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八話 重み

軽く払われた手元からは、初めに見たのと同じ水の刃が生み出される。そこに水などありはしない。

今更驚くほどのことでもないが、水を使役する神という存在は、何もない場所からも水を顕在させるのだろう。。彼女の意思によって形を変えていく。刃は先よりも細く、長く、大太刀のように鋭く。

「ね、こういうのは避けきれる?」

何度目か、振るわれる腕と一緒に長い袖口が空を舞う。

直前に出してきた球体とは比較にもならないような速さで弥代に迫ってくる。

後方にいる春原は意識をもう保ててないのか、ぶつかった木の幹に体を預けるようにしてぐったりと首を落としている。

自分が避けた所で、それが春原に傷を負わせることはないだろうと瞬時に把握すると、前に勢いよく転がった。

左手に短い短刀を握りしめたまま。

「誰も一つだけなんて言ってないわよ。」

それはまたも生み出される。転がった勢いのまま起き上がり様に刀を構えればそれはもう眼前に迫っている。

避けた刃が木の幹に傷をつける。春原には当たっていない。しかし眼前のそれを今から避けるのはあまりにも難しく思えた。

避けられない、と覚悟を決めた弥代だったがそれは弥代の体を切り裂くことはなく、短い刀身に触れた先から刃は二つに裂けてみせた。

先程、春原の手によって落とされた槍の形状とは異なり、細長い此度の攻撃は二つに裂くことしかできなかったのか、触れた部分から僅か、弥代の体を掠めるようにして、それでも消え失せなかった刃は後方へと飛んで行く

それは本能的なものだろう。この危機的状況でそれ以外に縋れるものがなかったからこその、迷いのない思い込みともいえよう。一度ならず二度も見えた、刀身によって彼女の水を打ち破ってみせたは、この短刀の本来の性質だと。そう弥代は考えた。自分に言い聞かせる。

一歩、大きく踏み込む。その先には彼女がいる。

彼女自身も刀の異変に気付いたのだろう。その刀に何かがあると、僅かに本当に些細な動揺を見せる彼女に、また一歩強く距離を詰める。

例えば直接、大きな一撃を与えることができて、それで隙を生むことが出来ればその間に男を、春原をどうにか抱えて逃げることはできないだろうか。やってみなくては分からない。やらないでやられるよりは、やったほうが絶対に良いに決まっている。弥代は踏み込む速度を上げていく。

同様したように彼女が半歩後ろに下がればと、足元にあった小さな小石にさえ驚いた声を上げ、意識が自分から逸れるその瞬間を見逃すことはなかった。懐に勢いを殺すことなく突っ込むように入りこめば、手元目掛けて短刀を突き上げる。

何度か見た彼女の水は、全て彼女の手元の動きによって生み出されていた筈だ。安直かもしれないが、それでどうにかなるのなら。

突き上げた短刀が彼女の、左に比べて短い爪の右の掌に触れるまで後一寸。

穴が開きそうな程見つめたその先、ピキッ、という小さな音が彼女と弥代の耳に届く。間もなく、突き上げられた短刀の刀身に、細い罅が走り、二人の間で砕けた。

鉄の塊を打たれ出来た筈の刀身は、まるで砂のように砕けた箇所からさらさらと姿を変えていく。

それは本当に一瞬、彼女の右の掌を貫く直前の出来事だった。


勢いは止まらない。

間を置くことなく肝が冷えきる弥代とは対照的に、同じように驚いていたのも束の間、彼女は微かに口元を吊り上げる。

目元を覆う布の端から覗く、その獰猛な獲物を狙う獣のような瞳が絡まる。

「残念だったわね。」

空笑いが漏れた。

足裏が地から離れる感覚に弥代は襲われた。

女の足元から生えた水流が、凄まじい勢いでその体を持ち上げるように突き上げた。

決して弥代の体が軽すぎるわけではない。だというのに易々と持ち上がった体は、水流のまま夜空に飛ばされてしまう。

身体の中の臓器がひっくり返るような不快感と衝撃の後、浮遊感に弥代は襲われる。数秒の滞空時間は直ぐに終わりを迎える。吹き飛ばされた身体は空中では、自由に受け身を取ることさえ許される。風を切る。滞空時間を経て次に襲い掛かってくるのは重力だ。

空を駆けることなど人にできるわけもない。曲線を描くように落下していく。空を蹴ったところで何も意味はない。せめて急所だけは庇えないものかと、その身体を小さく丸める。弥代は地下牢の出口から距離の離れた、屋敷の本堂の屋根を突き破るかのように落下していった。






