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七話 神仏

「ここは榊扇の里。扇堂家の屋敷の西に位置する地下牢だ。お前は賊の残党で、扇堂…、この家の娘を誘拐したという疑いが掛けられた。俺は違うと思うと言ったんだが、聞く耳もなくこの場所にお前がぶち込まれたというわけだ。」

「随分なおもてなしじゃねぇかよ!?」

誰が一月も世話してやったと思ってんだ!と弥代が不満を漏らしながら、床に敷いた男の羽織を数回蹴りつける。

何か言いたげに黙り込むが、自分から言おうとしない限り気にするだけ無駄だと無視した。それよりも気になるのは男、春原だ。

寒いだろうと厚意で羽織りを貸されたものの、春原の羽織りの下は思っていたよりも薄着であった。それでも堪えるように(少々の体の震えは見受けられるが)、膝の上で拳を握りしめ正座をする様は、どこか可哀そうに見えてしまう。

別に意地悪をしているわけでもないのにだ。

何故この男は一人でこんな場所まで来たのだろうか。

二人きりで話したかったと言った。先の質問に対する反応からみて、昔顔を合わせたことがある相手であることは明白だろう。しかし喋りたくない事を無理に聞くのは気が引ける。自分は気が短い方だと自覚のある弥代は、果たしてどうのようにこの気の長い気怠そうな男と面識を持ったのか、気になるところではあるが。ただ顔なじみというだけで二人きりで話したく、疑惑を掛けられる相手を庇うようなことをするだろうか。気になることばかりだ。

しかし、今の弥代はそんな事よりもある事に集中していた。

「誰だって自分から痛い思いなんてしたくないよなぁ…」

「何の話だ?」

一呼吸。弥代は言いながら春原の目の前で体を小さく折り畳む。

限界まで肩を落とすのに対して、足を曲げる。

後ろに回った肩を無理やり前方に持っていくように動かし、繋がった腕の間に曲げた足を捻じ込む。

途中、ゴギッと到底人体が発してはならない、固い何かが外れるような音が鳴った。

「っあ!痛ぇっ!」

あろうことか、弥代は自らの体、恐らくは肩が無理やりすれば外れてしまうと分かった上で、拘束された腕をそのままに体の前に回してみせた。

痛くないわけがないのだ。鈍痛に耐えるように、ありがたく貸された羽織りに額を強く擦りつけ蹲ってしまう。

春原が思わず手を伸ばそうとするが、気配に気付き先に止める。

「触んなくていいから…、」

額に滲む脂汗が気持ち悪い。信用をしていいのかまだ曖昧な、それでも自分に対して敵意のない相手に容態を気遣われるのにはまだ抵抗があった。弱った所を見せるのは良いわけではないが、春原の口から聞いた現状を元に、弥代なりに最善の選択をしたつもりだった。

(いつまでもこんな場所にいるわけいかねぇだろうよ。)

