最大級の悪趣味
そこは暗く、狭く、ひたすら臭う場所だった。
金属の床。金属の壁。金属の天井。そのどれもが血に汚れ、鉄分によって腐食している。赤黒い錆を最低限の光源が照らし、それ以外には何も見えない。そんな場所。そんな光景を春日井咲良は見ていた。
身体は仰向けに横たわり、全身が革のベルトで拘束されている。強化人間の筋力を持ってしても、ここからの脱出は叶わない。そもそも動ける余地がなかった。動くのは眼球と手の指先のみ。頭も固定され、横を向く事すら出来ない。
意識を取り戻してから三十分ほどが経過しただろうか。
その間、彼女はずっとよく見えない天井を見上げていた。それだけしか出来る事がなかった。
この空間には誰もいない。声をあげたところでどうにもならないだろう。ならば待つ。自分がまな板の上の鯉であるのは理解しているが故に達観した。
「やあ、おはようございます」
扉の軋む音が室内に響き、続いて男の声が耳に届く。
抑揚のない声。しかし、どこか楽しそうだった。或いは興奮を我慢しているかのような、そういうわざとらしい声色。
男──テオバルトは装いを変えている。
村人らしい質素な服装の上に普段通りの白衣を羽織り、黒ぶちの眼鏡を身につける。自らが証言した姿となって、サクラの前に現われた。
切れ長の目が動けないサクラを見下ろし、男の口元には笑みが浮かびあがる。
「おはようございます」
再度挨拶をした。
対してサクラは口をつぐむ。
「どうでしょう。ここは僕の隠れ家なのですが、なかなか趣があるでしょう? このマッドな感じを演出するのに多くの人体を使ってしまいましたが、その甲斐あって良い雰囲気が出ていると思いません?」
自らの努力を自慢するようにテオバルトは両手を広げ、二度、その場で回ってみせた。そして止まると、自分の身体を抱きしめ、ハァ──と官能の吐息を漏らす。サクラが同意しようとしまいと、それに関係なく男は自己満足で満たされた。
「貴方の目的はなんですか」
サクラは言う。
それは問い掛けではない。白状を強要する口調だった。
それを聞き、テオバルトは目を丸くする。
「──目的?」
なんですかそれは──と、その眼は語っていた。サクラの言葉は疑問だった。男にとっては甚だ疑問でしかなかった。
「何かをするのに目的って必要ですかね?」
本当にわかっていない様子で男は首を傾げ、逆に問い掛ける。
サクラは戸惑い、質問を変えた。
「……なぜ私を捕えたのですか」
「ああ、それなら明白。僕はアナタが欲しかったのですよ。一目惚れってやつです」
男は照れたように頬を紅潮させながら言った。
怖気が走る。他人の好意をここまで気持ち悪く思ったのは初めてだった。
「アナタ──ええっと、サクラさんでしたか? アナタは強化人間でいらっしゃいますよねぇ? それも僕が見た事もない希少な個体でしょう?」
答えない。だが、否定しない事が男にとっては明確な返答となった。
「やはり! まあまあわかっていましたとも。下っ端ではない強化人間は初めてでしたしねぇ。いやあ、いったいどんな部品で、どんな風に造られているのか……僕はとても興味があります」
ぞくり、と。また別の怖気が走る。
男の目的。いや、男のしたい事を想像して、サクラは息を呑んだ。
「……、貴方の、目的は──」
急激に喉が渇いた。喉が張り付く。問いただそうとして、しかし、声が続かない。
「またそれですか。はあ……、僕に目的なんかないんですって。先の事なんかどうだっていい。将来なんて後回しでよいのです。僕はね、その時その時に、やりたい事をやりたいだけやって生きていきたいんですよ。そんな風に一度は考えた事ありません? 刹那主義って言うんですかねぇ。ほら、今時の若者ってだいたいそんな感じでしょう? だったら僕もきっとそういう普通の人間なんですよ。あれ? でもそういう風に生きていきたいっていうのが、僕の目的になるのですかねぇ? ふむ。それなら僕の目的は、今のところ一つです。──“アナタをもっと知りたい”。ええ、ただそれだけの事ですよ」
