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四話 三ツ江文左衛門

「嫌よ、」

『雪那、アンタは幸せにおなり。』

「……やだ」

『それが、アンタの為になるんだから。』

「…、いやだよっ」











「もう止めてよ!」

突然、それまでの様子とは一変した悲痛な声があがると、三ツ江の体は小さく突き飛ばされた

尻もちを付きながらも今まさに自分を突き飛ばしただろう相手、雪那を見つめると顔を覆いながら小さく嗚咽を漏らす彼女の姿がそこにはあった。

暫くして先の彼女の声に呼応するかのように、揺れ動く牛舎が徐々に収まっていく。

齢二十一にもなって尚、彼女はまだ精神的に未熟であるというのは先刻の会話の際に気付いていた。

気分でコロコロと話の矛先が定まらず、そっと託すように話をすればそれに何の疑問も抱かずに乗せられる。

一切他人を、例え顔の知った相手であっても疑わずに口を開くのはどういうことなのか。“あれ”以降これまでずっと引きこもってしまっていたのだとしたら、なんとも労しい。

夜半、危険を承知で吉野を出たというのに何事かと、三ツ江は震える雪那の体を優しく抱きしめながら声を荒げる。

「御者殿!如何なされましたか!?」

返事はないまま揺れは収まる。

足の遅い牛ではいずれ直ぐに追いつかれてしまう可能性を懸念して、吉野にいた御者に無理をいってしまったのが間違いだったのだろうか。

三ツ江は雪那の体を寄りかからせると、それまで自分の背後にあった壁の戸を開いた。

血が、広がっている。

そこには体がない。


本来は牛に牽かせる筈の屋形を無理やり馬車に括り付けた。不格好ではあるが以前知り合った事のある商人に脚の速さならそういう使い方もあると破天荒な乗り方を教わった。相場の三倍を支払うからと言えば五倍で手を打つといった吉野にいた御者はどこへいってしまったのだろうか。

屋形の側面には飛び散った血液が生々しくその答えを語っているというのに。

三ツ江は声をあげる。

「御者殿!御者殿!!」

返事はない。が、その代わりに一際劈くような馬の鳴き声が辺りに響き渡る。

ぐっちゃぐちゃと、耳を塞ぎたくなるような音が前方の暗がりから、鼻が曲がってしまいそうな耐え難い異臭が届く。

間もなく暗がりからいくつかの影が溶け出した。

(狼…?)

四足歩行の獣には見覚えがある。

(一匹、二匹…、五、六、……九、十、匹…!)

それは狼の群れだろうか。

いや群れであるのならもっと多頭であろう。

狼の集まりとでもいうのか。

夜空を照らす月あかりを受けて怪しく光るその鋭い眼光。

数匹の口元は赤い、赤い血で鮮やかに彩られている。

暗がりに上半身を投げやるように横倒れになっている馬か、馬を運転していた五倍の値で交渉をした御者か。どちらとも構わない。

三ツ江は慌てて戸を閉めた。

内側から衝立をし、物見窓も塞ぐ。

狭い、狭い屋形の中で未だにその身を震わせている雪那を守るように覆いかぶさった。

「あぁ、違うのです雪那様!申し訳ございません!三ツ江は、私はただ、ただ貴女に辛い想いをしてほしくない、ただそれだけだったのでございますっ!」











『絹、お願いがあるのですよ。』

三ツ江の顔なじみという客人に一等質のいい部屋を分け与えて間もなく、三ツ江のお宿は今日も今日とて繁盛していた。

甲州街道吉野は周辺を山々や自然に囲まれており、宿場町以外に近隣には人っ子一人住んでいやしないが、その分宿場町全体が栄えている。昨晩二人が泊まったような茶屋県篭宿のものが多いが、あまり防犯面では不用心な所が多く、商人が行き来する街道という事もあり三ツ江が経営する宿のように安全性の保障された宿というのは貴重なものだ。例え一泊食事つきで四百文程と値が張ろうとも、大切な大切な商品を盗られてしまいかねない危険を天秤にかければわざわざ遠くからやってくる商人はそういう生き物なのだ。

