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五話 小仏

卯月の頃、甲州街道沿いに位置する小仏宿近郊でちょっとした噂が出回っていた。

それは宿場町を南下した先にある森に、最近になって“色持ち”の男女が住み着き始めたというものだった。

一人はそれはそれは美しい女だという。

男は野田尻から二日ぶりにゆっくりと足を休められる故郷の地に帰ってきたばかりだというのに、昔馴染みの男に目ざとく見つかってしまい茶屋に引きずりこまれ、重たい荷物を下ろす間もなくそんな噂話に付き合わされていた。

「で?なんだってその女が?大層って別嬪って?実際にてめぇの目で見たのかよ?」

「とんでもねぇとんでもねぇ!こんなオラがお目にかかれるわけねぇようなそりゃぁ別嬪さんだととっつぁんらが言うんでぇ!でもよぉ、それでもやっぱり気になっちまってな、オラほんの出来心で見に行っちまったんだよ。」

頭の足らないとよく揶揄われて育った昔馴染みは昔から妙な所で度胸があった。それは自分にはないものだと思う。

「ほぉ、じゃぁその“色持ち”の別嬪さんをお目に掛かったと?」

「それがさ!オラが見たのは別嬪とは雲泥の差!連れの餓鬼の方でさ!そいつも見た事もねぇような“色”をしててな!いやぁもう見ただけで腰が抜けちまったよぉ…。」

数年顔を合せなかったが、良し悪しの分かり切っていない、変わらない様子に口元が緩む。

まさかこの昔馴染みは丁稚ら奉公に出て数年の自分がお暇を出されこうして小仏に帰ってくるはめになったとは思ってもいない、想像もしないだろう。

あくまで久しぶりに顔を見た昔馴染みとして、昔と変わらず接してくるのだから時の流れなど気にもならない、まるであの時のようなそんな懐かしい感覚に戻る。

「そら“色”自体珍しい存在なんだから。で、その餓鬼ってのはどんな色をしていたんだ?」











くしゅんっ

空を仰ぎすぎたか、小さなくしゃみを一つ零しながら鼻を啜る。誰かがいらん人の話でもしているのだろうか。手元の適当に蔦をくくりつけただけの棒切れを水面から持ち上げると、先に括った筈のミミズは綺麗にいなくなっていた。

(逃げられたか、食われたか…)

頑張ってこさえた釣り竿もどきも役に立たなかった。

後方に投げ捨ててから弥代は固まった姿勢をゆっくりと解すようにその場で背伸びをした。

ぐぐぐっと肩を持ち上げれば、少しだけ小高い岩場からは眼下の河原がよく見えた。

河原には女が一人、古びた着物の裾を股すれすれ迄捲り上げ足を沈めている。

直ぐ近くに色濃くなる深い部分を見つけ、弥代は声を上げた。

「進みすぎんなよ雪那さーん!そこ深けぇからさ!」

「弥代さん!ありがとうございます!」

長い髪を頭部で一つに括った、雪那さん、と呼ばれた女は一月程前宿場町吉野にて弥代が出会った貴族の娘だ。

今の彼女の姿を、貴族の彼女を良く知る者が見たらどういった反応をするのだろうか、若干の興味はあった。

長年染みついた言葉や話口調も仕草も早々簡単に変わるものではないだろうが、はたして貴族の娘が股すれすれ迄裾をたくし挙げて河原に腰を落とすだろうか。

なくはないだろうが、滅多にない事は間違いないだろう。

彼女、雪那は今弥代に教わったやり方で川で魚を捕まえようとしていた。それを逃すわけにはいかない。貴重な食糧だ。しかし一人でやらせてくださいと意気込む貴族の娘は弥代が止めるのも聞かずに堂々と手慣れた様子で意気揚々と河原に入っていったのだ。

別に川魚にこだわる必要はない。ここは近くに大きな湖もあり上流の方から魚が流れつくことが多いので比較的捕獲がしやすいというだけで。

が、弥代はそろそろ飽き初めていた。

雪那がニコニコと笑顔で捕れたと報告してくる薄っぺらい噛み応えのない味のしない川魚に。

(肉が、食いてぇな……)

諦めるのは得意だ。











一月前。

吉野にて下働きの給仕達に貸していたというお古の着物を譲り受けた雪那は、主人を失ったばかりの絹に忠告を受けた。

『三ツ江様からお聞きした限りですが、お気をつけくださいませ雪那様。里の大主にあられます扇堂杷勿様、貴女のお祖母様は早ければ今日明日にでも異変に気付かれるのではないかと危惧されておりました。書簡にはお相手の元に到着次第使いの鳥を送る手筈であったと記されていたようです。私は何もどちらの肩を持つつもりはございませんが、三ツ江様は貴女様が悲しまれるような、幸せになれない事は望まれていませんでした。私はあの方の意思を尊重します。しかしそれはあの方と同じように貴女をお相手の元迄お連れするわけではありません。どうか、どうかご自身の判断で貴女自身の幸せというものをお掴みくださいな。』

雪那は絹が人ではなく狼であることを知らなかった。

故に、あくまで大切な主人を亡くした年若い娘という程の認識だった。そんな主人を亡くしたばかりの心の整理もついていない相手に心配をされるなど、年上として恥ずかしくないのかと、自分を奮い立たせる彼女を安心させるようにその手を取って微笑んだ。