外れた肩関節の痛みも落ち着きだした頃、ふらつきながらも立ち上がり壁際に寄る。壁を起点に同じように無理に肩を嵌める為だ。

多少痛いのは耐えられる。

気遣いを断ってからは一言も発しない春原が弥代をじっと見つめている。前髪で目元が隠れていようと、しっかりと感じる視線だ。

心配そうな目線をよそに、弥代は肩がはまるように体を押し上げた。


両肩を嵌めなおした辺りで気付いたのは、手の自由を奪っていたの物の正体だ。

木板に金具が嵌め込まれたような造りをしている。

弥代は多少もう痛いのは仕方ないだろ、と壁に向かって叩きつけた。

想像通り、二、三回壁に打ち付けると、金具の周りを囲っていた木板は元々あった木目に沿うようにして砕けてしまった。案外脆いものだ。

肝心の金具といえば、鍵穴らしきものが一つあるだけで、しっかりと細い手首を固定したままだ。

「いつまでも黙ってなくて良いぞ。」

「…?」

「いや喋って良いって言ってんだよこっちは。」

「鍵。」

「えっ?」

「鍵を、取りに行くか?」






「どっちだ!?どっちに曲がるんだよ!?」

「右、いや左、確か来るときは右を曲がったような…」

「来るときに右なら戻る時は逆だ!逆!左!こっち!」

「ここを、俺は曲がったのか…?」

「なーにも頼りにならねぇ頭してんなお前は!!」

「違う。興味がなかったから記憶に薄いだけだ。」

「薄くたってなぁ!思い出そうとすれば思い出せるもんなんだよ!畜生が!貴族様のお屋敷の地下ってのはえらい広いんだなぁ!!勉強になるぜくそったれ!」

似た造りの、特徴も変哲もない空間が広がる。

木霊す声が、それに対する返事がない事から自分たち以外に誰もいないことが察せられる。

「普通こういう所こそ見張ったりするもんじゃねぇのかよ!?」

「………長年使っていない牢だと言っていた。極めてこの里は平和だからな。」

肩を外し嵌めなおした直後、鍵の提案をした春原に弥代は何度目かになる横蹴りを入れた。流石に何度も同じ場所を狙うのは気が引けたので、反対の右脇腹に直撃したものだ。

前を小走りに行く春原は時折まだ脇腹が痛むのか、擦っている。河原で蹴った際には直ぐにケロッとした様子を見せていたのだが、攻撃されるわけがないと完璧に気を緩めていたのか、あるいは弱点だったか。どちらにしてもそう何度も蹴った場所を、擦る様を目にしてしまうと良心が揺らぎかける。

(いや、初めから言わなかったこいつが悪いんだし…。)

この男に対して謝るのは癪だと、弥代は言い訳をする。

そう元を辿ればこの男が痛い思いをしたのは、男自身に比が、恐らく、あるのだろうか。

「俺は何も扇堂の家の者ではないんだ。ただ面識があるだけで、偶然里に立ち寄った所を顔なじみに見つかって探すのを手伝ってほしいと依頼を受けて。だから、その、本当に悪意があったわけじゃないんだ。なのにお前がいきなり棒切れを投げてくるから。手元が狂ってしまっただけで。ここに雪那…あの女と一緒に運ばれた時だって、まさかあんな理由でお前だけが、こんな地下牢に入れられるなんて、本当に思わなかったんだ。俺が、お前に会いに行きたいと言えば連れに止められたし。だから俺は仕方なく、こうして一人で…、」

「喧しいわ!ちょっとは黙れ!言い訳並べた途端に饒舌になってんじゃねぇぞ!会話するのが下手なだけで、お前どこぞの自分の事語るのは得意なバカ女と同じぐらいうめーわ!ちんたらしてねぇで歩け!喋りながら歩け!一々止まんな!」

小走りに、しかし時折ぶつぶつと呟きながら足を止めては後ろを振り返るその様に謝罪なんてやはり必要がないだろう。

反応窺う。それはまるで幼子が親の顔色を窺う時ように、チラチラチラチラと、振り返るものでそろそろ弥代の堪忍袋の尾は切れそう、いや既に切れていた。

止まる度にその背中に何度か前のめりにぶつかるのもいい加減嫌気がさしてきた。道もまともに覚えていない様子から、前を歩かせてもあまり意味はないだろう。男を宛にした自分がバカだったと、弥代が前に出ようとした時だった。

「ところで、」

「いや止まんのかいっ!?」

言ったそばからぴたりと歩みを止めた背中に大きくぶつかる。

赤くなった鼻を、金具で固定されたままの手首を持ち上げて擦る。

「この後、お前はどうするんだ?」

「はぁ?!この後ぉお!?」

ついつい今まで以上の大きな声が出てしまう。

この覇気のない男を相手には、大きすぎるぐらいの声量の方が、聞こえなかったなんて言われなくて済むだろうが。

「ここを出て、それからお前はどうするんだ?」

「何当たり前の事聞いてんだ?」











扇堂家の屋敷は、雨降り信仰の地として、古くからこの島国に存在する大山の中腹から麓にかけての緩やかな斜面帯に建てられている。

かの富士山とまではいかないが標高も高い大山は、やはり山頂付近となると空気が冷え込む。

屋敷はその敷地も広いが、天井も高く、平屋の建造物にしては大きい造りをしていた。

まるで御山から流れ込むその冷気を塞き止めるかのように。

本堂は、正門を入って直ぐ、石畳を進んだ先に位置する。現行当主扇堂杷勿が住まう場所でもあった。

雪那が生活を行っていた離れは、東の外れに位置し、直系ではない分家の者達や、下女らが住まう西とはかなり離れた場所だ。

本堂の奥に位置する扇堂杷勿の私室には開かずの神棚が存在し、幼少期、まだ祖母と仲の良かった頃は中を見たいと、我儘を述べたものだ。里の発展に身を削り勤しむ祖母の膝の中は、雪那にとって特等席であった。

