地上の星
村の上空で天族が舞う。
一人は気密を操り、鋭利な刃を連続で投射する。
一人は光の盾をその身に纏い、魔弾を発射する。
風の刃は盾に阻まれ、魔弾は悉く回避された。一進一退。或いは膠着状態。──しかし、このままであれば天秤は魔弾の射手に傾くだろう。
魔弾の射手──リンディ・ベルは相手であるテオバルトよりも優れている。守りは堅牢。機動力でも上回り、攻めの手も同等。一瞬の隙でもあれば、彼女はテオバルトを打倒できた。
その事は戦っている当事者達が最も理解していた。
「……ぬぅ」
テオバルトの首筋を汗が伝う。
サクラを抱えている彼は、両腕は塞がった状態で戦闘している。故に苦戦は目に見えていたが、ここまで押されるとは思っていなかった。自分は優れた天族と自認する彼をして、リンディはその更に上を行っている。認めざるを得ない。この片翼は例え両腕が塞がっていなかったとしても自分より強い。テオバルトはそれを平然と受け入れる。
追い詰められていたが、焦りはない。
強いからと言って、それが勝敗において決定的かと言えばそうではない。強さなど一つの基準。正面から殴り合った場合でのみ勝敗を左右する要素に他ならない。そしてテオバルトが正々堂々戦うタイプかと言えば──否だ。断じて否である。
「仕方がない」
テオバルトは不意に停止する。
抱えていたサクラを前に出し、首元に手刀を突き付けた。彼の手には魔力が帯び、それは刃物が如く煌めいている。
「これ以上、追ってくるのならば彼女を殺害する」
短く告げた。
テオバルトにサクラを殺す気はない。こんな極上の肉体をむざむざ棄てるくらいならば死んだ方がいいとすら思っているが、この場はブラフとして利用する。
リンディも空中に静止し、鋭い視線をテオバルトにぶつけた。
「人質がアタシ達に通用するとでも思ってるの?」
サクラも自分も、死を覚悟して対策室の仕事を行っている。ならば仲間の命を盾にされたからと言って、相手のいいなりになる事などあり得ない。それは自分とサクラの覚悟に対する冒涜。対策室の矜持を傷付ける行為だ。だからこそリンディは毅然とした態度を取る。
その覚悟をテオバルトはせせら笑う。
「だよねぇ。知ってる知ってる。アナタ達は冷徹だ。そういう心構えがある。うーん、実に仕事人。これはもう成す術がないなぁ。あー困った困った。僕はもう──お手上げだよ」
そう言ってテオバルトは降参する。言葉通りに両手をあげて、無抵抗を主張した。──故に当然。抱えられていたサクラは落下する。
「──ッ!」
反射的にリンディの身体が動いた。そこに一切の思考はない。
意識の無いサクラが雲に近い高さで解放された。その結末など考えるまでもなく、彼女は自然と手を伸ばしてしまった。
「どれだけ冷徹に振る舞っていても、いざという時に人の本性が出る。ハハハ、僕のような悪人はホント感心してしまうよ。アナタの本性は善良過ぎる」
悔やんでも遅い。動き出した身体は止まらない。今は一刻も早くサクラを受け止め、一瞬でも早くテオバルトの対処をするしかない。
落下するサクラを追い掛け、リンディは空を駆ける。
その必死な様子を上から眺めながら、テオバルトは自由になった両腕を胸の前に構えた。──途端に腕の間を魔力が走り、黒い稲光が弾け出す。
「侵食。暴虐。凌辱。我が前に倫理はない。あらゆる秘匿は暴かれ、あらゆる尊厳は地に堕ちる──」
黒き詠唱は空に響く。
渦巻くは邪悪な空想。形を成すは破壊のイメージ。泥のような魔力は男の腕の中で育まれ、循環し、今か今かと誕生の時を待つ。
その魔法は『相手を害する』事だけに特化した悪意の塊。触れる者全てを犯す悪逆の法。魔法の神秘は男の本性を具現する。──それがリンディ達へと向けられた。
「──さあ、光を喰らえ。我が悪性」
魔法が放たれる。
渦を巻く黒い螺旋が眼下の女達を侵食しようとなだれ込む。
追い付いたリンディはサクラを受け止めると、直後に襲い掛かるテオバルトの悪意を迎撃する。
「光よ集え──ッ!」
長い詠唱はできない。定型句だけを謳い、一節で展開出来る最大限の障壁を以て受け止めた。
害そうとする神秘と守ろうとする神秘は反発し合い、その質を競い合う。──拮抗は僅かな時間だけだった。
光の壁は黒の侵食を受けて腐敗し始める。