部屋の数もあまり空きがない中、夜は飲み屋としても営業をしているお宿では夕餉の支度と合わせて仕込みが行われていた。早いものは早朝に漬けおいたものもある。

絹は厨房で下働きをする給仕らにテキパキと指示を出していたが、三ツ江のその一言に手元を止める。

呼ばれた座敷で彼は静かに頭を下げた。

『三ツ江様どうされました?頭をお上げくださいな??』

絹としては自分を拾って育ててくれた三ツ江が自分に対して頭を下げるなどあってはならなかった。その肩に手を置くと微かな震えを感じ取る。

『絹、絹よ。どうかお願いします!どうか、どうかっ!』


「三ツ江様は不思議に思っておられたのです。

雪那様がただのお忍びだとしても少人数でこんな辺鄙な国境に訪れるのかと。杷勿様、でしたか。里の大主の方は、曰く間違っても雪那様をこのような危険な自分の目の届かない土地に追いやるのを見過ごすような方ではないというのです。私は狼ですから。狼は脚が早いですから。言われて間もなく…そうですね貴女方がお食事をされている時には山にいましたでしょうか。狼は鼻もとても利くのです。

もし、雪那様が仰る通り賊に襲われたのなら血の匂いがまだする筈だと、匂いを辿りました。結果、」

「あいつが言った通りだったってことか。」

それには目を疑いたくなるような惨事が広がっていた。

薄っすらと、血の匂いに交じって同種である狼の匂いも残る。賊に襲われたといっていたが、狼にも襲撃されたのかもしれない。いやもしくは狼がハゲタカのように残った得物を掻っ攫いに来たのだろうか。

横転した牛舎の脇には、骨と若干の臓物を覗かせるだけのむき出しになった大きな死骸が一つと、周囲には何が原因かその場で生きたまま爆ぜたかのような痕跡が複数。本体から分離したであろうどことも分からない四肢が無残にも投げ出されていた。

崖の淵には黒く変色した血痕がいくつも転がっていて、崖下を覗き見れば転落しただろう痕も見受けられた。

絹は息を止めながらそっと死臭の強い牛舎に近づき、中に入り込んだ。

書簡があった。

覚えの悪い絹は字の読み書きができなかったが、他に手掛かりになりそうなものはいくら見渡しても見当たらなかった為、それを咥えて元来た道を駆け抜けた。

「今思えば渡さなければよかったと、とても後悔しています。」「なぁお前どうやって喋ってるんだ?!狼なんだよな!どうやったら人の言葉が喋れるようになんだよ!?」

ぽつり、とそう零すのに被さるように発される言葉に絹は眉間に皺を寄せた。声の主は先ほど遠慮も手加減もなく自分の腹を蹴った、三ツ江が恐れた存在だ。

それは今、絹の背に跨っている。

「静かに、出来ませんか?狼は人間よりも耳も良いのです。貴女の声はこの姿の私には耳障りで性がありません。」

「え!?何?!風の音でよく聞こえねぇ!!」

まだ痛む腹を理由に地面に叩きつけられないものか。

捨て置いて身軽になって自分ひとりで三ツ江の元を目指せば幾分か早く辿りつけるだろうに。そんな考えが過るが、絹にはそれができなかった。

「貴女がもっと色々と知っていたのならこうはならなかったでしょうね。」

「聞こえねぇけどなんかすっげぇ失礼な事言われてるんだろうなって事は分かるからな!!」

「どうせお乗せするのでしたら初めては三ツ江様がようございました!」

何故三ツ江から危険視され、自分から雪那を遠ざける必要があったのかを、弥代は知らなかった。

絹は三ツ江から過去にあったとされる榊扇の里での大火災の件を聞かされたことがあり、恐らくはそれと弥代を同一視しているのだと思った。

“色持ち”ではあるがそれもおかしな話だ。

三ツ江の話すそれはもう二十年も前の話だ。

弥代は成人を超えているか超えていないかぐらいの年頃の子供だ。二十年前と同一人物であったとして、何故この子供は歳をとっていないのだろうか。

鬼という生き物は長命ではあると聞いたことがあるが、一切容姿が代わり映えのないなんてそんなことがあるのだろうか。端から絹は弥代を力づくで引き留めるつもりはなかった。主人の間違いを間違いのままにしておくことを絹は出来なかった。