つらつらとテオバルトは述べる。
饒舌に語られるそのほとんどをサクラは聞き流す。まともに受け止めてはいけない。この相手と向き合ってはならない。男の雰囲気に。男の調子に飲み込まれたら最期だ。毅然と。悠然と。自分を保たなければ。そうでなければ耐えられない。
「ハハ。いつでもこいって顔ですね」
サクラの瞳に映る自分を見ながら、テオバルトは口角を吊り上げる。
壁に寄って錆付いたレバーを下ろす。途端にほの暗かった室内は照明に照らされた。眩しいほどの光。金属に覆われた部屋は光を反射させ、どこを見ても目が眩んだ。
サクラが見上げる先。つまりは天井。さっきまでよく見えなかったそこには大きな鏡が張り付けてある。ちょうど台座に縛り付けられている彼女の全身を映すように。
自然と鏡の虚像と向き合う。
今の自分がどのような状態で、どのような状況なのかは、それを見れば一目瞭然。身体は固定されている為、そこから目を逸らす事も出来ない。
「僕はさ、小さい頃から人の身体に興味があってねぇ。どんな仕組みなのか。どんな使い道があるのか。どんな味がするのか。どこを弄れば、どんな反応をするのか。何を失えば、或いは何を加えれば、その活動が停止するのか。とかね、そういうのが、たまらなく気になっちゃう人間なんだよねぇ」
じゃらじゃらと音をたてて、男は部屋の隅に置いてあった台車を引き寄せる。台車には医療器具から大工道具に至るまで様々な金物が雑多に置いてあった。そこから三寸釘を十本取り、白衣のポケットに入れると、金槌を片手に持ってサクラの横に立つ。
「しかも面白い事にさ。世界は五つもあって、それぞれ違う人間が生息しているときたもんだ。天族を調べ尽くしてしまった僕にとって、この地球に漂着した事は最高の幸運だったよ。ああ、地球最高。地球人も最高。なんたって人の手で人間を作ってしまうんだから恐れ入る。僕なんかよりよっほどすごい。はっきり言って変態的だ。だからこそ強化人間への興味は尽きない。──さあ、教えてくれ。アナタを、僕に、見せてくれ……!」
息を荒くしてテオバルトはサクラの手の指に釘を刺す。右手親指の爪の上から打ち込み、貫通させ、台座に固定する。
「……っ、……」
痛みに顔が一瞬歪むが、声は出さず、すぐに平静を装う。
そんな反応を楽しみつつ、男は指を順番に固定していく。右手が終われば、次は左手。終始笑顔でそれを行った。
「ハッ……人体に興味? 大層な事を言って、やっている事は結局拷問まがいな暴行ですか。笑えますね。貴方はただの加虐性癖者。拷問好きな変態ですよ」
手の指全てが釘で打ち付けられるのに耐えたサクラは、冷やかな目で罵倒する。それは強がりでしかなかったが、そうする事で心の平静を保つ。自分は強気に出られるのだと、自分自身に見せつける。
「酷い事を言う。いきなり痛いのじゃ可哀想だと思って段階的にしてあげているだけなのになぁ。でも、まあ否定はしないよ。アナタを見ていて性的興奮を覚えないと言えば嘘になる。僕だって男だからねぇ。乱れてくれれば興奮するさ。……ホント、こんな最高の女性を得られて僕は幸せ者だよ」
金槌を雑に投げ捨てて、テオバルトはサクラの顔の前に手をかざす。その手が微かに発光する。
「今、魔法をかけました。これでアナタの身体は動きません」
催眠術師を気取るように手を動かした男は、彼女の胴体を束縛していた革のベルトを外す。拘束が緩まり、反抗するなら今だと思ったが、男の言った通り彼女の身体は金縛りにでもかかったように動かなかった。