つい先日、縁談相手の元へ出向くように言われた際は、私室ではなく、里に商談に訪れる商人らと顔を合わせる部屋に通された。

簾越しに淡々と告げられる、予期せぬ話は雪那に狼狽したものだ。

しかし何をどう問えばいいのかも分からぬまま、翌日には数少ない従者と屋敷から出された。

会話らしい会話も出来なかった相手に、また会わねばならないのかと思うと、気が重たかった。

何を言われるのだろう。思わず逃げだしたくなる気持ちをぐっと堪える。

「大丈夫ですか。」

眼前の足が止まる。

見上げればそこには、能面のような何を考えているのか分からない、なんともいえない表情を浮かべた従者がいた。

「毒を、口にされたと聞いております。暫くすれば自然と抜けるだろうと医師は言っておりました。もしや、まだ気分が優れないでしょうか?」

「毒、ですか?」

身に覚えがないわけではない。河原で出会った男に襲撃された後、弥代の手によって森で身を潜めるように言われたその際、今目の前にいる従者と再会を果たした時に襲われたあの謂いようのない不調だろうか。雪那が問えば、従者氷室は小さく頷いた。

「はい。そちらで間違いないでしょう。あれから一日は経っていますが、どうですか?」

「貴方は?」

「…?」

「貴方は、怪我はもう、大丈夫なの?」

差し伸べられた、気遣うような手元、袖口から覗く腕に巻かれている包帯に雪那の目が留まる。

氷室は視線に気付いたようで、そっと裾を摘まみ腕を隠した。

「一月も前の話です。通りすがりの、旅の方々に助けられました。痛むときもありますが、支障が出るほどではありません。」

氷室、この男は雪那が離れの私室に引きこもるようになった頃、突然屋敷にやってきた男だ。

口数は少なく。問われたことを必要最低限にしか答えない。存在感が薄い男だった。

しかし氷室はその頃の雪那にとって救いとなっただろう。

乳母ということもあり、幼少期から長く連れ添った葵は歳も若くはない。日によっては乳母が傍にいれない事もあった。葵以外の色を持たぬ下女が近寄ろうとすれば、錯乱し耳がおかしくなりそうな金切り声を上げるのだ。

色を持つから襲われた、色を持つ者は、一方的に自分を知る相手は怖い、自分を傷付ける。齢十一の頃の事だ。

雪那の中に刻み付けられた恐怖心は、今は落ち着いたものの、当時はあまりにも痛々しかった。

夏の頃、雲一つない晴天のような、自分によく似た瞳を持つ男が、身一つで屋敷に訪れた。

『雪那様が、色を持たぬ者らを恐れられていると、そうお聞きしました。この私めに、どうかお役に立つことはできませぬでしょうか。』

必要最低限にしか口を開かない。余計な事を何一つしない。感情で言葉を言わない、一定の距離を保ち続ける、雪那の許可なく手を伸ばさない、まるで仕付け糸のような、そんな男だった。

それも一年、二年、三年と年を重ねるうちに、人間らしさを狭間みせるようになった。

足の爪が巻き爪気味なのか、一年を通じて足袋を履くのを毛嫌ったり、庭先から風に乗せられて舞う木の葉を一日中眺めていたり、何もしない時は我が物顔で雪那の私室の直ぐ脇の縁側に腰をかけて日向ぼっこをしたり、会話一つない食事時は辛いものが出れば僅かに眉を顰めたり。そんな些細な一面を少しずつ雪那は見てきた。