頬を掠めた木片の微かな痛みに、瞑っていた目を開く。

余程の衝撃だったのだろう。丸めた身体はどれだけ衝突した際に転がったのか、辺りには四方八方に突き破った屋根瓦の破片が散らばっている。建物自体の建造に充てられた木材の木片も多い。

が、ありがたいことに手元の自由をあれほど奪っていた金具が、一緒に砕けたのか片方だけ残った状態で開放されていた。地下牢の岩肌にぶつけても壊れなかったものだ。これで自由だと、弥代は大きく久方ぶりに腕を回した。

まさかこのような形で空中散歩をすることになるとは思っていなかった。

身体を丸めても完璧に防ぎきれたわけではない。

自由になった手前、弥代は金具の残る利き手を、痛む後頭部に回せば、ドロリとした粘着質な液体に触れる。

嫌な予感がして指の腹で直接頭皮を擦れば、大きくぱっくりと何かが裂けたような感触がした。あくまで見えない指先だけの感覚の話だが。

「ははっ、まさか、な…」

もう反対の手で額に触れればこちらは反対にさらさらとした生暖かい液体の感触。

「…」

同じ首から上の出血だというのに、こうも感触が異なるものなのだな、と弥代は一つ賢くなった気がした。

辺りを見渡せば、先ほど彼女の水流によって吹き飛ばされる瞬間まで握りしめていた短刀すら転がっていない。

恐らくは飛ばされた際に手放してしまったのだろう。ここには代わりの武器になりそうなものは何一つない。

気掛かりなのは、あの場所に置いてくる形となってしまった男・春原だ。

彼女、水虎は自分と春原を狙って攻撃をしかけてきたのは間違いないだろう。この榊扇の里、扇堂家が祀り上げる存在という水虎様がどうして自分や春原のような存在を狙うのか。余程の事を自分がしでかしてしまったのというのだろうか。

(いや、後継ぎの女一か月も家に帰さずに外の暮らしさせてる時点でな。あいつの話じゃ俺って賊の残党って思われてたみたいだし。まぁ、そう思われても仕方ねぇような風貌してるもんな。)

弥代は改めて自分が落下する際に突き破ったであろう天井の穴を見上げる。

ぱらぱらと未だ小さな破片と埃が舞う。建物自体がそれで倒壊をするようには見えはしないが。

「いやぁ!俺ぐれぇで随分でかい穴が空くもんだなぁ!」

口振りは軽く。状況が状況であるが変にうじうじとしていては事がうまく運ばないこともある。

空に投げ出され、落下する直前下に見えたのは月が届きそうな程の高さがある山を背後に屋敷を囲うように建てられた長い堀の中にある三つの大きな建造物があった。

衝突する直前には身体を丸め衝撃に備えていたため、詳しくどの辺りに落とされたのかは分からないが、地下牢で春原が地下牢は屋敷の西に位置すると言っていたのを思い出す。

頭部の痛みは放っておけばどうにかなるだろう。

足を伸ばし調子を確認する。相変わらず裸足だが、これも問題はない。西はつまり左!と大声を上げながら走りだそうとした瞬間だった。

「馬鹿ね。西は逆よ。」

背後から聞こえる声は、つい先ほどまで自分と対峙していたものと同じだ。

身を翻せば、そこには間違いなく彼女がいた。

「なんであれでその怪我で済んじゃうのよ。やっぱり貴女、嫌いよ。」

既に見慣れてしまったその手元の動き。

それは足元から無数の針の様に突き上げられる。

「っぶねーだろうがっ!ちったぁ神様ってのはか弱い人間様に手加減したりとか、してくんねぇのかよ!?こちとら素手だぞ!」

あまりあれから時間は経っていないだろう。

僅かな差で彼女がこの場に姿を現したということは、自分を追ってきたことに間違いはない筈だ。だとしらならば、あの男春原は今もまだ木の幹に凭れ掛かって意識を失っているはず。最悪の事態は免れられた事に違いない。先ほど迄の焦りはそこにはなく、軽口を叩きながら弥代は武器もないまま身構える。

