最新の竜殺し
時間にして六時間。空が暮れ、橙の斜陽が差す中、戦いは未だ終わらなかった。
崩壊した城はもはや原型を想像する余地すらないほど破壊し尽くされ、ただの瓦礫と成り下がる。対して風景は広がった。上を見れば日は近く、下を見れば雲海が敷かれている。竜の城は雲より高い位置にある山肌に建築されていた。
天上とも呼べる場所で人と竜は力を競う。
響くのは剣戟の音。そして竜の咆哮。それはまるで音楽のようだった。
歌う。彼等は戦いの歌を刻む。永遠にも似た時間。ただただ相手の命を刈り取る為に。
男の鎧は砕けた。しかし、籠手にはまだ耐火の加護が残されている。身体は守られないが、どうでもいい。武器を握る腕だけあればいい。竜を殺す手段だけがあればいい。それだけあればいい。
竜の瞳は潰れた。けれど、片方だけだ。致命傷にはなり得ない。死角は生まれるが構わない。この地の全てを焼き払えば良いだけだ。潰れた片目に突き立った男の剣。それを墓標にしてやろう。
赤が飛び散る。血の赤が。炎の赤が。日の赤が。その光景はどこまでも赤い。
斧が折れる。翼が折れる。腕が折れる。足が折れる。骨が折れる。だが心は折れない。互いに根幹だけは折れない。
それでも終わりはやってくる。唐突に。尽きる時はやってくる。その前に自分を燃やし尽くした者が勝つ。そしてそれは男の方だった。
剣を執る。巨大で重厚。切れ味など関係なく、その重量だけで命を奪う凶器。およそ人が扱える規模の代物ではない一振りを持ち直し、切先を向け、投げ槍のように、竜の心臓目掛けて、男はそれを投擲する。
空気を切り裂き、音すら置き去りにして、ただの質量と化した鉄塊が飛ぶ。
竜は察知した。その一投を察知し、自らの死を感知した。翼を失った竜にそれを避ける術はなく、また受ければ死ぬ一撃だと、竜の瞳は一瞬先の未来を視る。
そうして突き刺さる。竜の胸。寸分違わず心臓の位置に突き刺さった。だが届かない。刃は竜鱗と筋肉に阻まれ、心臓の寸前で停止する。けれど竜に安堵はない。次の光景は既に視ているのだから。
男がそこにいた。剣を追走し、剣の着弾と同時に、槍を傷口にねじ込む。剣の柄を掴み、両手の凶器を左右に広げ、竜の胸部を切開する。竜が悲鳴を上げる。血が噴き出す。燃える血液が男を焼く。自分の肉が焼ける臭いを嗅ぎながら、男はマグマが如き竜の体内に両手を突っ込んだ。
探る。時間はない。探り当てる。長くは続かない。掴む。籠手は既にない。掴み取る。両手は泥のように溶け落ちていく。
「果てろ、竜よ!」
男は竜の心臓を引き抜く。繋がっていた血管を引き千切り、世界最高の魔力炉を露出させた。血液は濁流のように溢れ出る。心臓より零れるは竜の命。その源泉。この世で最も熱い血潮の波。心臓を掲げた男はそれを全身に浴びた。
絶叫。人と竜は互いに絶叫する。
男は溶解していく痛みによって。竜は流出していく力によって。苦しみ、悶える。
男の全身が溶ける。漆黒の髪、灰色の瞳は瞬く間に燃え去り、端正な容貌は崩れ、肉は蒸発し、骨格に至るまで竜の血は浸透する。苦しみは一瞬のはずであったが、男には一日よりも長く感じられた。そして男は死ぬ。骨が溶けるよりも先に生命活動が停止する。死んだ。間違いなく死亡した。
故にそれは再誕だった。
命が燃え尽きた瞬間、溶解は反転する。男の体を溶かしたマグマは転じて男の形を創り出す。人の身体と竜の心臓。溶けて混ざったモノが再び成形されていく。骨という骨、肉という肉が死してから蘇る。不条理。生命のルールを無視した反則であり冒涜。竜の神秘はそれを為す。
男は生まれた。再びこの地に誕生した。
自分に起こった事がわからず、当惑する男は竜を見上げる。心臓を引き抜かれ、首を垂れる竜は、しかし、まだ生きていた。
「なぜ俺を生かした」
「……私が望んだ事ではない。竜を殺し、その血を受けた者は竜の力を得る。そういう風に出来ているというだけである」
かつての竜殺し達がそうであったように貴様もそうなのだと、竜は言う。言った途端、竜の片腕が崩れ落ちた。折れた翼は風に乗って風化していく。炉心を無くした竜はその強靭な体を維持できずに自壊を始めた。
「最後に名を聞こう。最新の竜殺し。不撓不屈の戦士よ」