ゴリアテで突然動けなくなった時と同様。サクラに魔法から逃れる術はない。
男は動けぬ彼女の衣類を脱がす。
上着のボタンを一つ一つ外し、ワイシャツのボタンもまた一つ一つ丁寧に外していき、白く透き通る彼女の肌を露出させる。続いてズボンのホックを外すと、太股の位置まで下げる。残るは下着。ブラジャーは台車から取り出したハサミで中心を切断し、上着と同じように左右へ開く。ショーツの方は少し迷いつつも、剥ぎ取らずにそのまま放置した。
そうして彼女の肢体は赤裸々に暴かれる。
石膏のような白く艶やかな肌。男性の手のひらでも僅かに溢れる豊かな乳房。細くくびれた腰回り。高い水準で均整のとれたそれは、およそ万人が美しく思うであろう珠玉の肉体だった。
彼女は造られた存在。その肉体もまた美しく設計されたものであるが、しかし、それは完成時においての話だ。人間として生み出された以上、強化人間も生活に応じて体形を変化させる。稼働してから三年間。彼女がこの美しい身体を維持し続けるのには相応の努力があった。──もっとも、その努力はこんな男に披露する為にあったのでは決してない。
「ふぅん」
テオバルトは短く息を吐く。そこに感情はない。
サクラの肉体美を間近にしながら、特に関心はなかった。男が求めるのは表面的なものではない。美しいだけのものを、美しいとは思わない。美しさとは内に宿るものだと、男は信じて疑わなかった。故に彼女の深部に思いを馳せる。
男は一本の油性ペンを取り出す。何の変哲もないそのペンで、彼女の身体に線を引く。鎖骨の下に横線。下腹部にも横線。その線と線の中央から中央へと縦に線を引いた。それで彼女の胴体には細長い『工』の文字が出来上がる。
こんなんでいいか、と頷き、ペンも投げ捨てた。
新たな器具を台車から探り当て、男はそれをサクラの瞼に取り付ける。上瞼と下瞼を開いたままに固定する眼鏡のような器具だった。
これでサクラは目を閉じる事を封じられる。
「はい、あーんしてくださーい」
男は短い棒の両端にベルトが付けられた器具を見せながら、彼女に口を開くよう指示を出す。男が持つのは猿轡。そして恐らく、それは声を出させない為にではなく、舌を噛ませない為に装着させようとしている。
サクラは血の気が引くのを確かに感じた。
男の“やりたい事”は想像できていた。だけれど、そんな、そこまでは想像できない。──いいや、違う。想像などしたくなかった。そこまで異常な男ではないと、あえて想定しなかった。そう思っていたかった。
「待っ──待ってください……っ! な、何もしないのですか!」
「んん? いや、今からしますよ? なのでこれを咥えてください。多分、すごく痛いので」
「ちがっ、そうじゃ……そうじゃなくて、麻酔とか……魔法とかで、意識を──」
途中まで言って察する。男の心底不思議そうな顔を見て察してしまう。──そんな安らぎはないのだと。
「意識はそのままに決まってるじゃないですか。だって僕はアナタの反応が知りたいんですから」
男が言う。気軽に言う。
その絶望的な言葉を、簡単に口にした。
彼女が呆然としている間に猿轡が装着される。心の整理がつかぬままに、男の準備は着々と済んでいく。既に抗える時点を超えた。
もう助からない。助からないから問題なのではない。死ぬのはまだいい。死ぬ覚悟ならいつでも出来ている。それに対する心構えはあるつもりだ。だから問題は死ぬ事じゃない。
問題となるのは──
異常となるのは──
狂気となるのは──
恐怖となるのは──
──この男が生きたまま自分を解剖しようとしている事。