「言ったじゃない。私、貴女のその大きな声、嫌いなのよ。」











「なんだい、今の音は?」

本堂の最奥、開かずの神棚と、大山の中腹に位置する御堂に唯一足を運ぶための扉が存在する部屋の中央で、年老いた老婆が怪訝そうな声を上げた。

轟音の後、地響きのおような物を感じ取る。

この感覚には微かに記憶がある。

二十年以上昔に感じたのが最後だったろう。

その昔は頻繁に、屋敷のあちこちで怒声と爆発音が響いたものだ。その都度大工屋を呼んでは修理をしてもらったものだから、そう簡単に壊れないようにと、何度も何度も手直しの行われた本堂と、西の分家の者や屋敷で下働きをする者たちが住む居住区域は頑丈な造りをしている。

長年感じることのなかったそれに、つい面白おかしくなってしまい、吸っていた煙管を老婆は大きく振ってしまう。

火を点したままの葉がポロリと一欠けら、足元に落ちてしまうのを拾う初老の男が一人。

「就寝前に吸われるのは御身体に毒だと、口煩く私は申しているでしょうに。」

「馬鹿いえ。これぐらいしか年寄りには楽しみがないんだよ。奪うんじゃないよ人の楽しみを。あたしゃあね、一度だってアンタの事を医者だなんて認めたこたぁないからね!精通してるからって調子に乗るんじゃないよ!」

「調子にのったことなどこの約半世紀一度だってございませんねぇ!!」

受け皿にまだ熱を灯したままの葉を移し、熱の触れた掌を冷やすように振るう男は、自ら口にした半世紀という言葉に気付き己の顔を撫でる。隠しようのなくなってきたほうれい線を気に掛けるように触れる。初老の男と老婆は長い付き合いだ。

今は亡き娘の出産の頃から医者見習いとして屋敷で暮らしていた。先代の医者が亡くなる際に見習いを卒業し、以降は今日まで屋敷内で怪我人や病人が出ればそれらを全て診る。それ以外にも男は老婆自身の主治医も務めていた。

老婆の名は、扇堂杷勿という。

ここは相模国に位置する、扇堂家の者が代々土地を治める、かの榊扇の里。老婆は現行七代目当主に在られる扇堂杷勿その人である。

ここ数年は、昔からの付き合いの長い者たちが立て続けに亡くなっていった。医師と言っても死期の近くなった者を延命させるようなことが出来るわけではない。安らかに眠れるようにせめて何かをしてあげることぐらいだ。一つ前夏には、杷勿が幼い頃から屋敷で働いていた、孫娘の乳母を長年務めていた顔なじみもいなくなってしまった。

最近の屋敷内には下女を含め若い顔ぶれが増えてきた。

寂しくなってしまったものだと、杷勿は吐き零す。

その口元には、未だに紫煙を燻らせて。

「行かれるのですか?」

「若い子ってのはね、待ってても年寄りには追い付けないんだよ。同じだけ生きなくちゃ追いつけないもんだからね。当たり前のことだけど。だったらこっちから行くしかないじゃないかい。」

医者の男、佐脇が杷勿に肩を貸す。

その体は全盛期に比べると筋肉も衰えてしまっている。足に力を込めて一人で立ち上がることすらも難しいのだ。

「余計な客人も来られるみたいだよ。全く今夜は寝れそうにないねぇ。」

佐脇曰く、自分の寿命は持って後五年だという。この年になって寿命などというものは延びるわけがないのだ。縮むだけ。さて、残す所五年、どう終わらすことができるだろうか。

この里を、あの子の未来を、どうすることができるというのだろうか。

杷勿は部屋を出て直ぐ脇の廊下から、部屋から伸びる山肌に沿って建てられた古びた通路の先の御堂を見上げる。

(どうか、お許しくださいませ。)











それは、とても懐かしい色をしていた。

その色に、惹かれた。


それは顔も名前も、まるで靄が罹ったように、何も思い出せない。だというのに、一際目を引くその色だけが脳裏に焼け付いていた。

瞳の色に似ているからと、こっそり母親の化粧台で見つけた、家紋の刻まれた飾り紐を渡した。

記憶の中の彼女は人から貰う送りものなんて始めただと、恐らくは嘘だろうが嬉しそうに微笑んだように見えて、今もこうして想いを馳せ続けている。

あの日々の続きを、肩を並べるだけで胸の内が満たされていたそんな時間の続きを、彼女との約束を今も忘れられずに。


その色を間違える筈がなかった。

女性は髪を誉めれば喜ぶものだからと、知人に教わった言葉を参考に褒める傍ら触れられないかと思ったが、その時は確認することが出来なかった。

上手い事に、一人地下牢に閉じ込められてしまったと話を聞いて誰にも邪魔されずに確認をすることが出来ると、好都合ではないかと、そう思えば後は早かった。

勘を頼りにその色を求めて地下牢に足を踏み入れた。

とても、警戒をされていると感じた。

敵意は一切向けていないつもりだったが、興奮を隠しきれていないのが仇となったのだろうか。しかし触れる事のできた、甚く使い古されたその髪結紐の先には、知っている者でなければ見逃してしまいそうなぐらいに汚れた家紋の切れ端が刻まれていた。