『絹さん。私は大丈夫です。貴女もどうか無理をなさらないで。』

「いやお前は無理をしたんだよ。どうかじゃねぇんだよな無理をした結果がこれなんだよなんで一人になった途端にあっという間に有り金全部盗まれる?天才か?何も大丈夫じゃねぇよな?なぁ雪那さんこっちを見ろよ。目、逸らすなよ?」

「面目ない…!」

「使い方おかしくないか?何を恥だって?俺はな、こっちを見ろってそう言ってるだけなんだけどな?」

ただ火で表面を炙っただけで、半焼けの川魚は味なんてするわけもない。一口噛みついてから不味そうに表情を顰めて食べるのを放棄する弥代を横目に雪那は思う。

弥代という相手はこんなにも自分に対して強い言葉を使うような人だったろうか、と。

少なくとも三ツ江が自分を庇って亡くなってしまったあの晩まではもう少し優しかった筈だ。いや、言葉の端々に底意地の悪さが感じられるのは変わらずだ。

もしこの対応の変化が、三ツ江の死を気にする自分への配慮だったり、するのだとすれば。


いや本来はこんな風に喋るのかもしれない。

初めて会った日の金銭のやりとりや、部屋を借りる際の会話を思い起こすと、まだあの頃は緊張や他人行儀さがあったとも考えられる。どちらにしてもこれは徐々に心を開いてくれている、そんな兆しなのではないだろうか。雪那は怒り心頭な様子の弥代と目が合うと何故か少し照れ臭くなってしまって笑った。

「いや!笑うところおかしいだろ!?」






吉野を出たのち、相模国ではない榊扇の里以上の人が住む武蔵国の中央をとりあえず目指さないかという提案を受け、地理をいまいち理解できてない様子の雪那は弥代の言う通りに、甲州街道を、かつての江戸に向けて進みだした。

 江戸はその名を冠する時代も存在した程栄えた三都のうちの一つだ。江戸時代にはこの国を天下を治めたとされる将軍家徳川の居城が構えられていたというが、ある頃を境にして徳川家は時代の影に消えてしまったらしい。

土地勘はなくともそういった知識はあるのか、道中そんな話をするも一切興味のなさげな弥代は感情の籠ってない感嘆を述べる。

『詳しいのな、なんか、そういうあれ。』

『幼馴染がいるんです。今この国を統治されている藤原のお家の方でして。』

話す間前方をよく見ていなかったのだろう。流石の弥代もまさかたとえ貴族の箱入り娘だとしても人にぶつかることはないだろうと思ったが、道中すれ違い際に笠を目深に被った細長い男と雪那は小さくぶつかってしまった。

『きゃっ!』

『おおっと、ごめんよお嬢ちゃん。』

不自然にぶつかった男に対して違和感を感じた弥代だが、雪那に怪我がない様子を確認し、それ以上何も言わないのを見てそのまま街道を与瀬宿に向かい進んだ。

与瀬宿に到着する頃には、日も傾きだしていた。

吉野と与瀬では一里も距離は離れていなかったが、距離とは別にある程度人が踏み鳴らした道は出来上がっているものの吉野同様に周辺を山々や木々に囲まれており、足元があまり良くはなかった。

山道からがむしゃらに一人走り逃げてきたという雪那だったが、それとはまた違った足場の悪さがあった。

道中腰を下ろそうにも地べたにそのまま座り込むのはと抵抗を示す事もあり、そういう所はやっぱり貴族ぽいんだなと小さく揶揄った程だ。

しかし揶揄いを抜きにして弥代は唖然とした。

良いところ育ちの雪那にはまだ野宿は厳しいだろう為、与瀬宿でも旅籠を利用しようと前払いを要求され雪那に持たせていた銭を出させようとした時だった。

『ありません?』

旅籠の主人と弥代の声が重なった。






「いや、やっぱり気付くな。気付かない方が考えられねぇよ。」

弥代は空腹に耐えかねていた。

別に数日まともに何も口にしていないわけではない。

なんならつい先ほども、ここ十日程一日三回口にしてる代わり映えしない炙っただけの川魚を食べたばかりだ。

それも一口、二口。噛み締めた時の味っ気のなさに、折角いただいた命も粗末にぺっと吐き出してしまった。

三日目迄は雪那もどこかうきうきとした様子で獲れたての魚をそのまま食べる事が出来るなんてと喜んでいたが、それも次第になくなった。

誰かと飯を囲む時、相手が嫌そうな態度を示せばそれはもう片方にも伝染するものだ。目の前で不味い不味いという相手が言うものを自分も快く食べれるなんてそんな人いるわけがないのだから。

川魚の薄っぺらい噛みごたえのなさにも飽き飽きとしていた弥代は雪那を川辺で火の見張りを頼み、一人近くの森を彷徨っていた。

有り金がないとなり宿場町で宿屋を借りれないとなった時、弥代ははっきりと野宿を提案した。

恐らく金を盗んだのは道中で雪那とぶつかった男だろう。

それももう二刻も前の事。今から走って追いかけても見つかる可能性も低い。幸い袋に入りきらないだろうといった先日の三ツ江の配慮で両替をしてもらった持ち合わせの金は二つの巾着に分けていた。

大体半分に分けたそれの片方は弥代の腰ひもに吊るされており、それが全財産となるわけだ。

二人で旅籠を利用したとしても一晩四百文として、七百文程度しか懐に残っていない。

弥代は最悪野宿に問題はないが、雪那は違う。かといってこんなひょいひょい人に騙されそうなお人よし丸出しの面倒事に巻き込まれやすい雰囲気の箱入り娘を一人で旅籠に置いておくのも気が気じゃない。