はっきりと認識して、途端に恐怖が全身に回る。心を挫く毒が浸透する。──駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。考えては駄目だ。何も考えるな。心を閉ざせ。意識を閉ざせ。大丈夫。痛みも度を超えれば肉体の方から電源を切る。意識も途切れる。生きたまま切り刻まれようと、それを知覚出来る時間は長くない。だから大丈夫。心は決して砕けない。
「安心してください。出血量が少なくなるように、アナタが気を失っている間に薬を打っておきましたし、治癒魔法と輸血を施しながら行います。なので出血死する事はありませんよ」
前口上を述べてテオバルトはメスを握る。
いよいよ執刀。目安として書いた線に従って刃を走らせる。その手腕は劣悪。力任せに肉を切り裂き、骨に達した刃はガリガリと音をたてる。
「────ーーーーッ!!」
絶叫する。
わざと苦しめているのか、と男を睨む。だが、男は至極真面目に作業していた。この男、素で下手なのだ。
「ーーーーッ!! ーーーーッ!!」
怒りの咆哮をあげる。
ふざけるな。そんな腕なら医者を気取るな。そんな怒りで恐れを塗り潰す。
「それでは開帳」
工の字に斬った後、縦の切れ目に指を入れ、腕力で強引に胴体の表面を左右に開く。肉が骨から引き剥がされ、繋がっていた血管が千切れる。そうしてひっくり返った。内側に隠れていた赤々とした裏側が外に出る。同時に血も吹き出た。
「────────ッ」
サクラの視界は激痛で明滅した。
獣如く咆えるその叫びに込められた思いはただ一つ。──楽になりたい。そう望み、ひたすらに「痛い」と泣き叫ぶ。
血が吹き出たのは一瞬。出血はすぐに落ち着き、彼女の内部は男の目に晒された。
恍惚とした吐息を漏らす。
忙しなく蠢く消化器官。小刻みな呼吸を繰り返す肺。不規則に鼓動する心臓。そのどれもが鮮やかなサーモンピンク。男はその美しさに目を奪われ、悦に入る。
彼女もまた激痛の中で天井の鏡に映った自分の中身を目撃する。否応なく目撃してしまう。今の自分はまるで人体模型だった。常人なら死んでいてもおかしくない状態。しかし、強化人間たるこの身体はそれを許さない。なまじ優れた肉体である故にそう簡単に死ねない。──気が狂いそうだった。
「あぁ、いけないいけない。これからだもんなぁ。しっかりしないとぉ」
気味の悪い笑みを浮かべたまま、男は電動ノコギリに持ち替えて、露出した胸骨を切断し、取り外す。それでより一層彼女の中身が鮮明になる。
宝物を目にしたかのように瞳を輝かせるテオバルトに対して、サクラの瞳は光を失う寸前だった。心身共に限界。とても正気ではいられない。狂わぬ為には意識を失う他にない。故に手放す。安堵と共に全てを手放す。彼女の閉じられない瞳は白目を覗かせ、酷使された意識はようやく深淵に落ちていった。
──だが、次の瞬間には浮上した。
「ッ!?」
断絶は刹那の時間だけだった。やっとの思いで手放した意識は再び現実へと引き戻される。痛みによって──ではない。もっと別の。何かの意思による覚醒だった。
「おや。もしかして今、気を失いました? ですが大丈夫。きちんと戻ってこられるように魔法をかけておきましたからね。何度でも気絶してくださって結構! その度、僕の魔法が無意識の底からアナタの意識をサルベーィジ! するのです!」
ご機嫌な様子で男は言った。アナタは死ぬまで楽にはならないのだと無慈悲に告げた。
愕然として呆然として──彼女の何かが決定的に傷付いた。
唯一の希望が潰える。
現実に引き戻された瞳が揺れる。
視界にあるのは暴かれた自身の内部構造。
人間らしい、命の色に染まった──赤。赤。赤。
ひと際大きく心臓が鼓動した。鏡に映った心臓も大きく膨張し、収縮する。あれはやはり自分の心臓なのだと実感する。
