エロ本少年
本屋の床は、隣の公園から来る砂埃でざらついていた。
入ってすぐのレジでは、やたら派手な格好をした二人の店員が笑顔で雑談に興じている。入り口付近のタイルが茶ばんでいるにもかかわらず、清掃用具を取りに行くつもりは無いらしい。以前はもう少しまともな勤務態度の店員がいたはずだが。
ため息をついて、巻きつけていたマフラーを取る。店の空気は利きすぎた暖房のせいでこもっている。あまり長居したくはない。さっさと目当てのものを買って、自習室にでも行こう。砂で若干滑りやすくなった床を踏みしめて、奥の参考書コーナーを目指す。鼻水を一つすすっている間に、奥までたどり着いた。
「大学受験」のコーナーで、上の棚から順番に視線をやる。いくつか手にとって、ぺらぺらと中身を確認し、自分と相性の良さそうな参考書を探す。
三冊目に目を通していたところで、妙なものが視界の隅に入った。やたらと小さなクツだ。参考書から顔は上げないまま、ちらりと目線をずらす。
アニメのキャラクターが描かれた、黒いクツである。紐を引っ掛けて転ぶことを防止するためだろう、マジックテープで止める仕組みのものだ。そこからは裾の余ったジーンズが生えている。
足。それも、どう考えても十歳に満たない子供の。
相変わらず参考書で顔を隠したまま、視線をゆるゆると上にずらす。
それは、少年だった。コートを小脇に抱えて体温調節をしているものの、頬を高潮させている。長く店内に居たせいで、暑くなってしまったのだろう。そのくせ手袋を外さずに本を読みふけっているものだから、次のページに進もうとする度いくつか余計にめくれてしまい、子供の癖に整えられた眉毛をしかめている。
彼の身長に対して、本は大きく、分厚い。支えるのもやっとという様子は、どこか微笑ましい。
ただし。読んでいるものが卑猥な本でなければ、である。
(こんな幼少期から……なんつー英才教育だ)
注意するべきか、見なかったことにするべきか。考えあぐねていると、少年がこちらの視線に気付いた。子供特有の黒目がちな瞳が、あんまりまっすぐ見つめてくるものだから、一瞬やましいことでもしていたかのような後ろめたさを感じる。
やましいことをしているのは、どう考えても子供のほうなのだが。
「はい。あげる」
少年は、にっこりと笑ってエロ本を差し出してきた。表紙は、豊満な胸に腕を当てて挑戦的にこちらを見据える女性だ。
「そんなつまんなさそうな本よりもさ、こっち読もうよ。面白いよ」
魅力的な誘惑だが、負けるわけにはいかない。無理を言って浪人させてもらっているのだ、幼稚園児にR指定本を薦められて勉強をサボったとなれば、親に殺されてしまう。
「……ありがとう。君、お父さんかお母さんはどうしたの? きっと心配しているよ。戻ったほうがいい」
とっとと保護者に押し付けて逃げよう。考えながらしゃがみこみ、少年と目を合わせる。彼は何が楽しいのか、ウウンと首を横に振った。
「お母さん、ここで働いているんだ。ほら、あそこ」
小さな指が差し示した先を見やると、先ほどと変わらずレジの女性が談笑している。ドアが開いて冬の風が吹き込んでも、茶色いウンコ頭が揺らぐ様子は全く無い。どんなワックスで固めているのか。
「すごいんだよ。前から居た人を押しのけてこのお店のチューシンジンブツになったって言ってた!」
あいつのせいでこの店は砂だらけになったのか。
「ああ、あの店員さんが君のオカアサン」
「うん。挨拶しに行こうか」
わけが分からない。が、混乱しているうちにずるずると腕を引っ張っていかれてしまった。子供とは言え、遠慮なく引っ張っていくその力は侮れない。
「おかあさん。お仕事何時まで?」
レジにも砂埃が被っていた。ざらついたカウンターは指のあとが残っている。
「あと三十分ぐらいだから、見える範囲で遊んでな。そこの公園だったらお母さんのところからも大丈夫……どうしたの、その人。常連さんじゃない」
「一緒に遊んでくれるって。公園行って来るね」
何故だ。
「分かった。公園から入る砂が邪魔だから全部固めなさい。すみませんね、よろしくお願いします」
「任せて!」
「いやあの」
こちらの言葉を聞く気は全く無いらしい。慈愛溢れる母の目線に送られて、目の前で自動ドアが開くのを見るしかなかった。マフラーを巻いていないので、首筋に冷気が直接あたり、くしゃみがもれる。
「……どうすればいいんだ、この状況」
本を選んでいたら、見知らぬ子供に誘拐されている。全く想像もしていなかった事態に、ただ空を仰ぎ見ることしか出来ない。
「あ、ウンコだ!」
吹きすさぶ冬の風に吹かれながら、天使の笑顔で砂をほじくりかえす少年を見やる。
「ねえねえ、一面ウンコにすれば砂も入ってこないよね」
とりあえず、一言だけでも言ってやろう。
しゃがみこんで鼻のてっぺんについた砂を払ってやる。すっかり冷えた砂に膝小僧の熱が奪われていくのを感じながら、細い肩に手を置いた。
「知らない人についていくのはやめなさい」