元々相場より明らかに安く、急ぎで両替をしなければよかったのかもしれないが他に両替なんて出来るわけもなかった。小判で旅籠を利用しようとする上等な着物を身に纏った“色持ち”の女なんて目立ちすぎにも程がある。

“色持ち”なんてものはそうでなくても目立ってしまう。出来うるのなら必要以上に目立たなくていいのだ。

手持ちが底を尽きてからではいざという時に動くのが難しくなりかねないといった理由もあり、元手をそのままに二人の野宿生活は始まった。

野宿生活が始まったばかりの頃はそれはそれは大変だった。主に雪那の反応が、だ。

一応彼女は貴族だ。

雨風凌げるしっかりとした屋根のあるでかい屋敷の中で、明日袖を通す衣服の心配もすることなく、出された食事をさも当たり前のように口にする。そんな彼女にとっての生活は急転直下した。

戸惑いを隠せない様子だったが、屋敷に戻らずに生きていくのならこれぐらいは我慢しろという弥代の言葉に渋々頷きはしたが、そこからが酷かった。

やれ布も敷かず土の上で横になるのか、やれ川の水などそのまま飲めるのか、やれ木々の音が耳障りでうまく眠れそうにないのだ、地べたで寝っ転がって口の中に虫が入ってくるのではないか、服の替えがないせめて一着は欲しい、川で洗ったら下流に汚れが流れていかないか、やはりそう考えてしまうと川の水は飲めそうにない等々等々。

上げだしたらキリがないぐらいにこれでもかという程問題点を挙げてきた。

弥代もここ数か月は一人旅をしていたが気にも留めなかった部分まで指摘され、そういやそれどうなんだろ?と気にする程に。しかし一々答えるのも面倒なので脅し半分に一言。

『なら屋敷帰るか?』

これぞ正に鶴の一声というものだ。

雪那は暫く口を開かなかった。



「余程あいつ家には帰りたくないのなぁ…。」

ぼやきながら目の前の低めの枝を潜る。

野宿生活の序盤では山々に生息する動物を狩って食べていたが、大きな肉食動物は雪那の口に合わなかった。

試しに小動物の肉を食わしてみたところ、そちらは大丈夫なようで、川魚ばかりでは体力もつかないだろうと、弥代はこうして時々川辺から一歩踏み込んだ林の中や山で手頃な食べれそうな小動物を捕まえられないかと挑んでいた。

しかし結果は惨敗。

地の利は相手にあるし、産まれた頃から過酷な環境下で暮らしてきた動物というものはすばしこいことこの上ない。

見つけてから追っかけたところで足の速さに軍配が上がっても、小さい上に縦横無尽に逃げ回るのだから触れることすら難しい。

だから弥代は考えた。

追いかけて捕まえないのなら追いかけなければいいのだと。

(いやー罠ってのがひらめちゃうあたりやっぱりそこそこ地頭が良いんだろうな俺ってば。言わねぇけど。)

どかりと腰を下ろすと、すぐ目の前の茂みに手を突っ込み細い木の枝の感触を掴み勢いよく引きずりだす。

「さぁー!今日こそは肉食えちゃうかなー!!」

勢いよく持ち上げた籠を視線の高さまで持ってくる途中で分かっていた。一昨日中に入れたよく炙った、食べ残しの川魚の重みすら感じない、籠は大層軽かった。

木の枝と木の蔓で見様見真似で形だけ整えた籠だ。不格好な見た目と相まって、等間隔ではなくなっている部分の柵を見て、弥代はそこから逃げたのだと一瞬で理解した。

熱が冷める。

無言で立ち上がると、誰もいないことを良いことに力いっぱい振りかぶった。

「くそがっ!!!!」

肉が、食えると思っていた。

飢えていた。

別に何も口にしていないわけではない。それは嘘ではない。でも、それでも弥代は肉が食いたかった。

大きい動物は口に合わない雪那を見兼ねて気を使い、彼女が食べれる川魚で妥協したものの、それも数日で彼女もどこか飽きたような様子を見せて、それでも川魚しかまともに獲ることができなくて仕方なく、仕方なく川魚を食してきたが、弥代は肉が食べたかった。



風が切る音がした。

力いっぱいに投げた不格好な籠はそのまま茂みの奥に姿を消すかと思いきやどういうわけか更に勢いを増して弥代の元、頭部に戻ってきた。

「…つぁっ!?」

綺麗におでこに直撃し、勢いに驚き仰け反るように体が後ろに傾く、と運が悪いことに足元には太い木の根っこが映えておりぶつかり態勢を更に崩し、後方にあった枝の多い茂みに倒れ込んでしまう。

「でぁっ‼ったぁ⁉⁉」

声にならないなんとも表現しがたい悲鳴があがる。

先の尖った小枝が皮膚を掠める。十や二十じゃない。自然に密集した茂みなんてものはそんな甘くはない。どちらかというと籠で打ったおでこよりも抜き身の肌を刺す小枝の方が痛む。

