旅の終着点
竜と人の世界──カゲート。ここに共生はあれど共栄はない。
竜とは自然の具現。意思持つ嵐は暴威を以て星の運営を司る絶対強者。人とは生命の体現。自然を恐れ、崇め、憎み、尊び、結局として我欲を優先する世界の開拓者。両者は星を支配する存在ではあるが、その序列は常に定められている。世界を見渡せる竜こそが上位者であり、矮小な視野しか持たぬ人は管理される存在だ。それこそが秩序。それこそが摂理である。
だからこそ竜殺しは禁忌とされ、だからこそ竜殺しは英雄視される。
人の身で上位者を殺め、秩序を乱し、摂理を否定する。自然を征する事こそ人の究極。この世界において、そのような究極は既に何人も生まれている。そして今、その系譜に名を連ねようとする者がいた。
その男は白銀の甲冑を纏い、腰に長剣を携え、左右の手には槍と斧。加えて背にもう一振りの剣を携行する。それらの武装は腰に差す長剣がまるでナイフであるかのように巨大で重厚だった。頭部全てを覆う兜によって表情は見えないが、男は平然とした様子で歩行を続ける。一歩進む度に足元の石畳が軋みを上げた。それほど過度な重武装。しかし、それは決して過剰ではない。
男が進むは竜の城。人が竜の為に築いた神殿。今や死人の血で穢れた魔城。その最奥に邪竜は存在し、男はそれを殺す者としてこの場に存在した。故に過剰などあるはずもない。竜を殺すには屈強な兵士が万あっても不足。歴戦の戦士が千あっても敗れ、百の勇者が束になってようやく戦いと呼べるものになる。元より竜とは国全体で対する存在であって、個人がどれほど武装をしようとそれが足り得る事はない。だが男は行く。竜の為に設計されたあまりに広大な城内を恐れなど知らぬ足取りで進んでいく。
やがて男は最奥の間、その扉の前へと辿り着いた。
立ち塞がる城壁のような扉を蹴り破り、一切の躊躇もなく男は竜の前に姿を晒す。奇襲などはしない。そもそもとして策などない。強者に対して、愚かしいほど正面から男は挑む。
灯りのない城主の部屋はほの暗く、けれど暗黒ではなかった。最奥の間の最奥。玉座が如き寝台には赤い竜が横たわっている。瞳を閉じ、規則正しい寝息を零すその竜の表面は淡い光を発する。透き通る赤い竜鱗の下には更に赤い血液が廻っていた。それが光を放つ。溶岩のような熱と光。闇の中にあっても、その輝きが竜を隠す事はない。
露わになった竜の身体には数多の剣や槍──武器の類いが突き立っている。しかし、その全てが堅牢な竜鱗に阻まれ、中途で止まり、肉を裂くに至っていない。そんな竜の様相はこれまで挑んできた戦士の末路を雄弁に語っていた。
ゆっくりと竜が瞳を開ける。身体の赤に負けぬ輝きを放つ金の瞳が男を射抜いた。魔力持つ竜の瞳は見る者全てに恐怖を発症させる。常人ならば恐怖の末に発狂する瞳を受けて男は意にも介さない。それを見て竜は身体を起き上げる。
「──汝、対峙する資格あり」
竜は短く言葉を発する。それを待っていた男は竜に問う。
「竜よ、なぜ人を殺す。神としてこの城に祀られるほどの竜がなぜ邪竜に堕ちた」
「私を邪竜と呼ぶか……。それは人の観点故の見解だ。私は人を殺し、これからも殺し続けるが、それは無意味ではない。依然として私は正しい竜のままである」
「では意味とはなんだ」
「人は増え過ぎた。世界を食い潰すほどの勢いで増殖し、開拓し続けた。人の欲望に果てがない以上、このままでは星の寿命が更に縮む。故に間引くと決めた」
竜は答える。人を殺害する理由を返答する。世界を長く続ける為に人を減らすと、そう言った。利益目的ではない。快楽目的でもない。世界の運営、星の運行。それを担える力を持つが故に竜は竜としての役割を全うする。
男はそれを正当だと思った。その思考。その決断。その行動。鮮やかなほど一本の正しさが通っている。
「しかし、俺は人の死を見た。涙を見た。多くの悲しみ。多くの怒りを目にしてきた。そして多くを託された。この武具もその一つ。力を持たない者達が、力に恵まれた俺に託した怒りと憎しみの形だ。……俺自身、貴方に恨みはないが、託された以上、俺は皆の切望を果たさなければならない」
そう言う男の目に憎しみはない。