圧力に負けて、受け止めたサクラごとリンディは地上へと叩きつけられた。だが、それでも障壁は砕けない。所々が腐り落ちても、彼女の魔法は最後まで形を保ち続けた。
やがてテオバルトの魔法は霧散する。黒の魔力が晴れ、その中からサクラを守り抜いたリンディが現れる。隙間を抜けてきた悪意の渦により全身がまばらに傷付いてはいたが、空を睨む彼女は未だ健在。ダメージこそあれ、その意思は折れていなかった。
「……タフな女性だねぇ。そのくせ美人ときた。あぁ、たまらない」
下卑た笑みを浮かべながらテオバルトは再度魔法の準備をする。間髪など入れない。
──手に入れられないのは惜しいが、彼女にはここで退場してもらわなければねぇ。
魔力は再び巡り、男の悪性が形を成す。それを彼女は睨んでいた。
「調子に乗って……。ハンデがあったのはそっちだけじゃないってのよ」
迎え撃つリンディは悪態を吐いて、左手を空に掲げる。
テオバルトはサクラを抱えていた為、両腕を使えずに苦戦を強いられた。しかし、それはリンディとて同じ事。サクラを抱えている相手に、彼女を巻き込んでしまうような大技など使えない。故に操作の容易な魔弾のみで対応していたのだ。
その縛りも今はない。細かい事を考えず上空にいる敵だけを倒せばいい。
──いいわ。派手な魔法の撃ち合いは望むところよ。
魔力炉を過熱させる。
取り急ぎ魔力を生成し、その全てを左手に注ぐ。足元に魔法陣が広がり、続いて左手の先にも三重の魔法陣が描かれる。三層の魔法陣はそれぞれに回転すると、架空の稲光を放ちながら注がれた魔力を加速させた。
「光よ集え。地上の星はここに瞬く。星光一閃。天まで届け──」
それを見て息を飲んだのは他ならぬテオバルト。攻めの手は同等と判断していたが、それは間違いであったと気付く。アレが完全な状態で放たれれば、己が悪性すら飲み込まれる。彼女の魔法はそれだけの神秘を有すると直感する。
急ぎ魔法を形にすると、テオバルトはすぐに吐き出した。
彼の悪性は先程と同等の規模でリンディへと降り掛かる。発射準備に入っている彼女に避ける術はない。──否、避ける必要はなかった。
「──真昼に輝く一番星!」
魔法の名を告げる。
開いていた手のひらを握り締め、リンディは拳を作った。それが引き鉄。撃鉄が落ち、魔法陣が作動する。起爆剤によって増幅された魔力はリンディを通って、三層の魔法陣という銃口から放出された。
その魔法は星の模造。目視出来ないほど極小規模の星を空想し、内包された熱量の指向性を定めて、真っ直ぐに撃ち放つ。言わば星を弾丸したビーム砲だった。
テオバルトの魔法が目前に迫った状態で放たれた星の極光は黒泥を一瞬で焼き払い、その先にいるテオバルトまで到達する。予め回避する用意をしていた男は射線より退避し、直撃を避けた。だがしかし、回避したにも拘らず上着は融解し、大きく広げられた右翼は焼かれた。避け切れなかった余波でそれだけのダメージを受けた事に、テオバルトの顔が苦痛に歪む。
「くぅっ、おおお!」
翼に被害を受け、体勢を崩したテオバルトはきりもみ回転しながら空より落下する。成層圏まで届いたリンディの魔法は余波だけでテオバルトを墜落させるに至った。
辛うじて減速する事に成功した男は、家の屋根にぶつかりながらも、地上へと生還を果たした。そして大通りに転がり、息絶え絶えに空を仰ぐ。
「よもや……よもや……ここまで、とは」
焼かれた翼を震わせて、テオバルトはリンディを見る。既に近くまで来ていた。五メートルほどの距離。とても逃げ切れる間合いではない。
「諦めなさい。これで詰みよ」
リンディが詠唱を囁き、テオバルトの首に光輪がかけられる。魔封じの魔法。これによってあらゆる魔法の行使を封じられた。
「恐れ入ったよ。僕もなかなかの実力を持っていると自負していたのだがねぇ。上には上がいるものだ。しかも、それが片翼の天族なんて……感嘆するしかない」
立て膝をついて、がっくりとうなだれる。観念したようにテオバルトは嘆息を吐いた。
「なら両手をあげて、頭の後ろで組みなさい」
「ああ……、わかったよ」
後ろに隠していた手をあげて、テオバルトは──“銃”を構えた。それを認識した瞬間、リンディの腹部に鈍い痛みと焼けるような熱さが走る。更にもう一度同じような痛みが大腿部を襲った。
「──あっ、かは」
唐突な激痛に堪え切れず膝を着く。対してテオバルトはこの時を待っていたかとばかりに駆け出し、勢いを乗せてリンディの顎を全力で蹴り抜いた。