茂みから起き上がり軽くまとわりつく葉っぱや折れた小枝を払うと、初めに籠を投げた方を弥代は鋭く睨みつける。

態勢を低くして、腰紐に吊るした刀に手を掛ける。

日本人にしては珍しい左手で刀の鍔を中心に柄と鞘を強く握りしめる。刀は抜かない。無駄に人を殺めるのは信条に反する。抜くのは相手が自分を本気で殺そうとしてきた時だけだ。

弥代は長く刀を抜いていなかった。

少なくとも、ここ五年程は一度たりとも。






鬱蒼とした茂みの奥で何かが揺れ動く。木々の影が邪魔をしてよく見えないが、人の形をしている大きい、黒い影だ。

徐々に近付いてくる。

徐々に、徐々に、徐々、に…、……。

「ちんたらしてんじゃねぇぞ!?」

弥代の咆哮に茂みの奥の影が一瞬大きく動いた。

少し慌てたような取り乱したような動きから、相手に言葉が通じたのだろうと一撫でするも、相手の正体は未だ掴めない。

態勢のそのまま維持し、様子を窺っていると、その相手は茂みの奥から姿を現した。


男だ。

背の高い男が一人、姿を現す。

どこか青みを帯びたような長い黒髪が目元を邪魔する。

濃い愛鼠色の長い羽織りに、中には深縹色の袴を穿いてい。その腰には脇差と打刀がそれぞれ一本ずつ差されており、見るからにそれが男の得物であることが見て取れた。

ゆっくりと周囲を見渡すが、男以外に人の気配は感じられない。

弥代は男が纏うどことない気怠い空気にほんの少しだけ気を緩めたかのように、刀に回す手を離した。

「突然申し訳ないが、」

唐突に男が口を開くので、弥代は次に紡ぐ言葉に耳を傾ける。

「道を、教えてくれないか。」






男は背が高かった。

立ち寄った吉野や与瀬、またこの近隣にある小仏でもここまで木偶の坊のように背の高い男の姿は早々見かけなかった。若干猫背に見えるが、それもしっかりと真っすぐ背を伸ばせばもっと高くなるのかと思うと弥代は雪那を思い浮かべた。

雪那も女にしてはそこそこ背が高かった。

更に付け加えるのならあの女は体系も出るところが出ているなんとも恐ろしい発育具合だ。あれでまだ男を知らない未婚の貴族だというのだから、下手な年増に見初められでもしたら若干気の毒だ。そう考えてしまうとやはり暫くは何があっても手を貸してやったほうがいいのではないかと思えてしまう。いや、手っ取り早く安心できる環境にでもぶちこんで早々に自分は身を引くのもありかもしれないが、などとそんな頃を考えていると、視線を感じた。

男だ。

男がじっと弥代を見ている。






男はどうやら迷子になってしまったようだ。

知人とこの付近に来たのだが、森に足を踏み入れた辺りではぐれてしまったと言う。

森の出口か、近くの町まで送ってほしいと言われたが弥代にはそれにはいそうですかと答える道理はなかった。

少なくとも怪我をする要因になった男に対して手を貸す必要はどこにもないだろう。

『嫌だ。』

弥代が迷う間もなく男の願いを断ると、男は不思議そうに首を傾げた後、また同じ言葉を繰り返した。

『知人とはぐれてしまったんだ。申し訳ないが近くの出口か町にまで案内を』『嫌だって言ったけど?』

殺気はない。

放っておいても然程問題はないだろうと思い、じゃぁなと手を小さく振って踵を返そうとしたその時、服の裾を掴まれてしまった。

くんっ、と後ろにつんのめるようになる感覚はどこかあの晩見た夢の中の女を思い起こさせる。

『なんだよ、お前?』

『暗くのは、苦手なんだ。』

そんななりしておいてか!?という言葉は飲み込んだ。

どうしてかここ最近はこういった頼みを夢を含めて断れない。弥代は小さな唸り声をあげた後、男が掴む袖を払い退けて逆に男の羽織りを掴んだ。

『大層なもん着てんじゃねぇか。こんな森の中折角のいいもんが汚れちまうぜ。しっかり自分の握っとけよ。』

まだ若干熱を持った額に無意識に触れながら、弥代はそう言った。弥代からしたら直接ではないがついて来いよという意味を込めたのだが、どうやら男には伝わらなかったようで、言われた通りに羽織りの裾を掴みながら弥代を見つめていた。

『それで、次はどうしたらいいんだ?』






同じだ。

先の視線と全く同じだ。

何をしたらいいのか人に問うてくるような視線だ。

長く重たい前髪が邪魔してどのような目元をしているのかよく見えないが、それでもじっと視線を向けてくる。

「何?何か言いてぇの?」

「髪が。」

男はゆったりと喋る。

その気怠い雰囲気と相まって口を開くと、次の言葉を待つのも正直弥代からすれば億劫だ。

気が短いわけではないが、長いわけでもない。人によってはきっと気の長さも変わるだろうが、初めて接する気質のこの男はきっと苦手だろうな、と弥代は思った。

「とても、綺麗な色を、しているな。」

男の指が弥代の髪を、その髪の毛を掠める。

想像してみてもらいたい。

出会って間もない、好意も何も抱いていない異性にいきなり髪を触られて拒絶せずに済む女性がいるだろうか。

最近知り合った仲でいうのなら雪那、あの女ならきっと嫌々ながらも顔に若干出しつつ全力で拒絶はしないだろうが、ようはそういうことだ。

褒めた、つもりだろうが弥代からしたら気持ち悪い以外の何物でもない。掠めただけだったが、触れた指先を見つめたままの男の胸倉を掴む。

その差は一寸もなく。

男は急激に上半身が前かがみになる視線を取らされたにも関わらず驚いた表情一つ浮かべやしない。

「勝手に触ってんな。」

鼻先がぶつかりそうな至近距離で弥代がそう言い放つも男は一切動じる素振りがないが、一点。じっと弥代の右腕を見つめる。

何事かと視線の先、右腕を見て見れば肘下あたりから巻いてある包帯の手前に赤い蚯蚓腫れのようなものが出来ている。恐らく先ほど茂みに倒れ込んだ際に、小枝に強く引っかかってできたものだろう。意識してみればじんわりとその場所が熱を持っているのが分かる。