それだけで、長年満たされることのなかったものが一気に満たされたような感覚に襲われ、喜びを抑えることが出来なくなってしまった。普段なら抑えられる心の内はぎこちなく、強く言い寄ってしまったように思えて仕方なかった。嫌な思いをさせてしまっていないだろうか。

昔の事を覚えてなさげな彼女に今無理やりにあの頃の事を語るのは止そう。けれどもやはり心配で、何度も何度も執拗なほど顔色を窺ってしまう。

記憶の中の彼女に比べ、十年以上の時が経つととても粗暴が酷くなっているように思えたが、それさえも彼女であるのだと思えれば愛おしく。やっとこれであの時の約束を果たすことが出来るのだと思えば、これまで耐えて生きながらえてきた時間全てが報われるような、そんな気持ちに襲われる。

昔の彼女は、常にどこか堪えるように言葉を吐き出していたから。言葉を押し殺さずに吐き出すその様が、至極嬉しかった。


小さな瞬きを繰り返した後、重たかった目蓋をしっかりと持ち上げる。

長く分厚い見慣れた前髪越しに見える視界には、あの色がない。

先程までこの腕の中にいたはずなのに、どこへ行ってしまったのだろう。意識を手放す直前強打した背中がまだズキズキと痛み熱を孕んでいる。他にも体の節々が痛むが、動けない程ではない。

それほど長い間意識を失っていたようには思えないが、どれほど時間が経ったというのだろうか。真っすぐに自分の脚で立つのも難しいのを、背後の木に寄りかかる事で立ち上がる。見慣れた視界の高さになっても、あの色が、彼女の姿はどこにも見えない。

辺りには意識を失う前、あの水を操る妖怪に襲撃を受けた際に出来ただろう穴がいくつか点在している。

最期に見たものよりも若干数が多い。

妖怪の攻撃を防いだ際の短刀も手元にはないが、見渡したその先、刀身を失った見慣れた柄だけが転がっていた。どういうことだろうか。

春原は寄りかかっていた体に鞭を打って、それに歩み寄る。と、視界の端に彼女に貸した筈の羽織が映った。視線を持ち上げれば木々の上に被さったそれが、冷たい夜風によってゆらゆらと揺らいでいる。

手を伸ばしても届かないのは明白で、我武者羅に木によじ登る。ようやっと手が届くと、その羽織りにはまだ温もりがあった。


『手放しちゃ、駄目だよ。』

「どこに、いるんだ?」

温もりの残る羽織りを抱きしめながら、今しがたよじ登ったばかりの木から落ちる。

駄目なのだ。もう、二度と手放してはいけないのだ。

その傍を、離れるのだけは、何があっても駄目なのだ。

「弥代、弥代、弥代…、どこに、どこに行ってしまったんだ…弥代…っ!」

その背中は、到底大人の男性のようには見えないだろう。羽織に突き立てた指は深く、血の気が失せ白くなった指先でそれでも彼女の温もりが残るそれを抱きしめるのだから。その姿はまるで、たった一人の親とはぐれてしまった子供の様に、とても弱々しいものだった。











「氷室。もし、もしよ?もし、私が今ここで…」

逃げたい。

そう、口にするつもりでいた。

しかし逃げたところでどうなるだろうか。また、こうして連れ戻される事だってある。

逃げた先でもまとわりつくであろう責任というものを雪那はその瞬間やっと理解してしまった。それまで向き合う機会がなかったからこそ、長年成人を迎えて尚こうして離れに引きこもり、必要最低限の人としか関わろうとせずに生きてきた。

雪那は、この榊扇の里を治める、扇堂家の跡取り娘だ。

祖母の扇堂杷勿は長年、この里の繁栄の為にその身を捧げてきた。母は自分が産まれて間もなく、二十年程前に起きたという大火災に巻き込まれ亡くなったと聞かされている。

祖母も、もう先は長くないだろう。祖母亡き後、この里を治める役目は間違いなく自分に継がれる筈だ。一族の、血筋の中で唯一“色”を宿す、自分に。

そうすればこの里で暮らす一万にも及ぶ民の命を、自分が背負わなければならなくなるのだ。

今、この場で逃げるのは簡単だろう。

きっとこの氷室という男は自分が泣いて縋るように頼み込めば逃がしてくれる筈だ。けれども、自分がその後背負う筈だった責任は全てどうなる。

扇堂家の当主は代々本家の血筋で、且つ“色”を持つ者でなければならない。“色持ち”の関する書物を長年読み続けた雪那には本当は分かっていた。言われずとも分かっていたのだ。何故“色”を持つ者が当主を勤めなければならないのかを。

