ある休日の出来事
「パパー!起きてるんでしょ。今日は何処かに連れて行ってよっ」
ママの声が聞こえる。
いつも頑張っているママには悪いがゴメンです。久しぶりの休み、今日はゴロゴロして過ごしたいのだ。
まぁ、そろそろ仮面ライダーが終わる時間だからどうせそろそろ来るんだろうけど。
「パパー!仮面ライダーごっこしよう!」
三歳の長男の声が聞こえる。その後ろに付いてきているのだろう。一歳の次男のキャハキャハいう声も聞こえる。面倒くさいなぁ。まぁ、寝たふりでもしとこう。俺は布団をぐっと頭の上まで引き上げた。
いつものオモチャの剣ならこれで防御力は万全だろう。所詮は三歳児だ。
トタトタトタ
来た来た。
「パパ〜。寝てるの〜?」
無言、無言。ププッ
なんだか少し笑えてくる。さぁ、今日はどうくる?ちょっとやそっとの攻撃では俺は起きないぜ。
トンッ!
鈍い音と共に、凄まじい痛みが足先を襲った。
ちょっ!おまっ!いって!
俺は声にならない悲鳴をあげる。どうやらこの悪魔は無防備に露出していた足のつま先を正確に撃ち抜いたようだ。
足を折り、布団の中に隠すと同時に今度は指先に鋭い痛み。今度は指の爪先が狙われた!
つぅ〜っ!
「末端はやめいっ!」
ガバッと身を起こすと、俺の身体の上に乗っていた二人がすってんころりんと畳の上に転がり落ちる。
「ふぇ〜〜〜〜ん」
「うぇーーーーん」
ああ、地獄絵図。泣きたいのはこっちだよ!
「ちょっと!!何やってるの!!」
ママが血相を変えてやってくる。
はい、すみません……。
一時間後、俺たち家族は市営の屋内プールにいた。結局、あのママの剣幕に断る勇気などなかった。休日にゆっくり朝寝坊などというのは今の俺にとってはもはや幻想でしかない。しかしながら、この屋内プールというのは我ながら良い選択ではないか。子供たちはもちろん大喜びだし、ママの日焼けがどうこうとかいう愚痴を聞かなくても済む。何よりも最近の運動不足の解消にもなるかもしれない。正に一石三鳥。
俺は次男を連れ、ママは長男を連れ、着替えを済ませる。ママたちはまだのようだ。室内に塩素の独特の匂いがする。この感覚は久しぶり。若い頃はここにも体力作りのために来たものだよなぁ。
スポーツ用の露出の少ない水着を着たママたちと、お腹の目立ってきたパパたちに混じり子供用のプールに入る。市営プールというのは全く色気がないものなのだ。ここならば多少プヨプヨしてきた俺のお腹も気にならない。産まれて初めてのプールにおっかなびっくりの次男を連れて入る。
そういえばママと最後に泳ぎに行ったのはまだ子供が産まれる前だったな。抜群のスタイルにピンクのセクシーな水着にドキドキしたっけ。
「ママ〜!」
次男が叫ぶ、どうやらやっと来たようだ。しかし、振り向いた瞬間俺は言葉を失った。
そこにいたのはあの時と同じ抜群のプロポーションにピンクのセクシーなビキニを着たママであった。プール内の視線が一斉に彼女に注がれる。
いや、本当に凄いと思うよ。子供を二人も産んでいるとは思えないそのスタイル。
でも……
でも……
恥ずかしい!!
だって、ここは市営プールだぜ。ほとんどが黒っぽい露出の少ないスポーツ水着の中、ピンクのビキニ!!まるで、ママの周りだけがハワイのビーチのように別世界と化している。その肢体で一体誰を悩殺しようというのか。
しかし、当の本人は気にしていないかのようにこちらに無邪気な笑顔を向ける。まあ本人が良いならもうそれでいいのかもしれない。でも、今度女性用のスポーツ水着はチェックしておこう。
他のパパたちの視線が気になりながらも、俺たちは楽しく遊んだ。どうやら人間はどのような環境にも慣れてしまうようだ。
経験された方ならお判りだろうが、子供用のプールというのは水深70センチほどで、本格的に泳ぎたい俺にとってはちと物足りない。
「おい、ちょっとデカイプールで泳いできてもいいかな?」
ママにそっと耳打ちする。せっかくの休日だ。少しくらいの単独行動は許してもらおう。しかし、そこで予想外の反撃。
「えっ、ズルい!私も泳ぎたいっ!」
「いや、お前泳げるの?見たことないけど」
「失礼なっ!わたしはねっ、学生の頃はまな板の上の鯉って呼ばれた事もあるんだからねっ!」
「いや、それ馬鹿にされてますから」
「なっ、なあんですってえ~~!!