能面のような表情の下、今も包帯が見えないように隠す様は優しさだろうか。彼しか知らない答えだが、その様に雪那は少しだけ胸が痛くなる。

「心配、しました。でも知らなかったです。貴方、あのように刀を振るえたのですね。」

「振るう機会が今までなかっただけです。こう見えて腕にはそこそこの自信もあります。」

昔に比べれば口数も多くなっただろう。最期の自信なんてなくても良かったものだ。徐々に、雪那が昔以上に取り乱さなくなった頃から、こうして言葉を紡ぐ機会も増えてきた。

そして、刀。そう口にして思い出すのは弥代だ。

一月程一緒に暮らしていた弥代も、刀を持っていた。

しかしその刀身を、鞘から抜くことは一度だってなかっただろう。

何故抜かないのかと、気になって訊ねたことがある。

「人を、斬るのは怖いことですか?」

「はい、とても。」

『別に誰かを斬り捨てたいわけじゃない。必要になったら振るうさ。でも、人の命奪ってまで行きたいのかってーと、俺は多分まだ答えられないんだろうな。』

まるで他人事のように、そう答える姿が深く印象に残っている。

雪那は、恐る恐る口を開いた。

「氷室。もし、もしよ?もし、私が今ここで…」










「出口だー!」

長い階段を上り終えると、目の前に広がるのは木々と星空だ。

山の斜面帯に建つ扇堂家の屋敷は、間もなく暦の上では夏が訪れるというのに、まるで冬先のような肌寒さを感じさせる。

春原の手により肩に羽織らされた羽織りは間違ってなかっただろう。

その代わり、後ろから遅れて出てくる春原は地下牢にいた時よりも体を大きく震わせている。

「着るか?おめぇのだぞ?」

「寒いだろ。裸足のままなんだ。冷やすのはよくない。」

「うーん、裸足意外はお前にも言える事。」

ここまで来たら受け取るのが礼儀かもしれない厚意。手首は変わらず金具により固定されてしまっている為袖を通すことはできなくても、肩に羽織るだけで幾分かマシだ。裾は身長の問題で地面に堂々と面しているが。

「じゃぁその、なんだっけ?お前の仲間?探して鍵見つけてこんな屋敷さっさとずらかろーぜ!」

弥代が腕を頭の後ろに回してそう口にしたその時だった。

「騒がしいと思ったら何なの貴方達?」

空から、女の声が降ってきた。



長い、長い髪が夜風に攫われるように揺らいでみせる。

まるで宵闇に融けてしまいそうな。

耳は鋭く、目元は面布で覆われ、剥き出しの嫌悪感を体現させたような白い牙が覗く。髪色に近しい色合いの、巫女装束は肩の部分が露出し、その肌は血が通っているとは到底思えない程、奇妙なまでに白く透き通っている。

(妖怪の類か?)

声のする方向を振り向けば、毛量の多い髪ごと、夜空に同化してしまいそうな不思議な雰囲気を纏った女が一人、宙に浮いていた。

人が宙にずっと浮いていられるなんて聞いたこともない。恐らくは、間違いなく人ではない存在だろう。違いない。

さながら、天女と言ってもお釣りが来そうな程の美しい存在だ。弥代は心中で悪態を吐く。。

自分の手元がまだ拘束されたままであると忘れたわけではないが、思わず後方、階段を上ってきたばかりで寒さに身を震わせている春原をまるで庇うように構える。

河原での手合わせの際に、決して弱くはないのだろう事は分かったが、得物なくして身一つで戦えるようにはどうにも思えなかったのだ。

庇いたてる義理など、どこにも存在しないだろう。ただ、借りた羽織りの恩があるだけだ。

自分が迷って出られなくなるような可能性のある場所に、制止の声にも耳を傾けずに一人で踏み入ってくるような、そんな馬鹿な男が傷つく姿など、気分が良いわけないのだ。



身体は頑丈だ。

自ら肩関節を外せるし、嵌め治す事もできるぐらい、痛覚に対して耐性だってある。

武器がなくとも、たとえ相手がただの妖怪であるのならなんとかなるかもしれない。しかし、もし仮に妖怪以上の存在だった場合は話は別だ。

無言のまま、じっと見下ろしてくる存在が気に食わなくて、弥代は確かめ意味も込めて声を上げた。

「お前さんみてぇな妖が易々と足を踏み入れられるもんなのかよこの里ってのはよっ!?」

相手の出方を窺うように、反応を見逃さないように。安い、幼稚な挑発だ。

この屋敷、敷地内にいる妖怪には若干の覚えがあった。正確には、弥代が危惧するその存在は妖怪とは少し違う。以前一度だけ、雪那が話していた一族が祀り上げているという神仏的存在。

