ける。返答はなかったが、怖い思いをしたのだからそれも当然かと納得しかけた瞬間、竜の血が危機を察知した。咄嗟に退こうとしたが遅い。既に女の拳は左手に吊り上げている男の腹部へと叩き込まれていた。
「あんた! なんか! 知るか! こちとら! 電車に揺られてる時間が! 数少ない癒しなんじゃボケ! カス! コラァ!」
恐ろしく速い拳が次々と男の体にぬじり込まれていく。さながらサンドバック。そして、そのサンドバック(変態ストーカー男)を支えるブルーノ(変態全裸マント)すら拳圧に押され始める。
「ぐっ、馬鹿な──」
やがて竜と力を競った男は異世界の企業戦士に押し負けた。体勢が崩れ、盾となっていたサンドバックが外に弾かれる。その隙を女戦士は見逃さない。
「お前も死ねぇーーー!!」
無防備なブルーノへとドロップキックが放たれ、回避も防御も間に合わぬ内に直撃した。
「かはっ!?」
手に持つ男ごとブルーノは吹き飛び、遥か後方まで転がった。竜のテールアタックに匹敵する一撃だったと、ブルーノは後に回想する。
「ぐずっ」
殴るだけ殴り、言うだけ言った女は今度は泣き出す。これまでの人生を振り返って、こんな現在に至っているのが無性に悲しかった。
「もぅーやだぁー! こんな人生やーだぁー! 帰るー! もう実家帰るぅー! 会社もやめるー! やめてやるぅー! うわーん!」
そして女はダッシュで消えていった。
「……凄まじき戦士だった。あれほどの腕を持ちながら、なぜこんな男相手に逃げ出したのかわからん」
全裸マントのブルーノは自身の過失に気付かぬまま女を見送る。想定外ではあったが、元々彼女は逃がすつもりだったのでとりあえず良しとした。
「さて」
そう気を取り直して、手に持った男を見る。ボコボコでボロボロだった。
「まぁ因果応報だな」
ブルーノが制裁を下すまでもなく、被害者よってそれはなされていたので、彼はこれ以上手出しはしない。道の真ん中に放置するのも交通の邪魔だろうと配慮し、男は路肩に置いておく。脇道にそれてしまったが、今夜中に衣類を手に入れなくてはならないのだ。こんなところで道草を食っている場合ではない。
夜空を見上げ、月の位置を確認する。
「日の出まで三、四時間程度か」
この異世界でも太陽と月の関係性が同じならばという前提で目算し、裸の竜殺しは再び夜の街を暗躍し始めた。