事の顛末を報告すると言って宿を後にしようとした絹の背に弥代は無遠慮に跨ったのだ。

『連れてけよ。』

思えないのだ。

三ツ江の言うような鬼に。

この、こんな、出会って間もない筈の雪那を気に掛けるその姿勢をたとえどんな理由があろうとも崩そうとしない子が、大火災を引き起こした鬼であるなどと。

背に跨る事を拒絶しなかったのは自分自身だが、今こうして興奮を隠しもせずにはしゃぐ様は後悔でしかない。

いや、だからこそ余計に思えないのかもしれない。

青い髪に、赤い瞳の“色持ち”など確かに稀だ。

絹自身“色持ち”でありながら人に化けることも出来、人の言葉を巧みに操ることのできる狼ではあるが。

絹はただ駆ける。

山沿いの風に乗って、夕刻よりも色濃くなった新しい血の匂いに嫌な予感がする。杞憂であってほしいと、より一層前脚に力を込める。

この背中のお荷物を下ろせばもっと、もっと早く走れるのは明確なのに。

早く、どうか何事もないようにと、そう願い走る。











その瞳が、妬ましかったのです。

弥生の頃、私はあれから毎年のように花を小脇に抱え、季節が変わる度に扇堂の屋敷がある榊扇の里に足を運びました。

初めのうちは長男を亡くしたとあって、家族一同手を合わせに里に訪れたものですが、それも次第になくなっていきました。そもそもが武蔵国から榊扇の里は距離があり、牛舎であっても複数人運ぶとなれば五日はかかってしまうのですから。

両替商というその土地に根付く商いを生業にしていた父や、産まれてこのかた武蔵国から一歩も出ずに育った妻や子供たちはさぞ辛かったことでしょう。人は、亡き人に手を合わせることよりも自分の楽を選ぶ生き物なのだなと知りました。

皮肉な話です。兄にこき使われ、幼少期から一緒に野山を駆けずりまわったり、重たい腰を上げる必要もない両替商だというのに近隣の町へ出向いたりしていた私にはそこまで酷ではなかったのです。

実家は兄の妻が切り盛りをするようになりました。

父なき子に行く行くは継がせるのだと言うのです。

私ではなく兄を愛していた私の妻からも実家にいると煙たがられるようになり、居場所を失った私は兄の目当てであった榊扇の里に店を構えることにしました。一人分の少ない荷物を抱え、書置きだけを残して。

季節が変わる度に私は屋敷に足を運び続けました。

大火災後、大通りを中心に火が里全体に燃え広がり、復興に追われる里の人々に可能な限り尽力し、両替商という商いがなかった地に私が店を構えた事で外からやってくる不当な額を手数料と差し引くような輩も多くほとほと困り果てていたというのです。火災で身内を失ったという共通点もあり、私を里の方々はよそ者として扱わず、まるで本当の家族の様に接してくださいました。

そんな家族のような方々にさえも私は罪を洗いざらい吐き出すことは出来ませんでした。

たった二人の兄弟。血を分け合った双子の兄を、私怨があれども見殺しにしたなどと、到底、打ち明けることはできませんした。

この世にもし、私と同じ事をし、それを家族に告白することが出来るという方がいるのでしたらお逢いしてみたいものです。きっと、心が強い方なのでしょう。弱い私には、それが出来ませんした。


里での生活を始めて五年が経とうとしていた頃、里ではある意味名物ともいえる身に堪えるという寒い寒い冬にも慣れたものです。

五年も経つ頃には里の修繕も当に終わり、かつて初めてこの里に兄と訪れた頃のような活気が、賑わいが戻っていました。

兄の命日、私が冬ぶりに屋敷を訪れると、あの蔵があった場所には大きな離れが建てられていました。

屋敷の護衛の方々とも顔なじみになり、小さく挨拶を交わして歩きなれた庭を一人、その離れの方へと歩みよっていると、それは私の足元にぶつかってきたのです。

『雪那様!何をなされていらっしゃるのですか!?』

大判の布巾を小脇に抱えて駆け寄ってくる下女は足腰が弱いのか、どこか足取りがおぼつきません。

私は下女に無理をしないように託すと、足元のそれを抱え上げました。

どこか懐かしい、色がそこにはありました。

硝子玉細工のように煌めくその瞳は青く。

それはあの、文右衛門の瞳を私に思い起こさせたのです。

しかしそれは文右衛門とは全く異なる、小さな、小さな少女でした。

初めて目にする、藤の花よりも深みのある紫色の柔らかそうな髪をした小さな少女。

“雪那様”と下女に呼ばれた少女は私の腕の中で居心地が悪そうに身じろぎをしました。慌てて足元に下ろすと、距離を取られるかと思いましたがそうではなくその目を大きく輝かせて私を見上げた言ったのです。

