シュレーディンガーのぬこからキャラクターの自由意思について論ずるにゃ。
量子の状態は確率解釈されなければならない。ただし、観測者の存在により状態は収束する。物語もそれと同じとも言えるだろう。書き手の存在が物語へと収束させるのだから。
エルヴィン・シュレーディンガーは、ぬこと装置を使った思考実験を行った。量子論によればこの場合、ぬこは生と死の重ね合わせの状態として確率解釈されなければならない。そして彼がぬこを観測した時、初めてぬこの生死が決定するのだという。
これは常識とかけ離れているが、量子論としては間違っていない。シュレーディンガーのぬこはミクロからマクロへの展開によって生じたパラドックスにすぎないのだ。
どうして思考実験にぬこを使ったのかは知らないにゃ。
シュレーディンガーのぬこは抵抗を許されていない。思考実験のなかであるから、ぬこに自由意思なるものは存在しない。故にシュレーディンガーのぬこに魂は存在していない。
物語の登場人物も同じことだろう。彼らは書き手の想像の産物でしかない。よって彼らに魂となる自由意思は存在しないはずだ。
しかし、『キャラクターが勝手に動く』、そう表現する書き手は多く存在する。これは登場人物に自由意思が存在しないという妥当な推論に、真っ向から反するように思える。
このパラドックスの原因は、第三者と書き手との自由意思の食い違いにある。
第三者は書きあげられた登場人物そのものの自由意思について、存在しないと論じている。
対して書き手は書いている最中の登場人物の自由意思について、その存在を論じているのだ。
故にどちらの論理も間違っていないと言える。だが……まだ登場人物が自由意思を持つことは、一般常識からすれば非常に疑問である。
そもそも自由意思とは一定以上高度な生命が持つものであり、惑星や、概念、ましてや一個人である書き手の産物なんてものにあるはずがない。もし余弦定理が勝手にヘロンの公式になると騒ぎ出したとしたら、精神科を受診するべきだろう。
ならば、書き手が往々にして遭遇する『キャラクターが勝手に動く』状態は何なのか、ということになる。彼らは頭がおかしくなってるのだろうか。
答えは否だ。彼ら書き手の頭は至って正常である。(もっとも、おかしな人がいないとは限らないが)
ここでは、書き手のいう『キャラクターが勝手に動く』状態が、彼らの頭の中で起きているということがポイントとなる。
つまるところ『キャラクターが勝手に動く』状態は、書き手が明確にキャラクターのイメージを持つことによって生じるのだ。書き手の中にそのキャラクターとしての基準、常識、考え方が根付くことで、そのキャラクターは書き手の中で自由意思を持つようになる。
これはある種の二重人格とも言っても良いだろう。一部の書き手は他の物語を書けなくなることがあるようだが、それはこの性質に依るのだろう。前の物語で産まれてしまった人格がまだ残っているから書けないのだ。(ここまでくると正常だと言えるのか怪しいが、彼らは至ってまともである)
これはとても喜ばしい事だが、二重人格という性質のお陰で読み手は好きなキャラクターと物語の外で会うことも不可能ではないように思えてくる。
キャラクターは書き手の愛より産まれ、書き手の愛を元に魂を持ち、書き手の手を通して物語の中に自己を落とし込むのだ。
読み手はその落とし込まれたキャラクターを読むが、既にそこに自由意思、そのキャラクターの魂はそこに存在していない。そのキャラクターは魂の痕跡であり、自由意思の記録であるが、読み手は自由意思の結果――既に収束した事象――を読むことしか出来ないのだ。
シュレーディンガーのぬこは殺ぬこ装置から出たら、ただのぬこだ。
読み手に届くのは既に観測された結果だけ、確率解釈された状態のそのキャラクターは書き手しか知らない。
ただし、そのキャラクターは永遠に、書き手の中では自由意思を持ったシュレーディンガーのぬこなのである。
※私のキャラクターは動きません