男はただ求められただけだ。人より丈夫な体と優れた筋肉を持ち、戦士としての資質を他者より遥かに有していた。だから託された。願いと祈りと感謝と武具を与えられ、男は誰かの希望となった。
大衆に希望を押し付けられたという自覚はある。出来る事なら誰かの怨恨など背負いたくはなかった。けれど、いつか見た誰かの涙はあまりにも痛々しく、見ていて辛いものだった。その時の義憤を覚えている。アレは『よくない』ものだった。それが動機。男を突き動かしたのはそんな他愛無い衝動だ。
一年の旅を経て、竜の眼前に辿り着いた今であっても、それが変わる事はない。
「竜よ。貴方が邪竜でなくとも、これからも誰かを泣かせるのなら、俺は人の側に立つ者として貴方を殺すぞ」
「よい。死に抗うは生物として当然の反応。唯一不変にして正当な行いである。──なれば私も貴様を殺そう」
竜もまた生物。死という結末は変わらない。故に死に抗う。男という外敵を排除する。男もまた竜という自然を征する。両者にあるのは単純な動機。他者を殺して自分を──誰かを生かす。ただそれだけの殺し合い。
互いに沈黙し、静寂が一秒間だけこの場に満ちた。
その一秒が終わった時、男は駆け出す。踏み出す足は重さのあまりに床を割る。しかし、男の動作は軽業のそれだ。身軽に。ひたすら身軽に床を蹴る。両者の距離は瞬く間に消え去り、男は竜を間合いに捉えた。力強い踏み込みの後、男は竜の頭部へと飛び掛かる。それと同時に竜は口より炎の息吹を吐き出した。
石をも溶かす竜の炎は容赦なく宙空に浮かぶ男を包み込む。だが、男の勢いの方が勝った。灼熱より脱し、抜け出した先に竜の眉間を見つける。間髪入れずに、その一点へと右手の槍を突き放った。男が持つ武具は竜を殺す為に人の知識と技術の粋を結集させた最新にして最高の一品。それによって放たれた一撃は竜の鱗を貫き、多くの戦士たちが届かなかった竜の肉を抉り取る。それは確かに偉業だったが、人間に例えれば針に刺された程度の些事。巨躯の竜は一切気に留めず、首を引いて槍を抜くと、人間など容易く収まるほどの巨大な顎で男を噛み砕かんとした。
上下から男を襲う鋭利な牙は槍と斧によって防がれる。斧を足場にし下の牙を防ぎ、槍で上の牙を押さえ、男は強靭な竜の顎に拮抗する。この時、初めて男の口から苦悶が漏れた。
「恐るべき膂力なり」
称賛の言葉を送りながら、牙を押さえられている竜はそのまま炎の息吹を吐き出す。男は当然回避できずに炎を浴び、その勢いに押されて彼方へと吹き飛んだ。壁に激突し、床に落ちるも、男はすぐさま立ち上がり竜へと駆け出す。
男の思考に停滞や後退はない。
死ぬまで。そう、どちらかが死ぬまで止まる事はない。
獣の如き咆哮と共に、男は自身よりも大きな戦斧を鞭のようにしならせ、竜の肩口へと叩き込む。竜鱗は砕け、刃は深く肉に入り込む。竜も咆えた。斬られた右肩とは逆の足を振るい、男を叩き落す。受け身も許されず石の床に落下した男の体は跳ね上がり、続く竜の尾による薙ぎ払いの直撃を受けた。
部屋の装飾から柱に至るまで、竜の周囲にある物全てが一撃で破壊される。圧倒的な暴力。意思持つ嵐こそ竜の別称。その片鱗たる一閃だった。
崩壊する。竜の一撃に耐え切れなかった魔城が瓦解する。壁という壁が崩れ、天井という天井が落ちた。かつて人の信仰を集めた竜の宮殿は、その竜の手によって終末を迎える。やがて空が見えた。ほの暗かった最奥の間を、果て無き蒼穹が照らす。竜の身体もまた日に当てられ、赤く輝く神々しいまでの姿を太陽が彩った。
その光景の中、砂煙より男は現れる。ひび割れた鎧を晒しながら、未だ竜の肩口に刺さったままの斧へと手を伸ばし、掴み取り、渾身の力で逆袈裟に傷を斬り広げた。竜は絶叫をあげ、裂かれた胸から燃えるような血液を零す。同時に竜の瞳が鈍く光る。胴体の倍以上ある翼を展開し、その羽ばたきによって生じる風圧で男の追撃を抑え込んだ。
そこでようやく男は一息を吐く。身体が求めていた酸素を得て、次の一手を導き出す。竜も自身が受けた傷を以て、眼前の人間が凡庸な勇者でないのを認識し、全力を行使する事を思案する。その間、僅か一秒半。短過ぎる休息の後、人と竜は殺し合いを再開した。