「ッ! ッ! ッ! ッ! ッ! ッ! ッ! ッ! ッ! ッ! ッ! ッ!」
心臓の振動がそのまま全身に波及し、呼吸が困難になった。
男に対する怒りなど既にない。あるのは恐怖。終わりのない恐怖。
大きく脈動する心臓が止まらない。それを身体で感じて、視覚でも認識する。身体の内部の出来事が目視できる。その不自然さに頭が痺れる。見てはいけないものだと感じても、この瞳は閉じれない。生き地獄。──私は生きながらに死んでいる。
「さぁて、そろそろ小腹が減ったぞい。ここら一つ、味を試してみよう」
アイスピックを持ち、愉快そうなテオバルトはそれを彼女の目に向ける。
「目は片方あればいいよね。──どーちーらーにーしーよーうーかーなー……、右目にしよう。はい決定」
気まぐれで右目を抉り取る。
眼球を突き刺し、接続された視神経を引き千切ると、宝石を眺めるように光に当てた。涙で濡れた眼球は本物の宝石が如く光を返す。
サクラは苦しみから猿轡を噛み締めた。その顎の力に耐え切れず歯の方が欠け落ちる。更に気絶するも、次の瞬間には魔法によって引き戻された。
視界は半分になる。
さっきまで見えていた半分が真っ暗になる。
残った視界に眼球が差し出された。
「ほら、アナタの右目だよ。とれたてピチピチの新鮮な右目だよ。いやぁ、それにしても綺麗な水色の瞳だねぇ。飴玉みたいだ」
自分の目が自分を見ていた。比喩ではなく、本当に目の前にあった。
──私が私を見つめている。フフ。おかしい。とても可笑しい。笑えるのに笑えない。おかしい。私はおかしい。こんなに可笑しいのに、どうして笑えないのだろう。笑え。笑ってしまえ。心から笑ってしまえばいいんだ。心を守って何になる。保っているのは壊れかけの心だというのに。
「あむっ」
男は抉り取った眼球を口に放り込み、頬張り、噛み砕く。ゼリー状の食感と、所々硬い部位を噛み分けながら、じっくりと味わう。やがて飲み込み、美味しい、と感想を述べた。
テオバルトの異常行動をサクラは見ていなかった。見ていたとしても特に何も思わなかっただろう。
焦点が定まらない彼女の隻眼は虚空を見る。
残された虚ろな目に映るものはない。もう何も見たくないと、その眼は見ながらにして見るもの全てを拒絶した。
そんなサクラを些かつまらなそうに男は見つめた。
「もしもし、しっかりしてくださーい。腹を裂いても死なない検体は久しぶりなんですから、もう少しだけ頑張りましょう。ねっ?」
呼び掛ける。
自分の為にしっかりしろと男は励ます。
彼女はそれに微かな反応を示す。
何かを言いたげに喉を動かし、顎を上下させていた。
「どれどれ。何を言いたいのですかな?」
テオバルトは猿轡を外し、サクラの言葉を引き出す。彼女に言葉はない。あったのは衝動。一瞬の衝動に身を任せて──彼女は自らの舌を突き出し、噛み切ろうとする。だが──
「──おっと。それはいけない」
男の手が閉じかけられた口へと挿入された。
男の指は凄まじい力で噛み付かれ、彼女の歯は骨にまで達する。結果的に一矢報いる事となったが、しかし、その代わりに舌を噛み切るには至らなかった。
「いやあ。油断も隙もないねぇ。あんな弱々しい様子から、こんなやる気を残していたとは」
けれど、それも最後だった。
一縷の望みすら叶わず、なけなしの衝動は無為に終わった。もはや何一つ残ってはいない。指を噛み切ってやろうという復讐心すら沸いてこない。
自殺に失敗した彼女は顎の力を緩め、男の指を解放する。手を引き抜いた男は、彼女の顎を押さえながら猿轡をはめ込もうとして、ふと停止した。
「──……、……………………」
サクラの口が動く。
声を発している。か細く。消え入りそうな声。