弥代が、こりゃ後で水で冷やさねぇとなと小さく呟くや否や男は懐に手を突っ込む。

距離が近い状況での男の突然の行動に、慌てて態勢を整えようと距離を取ろうと弥代が動きかけた瞬間、弥代は何故か顔から水を浴びていた。

「?」

何故?現状を一切飲み込むことができずに視線が行ったり来たりする。

目の前には変わらず先の男がいる。その右手には、竹筒が握りしめられている。竹筒は口が開けられ、僅かに水滴が滴り落ちる。

「冷えたか?」

何をさも当然のようにこの名前も知らない男は口走っているのか?いや、そもそもなんだ迷子だと言って無視しようと思えば面倒くさく服の裾を掴み、静かについてこればいいものをいきなり人様の髪の毛に触れてくる。面識は一切ない筈だ。相手も名乗らないのにこっちが名乗る道理はどこにもない。こっちはこっちであの夢が重なったから気がかりなのと僅かばかりの良心で手を差し伸べてやっているというのに、この男はなんだ?口には一切出さない。あくまで表面上は冷静に、冷静に。

弥代は肩を大きく上下させた後せめもの発散に大声を上げた。

「おかげさまでなっ!!」










「どちらさまですか?」

「いや、俺も知らねぇよ。」

「名乗ってなかったか?俺は「いや別に知りたくもねぇから名乗んな。つーか出来るなら口を開くなお前は。」

日が暮れる前に戻ってくると言っていた弥代は、どっぷりと日が暮れてからようやく森の奥から戻ってきた。

ドシドシと聞こえるわけもない足音が聞こえそうな勢いで、だ。

いくら野宿とはいえずっと同じ服装や肌着でなんていられないと我儘をいってなけなしの銭で買った新しい着物につい先ほど水浴びを終えて着替え終わった所だった。

慌てながらも合わせ目や髪に乱れがないかを確認しおえて振り向けば、そこには弥代と一緒に見知らぬ背の高い男が一人。罠に獲物がかかってないかと確認にいった筈の弥代は何故か、木偶の坊という言葉が似合いそうな、そんな男を連れて戻ってきた。

雪那自身、癖としては自覚していないだろうが困ると昔から胸前で両の指の腹をこすり合わせる。

今もその癖をしつつ、尋ねた。

男は何故だろうか、弥代の服の裾をちょこんと摘まんでいるし、弥代の髪は森から出てきたというのにどうしてか濡れている。

子供が水路に落ちてしまったのを親がしょうがないからと言って手を引くのは分かるが、この光景はどちらかといえば子供が水路に落ちて、子供が親の手を引く、そんな光景で。どうしてそうなったのか理解が及ばない雪那は首を傾げるばかりだ。



覇気の感じられない男だ。

血色の悪そうな顔には長く重たげな前髪の合間から微かにどんよりとした隈が覗く。背の高さも相まってまるで怪談噺に出てくる幽霊かのようだ。極めつけはその腰に差した二本の刀。弥代が持つような長いものと、短めのものが一本ずつぶら下がっている。

「何故、裾を?」

それ以外に、何を聞けばいいのか。

場の空気がぎこちなくなるのを感じて、口をついて出たのがそれだった。もっと他に聞くことがあったのではないかと後悔するのはあまりにも遅い。雪那は遂に指を絡めて、さながら神に祈りでも捧げるような恰好をしてしまう。

ぱちぱちと、恐らく瞬きをしたのだろう。

微かに数回揺れた前髪に弥代は目を向ける。

しかし男は一向に口を開こうとしない。

「お前だぞ。聞いてるだろあいつが。答えろよ。」

「俺か…。口を開くなと言われたから、黙っていた。」

そこからは実に、実に早かった。

男が言うや否や弥代がその場に浮いた。

いや、浮いたというのには語弊がある。

正しくは、飛んだのだ。

“色持ち”特有の体質か、あるいは元々なのかは知らないが弥代は腕っぷしに自信があった。

野宿を始めるとなった際には雪那の予備の服を買う以外、与瀬で何かを買うことはなかった。野宿の大半の道具が弥代が自ら探してきたか、自力で石を削って作ったものが殆どだ。一度だだけたまたま仕留めることが出来たという野生の雄鹿を一人で抱えてきた時は本当に驚いたものだ。四足獣でも鹿肉は特にうまいからと弥代が好意でその場で焼いて差し出してきたが、口に合わず数刻も経たずに吐き出してしまったのは本当に申し訳ないことをした。

