Q四つ葉のクローバーを見つけたら幸せになれるって本当ですか? Aそれって意外と本当かもよ
瞬くと、夕暮れ近くの秋空の下、小さな緑の絨毯が風にそよいでいた。乙葉は田舎道ののんびりとした空気を颯爽と自転車で切り裂いていく。遠くで蹲っている人物を不審に思っていたが、近づくにつれそれが幼馴染の芹菜であることが分かった。
田舎道の小脇に這い蹲る芹菜の姿が、乙葉には信じ難く映った。
「あんたそこで何やってんの?」
自転車を急停車させ、無遠慮に言葉をぶつけたが、気付いた芹菜は乙葉の態度を気にすることなく、額の汗をぬぐった。
「四つ葉のクローバー探し」
そしてあっけらかんとそう言ってのけた。
「本当に?」
乙葉が念を押すように訊ねると、幼馴染は黙って頷いて一本の茎を覗き込んだ。
「クローバーって本来、三つ葉でしょ。ホントに四つ葉なんてあるの?」
自転車に跨り降りようとしない彼女は胡散臭そうに雑草を見下ろす。
「そこからだとクローバーが本当に三つ葉かもわからないでしょ。第一あんた、本気で四つ葉を探したことあるの?」
幼なじみに問われ、乙葉は自分の過去を振り返った。時間が山ほどあった幼少時代には野に咲く野草に目が行く事などなかった。無駄なことが大嫌いだった子供には、あるかもわからないモノなど探す気にもなれなかったのだ。生粋のリアリストを自負する彼女が最も忌み嫌うものに都市伝説などの迷信のたぐいがあり、四つ葉のクローバーなどそのうちの一つと捉えるに過ぎなかった。第一、万にひとつ四つ葉を見つけたからといって、だからなんだというのだろう。それで本当に幸せになれるのであれば世話はない。
とは言うものの、彼女も過去に何度かそれを探したことはあった。しかしそのいずれも見つけられず、見つけようと誘われていくつかの葉に視線を向けるが、それはいつも三つ葉であり、すべてが同じに見えて途端に探す気を失ったのだった。
「あんた、よくまだそんな子供みたいなこと出来るわね」
「別に私のためじゃないし」
地元の小学校の教師である芹菜は、自分が受け持っているクラスの一人の生徒に四つ葉のクローバーは実在するから採ってきてやると嘯いて来たのだという。
「しかし、見つからないものね」
手を休めず漏らす背中は、でも少し楽しそうにも見えた。
「仕事しろ、仕事」
そう言って乙葉は、遠くに見える小学校を指差す。
「これも立派な仕事なのよ」
「いっつも思うけど、あんたの仕事って、私には理解できないわ」
笑いながら芹菜にそんな捨て台詞を吐いて乙葉は自転車のペダルに力を込めた。もうすぐ幼稚園の門が閉まってしまう時間だった。門限を一分でも超えれば保育料が発生すると説明会で聞いたときには鼻で笑った。でも、それがどうやら本当だということが分かると必ず時間以内に娘であるイツキを迎えにいったのだった。一分遅れただけで5百円取られるなんて、どう考えても馬鹿げている。その憤りの力が彼女の自転車に驚くべき速度をもたらした。
ママ友の網をすり抜け幼稚園を早々に辞退すると、乙葉は一つ肩で息を吐き、イツキを乗せた自転車のペダルを踏み始めた。
「今日、園で何やったの?」
「給食、ちゃんと食べれた?」
「誰と遊んでたの?」
何度か後ろに座っている娘に質問を投げかけるが、それはことごとく風に吸い込まれていった。園に入った頃はまだまともに話すこともできなかった。それが次第に自分の言葉を見つけ、その日の出来事を覚えたての言葉で興奮気味に語れるようになった。
言葉足らずでも一生懸命伝えようとしている姿を微笑ましく思っていたというのに、最近イツキは極端に話さなくなった。母にはそれが心配でならなかった。
「セリちゃんだ!」
芹菜を見つけるとイツキは自転車が止まるまで待たずに飛び降りた。
「危ないでしょ!」
乙葉が叱っても聞こえていないようにイツキは芹菜の所まで駆け寄っていった。
「イッちゃん。今、飛び降りたでしょ? 私、見てたわよ」
ニコニコして芹菜が言うと、同じような顔をして娘は素直に、ごめんなさい、をした。自分以外には素直なことを乙葉は知っていて、それが無性に腹立たしくなり、悲しくなる。だから最近、どうしても不機嫌になってしまうのだ。
「イツキ、こんにちはでしょ」
「いいよいいよ、そんなの」
黙っているイツキを見兼ねて芹菜は笑いかける。
「良くないでしょ、挨拶くらいちゃんとさせなきゃ」
「まあまあ、私とイッちゃんの仲なんだからさ。大目に見てよ」
ね、と芹菜が娘に笑いかけると、イツキは同じように、ね、と笑って見せた。自分が仲間外れにされているようで乙葉はイライラした。
「あんたまだそんなことやってたの?」
「うん、だってなかなか見つからないんだもん」
「セリちゃん、何しているの?」
クローバーの絨毯に座り込んでイツキは訊く。