それは扇堂家が祀りあげてきた貴き存在、水虎様の恩恵を受ける依り代になれる者が限られるからだ。

そう、“色”を持たぬ者でなければならない最もたる要因はそれだろう。

扇堂家の血筋を受け継ぐものが良いというの、恐らく代々繰り返されてきた中で、それが一番水虎様との相性が良かったからだろう。現時点で自分以外にその二つの条件を満たす存在は誰一人もいない。

この場で、この家から、この里から逃げたとして、その後この里はどうなるだろうか。水虎様の恩恵を、加護を失ったこの里はどうなるのだろうか。

逃げても何もない。逃げるだけではだめなのではないか。もし、もし本当にこの状況から解放されたいと、そう自分が望むのであれば、それは逃げるのではなく、それこそ、それこそあの人のように、やはり…。

「私、私は…私は…っ!」

勢いよく顔を持ち上げたその視界を何かが横切る。

氷室の更に後方を横切ったそれは、右から左へと、渡り廊下の壁にぶつかった。

見覚えのある青に、意識が逸れる。

「痛ぇだろうがこの前髪女がっ!!」

ぶつかった拍子に崩れた壁の瓦礫、威勢よく吠えるその声の主は、その中から跳ね起きる。

飛び散る破片を払いのけ、雪那が怪我をしないように壁になるように立ちふさがる氷室。

その瞳には、夜空を融かしたような髪色の耳の長い女の姿が映っていた。



「雪那っ!お怪我は!?」

氷室の呼びかけに、雪那は自分の意識が一瞬飛んでいたことに気付かされた。

何が、起きたのだろうか。

氷室に言われたように、自分に怪我がないか一通り確認をするも、かすり傷一つありはしない。その旨を伝えるも、氷室に支えられ、後ろに下がらされてしまう。

「離れてください。近くは危ないですから。」

自分は今まで何をしていただろうか、雪那は思い出す。

そうだ、確か祖母の私室に向かう途中だった。

それを従者との会話で足を止め、暫く話し込んでいた。

もし足を止めず、そのまま進んでいたのなら、前方の瓦礫の山に巻き込まれていた可能性があったかもしれない。そう考えると背筋が凍る。

瓦礫の山の中、吠えた見覚えのある青、弥代を見やる。

誰かに対して、何か喋っているように見えるが、雪那の視界にはその何かが見えなかった。違和感。それは何なのか。吠える弥代の視線は廊下の右手に広がる庭に向けられているが、そこには誰もいない。

目を凝らしても姿を捉えることができない存在に、しかし何かしらの気配は感じる。この感覚には最近覚えがあった。そう、これは確か、あの中庭から見上げた際の、

「雪那さんじゃねーかっ!?」

突如名前を呼ばれ、意識が遮られる。

誰もいない中庭から廊下の壁際で瓦礫の中で立っている弥代に目が向く。

瞬間、氷室が動いた。



振り下ろされる予期しない一太刀によろける。

その薄着な装いのどこに隠し持っていたのか木刀のような切っ先が向けられる。

起き上がったばかりの瓦礫の中に転倒しかけるも、手を付いて体を持ち上げるが、体制を整える前に床に付いた手元を氷室の手元により払われる。

「何しやがんだこいつっ!?」

一歩、二歩と勢いを殺すように足を付く。

氷室からの追撃を躱す。大きく飛び退けばその先にはあの水流が迫っている。

まるでそれ以上の後退を許さないとでもいうように、背後から狙われる。

前方に迫る追撃と後方の水流を避けるのに、弥代は前に跳ねた。氷室の左肩に手を付き、回るようにして二つを回避した。

「弥代さんっ!」

雪那の自分を呼ぶ声に弥代はようやく気付く。意識がはっきりとしたとでもいうのだろうか。

男は何か木刀のようなものを振り回していると思っていた。しかしその手元には何も握られていない。

それまで自分が木刀か何かだと思っていたのは、男自身の腕だった。あまりにも鋭く勢いよく突いてくるものでそれが刀かその類に見えただけで、そう思えば結構な量の血を失っていたことを思い出す。たとえ怪我の治りが早くても、失った血までそんな直ぐに戻った試しはない。無理に体を動かしつづけたからか意識したとたんに視界が霞みだす。これではまともに攻撃を避けることもできなくなってしまうではないか、ああどうしたものか。