そうではない。そう、弥代は腕っぷしに自信があった。少なくとも雪那は初めて会った時から何度かその弥代の力具合を目の当たりにしてきた。

その場で小さく飛び上がった弥代は、一切躊躇を見せずに勢いをつけるように回ると男の横腹目掛けて、蹴りをお見舞いした。

本当に一瞬だった。あまりに一瞬の出来事で男は上手く受け身を取ることもなく、いきなり手元から離れた服の裾のその主によって地面に伏せさせられたのだ。

雪那は思わず口元を覆う。

「いきなり何をするんだ。」

「少しは驚いた顔してから物言えや!!」

弥代は意外と穏やかだ。癇に触れさえしなければの話だが。出会い立ての、巾着を盗まれた辺りまではそれはそれは何度か雪那も弥代に吠えられる事があったが、もう少し穏やかだった。どちらかというと言葉を並べて少し意地の悪い事を言って自分はどうかと思うと、そんな筈だった。

しかし今を見て同じことが言えるだろうか。

激情、とまではいかないが怒り心頭といった所か。

名前も知らない恐らくは初対面だろう相手に対してこうも感情をむき出しに弥代が怒っている。

雪那はそこまで考えてようやっと腰を持ち上げた。

二人、いや主に一人を早く止めなくては、と。

(たとえ非力だと分かっていても駄目よ雪那!このままでは弥代さんが人を殺してしまいかねないわ!)

そんなことあるわけもないのに、どこかこの状況を面白がっている自分がいる。雪那は笑いそうになる口元を引き締め一歩、近寄ろうとした。


ーぴょん。

哀れにも、そこに一羽の野兎が姿を現した。






「いやー!いやぁーー!!肉かー!あーーー肉だぁ!!」

見た事もない笑顔だ。

しかしその手元は実に残酷で。

つい先ほど、三人の前に姿を現した野兎はほんの少しで肉塊と化した。

野兎を見つけるや否や弥代は素早く目標を変え、容赦など微塵も感じさせない速度でその足を掴んだ。野宿の拠点にしていた場所な為、そこには弥代が雄鹿の角で作った鋭利な刃物があった。捕まえると素早く刃物を掴みそれで野兎の喉元を掻ききる。

小動物から血が噴き出る。

飛び散った赤い飛沫は、恐らく一か月前の自分なら悲鳴を上げていただろうと、雪那は思いながら頬に飛んだそれを小さく拭う。川魚のつぼ抜きで嫌という程見た。

わくわくといった様子でその場で野兎を手早く捌き、焚火の火で軽く炙った太めの木の枝に差し、それが焼けるのを待っている。

(見た目だけなら、きっとあの子とそう歳も変わらない筈なのに本当に変わった人。)

変わった人は他にもいた。

男だ。先の男は今も弥代に蹴り倒されたままの体制でその場に転がっている。起き上がればいいのに、本当にそのままなのだ。雪那は何故か見てはいけないものを見てしまった気持ちに襲われる。どちらかというのならばかわいそうな人をみてしまったような感じだ。これまで味わったことのない感覚だ。胸が少しだけきゅっと、痛む。でもこれは気のせいだと男の方を見るのを止めて、相変わらず焼けていく兎肉を楽しそうに見つめる弥代を見ることにした。

「兎ってさー跳ねるだろ?跳ねるんだよ!でな、足の部分のここがまた旨くってさー!俺前に空腹で一回たしか生で齧りついたことあったんだけど、旨かったけど生肉で腹痛めちまってさー!そんなことがあったわけー!」

実に上機嫌だ。

続く川魚に飽き飽きしていたのがよく分かる。

雪那も弥代に倣い出来立てのこんがりと程よく表面が焼けた肉を口に含む。

「美味しい…!」

「塩も味噌もなくてもこれだぜー?鹿肉なんかより雪那さんの口にもこっちのほうが合うんだなー!いやーよかったよ!」

言いながら持っていた串刺しの肉を振り上げる。行儀は悪いが、これは行儀が悪くなってしまってもいいようなそんな美味しさだ。雪那がくすくすと漏らして笑うので弥代ももっと大振りで喜んでしまう。

食事というものはやっぱり一緒に食べている相手も笑顔でいてもらいたいものだと、そう思えてならない。

と、弥代の視界にそれが映った。

男だ。そう、例の男だ。

雪那がかわいそうなものを見るような気持ちに襲われた、弥代自身が蹴り倒した男が、蹴り倒されたその時のままの体制でじっとこちらを見つめている。

自分たちは日も暮れた川辺で焚火を囲んで、焼きたての肉を齧って笑いあっているが、さてあの男はどうだろう。

焚火の明かりも弱くあまり光が届かない川辺の、ごろごろと不揃いな砂利が転がる中でじっと、じっと、じーーーーーーーっとこちらを見つめている。

「……。」

「…。」

思わず無言になってしまう。

弥代は焚火で、もう焼けて少し火の弱い位置に移動した肉がまだ数本余っているのを横目で見ると、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ小さな声で、「お前も、食うか?」と男の方に声を投げかけた。

頭に血が上っていた。正直森の出口か近くの町まで案内してほしいという男の頼みを弥代はすっかりいやこれでもかというほど忘れていた。別に悪意があったわけではない。ただ本当に男のやること成すこと言うこと全てが、先ほどまではとてもむかついたのだ。

それが、今はどうだろう。

悪意があったわけではないのに、悪いことをしちまったという若干の後悔と焦りが弥代の胸を渦巻いていた。

(肉、食べた過ぎて苛々してたなぁ…。)