『はじめてみるひと!おじさまだーれ?』

無垢な瞳が私を捉えます。

期待や好奇心。そういった類のものでしょう。

一切隠すことなく向けられるその眼差しに、私は初め怖気づいてしまいました。

何も幼子が苦手というわけではありません。

愛もなく生まれた妻との間の子には、なかなか触れ合うことが出来ず悲しんだ程です。

ですが、それとこれは全く別の話なのです。

私は、抱えていた花を落としその場から逃げ出しました。


皐月の頃、私はまた屋敷を訪れました。

この五年間春夏秋冬屋敷に訪れていた癖でしょう。

しかし花を抱えず、まるであの日出会った“雪那様”を確かめるように、私は恐る恐る庭を行きました。

離れのある方から駆け寄ってきたのだから、あの新しく建てられた離れは恐らく“雪那様”の居住空間なのでしょう。一歩、一歩踏みしめるように私は庭を行きます。

扇堂家の庭はそれはそれは美しい花々が咲き誇っているということで有名でした。今までは季節の花々に目を向ける余裕がございましたが、今年は春もまともに拝むことができませんでした。それは一つ、私の楽しみでもあったのです。

『こんにちは!お花のおじさま!きょうはおはなをもってないのね!よかったらこれをうけとってくださいな!』

後方から近付いてくる存在に肩を大きく揺らします。

まさか、まさか後ろからくるなんて誰が考えますでしょうか。両手いっぱいに抱えきれないような花々を抱きしめて花を差し出してくるのは紛れもない“雪那様”でした。


人懐っこく愛らしい笑顔を分け隔てなく浮かべるその少女の名は、扇堂雪那と言うそうです。

驚くことに、この里の大主である扇堂杷勿様のお孫様らしく、扇堂家は代々“色持ち”である血縁者が家督を継ぐようで、産まれながらにしてそのあまりにも特異すぎる紫と青を宿された雪那様は、次期当主候補として将来を約束されたような存在でした。屋敷には分家の方々も住んでいるそうですが、雪那様と同世代のご子息女らには“色”が見られず、次期当主は雪那様の他にいないといわれる程だそうです。

商いをする傍ら、私が計算をする横で勝手に畳の上で雑談を広げる里の亭主らが教えてくださいました。

自分たちだって仕事があるでしょうに、そうやって居心地がいいからと私の店で話すのですから、迷惑とまではいきませんが少々商売の邪魔ではありました。

ですが里にきて日も浅い私には知らない事が多く、気をきかせたのでしょうか。近隣の長屋に住まう亭主らは頻繁に私の店に顔を覗かせました。それらはそんな話の中で知りえた情報でした。

『俺の母ちゃんだな、雪那様の乳母をしてんだよ!乳なんかもう出ねぇくせして乳母気取ってんのいやぁ本当に笑い草だぜ!』

屋敷に訪れる者はそれでも限られていたのでしょう。

離れで大事に大事に育てられている雪那様からすれば、たまたまかもしれませんが見知らぬ顔の私が物珍しかったに違いありません。物珍しさというものは次第に薄れていくものではあります。ですが、私は何故か、どうしてかまたあの瞳が忘れられずに、物珍しさを忘れさせる程、屋敷に足を向けるのでした。

兄によく似た、その瞳が忘れられないまま。

『三ツ江様!三ツ江様!こんにちは!今年のお庭はね、竜胆が綺麗に咲いているのですよ。一緒に見に行きませんか?』

大層、愛らしく育たれました。

毎年すくすくと育っていくその様が、さながら実の娘のように私は見守っておりました。

やはり“色”というものは人を狂わせるのでしょうか。

自分が持たないものに強く惹かれるように、私は雪那様のお顔を身に屋敷に通い続けるのです。

実の子はおります。ですがやはりそこに愛はなく。

私の血が半分流れていようとも、触れられぬその存在を我が子とよべるのでしょうか。

その内私は、兄に花を手向けるという行為そのものを忘れだしていたのです。


それから数年後、扇堂家の屋敷が妖怪の手により襲撃を受けました。

陽の高い日中の出来事だったそうです。

母親が雪那様の乳母をしているという馴染みの亭主が私に教えてくださいました。

“色持ち”を狙った妖怪の襲撃に雪那様がお怪我をされたと。

居ても立っても居られなくなり私は駆け出しました。

突っかけるだけになった草履も、乱れる着物の合わせ目なども気にも留めず、走るのに慣れていない座り仕事が多い私は何度も道中転びましたが、それでもそれでも立ち上がり土が口の中に入ろうとも構わず、私は屋敷を目指しました。