声にならない声を漏らして彼女はひっくり返る。仰向けになり、テオバルトを霞む視界で見上げた。形勢は刹那で逆転。何が起こったのか、その理解が及んだ頃には彼女は敗北していた。
「念の為に彼女から武器を没収しておいたのが、こんなところで役立つなんてねぇ。ハハハ。魔法勝負ならアナタの圧勝だったろうに。だけどこの場合、銃を持っていた彼女が悪いよ。僕は悪くない」
サクラの拳銃を投げ捨てながら笑う。
腹部と太股に一発ずつ。加えて顎を蹴り、脳を揺さぶった。リンディの意識レベルは低下している。魔法は奇跡を思い描く意識があって初めて機能する。朦朧とした意識の彼女はもはや脅威ではない。その証拠に、男にかけられた魔封じの魔法は解除されていた。
「油断大敵。魔法を封じたからと魔法障壁を怠ったのがアナタの敗因だねぇ」
リンディの赤い頭髪を鷲掴みにして起き上がらせる。
痛みで小さく声を零すが、その目の焦点は合っていない。
無抵抗となった彼女を見て、テオバルトは邪悪な笑みを浮かべた。
「フフッ、フフフッ。どの程度の痛みで意識が戻るか試してみよう」
ここで男の悪癖が露呈する。
この時の男に保身はなかった。時間を浪費すれば応援が来るかもしれない、とか。意識が戻ったら反撃されるかもしれない、とか。そんな事は一切考慮せず、ただ自身の好奇心と加虐心を満たす為だけに実験を開始する。
指先に魔力を通し、強化した後に太股の銃創へと突き刺す。リンディの身体はビクンと揺れたが、意識が覚醒する事はなかった。
傷口をまさぐって、ほじくって、内部で撃ち込んだ弾丸を見つける。それを強引に引き抜くと、彼女は苦悶を漏らした。
「あぐっ……! ううっ……!」
瞳に僅かな光が戻る。
その経過を見て、よしよし、と男は満足そうに頷く。
太股から取り除いた弾丸を捨てると、続いて腹部に指を突き立てる──だが、思い留まる。ふと留意する事を忘れていた男はポケットからハンカチを取り出して、リンディの口に押し込んだ。それから鎖の形をした拘束魔法で彼女を地面に固定する。
「舌を噛んで死んでもらっては困るからねぇ。うんうん」
そして今度こそ腹部の銃創から手を中に突っ込んだ。
肉を裂き、泳ぐように入り込んだ男の手は心臓の鼓動と連動する彼女の体内を感じ入る。その気持ちよさにうっとりした。
「──ンンーーーッ!!」
途端に彼女の眼が見開かれ、身体はガクガクと震える。想像だにしない激痛と嫌悪感に彼女は完全に意識を取り戻した。
「あ、目が覚めたかい? ……なるほど。身体の中に手を入れれば意識は戻る、と」
勉強になったなぁ──とテオバルトは頷く。しかし、それで満足せずに突っ込んだ手で彼女の内臓を弄ぶ。臓物を指先でつつき、つまみ、撫でる。愛おしそうに、男は彼女の中身を愛撫した。
「わかるかな? これが小腸。そしてこれが大腸。アナタのような美しい人でも、この中には汚物が詰まっているんだよぉ?」
「ンンーーーッ!! フゥッ、ンンーッ!! ンンッ、ンンッ!!」
自分の中で何かが蠢く痛みと気持ち悪さに、リンディは狂ったように声を荒げる。涙はとめどなく溢れ、傷口からは血液が零れる。だが拘束魔法によって抵抗は出来ない。魔法も乱れた精神では奇跡を宿さない。今の彼女にはなぶられるだけしか出来ない。
身体に手を入れられる苦痛。内臓を弄られる苦悶。それを同時に味わう彼女の心境は極めて複雑。だが表現は容易かった。──『最悪』。この一言に尽きる。
やがて限界が来た。
肉体が意識を遮断する。これ以上は肉体より先に心が死ぬと、人体の防衛機構が働いた。
瞳はぐるんと白目を剥き、糸の切れた人形のように彼女は脱力する。一切の反応がなくなり、同時にテオバルトの興味も薄れた。
「……ふむ、こんなところか」
腹から手を引き抜き、血を払う。
支えていた手を放すと、リンディは前のめりに倒れ、数回痙攣して動かなくなった。
「アナタも持ち帰りたいけれど、焼けてしまった翼で二人も抱えていくのは難しいなぁ。多くを求めては一つも得られないとも言うし、仕方がないので諦めよう。天族の人体は地球に来る前に散々弄くりたおした事だしね」
意識が途絶した彼女に語り掛けて、テオバルトは踵を返す。男は転がっていたサクラを回収すると、有意義だった時間を思い返しながら村より脱出した。