雪那は、“水虎様”とそう呼んでいた。

自分は見たことがないというが、屋敷を、里を護るだけの力を兼ねそろえた存在。そんなものを相手にするなんて、いくつ命があっても足りはしない。

「何それ?子供じゃあるまし、止めてちょうだい。そんな薄っぺらい言葉、虫唾が走るわ。」

何とも言えない回答だ。

それは弥代が求めるどの返事でもなかった。

ただ分かったのは、言葉は通じるということ、それだけだ。

切り伏せられた言葉。女は緩慢な動きで腕を振るい上げた。

どこからともなく、星空を背景に水の球体が姿を現す。

球体はぼこぼこと不気味に激しく動き回ると、次第にいくつかに分離しその形状を変えていく。

「なんだよ、それ…」

半歩、距離を取るように下がれば直ぐ背後の春原に軽くぶつかるが、自分の理解の範疇を大きく超えた現象に目を奪われ、ぶつかった事に気付く様子もなく弥代は声を漏らした。

それはまるで刃のように、月明りを受け反射してみせる。

水虎様、それは龍宮神の眷属、水の神。

そう。雪那が話した通り、神の名を冠する。いや、神そのものとされる、人間が容易く踏み入れてはいけない領域の貴き存在なのだ。

「私ね今。虫の居所が悪いの。」



女が腕を下ろすと、一瞬で重力を思い出したかのように、しかしその形状を維持したまま、刃のように水の塊が降り注ぐ。

「どわっ!?」

想像以上に早く地面に着弾したそれは、いとも簡単に地面に突き刺さる。

その場に暫く留まった後、元の流動体に戻る様は、まるで本物の水だ。いや、水なのだろう。水を含み変色した土が何よりの証拠だ。

時には雨降り信仰で知られる土地に古くから祀られ、またある時には水難除けの神として知られる、水の名を持つ恵の神である。

宙に浮かぶ彼女がそれであるのだと理解した弥代は、振り返り春原の腕を掴む。

「逃げんぞ馬鹿!」

遅れて降り注ぐ刃は、今しがた自分たちが出てきた地下牢の出入口付近の岩場さえも抉って見せた。

あんなもの掠っただけでも致命傷になりかねない。

いくら怪我の治りが早い自分でも、そんなのくらったらどうなるかなんて想像するまでもない。待ち受けるのは死だ。

「ちょこまかと動かないで。あまり戦うのは慣れてないのよ。」

どの口が言うか。

女・水虎が再度腕を振るい上げる。先程とは若干異なる。頭上でその長い指先さえも伸ばして見せる。

神であってもその手は人間と同じだけの五本の指があるようだ。そしてそれと同じだけ生み出される、先の刃よりも鋭利な槍が完成する。

どこか神秘的な光景に、一瞬心を奪われるも直後、それはまたも降り注がれる。

「後ろに。」

手元の自由が利かないまま、押そうにもびくともしない春原に声を荒げた時だった。一閃が眼前迄迫ってきた水の槍を引き裂いて見せた。

「持っていて、良かった。」

そこには、脇差よりも遥かに刃渡りのない短刀を握った春原がいた。

寸での所で弥代を背後に突き飛ばし、やはり左手に逆手に握られたそれによってあの槍を消してみせたのだ。

「所詮ただの水だろう。勢いを殺してしまえば、それでなんとかなった。」

「ただの水は岩や地面に穴開けねぇんだよ!!」

が、結果は春原の言う通りだ。

勢いを殺した、とはいうが目にも止まらぬ速さであった。それを一瞬で捉え、懐から抜いた短刀で狙いを定め、斬って見せる。ただの人間に出来る芸当ではない。

それが彼の、“色持ち”として持つ技能なのだろうか。

まだ春原が確実に“色持ち”であるという確信はないが、そうなのだとしたら頷ける。もしそうでないのなら、それは左手に握られた短刀に何か仕掛けがあるのだろう。何の変哲もないただの短刀にしか見えないが。

どちらかといえば古めかしい、所々に黄色い錆のようなものが目立った。



「私、私ね、気は長い方なのよ。でも駄目ね。駄目よ。貴女、貴女がそうやって過ごしているの、やっぱり許せないわ!」

それまでの二回とは違い、前に突き出し交差される腕。

頭上には比にならないほどの、巨大な球体が出現した。

春原はすぐさま、水の槍同様に切り裂こうと構えるが、弥代によってそれは止められる。

あの巨大な球体を前にそんな切っ先もたかが知れた短刀で何が出来るというのだろうか。比べることすら馬鹿々々しい程の質量が空を隠すように、地面に濃い影を落とす。力量差という言葉を知らないのかと、言いたくなったが、どうせ微妙な反応しか返してこないだろう。