『怖いよ、やだよ、来ないでっ…!』

あの愛らしい笑顔はどこへいってしまったのでしょうか。

悲痛な叫び声が私を、いえ全てを拒むように鼓膜を揺らします。

私は、そこでようやっと思い出しました。

いえ、思い出したのではない。聞かなかった、気付かないでいたふりを止めたのです。

雪那様。

雪那様はこの里の大主であられる扇堂杷勿様のお孫様です。数年前のあの大火災で、屋敷内から一人犠牲者が出たそうです。その方の名前は扇堂春奈様。雪那様の母君でした。

その名は、兄がなくなってた翌年、屋敷の護衛の方々からお聞きしました。


あの晩、あの晩私があの鬼の子を止めることができていたのなら、雪那様は今こうして一人で泣き叫ぶこともなくあの笑顔のままおれたでしょうか。

襲撃時にもっと誰かが近くにいて護られていたのなら、お怪我をされることもなかったのではないでしょうか。


あの瞳が、妬ましかったのです。

あの瞳によく似たこの少女が、私をその瞳に映すことが私は、私は、私は…。


聞かないふりをしていました。

彼女の乳母をするという亭主が私の店で話に花を咲かせるのです。知らないわけがないのです。私は自分に都合の悪い話を聞かないようにしていたのです。それでも聞こえてしまう話は知らなかったようにふるまい続けました。

彼女の母君が死なないでいれた、そんな可能性があったかもしれないのに、私は何もできなかったのです。

何もできず、ただ自分の身可愛さに私は燃え盛る屋敷から飛び出し、里を転がりまわっただけでした。

双子の兄を、文右衛門を見殺しにしておいて尚私は自分の命欲しさに逃げ出したのです…!



どれほど時間が経ったでしょうか。

罪の意識に耐えきられず、私はあの足のまま里を飛び出しました。何度転ぼうとも、まるで雪那様から逃げるように私は里から逃げ出したのです。

道なき道というのでしょうか。獣道に迷い込んでしまい人とすれ違わない日々が暫く続きました。

それこそ獣の様に水を見つけては啜り、飢えを凌ぐために食べれるかも知らない草花に手を伸ばしました。こんな状況になっても尚生にしがみついてしまう人としての本性が、自分の浅ましさに、腹を満たしては吐きだし、またしがみつき全てをぶちまけて…。

そんな時でした。

打ち捨てられたようにそこに転がる、小さなに存在に私は出会ったのです。

子狼です。

毛並みは酷く汚れており、所々怪我をしているようでした。

私の気配に気付いたのか、小さく鼻先を震わせます。

手のひらをぺろりと一舐めすると、薄っすらと開くその眼は、あの雪那様以上に兄を彷彿させる青い瞳をしておりました。


「雪那様本当に、本当に申し訳ございませんっ!私は三ツ江文左衛門というこの男はそういう人間なのです!私は私は今尚、貴女様の身を案じながらも自分も生きながられる術はないかと諦めらずにすがりついております!嗚呼、どうか、どうかこの三ツ江をお許しくださいっ!!」

屋形が大きく揺れる。外の狼が中の獲物を逃すまいと衝撃を与え続ける。車輪が外れてしまえば態勢を崩してしまい、そうすればこの屋形も地面に落ちた衝撃で倒壊してしまうだろう。そんな事だけは、それでは自分諸共雪那も狼達によって命を落としかねない。どうにかできないものかと、とう三ツ江が懇願し続けた時だった。

外から、一際高い遠吠えが響いた。











狼はそこまで人間を襲うことはない。

吉野の周辺の山道では狼よりも賊の襲撃報告が多かった。では狼達が人間を襲う理由はなんだろうか。

絹の質問に弥代は答えた。

「味を、覚えちまったから?」

「恐らくそうだろうと思われます。馬車や牛舎で馬牛だけが狼に襲われたいう話は聞きます。そもそも賊に襲われたからといって賊も命までは取りません。彼らは金目の物を奪うことが出来さえすればそれでいいのですから。無徳な事。無意味なことをしないのは人間も同じでしょう。」

雪那が襲われたというあの場で人が命を落とし、その血の匂いに釣られて狼達が近づいてきて、牛以外に人間を食べ、その味を知ってしまったのだとしたら、今まさに向かっている方角から夕刻には匂わなかった新しい血の匂いがすることも納得ができるだろう。