「イッちゃんは知ってるかな? この草、クローバーって言うんだけど、普通は葉っぱが三つなのね? でも、すごーくたまに四つ葉っぱがついているものがあって、それを見つけると幸せになれるって言い伝えがあるんだ」
「幸せ?」
初めて聞く言葉のように娘は訊き返した。
「そう、幸せ」
芹菜は大きく肯いてからにっこり笑う。
「イッちゃんも探す?」
「うん!」
当然のように肯く娘の背中を乙葉は飽きれた様子で見守っていた。
「あんた、体よく娘を手伝わせたわね」
「そんなつもりじゃないよ」
こちらのトゲトゲしい言葉にも動じず、芹菜は笑顔で応える。
「乙葉もたまには探してみれば?」
「私はいいよ」
未だに自転車を降りない母親を見て、娘はその袖を引っ張った。
「ママもいっしょに」
小さな手に込められた力が意外に強く、抵抗の甲斐なく乙葉はクローバーの絨毯に引き入れられた。
確かに近くで見れば小さな葉が無数に茂っている。田畑の畦道にところどころ群生しているそれをみて、ひとつ確かめる前に乙葉は芹菜を見た。
「ちなみにこれってどこまで探す気?」
「そんなの、見つかるまでに決まってるじゃん」
笑って返す幼馴染に乙葉は放心するしかなかった。
飽きれた風を装いながら乙葉はどこかで安心もしていた。イツキがあまり話さなくなってから、二人で過ごす時間がどこか息の詰まるものになっていた。そんなはずはないと目を背けていても、現実は否が応もなく押し寄せてくる。ふとした瞬間、自分が子どもをどこか恐ろしく感じてしまうことに乙葉は気付いてしまっていた。幼稚園に行っている間は家事に追われ、迎えに行ったらずっと一緒。当たり前なのだが、一人の時間などまるでなかった。どんどん心が狭くなっている自分自身に乙葉は嫌気が差していた。そんな折に芹菜と会い、ひと時でもイツキを自分のそばから離すことができると思うと、彼女はそう思っていること自体に罪悪感を感じながらも、離れていく娘を呼び止められなかった。
「遠くに行き過ぎちゃダメだからね。芹菜の傍にずっといるのよ」
一つ一つの葉を確かめながら首を左右に振る背中がゆっくりと畦道を前進していく。イツキは芹菜の隣で小さなそれを揺らしている。乙葉は進んでいく二人を尻目に、クローバーの上に腰を下ろした。
久しぶりに田舎の風景を見た気がした。昔より道路が整備され車の行き来は多くなっていたが、長閑なのは変わらない。小さい頃はそれが当たり前で、ちょっと成長したらそれが嫌になった。そして大人になって結婚して、子どもができて、いつぶりかわからないくらい久しぶりに畦道に座って景色を眺めていると、いつも目に入っているはずの光景がなんだか急に愛おしいもののように感じられてきた。突き抜けるような青い空も。フワフワな綿菓子みたいな雲も。空っ風に揺れる木々たちも。
「ママも探すんだよ」
離れたところで手を振るイツキに自然に手を振って応える。試しに、今、手の隙間から見えるクローバーの葉を数えてみる。
「いち、にぃ、さん、し・・・」
数えてから乙葉は一度目をきつく閉じて休めた。最近流行の眼精疲労かもしれない。そのまま大きく深呼吸を一度すると、普段は感じない緑の草いきれが鼻孔を通り過ぎていった。落ち着いて、目を見開いて、もう一度数えよう。いち、にぃ、さん、し。
「イツキ! イツキ! あったよ」
乙葉は慎重にそれを摘み取ると、高々と娘に掲げた。
「うそ、ホント?」
芹菜とイツキは遠くで顔を見合わせると、勢いよく乙葉に駆け寄ってきた。
「ねえ、貸して」
クローバーを受け取ると、イツキは目を輝かせた。
「ママ、すごい!」
「すごい! どこで見つけたの?」
二人に訊かれ、乙葉は手元を指差す。
「たまたま見たらあったのよ」
「たまたまって、私があんなに探して見つけられなかったのに」
擦ったのだろう、鼻の頭に土をつけた芹菜は膨れっ面をした。
「でも良かったじゃない。これであんたの生徒に四葉のクローバーがあるって証明できるわね」
「え、もしかしてくれるの?」
芹菜は目を輝かせて言う。
「あげないわよ。でも、貸してあげる。いいでしょ、イツキ?」
娘は満面の笑みで肯く。そうだ。この子もこんな顔で笑うんだっけ。そんなことを考えているうちに、乙葉は自分もいつの間にか笑っていることに気付いた。
「でも、ほんとにあるもんだね」
帰り際、芹菜は他人事のように言った。
「なにあんた、ホントは半信半疑だったの?」
そう訊くと、幼馴染は急に悪びれた風になり、逃げるようにそれを持ち去っていった。
四葉のクローバーは一時的に芹菜に貸して、戻ってきたところで押し花にでもしようと親子は話した。二人とも気付いたら笑って話せるようになっていた。状況は何も変わっていない、ごくありきたりな一日がこうして過ぎていった。でも、幸せは案外、手のひらの中にあるものなのかも。乙葉はイツキが自転車に乗るのを手伝いながら、握った小さな手を見てそう思ったのだった。