この俺の余計な一言がママの心に火をつけてしまったようだ。
「そこまで言うなら勝負よっ!まずは私の勇姿、そこで馬鹿みたいに口を開けて見てなさいっ!!」
ハイハイ。とりあえず先に泳がせれば満足か?まぁ、25メートルも泳げればいいところだろう。
ママはドスドスと大股で大人用のコースに向かって行った。そして、スタートの直前に俺の方に視線を向け、不敵にわらう。
正直みくびっていた。多少美人でスタイルも良く、英語も堪能。傍から見ればどう考えても俺とは釣り合わないが、どこかずれていて、俺が支えてあげないと危なっかしくて見ていられない残念なママ。それが俺の認識だった。本人は意識していないようだが、それが可愛いところであり、最大の魅力でもあるのだが……。
しかし、そんな認識は次の瞬間に崩れ去り、俺は自分の無知さを思い知らされる事になる。
「おい、あれ見ろよ!!」
「速ええ!!ハンパないって!!」
「マジかよ!スッゲェ!初めて見たぜ!」
周りから感嘆の声が上がる。俺はその声を他人事のように聞きながら馬鹿みたいに口をあんぐりと開けてママの泳ぎを見ていた。
凄い!
凄い!
メチャクチャ早い!
マジかよ!
しかし、なぜにバタフライ?
水しぶきをあげ、ダイナミックなフォームで水面を跳ねるように進む姿はまさにピンクの蝶のよう。監視員の目も釘付にし、瞬く間に50メートルを泳ぎきった。
監視員たちが一斉にママに駆け寄る。
あっ、怒られてる。そういえば、ここ、バタフライ禁止なんだっけ?
「ママ凄いな!見直したよ!」
俺はママに声を掛けた。
「もぅっ!バタフライ禁止だなんて聞いてないわよっ!!」
「いや、でも、何でそこでバタフライなんだよ?」
「仕方ないでしょ!バタフライしか泳げないんだからっ」
普通逆だろ!凄いっちゃ凄いけど。
「次はパパの番だからね!あれだけ言うからにはちゃんと泳げるんでしょうね!」
「おおっ!見とけよ!」
はっきり言ってあの泳ぎを見た後では自信がない。しかし、俺だって小学校のクラス対抗メドレーでは代表として選ばれた経験だってある。独身のころはここで体力作りもしていた。50メートルくらいは何てことはないはずだ。パパの威厳にかけて、ママごときに負けているわけにはいかない!
プールサイドを蹴り、泳ぎ始める。もちろんクロールだ。ママみたいな真似はしない、というか出来ない。20メートル、30メートル。おおっ!まだまだいけるじゃないか。俺も捨てたものじゃない。
しかし、30メートルを過ぎたくらいからまとわりつく水が重くなる。まるでローションの中を泳いでいるかのようだ。ヤバイ。苦しい!あと20メートルが果てしなく遠い。でも、ここで止まったらママに何を言われるか分からない。きっと、鬼の首を取ったように一ヶ月は馬鹿にするだろう。
泳げない→ママに馬鹿にされる→パパの権威が失墜→子供たちがグレる→家庭崩壊
絶対に嫌だー!
あぁ、薄れゆく意識の前に白髪のでっぷりと太ったあの人の姿が見える。
『諦めたら……』
ん?諦めたら何だって?
『諦めたら……』
だから諦めたらなんなんだよ!
『諦めたら……そこで、家庭崩壊だよ』
先生は、ニヤリと笑って姿を消した。
うおおおおおおおおっ!
俺が守ってみせる!この幸せな家庭を誰にも壊させやしない!
あと5メートル、4メートル、2メートル。そして、ついに指先がプールサイドに触れたとき、俺は意識を失った。
「……パ!」
「……さん!」
「パパっ!!」
「お客さんっ!」
目を開けると、ママと子供たちの顔が飛び込んできた。ママが顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。子供たちも不安そうにこちらを見ている。俺はママの頭をそっと撫でた。
すまない。俺のつまらない意地のために、もう少しでとんでもない過ちを犯すところだった。この素晴らしい家族をおいてまだ死ぬわけにはいかないよな。
そして俺たちはプールを後にした。入場料がもったいなような気がしたが、あの状況であれ以上長居できる度胸は俺にはない。
着替えを済ませ、すっかりしょげかえった俺にママがそっと耳打ちした。
「家庭崩壊なんてする訳ないじゃない。みんな貴方の事が大好きなんだよ。パパ!!」
ああ、全てお見通しでしたか。やっぱりママにはかないそうにありません。
この二人。やはり似た者夫婦なのかもしれませんね。まぁ、男は転がされているくらいがちょうどいいです。