自分の主人を自分と同族の者の手に掛けられかねないなど、そんなのあってはならない。

そう、あってはならないのだ。











屋形を食い破るようにして狼がその鼻先をねじ込んでくる。次第に大きくなる穴に三ツ江は雪那を庇うようにその体を抱きしめる。

雪那はいつの間にか意識を失ってしまったのだろうか。力なく壁に寄りかからったままだ。

三ツ江は先の遠吠えが狼達の群れが増えたのではないかと、危機的状況を脱する術はないのかと諦められずに思考を駆け巡らせる。しかし今までこんな事態に陥ったことのない自身では何も思い浮かばない。無力だ。無力さに打ちひしがれるな。

この事態は自分が招いた結果なのだ。

御者はもうこの世にいないのだろう。悪いことをした。だとしても駄目なのだ。私がここで諦めてはだめだ。誰か、誰かに雪那様を託すまで持ちこたえなければいけない私が、私がこの身を犠牲にしてでも。

「鬼の子、…」

望んでしまった。

兄を、兄を見殺しにすることになったきっかけの、あの大火災を引き起こしたとされる鬼の子なら、人ならざる力を持つあの存在なら、この状況を打開できないものかと。

嗚呼、しかし現実は非情にも虚しく、穴は次第に大きく拡がっていく。

私、私は…。


理性を失ったかのような眼光が自身を捉える。

剥き出しのよだれが伝う鋭い牙が三ツ江の肩口に食らいつき、背中に突き立てられた前脚の爪先が深く食い込む。

一匹。たかが一匹だ。体の小さい狼はまだ子供なのだろうか。出会ったばかりの絹よりもはるかに大きい。中の人間を先に殺してからゆっくり仲間と食らうつもりなのか、それ以上狼が中に入ってくる様子はない。狭い屋形では動けないと思ったのか、賢い生き物だ。

痛い、痛い。

まさかあの時の焼けた背中以上の苦痛を今世で味わうことになろうとは思ってもみなかった。

しかしそこに何故か恐怖はない。

三ツ江は肩口に食らいつく狼の頭を掴む。非力なものだ。掴んだところでびくともしやしない。

狼というのは、賢い生き物だと三ツ江は絹の事を思い出した。


「同族であろうとも、許せるわけがない!!」

聞き覚えのある声が、三ツ江の意識をはっきりと呼び起こした。

食らいつく牙は喉をかすめていたのか、息がうまく吸えない。ぶれる視界にそれでも必死に獣を離すものかとしがみついていた手に再び力が入る。

絹、絹は、大人しい子でした。

拾った当初は小さな狼で、子犬と大差ないから気付かれないだろうと、そう思っていました。

子狼は気付いた時にはどういうわけか人の子供の姿をするようになり、人の言葉を喋るようになったのです。

武蔵国に戻れば妻や両親に糾弾されかねないような、そんな見た目の子狼を、私はそれでも捨て置くことはできませんした。

一度榊扇の里に戻った私は、とても親しかった里の方々に見の心配をされましたが、その心配を横目に店を畳みました。それから数少ない資金を持ち、絹、と名付けた子狼と甲州街道は国境にございます吉野まで旅をしました。

その土地には昔から山道沿いに狼が暮らしているとかで、いつかは群れに帰れるようにと思いそこに宿屋を構えました。私の稼いだ金で何をしたって自由でしょう。

それでも時折は武蔵国まで戻り実家に顔を出しては、居場所のないそこから逃げかえるように私は吉野へと行き来を繰り返しました。吉野の私のお宿は、私にとって本当の家のような空間でした。

自分の家であるのなら居心地の良さを求めてもいいでしょう。金はありました。吉野には訪れる商人も質が良く、遠方から遥々来られるだけあって目が肥えていらっしゃる方もおり、何度もご贔屓にしていただけました。

私、私は…






「絹、私初めて、聞きましたよ…、貴女、あんなに大きな声、出せたのですね…?」


「人間は弱いのですよ。弱いくせに私たちより獣よりも長く生きて。しかし妖のように長命ではない。中途半端な生き物なのです。だというのに、それなのにそんな中でこうも無駄に抗う。」

「弱い、弱い生き物だと私は思うのですよ。」

「私たち以上に群れなくては生きていけない。自分だけの命をを優先してくださいな。どうして、どうして自分さえ守れないのに人を他者を守ろうとするのですか。弱いくせに、弱いくせにっ、弱いくせにっ!!」