「俺の名はブルーノ。木こりを生業にする下賤な身故、姓はない」
男──ブルーノは答える。返答を聞いて竜は片方しかない瞳を丸くした。
「よもや私を殺し得たのが騎士の生まれですらない樵夫とは。……よい。人の底力見せてもらった。特に許す」
己を殺した男の正体を知り、自らの死に納得した竜は残された瞳を閉じる。肉体の崩壊は勢いを増していく。
「竜の女王。神に連なる一柱。華麗なる珊瑚竜、コーラルよ。貴方は人を憎んでいるか?」
「否。私はこの世界を愛する者。我が博愛は貴様達にも及ぶ。だが博愛であればこそ、私は全を生かそうとしたまでの事である。そこに怨嗟など産まれぬよ」
「そうか。しかし、謝罪や感謝はしないぞ」
「よい。その身勝手こそ人であり、この傲慢こそ竜である。……ではな、人よ。我が祝福。手前勝手に使うがよい」
竜は砕け、灰になる。燃え尽きた白い灰にほどけ、それを風がさらっていった。
その時点で彼の旅は終わった。
全てをやり終え、自らは生還し、『竜殺し』の称号すら得た。
最上の結末。人の側からすれば間違いなく最上と言える結末だった。
生まれたままの姿の彼は沈みゆく太陽と共に、竜の亡骸をしばらく見つめ続ける。それがせめてもの礼節であるかのように、その終わりを傍観した。
──異変が起きたのは突然だった。
日は沈み、夜が始まるはずだった。空には星が瞬き、月がきらめくはずだった。彼は英雄として大衆に迎えられ、地位と名誉を与えられるはずだった。そのはずだった。
だがしかし、夜は白に変わる。星は消え失せ、月は巨大な眼に置き換わる。英雄は蛇に睨まれた蛙のように硬直し、その顔は恐怖に侵食される。理解など瞬時に放棄した。
「……ぁ……ぁぁ」
夜の帳は白い空に飲み込まれ、視界の全てが白に染まる。これは光ではない。色を塗り替えられた。世界の色彩が上書きされた。彼自身の色さえ白く染まり、黒の輪郭だけが彼の存在を保持している。
その中で唯一色を持つモノがあった。
空に浮かぶ月。いや、月であったモノ。巨大な眼だけが独自の色を持っている。青と緑と白を内包した眼。その眼は人の目に近く、獣の目に酷似し、竜の瞳とはかけ離れていた。
ただ一つわかるのは、あの眼は竜すらも凌駕する存在だという事だけ。
それが彼を見ていた。無意識に彼もそれを見上げていた。けれど目が合うという感覚はない。視線は交わっているようで、決定的にズレている。一方的に観測され、物色されている。そんな所感を抱く。
風を感じた。否、風など一切吹いていない。引力。引き寄せられる力。それが風と錯覚させた。
身体が浮く。抗えない。硬直した体はあらゆる命令を受け付けない。なされるがまま彼は眼に吸い寄せられる。
彼だけではない。大気という大気。風化した竜の遺体。崩れた城の装飾の一部。僅かに生える草木。地中にいた小動物までも吸い上げられる。けれど、この場の全てではなかった。枯木。城壁。単なる石ころなどは浮かび上がらない。選んでいる。あの眼は選んでいるのだ。分類し、分別し、その上で自らの下に引き寄せている。彼は理解を放棄したが、彼の身体を廻る竜の血は──竜の知識はそれを記録する。
──断絶もまた突然だった。
世界を支配する白を、眼が発する黒が塗り潰す。
黒く。真っ黒に。輪郭すら飲み込む暗黒が世界を覆った。引力は止む。続いて来るのは浮遊感。自分の存在も確かめられない闇の中で僅かな時間を過ごす。意識だけが浮いている。体も存在もあやふやなのに意識だけが稼働している。気が狂う。そもそも狂う自我すら失いかける。本能が電源を落とせと訴える。正しい。それはきっと正しい。
意識を中断しようとした時、落下し始めた。浮遊感は消え、落ちていく感覚を味わう。徐々に加速する。落下しているのだから当然。けれど限度がない。落ちる速度に限度がない。加速が止まらない。音を超える。光を超える。それでも尚止まらない。激突は予期出来ない。風景は変わらず暗黒だ。次の瞬間には地面に落ち、体が弾けているかもしれない。想像して、想像した事を忘却した。
「……終われ。意識、終われ。続くな、もう……続くな」
自分自身に訴える。自己の消失を願う。やがて彼の意識も深淵に落ちていった。