床に対する受け身を上手く取ることも出来ずに傾いた弥代の体は、氷室の握りしめた拳が鳩尾を撃ちぬかれた。

「無理をしないでください。今は、その方が良い。」

上へと昇る視界の端、見上げたその男の瞳は、雪那のあの瞳によく似ていた。



「弥代さんっ!」

雪那は駆け出した。

氷室に動かないように言われたというのに、彼の手によって避ける弥代の動きに違和感を感じたからだ。必死に動き回っているのだが、その動きはどこか揺らいで見える。氷室の肩を乗り越えた際に見えた後頭部は夜半であっても庭側から僅かに差し込む月明りではっきりと見えた。青い髪の毛が真っ赤に染まっていることに。

出血が酷いのだ。そんな状態であんなに動き回っては危ない。自分に何ができるとも思えないが、もしかしたら氷室を止めることぐらいはできるかもしれない。雪那が駆け出して間もなく、弥代の体は氷室の手によって沈められた。その幼い体が力なく廊下に崩れ落ちるのに、小さな悲鳴を漏らす。

しかし崩れ落ちる手前で氷室の腕がその身体を支えた。

腕の中でぐったりと力の入っていない弥代に、雪那は触れた。

とくとく、脈は感じる。

死んではない。息もある。意識を失っているだけだ。

人体の急所としてもよく知られる体の鳩尾を撃たれたという事を知らず、雪那は胸を撫でおろす。

氷室の腕の中から半ば強引に抱き寄せたその身体は、雪那の腕力では持ち上げることはできないものの、一月程の付き合いの中で初めて抱きとめたその身体が、想像していたよりも遥かに軽いことに驚かされた。

それさえも雪那の腕力では持ち上げることは難しかったが、体を寄り添わせるようにして分かる軽さに、胸が痛んだ。

「気を失った相手に、まだ、手を上げますか?」

ふと、氷室が口を開く。

それは自分に、ましてや弥代に向けられたものでは決してない。雪那は氷室の視線の先を向き直る。

それは先ほど弥代が見つめていたのと同じ、渡り廊下の右手に広がる庭だ。

思わずその軽い体を守るように腕に力を込めた、その時だった。

「夜中に想像し言ったらありゃぁしんないねぇ。夜遊びでも覚えた餓鬼共の集まりじゃあるまし。」

本堂の最奥に繋がる渡り廊下の奥から、芯の通った、嗄れたが響く。

コツンッ、コツンッ、と冷え切った廊下に、合わせて杖で戸板を衝く音が響き渡る。

「おばあ、さま?」

それは相模国に位置する、榊扇の里に住まう一万にも及ぶ民の命を見守る、里の繁栄に半世紀以上身を費やしてきた、現行扇堂家七代目当主にして、雪那の実の祖母にあたる、扇堂杷勿その人であった。

「あたしも混ぜておくれよ、若人達。」






扇堂杷勿。

その名前は、この里で暮らしている者で知らぬ者は年老いた老人から幼い赤子までいないだろう。少々大げさなぐらいに思えてしまうほど、その名前は有名だ。

毎日半径二里にも及ぶこの里では、彼女の名前が上がる。

「この里がな、今こうしてあられるのは全て大主様のおかげなんだよ。あの方に感謝を忘れてはいけないよ。」

「かの水虎様を使役できるほどの御仁だ!私らとは住む世界が違うんですよ。」

「昔はそれはそれは活発な御方での、毎日のように喧嘩をして往来を駆け巡っていたものだと、うちのひい爺様がよく話しておられましたよ。」

「杷勿様だね!それは勿論知ってるとも!噂じゃ千里眼のようなものをお持ちで、常にこの里の隅々を見てるんだとか!でも屋敷からずっと出てこられないんだろう?どうしてだろうね?」

「あの御人は“色”をお持ちだ。だからこそこの里には“色”を持つ者が流れつくのさ。皆、同じ人間なんだ。杷勿様がそう仰るのであれば、そうなのだよ。」

杷勿様、杷勿様、杷勿様、杷勿様、杷勿様、杷勿様、杷勿様、杷勿様、杷勿様…。

今日も里のあちこちではあの方のお名前が溢れかえっている。

人望が厚く、里の者達に揺るがぬ信頼を寄せられる里の顔とも言えるようなお方。あの方がいることで自分たちは安心して生活ができるのだと、そう口にする民もいる。

(そんな大層な御方ではございませんよ。)