「斬れるだろうか…」

「自信がねぇなら逃げるのが賢いに決まってんだろうがっ!!」

後方に突き飛ばされた体制のまま怒鳴る弥代を、春原は素早く小脇に抱える。

「止まるな!走れよな!!」

「暴れないでくれ。間違えて落としてしまう。」

自分の足よりも長い春原に頼ってしまうのは、当然だ。まだ手は自由に動かせないままなのだから。











「淩一郎様!どうか!どうか考えなおしてくださいませ!」

「ならぬ!ならぬぞ!喜久次!この私がわざわざ迎えに行くのだ!嫁殿もきっと泣いて喜ばれるに決まっておろう!」

「いえですから!何度も言っておりましょう!見合い話は一旦白紙に戻されたと!」

強引に牛車に乗り込もうとする主君を止めるの男は名を喜久次という。

代々この地、野田尻近郊を治めてきた鈴木家には、先代よりお仕えする従者である。

先代が亡くられて早三月の時が流れようとしていた。

家督は嫡子であられた長男の鈴木淩一郎が継ぐこととなったのだが、土地の治め方など何も知らずに甘やかされて育てられたこの淩一郎という息子はやることなること失敗続きだった。都度尻ぬぐいをしてきた喜久次の腹にはその内心労で穴が開いてしまいかねない程だった。

民の為を思って行った采配は、どれも民の首をしめるものだった。ある意味で才能であると喜久次は思い出すことさえも止めた。

今も丁稚ら奉公に相模国から訪れた青年らが数人、この地を後にした背中が忘れられない。

またどうせ何をやっても失敗するのだ。

それなら何もしてもらわないほうが幾分かはマシだ。

相模国にあるかの榊扇の里の主とは先代が面識があり、先代亡き今上手くいかぬ現状に、相談に乗るがてら孫娘に会ってくれないかと。そんな手紙が届いたのは一月以上前のことだ。しかし一向にその孫娘が訪れることはなく、何故だろうか話が飛躍し、まずは顔合わせだけだというのに自分の嫁だと、人の話を聞かずに今か今かと淩一郎は子供のように待ち続けた。

この三十日間ずっとだ。

それも昨晩、顔合わせ自体を一旦白紙に戻してほしいといった旨の書簡が届いた。

朝一に喜久次はそれを淩一郎に伝えたが、何を捉え間違えたのか、彼は出かける準備を始めたのだ。

「待っておれ嫁殿!この鈴木淩一郎!今会いに行きますぞ!!」

「人の話を理解する頭を持て!この馬鹿当主!」











球体が、迫る。

自分の足では到底追いつかれていただろう。それにすぐさま飲み込まれていたに違いない。

球体は、触れた場所から地面を抉っていく。

今尚肥大化を続けるそれはどこまで大きくなってしまうというのか。ふと先ほどまで女がいたであろう空を見上げる。そこに女の姿はない。どこにいったというのだろう。

弥代は春原の小脇に抱えられたまま、態勢を変えようと少し体を捻ると、視界の隅、あの長い髪が揺らぐのを捉えた。

「どうしてじっとしてられないの。」

突き出された手元から放たれる水流が、弥代を抱えた春原共々突き飛ばした。

あまりの勢いに二転、三転。

一際どっしりと構えた太い幹に、強く春原の身体がぶつかったことで勢いは失われた。

その衝撃は脇に抱えられたままの弥代でも相当なものだったというのに、それでも弥代を庇うように強く打ち付けられた痛みというのはどれほどのものなのか。

歯を食い縛る、苦痛交じりの吐息に、弥代が声を上げた。

「大丈夫かよ隈野郎っ!?」

「隈、野郎じゃ、ない…春原、千方…だっ!」

言い返せるだけの余力はまだあるようだ。

左からの突然の水流。背中を激しく打ち付けた事もあり、思うように息を吸えていないのだろうか。切れ切れの言葉は苦しげだ。

「動くからいけないのよ。」

一歩、一歩人間の真似事をするように歩み寄ってくる存在がすぐ傍にいる。

自分よりも体格のいい男を背負って、この手でどう逃げることができるだろうか。

あれだけの人智の及ばない、地形を変えかねないような力を持つ存在に、どう挑めというのか。

(考えろ、考えろ俺、こんな所でおっちぬ破目になっちまうぞ、そんなの嫌だろ、まだ何も知ってないだろ、何かせめて知りたかったんじゃねぇのかよ!?)