「……きぬ、」

か細い。

漏れ出る呼吸音が徐々に薄くなっていく。

肩口に食らいつかれた際の息苦しさは間違いなく、三ツ江の呼吸器を掠めた。夥しい量の血が止まることなくあふれ出す。

絹は、三ツ江の体をそっと抱き上げた。

屋形の中には力尽きた狼と、未だ目を覚まさない雪那の姿もあったが、それらはどうでもよかった。

絹にとっては。

「三ツ江様、三ツ江様。どうでしょうか?お空、とても綺麗ですよ。吉野からはどうしても行灯が邪魔をして星が見えないといつも不満げに仰られておりましたでしょう。お見えになりますか、星、よく見えます。三ツ江様、三ツ江様、三ツ江様…。」

自分が身に纏っていた黒い装束を広げ、横たえる。

そこにはもう三ツ江はいない。

ほんの少し、待つことすらもできやしない。


人間だ。

自分を救った存在が神のようにでも思えて仕方がなかったのだ。三ツ江もまた人間であった。いやずっと人間だった。絹は改めて、今になってそれを知る。

こうして本来の姿を取り戻してそうして気付くのだ。

自分が獣でもなく、もう道を外れた存在であると。


本当は知っていた筈だ。

ただ人間に拾われただけで人に化けることができたり、人の言葉を喋り意思疎通ができるようになるなど、ありえない話だ。三ツ江様。私のご主人。その人に感謝を伝えるために与えられた恩恵であると、恩に報いれるようにと、そう努めてきた。それも終わりだ。三ツ江亡き今まだこうして人の姿を保ち続ける自分は違うのだと、これからどれだけの時間を、この先も生きなければならないのかと絹は現実に直面してしまった。











「雪那さんっ!」

屋形の中から三ツ江が絹の手によって出された後、弥代は辺りにまだ残っていた狼達を追い払って直ぐに飛び入った。

中は狭いなりも人が四、五人は入れそうな広さで、ただの牛車にしては綺麗な造りをしている。

しかしそんな事はどうでもいい。

壁際に凭れ掛かるように意識を失っている雪那の肩を揺らす。見た限り怪我はない。首元にも温度はしっかりとあった。

視線を下に逸らす。

彼女の上等な着物は飛び散った血しぶきを受けてとてもじゃないが落とすのには難しそうなぐらいに赤黒く染まっていた。

屋内に飛び散った無数の血痕と、横たわる無残な狼の死骸から、誰かがこの女を必死に庇うように一人で食い止めようとしたのがよく分かる。

(折角、何か手掛かりがあればと思ったのにな。)

弥代は落胆した。

先に三ツ江のお宿にて、絹が三ツ江に離されたという過去の榊扇の里での大火災。そこに自分の“色”と酷使した鬼がいたという話。

 夢の中にいた女、せんどうはるな。

今目の前で意識を失ったままの彼女と恐らくは同じ家名だ。それが意味するのは何か。

(出来るなら、聞きたかったな…話。)

横抱きに抱きかかえて外に出れば、三ツ江と思しき体を茫然と見下ろす絹の姿があった。

弥代は、ただ静かにその光景を見ていた。











「本当に、よろしいのですか?」

「えぇ勿論ですとも。」

翌日の昼時、弥代達は吉野に戻ってきていた。

当事者ではない下働きの給仕達は血みどろの格好で戻ってきた面々と、変わり果てた姿の見覚えのある雇用主に驚き中には吐いてしまうものもいた。

しかし絹は焦ることなく、店を畳むことをその場にいた者たちに伝えた。その時点で迷いは見られなかった。

「三ツ江様亡き後、この宿屋を続ける意義などどこにもございませぬ。この店はあくまでも、ご家族と過ごされるのが辛くなった際に三ツ江様が足を運ばれる、そんな安らぎの為の空間であり、商いはあくまで名目上の話だったのです。盛況ではありましたが。」

そうだ。この店は元々武蔵国のご実家で絹の世話をするのが難しくなった、そんな頃に三ツ江と短い旅をして辿りつき作り上げられた家だった。

三ツ江はもういない。だというのにそこに自分がいつまでも縛られてしまうのはどうなのだろうか。この先が長い長い時を歩むことになるだろう自分が。

「ご安心くださいな。元の商いもあり貯蓄はございます。急な解雇ですので、給仕たちには相応のお給金をお渡しします。円満に、円滑に、後腐れがないように。私はそのように教え込まれております故。」