男は興味を惹かれ、興奮気味に耳を近付ける。そして聞いた。
「──もう、ころしてください」
涙し、震えた声で呟く。
諦めの言葉。加害者への懇願。情けを望む悲痛な叫び。
凛と澄ました彼女はどこにもいない。ここにいたのは一人の少女。強くなんかない、か弱い女の子だった。
「アあッ──ウッ……! ハァ、ぁぁ、いい」
テオバルトは身をよじり、快楽の吐息を漏らした。
腰を引いて、小刻みに動く。股関は隆起し、歓喜を吐き出す。性的興奮は頂点に達し、男は絶頂を迎えた。
「いい、いいよぉ、とてもいい。最高の表情、最高の言葉、最高の声色。ああ、たまらない。アナタのような気丈な人が、そんな、ああ、アアッ! ……ハァ……こんなのイッてしまうに決まってるじゃないか……」
快感に震える。
弱った彼女。片目から涙を流す彼女。自分に懇願する彼女。自分を頼るような瞳を向ける彼女。恐怖に打ち震える彼女。苦痛に耐えかねた彼女。自らを諦めた彼女。殺される事でしか楽になれない彼女。──その全てが男を刺激した。
「ふぅ……。ええ、わかりました」
テオバルトは頷く。
サクラは楽になれるのだと期待した。
「サクラさん。アナタの気持ちは痛いほどわかりました。────ですがぁ、お楽しみはここからなのです。そんな勿体なマネは出来ません。期待を裏切ってしまい、僕も大変心苦しい。でも、理解してください。全ては僕の為なのです」
落胆──はなかった。その程度の感情ではなかった。これは絶望と呼ぶのだろう。
「さあさあ、いよいよ本番です。これよりアナタの臓器を摘出します。勿論、生命活動に必要な器官は後回しにしますので、どうぞ好きなだけ苦悶なさってください。恨み辛みも随時受け入れましょう。それはアナタに残された当然の権利ですので」
心の奥底から沸き上がってくるのは“無”。悟りの境地とは違う。諦観ともまた違う。該当するのは恐らく空虚。何もかもが心の中から消え失せた感覚。それは津波が来る前の波が一斉に引いていくような一過性の感慨だ。
「うむ。瓶詰めの準備は完了した。──まずはどこからいこう。腎臓? 肝臓? いや、生殖器からというのも悪くない。うーむ、見ただけでわかるよ。アナタの部品はどれも一級品だ。天然物とは規格が違う。故に迷うなぁ。いったいどこから手をつけたものか」
やがて津波がやってくる。
それはきっと心を砕く。壊れかけた心にトドメを刺す。
「よし、決めた。子宮からいこう。せっかくの女性だし、希少部位は新鮮な内に保存しておかねば」
メスの切先が楽しげに踊る。男も同じく楽しげだ。
それを見て──心が砕けた。
無から有へ。引いていった全てが、倍以上になって返ってくる。感情の濁流に飲み込まれる。抗う事など出来はしない。
「──嫌……嫌だ。殺してっ! 早く殺して! お願いだから、殺して! 殺して殺して殺して! もう痛いのは嫌! 苦しいのも嫌! 気持ち悪いっ、気持ち悪い気持ち悪いのっ! もう無理……、無理だから、お願い、楽にして、解放して、私を死なせて……!」
見栄も虚飾も尊厳も、その一切合切を脱ぎ去って、彼女は幼子のように泣き喚く。
感情を隠し続けた鉄仮面は崩れた。隠し続けていた本心も壊れた。春日井咲良を構成していたものが崩壊する。バラバラに砕け散る。彼女は彼女ではなくなる。或いは──それこそが本当の彼女だったのかもしれない。
テオバルトはその悲鳴を心地良く耳にする。しかし、それに対して応える気はない。彼女の慟哭は男にとって音楽。耳触りの良いBGMに他ならない。
そんな男が関心を抱くのは彼女の中身。泣き叫ぶ事で大きく躍動する心肺を見て──「人間が心の底から嘆く時、人体はこんな風に動くのか」──と、ただただ感動だけを募らせた。