佐脇は今も自分の数歩先を歩むそのお方、扇堂杷勿の背中を見つめる。

数年前は、まだその背中も丸まっていなかった。

随分とここ数年で背も縮んでしまったものだ。

お労しいと思うのは見当違いだ。それは誰もが行く行くは辿る道。何も同情をする余地などないのだ。

もし彼女に対して同情する点があるとすれば、それは孫娘の一件だろう。当に成人も迎えているというのに数年前の事故をきっかけに離れの私室に引きこもるようになってしまって、齢二十一を迎えて尚未婚で相手になるような殿方さえいやしない。

彼女のここ数年の衰えを加速化させる要因の一つに違いはないだろう。故に佐脇はあまり杷勿の孫娘に当たる、扇堂家の次期当主候補である雪那に対して好ましい印象は抱いていなかった。

扇堂家の内情を知る側の立場からすれば、雪那は未だにただ我儘を押し通すだけの害である。自分の立場というものを自覚するべきなのだ。

好ましい印象といえば、内情を深く知っているにも関わらずに未だ一人雪那の味方をするものがいる。彼女の数少ない従者の一人、氷室だ。

(私ならきっと気に触れてしまいますね。想像しただけでも悍ましい。)

そんな事を考えながら杷勿の介助をしながら長い渡り廊下を進んでいると、正に件の孫娘雪那と、従者の氷室がいた。

雪那の腕の中にはどこかで見たことがあるような青い子供と、そこから少し視線を逸らした先、庭にそれがいた。

「杷勿様、杷勿様。私久しぶりに姿を見ました。あちらに、ほら、嗚呼なんとも美しい…」

「お前と違ってあたしゃ毎日のように顔を合わせてるよ。はしゃんじゃないよ阿保め。」

二本足で立つのさえ儘ならないから杖で傾く上半身を支えようとしているというのに、その支える杖を大きく振られ、膝後ろに食い込む。

予想もしていなかった衝撃に耐えかねて前に倒れ込めば、さも当然の様に倒れこんだその背中に腰を下ろされる。

「立ちっぱなしなんてね、辛いもんだよ。こんな所に丁度いい椅子があるなんて、いやぁあたしゃ運がいいねぇ。」

「人を一体なんだと思ってるんですかこの当主様ともあろうお方はっ!」

「耳障りだよ佐脇、真面目な話をするんだから黙っときな。」

それまでの会話をしていた声色から一変、芯の通った張り詰めたような声に佐脇は何も言い返せなくなる。

声色が、よく物語る御人なのだこの当主様は。

「さて、どう切り出したものかねぇ…。」






「水虎様。まずはそのお怒りをどうか、お鎮めいただくことはできませぬでしょうか?」

渡り廊下の奥、専属医だと昔数回顔を合したことがある男性がまるで椅子代わりのように背を丸めている。

その上にさも当然の様に腰を下ろす扇堂杷勿は、庭の方を見つめ、そう口を開いた。

そこに誰かがいるというのは、見えなくとも雪那にもはっきりと分かった。

間違いない。誰かがそこにいる。しかしどれだけ目を凝らしても見えないのだ。この場にいる意識を失った弥代と自分以外の恐らく三人はその姿が、声が聞こえているのだろう。そして雪那は、杷勿が口にした水虎様という名称にようやっと気付かされる。

その場所にあの水虎様がいるのだという事実を。

自分が知らないその存在が、そこにいるということを。

「えぇ、えぇそれは同じでございます。あたくしも怒りを感じておりますとも。忘れるわけがございません。忘れられるものですか。ですがどうか、どうかこの場はお控えくださいませ。」

杷勿は深々と頭を下げる。

はっきりと、会話をしているようだ。

雪那には何も届かない。

「はい。ですからこの場はどうかお下がりください。此度の件に関しましては、日を改めましょう。明るい時に、ゆっくりとこのあたくしとお話をしましょう。上等な菓子とお茶を御用意させていただきます故。」

