悪性隠者
場所は島国イギリスのウェールズ。
山々に囲まれた、とある片田舎の村があった。
山地特有の澄んだ空気に、豊かな自然が広がる大地。人の喧騒とは遠く離れた“昔ながら”が残る場所。環境は牧畜に適しており、村はそれによって生計を立てている。
村民の数はおよそ二百人の小さな集落。他の集合体との関わりは薄く、ほとんどが自給自足で賄われる。この村に訪れるのは半年に一度の行商人か、極稀に田舎好きな旅行者が来る程度。そういう伝統的な──そして閉鎖的な集落である。
そんな村を一人の男が歩いていた。
その様相は細く、長い。身につける白衣によって多少誤魔化されてはいるが、男の体は骨と皮しかないようなほどに薄い。容貌は一般的な英国人。鼻は高く、肌は白い。但し目は切れ長で細かった。昆虫に例えるならばカマキリ。鼻にかける丸い黒ぶち眼鏡と、細長い身体が、より一層昆虫らしい印象を放っている。
男は白衣をはためかせながら鼻歌混じりに夕日の中を歩く。
「おや、先生。お散歩ですか?」
先生と呼ばれた男は、声をかけてきた村人に笑顔で頷き、先を進む。
白衣の男は村医者だった。
村唯一の医学者であるが故に、その信頼は厚く、村人達からは“先生”と尊ばれる。
──なかなかどうして悪い気はしない。
機嫌良く散歩し、男は一軒家の前で止まった。扉を叩き、返事を待たずに中に入る。
「こんばんは」
「えっ──ああ、先生でしたか。いきなり入ってこないでくださいよ」
家の中には一組の家族がいた。夫婦と子供が一人。三人家族だ。その三人ともが男の登場に驚いている。
「いやいや、すみません。そろそろ娘さんは十歳になるでしょう? そのお祝いに参ったのです」
「は、はあ。それはわざわざありがとうございます」
父親は戸惑いつつも感謝を述べた。けれど男は父親になど目もくれず、奥の椅子に座っている娘を凝視する。
「ささ。娘さんをよく見せてください」
娘を見たまま、父親に催促する。奇妙な雰囲気に父親は迷ったが、医者である男にはこれまで幾度となく助けられている事を思い、奥にいる妻へと目配せで合図を送った。
母親が娘を連れて玄関までやってくる。娘が近付くにつれて男の鼻息は荒くなった。
「これはこれは。とても可愛らしく育ちましたねぇ。とても利発そうだ」
「ええ、優しく穏やかな自慢の娘です。ねっ、あなた」
「ああ。どこに出しても恥ずかしくないくらいですよ」
娘を褒められ、気を良くした夫婦は笑顔で語る。娘は照れるように頬を掻いた。
「──それではこの子は僕が頂いていきますね」
唐突に。
男が言った。
嬉しそうな笑顔を浮かべ、何一つおかしな事を言っていない様子で──男は告げた。
夫婦は最初冗談だと思った。或いは言い間違えたのだと思った。だから、それを笑い飛ばそうと笑みを作って──固まった。
男の眼を見て、思考が固まる。ある一定の形に凝固する。
この男は冗談を言っていない。断じて言い間違えてもいない。──それに気付いた所でもう遅い。
「この子は頂きます。よろしいですね?」
「はい、どうぞ」
父親の口が動く。正しい意思に寄るものではない。変形し、固まった思考がそうさせた。
訳がわからず混乱する娘は、男の腕に抱かれた瞬間、気を失う。その寸前に目尻から零れ、頬を伝う娘の涙を男は舐め取り、恍惚の表情を浮かべた。
「失礼します。アナタ達はこれからも“普段通り”の生活をしてください。……ああ、子供も作っておいてくださいね」
それだけを言い残し、娘を抱えた男は夫婦に背を向ける。
──待て! 待ってくれ!