念願の川魚ではない食事に、嘘のように先ほどまであった怒りが消え失せた。それはまるで雲一つない晴天のように。

しかし声が届いてないのか、男は微動だにしない。

「座れば?」

素早い。実は声も聞こえていたのではないかと思うような、迷いのない機敏な動きで男は立ち上がり焚火に近づく。と、どういうわけか弥代の真横に腰を下ろした。

「…。」

「…。」

「うわぁ…」

「座ったぞ。」

「誰も俺の横になんて一言も言ってないんだけど?」

その光景は、実に気持ち悪かったとの後の雪那は語る。



何が楽しくて初対面の二人がそんな至近距離で肩を並べる必要があるというのだろうか。

思わず漏れ出た声に自分でも驚きつつも見ない振りをした。

「で?あんたなんであんな森の奥に一人でいたんだよ。連れだっけ?あんな所ではぐれるか普通よ?」

「連れが人を探していたんだ。」

「連れの人を?」

男は弥代が差し出した兎肉を受け取るも、小さく匂いを嗅ぐような仕草をした後それをそのまま弥代に突き返す。

折角旨いのに、と愚痴を漏らしながらも男の分までぺろりと平らげてしまう。雪那も小さい部位のお替りを食べようと手を伸ばす。

「じゃあ何か?お前はわざわざその連れが探してるっつー相手を探すのに付き合ってあんな森の中で一人迷子になってたのか?こいつは世話のねぇ話だな!笑いすぎて腹が空いちまってお前の食える分も全部なくなっちまうぜ!」

軽口を叩きながらも食べ進めていくと、少しだけ違和感が弥代を襲う。頭の奥が何かずきずきと刺激されるような違和感だ。

しかし構わず続ける。

「で、その探してるやつ?どんなだよ飯食わねぇんだろ詫びだ詫び!見かけたかもしんねぇからな。教えてくれたら探すの手貸してやってもいいぜ?なんつたって今の俺は気が良いからな?」

そうだ。弥代は今とても上機嫌だ。だから気付かない。真横に座るわりに男は自分ではなく、向かい側で話に耳を傾けるばかりでいる女、雪那の事を見つめていることを。

「そいつは、」

「おう、どんなだよ?」

「女で。」

「女で?」

「紫色の髪をしている。」

弥代は持っていた棒切れを男に向かって投げつけた。

慌てて視線を辺りに配らせる。

先ほど兎を捌く際に邪魔になるといって下ろした自分の刀は後方、雪那の左隣りの岩に立てかけてある。

男が腰に日本の刀を所持している事を思い出し、何よりも応戦できる武器をと、視点が男から離れたその隙をつくように、それは男の手元から放たれる。脇差だ。

脇差は綺麗に弧を描いて、弥代が投げた棒切れを弾き飛ばす。

刃渡りが短く細いため抜いた瞬間を見逃してしまった。

その軌道は弥代の胴に吸い込まれるように止まらない。

が、それはぎりぎりのところで防がれた。

雄鹿の角だ。刀に届く余裕はなかったが、すぐ後ろの兎を捌く時に使った刃物代わりの角があった。

胴に届く寸でのところで割行った角は一撃を受けただけで簡単に折れてしまった。ただの脇差ではない業物か、はたまたそれはこの気だるげな男の実力か。

防いだ際の反動でそのまま後方に体を捻る。

折れてしまった角をすぐさま投げ捨て、利き手で岩場に着地する。すぐさま右に飛べば、立てかけていた刀に手を伸ばす。

「やたらと動くんじゃない。」

男は弥代を迷いなく追う。それはつまりは雪那のいる方向に迫ると言うことで。弥代は刀を握るやいなや男のその握るその手首目掛けて蹴りを落とす。

「テメェがっ!動くんじゃねえよ!!」

蹴りは直撃した。

弥代の体重などたかが知れているが先の動き同様反動の効いた体重の乗った蹴りだ。男は左手から脇差を手放す。

小さく。痛みに耐えるように反対の手で抑えその場に膝を着く男。乱れた黒く重たい前髪の間から本当に小さく、青い眼差しがチラついた。

その色に気を取られていると間もなく、男は左手を抑えながら立ち上がり、なんということだろう、反対のその右手で腰の刀を剥いてみせた。

「両利き…?舐めてんのかあいつは。」

自然な流れで腰を落とす男。弥代は慌て右隣で状況についていけず置いてきぼりになる雪那の腰に手を回しまたその場を飛んだ。

先よりも鋭く素早い一撃が、つい今まで雪那が座っていた岩場を掠める。

岩に刀を向けるなど刀が折れてしまうのではないか、そんな疑問が脳裏を過ぎるが答えは目の前にあった。折れていないのだ。それどころか刃こぼれしたようにも見えない。

男は横に薙ぎ払った刀を両手で握り返す。

そこに弥代に蹴られたばかりの痛みはもうないのか、自然と握る。

「別に怪我をさせたいわけじゃないんだ。」

身を屈め強く地を蹴る。瞬時に詰められる距離は彼の瞬発力や足の速さではなく、上手いこと地を理解しての行動らしい。足場を強く蹴りあげた程度で実際に彼自身が早いという様子は見られない。

後方の森、茂みの中に転がるように雪那を抱え、しかし彼女の頭部を庇うように支え勢いを殺すように足を突き立てる。

「助ける道理はねえんだよ。刀向けられてまでアンタ助ける必要なんて俺にゃありゃしんねぇんだ。でもよ、短くたってこんなに一緒にいんだ。ここで見捨てるのは気分が悪すぎんだろ。」