昨晩三ツ江に庇われたことで血にまみれてしまった着物は着れないものになってしまった。上品な着物とは打って変わり、どこか草臥れた生地の着物を身に纏う雪那を横目に絹は呟く。

「目立たれませぬよう、お気をつけくださいませ。」











いざ店を畳むとなると何をすればいいのかと、絹は悩んだ。この宿には座敷からそのまま宿泊に転じてもいいようにと一人が一日で掃除をするのには骨が折れるような、そんな数があった。昨晩二人に貸した部屋も含めると、ざっと見渡してみると特段手をつける必要もないように思えてしまう。裏口から大きな荷車を一つ。

幾重にも優しく巻いた三ツ江の亡骸をそこに乗せる。

自分が妖だったのだと自覚をした頃から、どうにも食欲というものが感じれなくなってしまった。その為食糧を積むことはしない。最低限の荷物だけを荷車に乗せる。

店の看板を降ろそうと外に出る頃にはあっという間に陽は暮れていた。

山々から覗く夕焼け空が、とてもとても美しかった。

たしか三ツ江が初めこの吉野に絹と訪れた時も、それは夕暮れ時で、その夕陽に照らされた山々の色鮮やかに胸を打たれ、この町に店を築こうとしたのだとか、そんな事を酒の席で言っていた気がする。

季節はこれから本格的な春を迎える。

温かくなってしまう前に果たして辿りつけるだろうか。

看板をそっと降ろしたその時、見覚えのあるかつての客人がいた。

「店を、終わせてしまうのですか?」

初老の商人だ。

毎年この時期になると西からやってくる、季節外れの秋色の瞳をした柔らかい口調の商人は寂しそうに呟いた。

「主人が、店のご主人がつい先日亡くられてしまったのです。」

「三ツ江様がですか?それは、大変お気の毒な。お悔やみ申し上げます。」

西の訛りも特段見せない似た口調で囁きながら、商人は持っていた杖を地に置いて絹の抱える看板を支えた。

「お手を、お貸ししましょう。」

「ありがとうございます。」

まだ肌寒さが残る時期だというのに、商人はそこまで厚着をしているわけでもない装いにも関わらず、看板を降ろすのに手を貸してくれた。

昇降台から降りると、少しだけ背の高い商人はすっかり冷え切った掌を優しく、絹の頭に乗せてみせた。

「どうか、されましたか?」

「私にも貴女ぐらいの孫がおります。両親は存命ですがまだまだ甘えたがりな年頃です。三ツ江様、お父君を亡くされて、さぞ貴女もお辛いでしょう。ですが、どうか、どうか折れず生きてくださいませ。」

商人が口にした“お父君”というその言葉が、絹の心に深く、深く刺さった。

「父、君…?」

たった数回だ。

毎年この時期になると泊まりにくるだけの、そんな商人だ。それなのにこの商人の目には、私と三ツ江様が親子のように映っていたのかと、血の繋がり、ましては種族されも違う私たち二人が父と娘のように思えたのかと、そう知った途端、絹はその刺し口から形容しがたい感情が溢れ出てくるのを、静かに静かに噛み締めるしか出来なかった。

「私、私は…」

『絹。』

たった二文字のその言葉を紡ぐ貴方の、長年一緒にいるというのに未だにこんな接し方でいいのかと時折不安そうなぎこちない笑みを浮かべる貴方が、亡き兄に対する贖罪のように私に尽くそうとする貴方を、貴方を、父と、そう思い馳せていたのでございます。三ツ江様。











『約束をしてほしいな。』

ーやくそく?

『そう、約束。俺と君だけの、二人だけの秘密。』

ーふたりだけの?

『うん、二人だけ。二人だけの秘密だ。』

ーどうして?

『君は本当に質問ばかりだね。

……、そうだな、どうしてだろう。うん、そうだね。

寂しい、からかな。』

ー……。

『嫌だな、何とか言っておくれよ。』

ー  ちゃんもさみしとか、そういうこというんだね。

『失礼だな。そりゃ思う時もあるよ。俺も君もそんな大差ないだろ。』

ーそっか。そうだね。うん、そうだね。

 じゃぁ……



「約束をしよう。」

「何があっても、傍に、いるから。」


男が一人、そこに立っていた。

男の瞳は薄暗い、海のようなそんな色を宿していた。

男は、一人、呟く。


「大丈夫だ。何があっても、お前を一人にはさせないから。」


「   。」

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