父親の意識は叫ぶ。だが、それが声として出力される事はない。
意識は凄まじい勢いで侵食され、やがて娘の事を忘却する。正常な思考が途切れる間際──夫婦は男の背に純白の翼があるのを目撃した。
それが最後。次にやってきたのは断絶。確かな終わり。この瞬間、二人は別の人間に変質した。
家を後にした男は慈しみを込めて娘を抱き、夕暮れの村を闊歩する。背には翼が出現している。明らかに普通ではない男だったが、他の村人が気にする様子はなかった。
そもそもとして娘を抱く男を認識できていない。
認識阻害。有翼人の男は魔の法を行使し、村人達の脳を欺く。村人達の視点において、今の男は翼もなければ、娘も抱えていない。日常的に目にした散歩に興じる医者先生でしかない。
堂々と村を歩き、野に出る。男はそのまま山林に向かった。
その後を一人の影が追う。
影に姿はない。光を屈折させる不可視の魔術によって、その人物は透明となっている。
追跡する影は近界漂着物管理局、英国支部の調査員。強化人間──リチャード・オルコット。彼はこの村に突如として国籍不明の男が現れたという情報を得て、それを調査する為にやってきていた。そして、その尻尾を掴んだのだった。
──天族の誘拐犯か。このまま奴のアジトを発見してやろう。
誘拐に手慣れている事から、これが初犯ではなく、常習的に行われていると推察できる。ならば、さらった人を監禁し、何かしらの行為に及ぶにはそれ相応の場所が必要となるはずだ。リチャードは山林の中にその為のアジトがあるのだと睨んでいる。ここ数日の調査の中で、男は定期的にこの山林へと出向き、姿を消していたからだ。
男は更に山林の奥に進む。リチャードも音を立てないよう、細心の注意を払い、追跡した。
二十分程度経過した所で男は立ち止まった。周囲を見回し、地面を足で蹴る。蹴った地面は振動と共に起き上がり、人一人が入れるほどの地下への入り口が開いた。
──やった。
リチャードは内心でガッツポーズをする。
アジトの位置は確認した。対象は完全に悪党。これ以上の深追いは危険だ。この情報を持ちかえり、本部へ対策室の出動を要請する。それが調査員たる自分の役目だと、彼は引き際を見極める。
息を殺し、一歩後退した時──不意に風が吹いた。木々が揺れ、葉が落ちる。落ちた葉はリチャードの身体に当たり、不自然な軌道をしながら地に着く。
「──おや?」
その声が耳に届いた瞬間、足の感覚が消失した。
リチャードの視点はまるで落とし穴にでも落ちたかのように突然低くなり、気付けば背中から地面に転んでいた。
「ぁ……っ」
漏れそうになった声を噛み殺し、自らの足を見る。膝から下が何か鋭利なものに切り落とされ、両足を欠損していた。断面からは血液が溢れ、肉体から離れた物は不可視の魔術の効果を失い、その姿を現す。
姿を見せたリチャードの両足と出血を目撃した男は不気味に笑った。
「先日からネズミが一匹嗅ぎ回っていると結界で察知していましたが、見付からなかったのは、なるほどなるほど、そういうわけか」
男は歩み寄りながら、感心したように何度も頷く。
発見され、逃走する術を失ったリチャードは、対処を変更すべく不可視の魔術を解除した。
「わ、私は近界漂着物管理局という組織の者だ。貴方のようなこの世界に迷い込んでしまった異世界人を保護する──」
「──いやいや、挨拶は結構。管理局の事は存じていますとも。僕は地球に来て、かれこれ十年ほど経ちますからねぇ」
「な……!」
「その勧告も何度も耳にしました。そして受け入れた事はありません。保護などされては、僕の探究心を満たせなくなってしまいますからねぇ」
対処を交渉に切り替えた途端、それは挫けた。
相手は自身の立場を自覚し、尚且つ管理局の存在をも知っている。理解した上で犯行を起こした。ならば交渉など成立する訳もない。
──コイツは悪性だ。保護するような奴じゃない。
管理局は漂着物が悪行を働いた悪党だとしても保護し、可能であれば更生させ、不可能であれば収監もしくは処断する。しかし、その過程を省いて処断すべき者もいる。この男のような者がそれだ。
世界の形を理解しながら、それでも管理局に迎合せず、平穏な暮らしを望まぬ者。己が欲望の為、世界に潜む者。それらを管理局は悪性隠者と呼称する。
リチャードは懐から拳銃を抜き出す──が、瞬時に腕が切断された。
「がぁっ」
それは風の刃。両足を欠損させたのも、男が魔法により生み出したかまいたちだった。切れ味は良好。強化人間の肉体程度、軽々と切り刻む。
男にとってリチャードを殺すのは容易い。だが、そうはしなかった。
「ほむ。これ以上は鮮度を損なう……か」
男は少女を抱えたまま、魔法で炎を生じさせ、リチャードの腕と足の切断面を焼く事で止血と消毒をする。その間、リチャードは絶叫をあげたが、村から離れている山林に彼の悲鳴を聞く者は誰もいなかった。
出血が止まったリチャードを男は魔法で浮遊させ、自分の後を追従させる。リチャードに反抗する余力はなく、なされるがままに地下へと連行されていく。だが、それでも口を動かした。
「貴様……、これまで何度も勧告を受けたと言ったな。その、勧告をした者達をどうした」
管理局側にこの男の情報はない。つまり、男に接触したスタッフはその報告を出来なかったという事。予想は容易かったが、リチャードは問い掛けずにはいられなかった。
「え? ああ、流石に古くなったので捨ててしまいました」
それがどうかしたんですか──と男は首を傾げた。
ぞわりと総毛立つ。
予想と違う。てっきり殺されたのだと思っていたが、男は殺したとは言わなかった。古くなったから捨てた。それはまるで食材に対する返答だった。
「わ……私をどうするつもりだ」
声が震える。予想を超えた想像をして身体の奥が震えだす。
男は振り向いて微笑む。
美味しそうな料理を目の前にしたかのように。
結局、男は問いには答えなかった。けれどリチャードは自らの末路を予見した。