ゆったりとした口調で、杷勿は水虎様を窘める様に言葉を並べた。

里の大主という立場の杷勿は、こういった場で取り乱すような素振りを見せることはない。

下手に出るような言葉を並べて、相手に要求を飲ませようとする、場数を踏んできたからこそできる対応だ。

たとえそれが自身の家が代々祭り上げてきた神仏であろうとも変わりはしない。向き合い話をする事実は何一つ変わらないのだから。

「とんでもございません。あたくしが貴女様を敵に回すなど、畏れ多いこと。あれきり、一度たりともございませんでしょう。今は、今はどうか、頭を冷やしてくださいませ。」

「今の貴女様は、とても冷静にはあたくしの目には見えませぬ。」



榊扇の里に住まう一万近い民。

その民の中に、扇堂杷勿以外にかの水神にあのように物申せる相手がいようものか。

鋭いその牙が下唇に食い込む。癇癪を起した水神は一筋人間のものと大差ないだろう赤い血を零し、その場から姿を消した。

はたして自分がしたことに意味はあっただろうか。なくは、なかっただろう。間違いなくあの御方の機嫌を損ねた要因は先刻の出来事を含め、とてもじゃないが良いとはいえない状況だった。

氷室は背後、意識を失った幼子を今も抱き留める雪那を一瞥した。

当人は気付くことがないだろうが、その首元には彼女の髪色よりも濃い、青みの強い鬱血痕が残されていた。

首裏までは及んでいないようだが、正面から見据えれば夜であっても気付けそうなほどにくっきりと。

(恐らく、私が同じ立場であってもそうなる。)

耳のいいあの御方は彼女の事があった直後に、その幼子の存在もあってか、抑えることが出来なかったのだろう。無理もない。

雪那の従者を務めるよりも昔からその存在をよく知る氷室は安堵の息を漏らす。

子供の喚き声はもうごめんだ。

ふと、思い出すのは今はもう亡きあの下女だ。

まだ幼かった。

幼いわりにしっかり者で、まだ甘えたい年頃だったろうに。祖母の事もありとても大人びていた。

もうその名前を口にすることは、少なくともないだろうが。



「雪那、雪那やい。」

水虎がその場を後にして暫くすると、ゆったりとしたその話し方は変わらないが柔らかさを孕んだような優しい声色で、杷勿が雪那に呼びかける。

雪那は今も、意識なく横たわるその身体を支えるばかりだ。

それに気付いたのだろう。杷勿の視線が雪那の前に立つ氷室に向く。

「手を、貸してやんなさい。」

肉付きの薄い弥代の体は、意識を手放すに至った原因とも言える氷室の腕に易々と抱き上げられた。

肩に上半身を預けるようにして、その下半身を左手で支えると、すかさず右手を雪那に差し出す。

このような状況であっても雪那に対する気遣いが欠かせない男だ。

手を借り立ち上がると、自然と氷室の奥で微笑む杷勿と目が合った。

「さぁ、こちらへおいで。」











「いや、何?なんで俺こんなところで寝てるわけ?」

意識を失う前、体を貫かんばかりの勢いで鳩尾を撃たれた際の痛みを思い出すように、目を覚まして早々弥代は声を上げた。

まるで本当に体に穴が開いてしまうのではないかと錯覚するほどの強い衝撃だった。開いていないとは思うが恐る恐る胸元に触れる。と、普段巻いているはずのさらしがない事に気付いた。よくよく自分の格好を見て見ると、見慣れない清潔感のある肌触りの良い服に袖を通している。どういうことだろうか。

あの使い古されたツギハギまみれのボロボロのそれはどうしたのか。

自分がそれまで寝ていた布団は、一月程前に吉野のあの敷居の高い宿屋で一晩足らずだが横になった物よりも断然分厚い筈なのに軽い。確か質のいい布団には真綿が詰められているなんて話を聞いたことがある。

下半身に掛けられていた掛布団を勢いよく剥いでみれば、上半身同様に下履き代わりに脚の付け根から巻きつけていた包帯がなくなっている。

短めの下履きの下、包帯の意図を理解したのか古傷の当たりだけはこれまた染み一つ見当たらないそれが巻かれていた。

「まじでわけわかんねぇ…」

ご丁寧に下履きには緩くだが紐が結ばれている。

恐らくは自分が意識のない間に、見ず知らずの誰かに着替えさせられたということだろう。考えただけで身震いしてしまう。

「うへぇ…考えたら気持ち悪くなってきた。つーかまじでどこだよここ随分快適じゃねぇかおい。」

悪態を零しながら立ち上がる。

見たところ八畳ほどの何もない部屋だ。

横に水の張られた桶と、畳まれた布が置かれているだけで、他は今しがた起き上がった布団が一式広がっているだけの空間。左手に襖、右手には見栄えのいい庭園が広がっていた。

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