女のつま先がまた地を踏みしめたその瞬間、懐の固い感触に気付く。正確には春原に小脇に抱えられたままなので、春原の手元だろう。それはあの刀だ。

つい先ほど女が放った水の槍を切り裂いてみせた、あの刀だ。何の確証もない。が、もしこの現状を、差し迫る最悪の結末を回避するのには、それしかないかもしれない。

弥代は未だ離そうとしない春原の腕の中から半ば強引に抜け出し、その左手に握りしめられていた短刀に指を掛けた。

震える。

それは当然のことだ。

どう足掻いたって敵うわけがないと分かっているのだ。

自分が“色持ち”であろうとも、人より少しだけ体が頑丈で、怪我の治りが早くて、腕っぷしに自信があったって、踏み入ってはいけない世界に住まうような、死すら超越してるんじゃないかと、そう思えてしまうような相手に、どうやったって敵うわけがないのだ。

膝を強く叩く。

きっと、薄く膜でも張っているんだろう。

微かにぼやける視界の先、神の名を持つ相手に、その短い切っ先を真っすぐ向けた。

「やれるもんならやってみろ!」

「威勢だけは、本当に相変わらずね貴女。」











『あの子を外に連れていきたい?』

『そうだ!あいつ外全然知らねえだろ?!だから色んなものを見せてやりたいんだ!お前知ってるかよ!前にな海が見てぇっていうから朝早くにさ、こっそりおぶって走ってやったんだよ!したらさ、あいつ普段じゃ絶対に出さねえような声でさ!嬉しいそうな顔すんの!』

二月ぐらい前の早朝、部屋に起こしに行った下女が甲高い悲鳴をあげていたのは恐らくそれが原因でしょう。

見た目通り、あの子が望むままに見た目に合わせた表情で、縁側に身を乗り出すようにしてそう私に語り掛けてくる貴女がね私、ちょっとだけ妬ましいのよ。

貴女は無邪気な声で、表情で、仕草であの子に甘えるのだもの。私には到底出来ないことだから。

この屋敷に来たのが最近なんて信じられないぐらいに、貴女ってばあの子に懐いて、あの子も貴女を甘やかしてばかり。

良いわね。

すごく良いわ。

腹の底が煮えくり返る程にね。

『でさ!なんかよく知んねぇけどあいつがこの里から出る?には、お前の許可?がねぇと駄目なんだろ?だからさ、こうやって直接頼み込みにきたってわけ。』

嗚呼、それは駄目よ。

静止の声を上げれば、間を置くこともなく不足そうな声が上がる。

『なんでだよ!あいつに笑ってほしくないのかよ!?』

違うわ。それは違う。

笑っていて欲しい。出来うるのなら、どうか、どうか幸せでいて欲しい。でもそれは駄目なのよ。幸せになんてなれないの。あの子は。あの子、いえ、この家に産まれてしまった限り、誰も誰も誰も幸せになんてなれないのよ。

『わけわかんねぇ!わけわかんねぇぞ!なんで駄目っていうんだよ!?』

止めてよ。

声を荒げないでちょうだい。

私耳が良いの。

貴女の、そのちょっとだけ高めの音、大きくなると得意ではないわ。

『そんなこと今は関係ねぇだろ!なぁ、いいだろ?なんで駄目なんてそんな意地悪なこと言うんだよ!』

子供みたいな事言わないで。

貴女、ねぇ貴女だって本当はどうして駄目なのか分かってるんでしょ?お願いだからこれ以上困らせないで。

貴女を虐めたって、私ったらあの子に文句を言われかねないわ。

『うっせー!ばーか!』



「ねぇ、皮肉だと思わない?

あの子のいなくなったこの地を、またこうして貴方が踏み鳴らす日が来るなんて。

出来るのならそうね、二度と土を踏めないようにしてあげようかしら。」

八つ当たりだ。

それこそ子供の癇癪のような。

湧き上がる感情を、どう抑え込めばいいのか分からなくなってしまった。

何年生きてるのかと、自分に問いたくなるぐらいには長く、長く生きているはずなのに。

生き物は初めて直面する事態には、皆等しくどうすればいいのか分からないものなのだと、あの子が言っていた。それはきっと私にも言えること。

だから、もしかしたら次は上手くいけるかもしれないの。そのために犠牲が生まれるのは、仕方の無いことだと思わない?

浅葱色の髪に、深紅の瞳。

わざわざ仕立て屋を呼んでまで、喩えさせたその色を私は片時も忘れたことはないわ。

ねぇ、貴女。

今更戻ってくるなんて、とても、とてもずるいわよ。



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