たかが一月の付き合いだ。

それはどれも良いとは言えない思い出のはずなのに、弥代はそれをここで終わらせるのは偲ばれた。

そこには過去の記憶に繋がる何かがあるかもしれないとか、そんな思いすらあった。

ただ助けたい手を貸してやりたいだけなんて思うのは癪だと、そう弥代は言えなかった。

自分に言い聞かせるようにそうブツブツと呟く。暫くそうして森の中を我武者羅に駆け回り、弥代は突然足を止めた。

「ここにいろ!」

茂みの中、適当な木の根元に雪那を下ろすとそういって元来た道へと駆け出した。

身を低く紛れる。茂みの外を覗けば先程自分たちがいた野兎を解体したその場所にまだ男がいた。あたりを見渡しているようだが、先の遭遇時のこともあったからかやたらと茂みに入ろうとはしない。方向感覚がないのだろうか。真横に座られた時よりも少し遠目に見た方がよくわかった。

(あいつも"色持ち"か…)

珍しいものだ。

"色持ち"など雪那や先日の一件で出会った狼以外にここ数年、覚えてる限りでお目にかかるのなど滅多にない。

"色持ち"とはいるだけで忌み嫌われる、煙たがられる。本来はそういう存在なのだ。

長く重たい前髪は恐らく彼自身の"色"を隠すための隠れ蓑なのだろうか。



夜空を思わせるような暗い暗い瞳は、肉を焼くために焚き付けられた火種を反射し一際輝いたその瞬間、目が合った。

たちまち抜刀をする男に弥代は手元にあった石を目掛けて投げつける。

避けるよりも早く刀身で薙ぎ払われると、薙ぎ払うその瞬間大きく弥代の刀が男の脇腹にめりこんだ。

「…ッ!?」

それは先刻蹴り倒した際と同じ場所だ。

体制を崩しまたも横に倒れる男。

喉元に抜かない刀身を突き立てる。

「答えろよ。紫色の髪の女つったよな。いきなり刀抜きやがって何が目的だ。」

それは違う。初めに自分が警戒の余り考えもせずに棒切れを男に投げつけたからだ。しかし弥代は言いなおす事もせずに男をにらみつける。

男は答えず、弥代を見つめるだけだ。

片足で男の右手首を踏みつけ、刀が手元から離れるのを確認する。

「喋れねぇわけじゃねえだろ。言えよこの隈っころが。」

微かに肩が揺れるのを見逃さなかった。

「あ?なんだ癇にでも障ったか?大層立派な目元拵えてるもんだから」

「違う。」

「あっ?」



「隈っころじゃない、春原千方だ。」

調子が狂う。

弥代は男もとい、春原千方の喉元に突き立てていた刀の先をずらし、一歩後ろに下がると大きく天を仰ぐ。

(やっっっってらんねぇ~~~~~~~~~~~~~ッ!!!!)

またも怒りが沸々とぶり返すのを感じた。

そうだ、そもそも最近出会う奴ときたら誰も彼もどいつもこいつもこれでもかというぐらいに弥代の調子を崩す。話をまともに聞かない、会話の通じない相手ばかりだ。雪那に関してはかれこれ一月程一緒にこうして野宿をしてきたので徐々に慣れだしてはいたが、それ以外はどうだ。

吉野での三ツ江や絹。死人を悪くいうのは気持ちよくないのであまり言いたくは無いのだが、もうちょっと意思疎通は出来たはずだろ。絹に至っては完璧に弥代の事を下に見たような、上辺では敬ってますのような物言い。汐らしさなんて束の間、人のことをおちょくりやがってよー!と弥代は怒りを発散するように近くの硬い岩場を何度も何度も踏みつける。それは見た目のまんま、まるで子供の癇癪のようだ。


「俺の名前は春原千「誰も聞いちゃいねぇんだよクソ野郎がっ!!」そうか。」

(そうかじゃねえんだよ!!)

弥代は再び春原に抜かずの刀を向ける。

「で、何なんだよアンタは?」

「俺は、」

男の言葉は弥代の耳に微かに届いた悲痛な叫び声により届かなかった。

と同時に足場が急激に傾く。いや違う傾いたのは弥代の体だ。ぐにゃりと歪む視界と合わせて全身に悪寒が駆け巡る。初夏の香りが控えた、卯月の侯の晩にしては肌寒い。それも違う。違う。分かっているこれはそんなものではない。体全体を内側からジワジワと蝕んでいくようなこれは

「毒…?」

男、春原千方を睨みつける。

「運が悪かったな。俺の身内にいる薬師の薬だ。匂いに覚えがある。先の兎にでも仕込まれていたんだろうな。」

「テメェがっ!…盛ったんだろ…っ!?」

「心外だ。」






「傷付ける、怪我をさせるつもりはないんだ。」

「嘘はつかない。」

「言っただろう、連れとはぐれたと。」

「誰も一人なんて、言ってない。」

昏倒する意識の中、男の声だけが脳内に木霊する。

あぁぁあああああうるさいうるさいうるさいうるさいからうるさいねえうるさいうるさいよそれいじょううるさいうるさいうるさいうるさいからやめてうるさいうるさいうるさいうるさいっ‼



『 ーー嘘つき。』

冷たい土の感触に弥代は目を覚ました。

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