三話 兄
この国には、五畿七道という地域区分が存在する。
かつての律令制における地方行政区分の名残か、その区分は今尚使われることが多い。
相模国はこれの東海道に含まれる。
私の住む榊扇の里は、その相模国の中でも土地の大半を占める、大きな里だ。
半径二里程の里には一万にも及ぶ民が住み、暮らしと営みが紡がれている。
里の真ん中には、里の入り口から伸びる一本の大きな大通りが存在する。その通りを道なりに進むと見えてくる大きな建造物が、この里を統治する扇堂家の屋敷だ。
扇堂家の敷地は、大山の中腹までにかけて斜面帯に建設されている。
山の中腹には、扇堂の血が流れる、後継者のみが踏み入る事が許されるという社が存在し、一族の中でも禁則地とされているらしい。
らしい、というのはかくいう私自身もよく知らないからだ。
この扇堂家には、あらゆる書物が存在するが何故か扇堂家自身に関する書物だけが見当たらない。
その為これらの話は全て、幼少期に母親代わりに私を育てくれた、祖母・扇堂杷勿から聞かされた話だ。
扇堂家七代目当主扇堂杷勿曰く、扇堂家が古くより祀り上げてきた貴き存在、水虎様と契約を行った者だけが、儀式を行う際に立ち入ることができるとか、儀式の内容は代々当主に口頭でのみ継承されるため、書物には書き示してはならないのだとか。そんな事を話していた。
でもそれらを聞かされたのは随分と昔の事だ。
十年程前に起きてしまったある事故をきっかけに、屋敷の奥、離れの自室に引きこもるようになってしまった私にとっては、ずっと昔に聞かされた、まるで御伽噺のようなもので。薄ぼんやりとした記憶しか残っていない、何の信憑性もないそんな話。
あれ以来屋敷に住む分家の方々も含め、顔を合わせることも口をきくことも全くなくなってしまった。それは勿論祖母も含めて。
偶然か。
数年越しの祖母からの呼び出しに、駄々をこねる私を無理やり、従者と下女の手により部屋から引きずり出される。離れから本堂に繋がる渡り廊下に差し掛かった頃、私はそんな事を思い出しながら例の社を目にした。
幼少期はよくこの渡り廊下を幼馴染と走り回ったものだが、その頃はまだ背も低く気付かなかった。中庭の吹き抜けからは少し高い位置に建てられた古びた社がよく見える。
視線を感じた。
祖母以外足を踏み入れてはならない場所な筈なのに、目をやったその社から私は、目を逸らすことができなかった。
誰かがこちらを見ている。私の視線の先には誰もいないのに、誰かと目が合ったような、そんな気がしてならない。
動けず、その場で立ち呆けていると、数歩先を歩いていた従者の氷室が、私が歩みを止めたのに気付き振り返る。
「とても、綺麗ですよね。」
「えっ?」
「庭です。里に新しい庭師が店を構えたのです。社が見えなくなってはならないと、杷勿様が木々を植えることは反対されたのですが、代わりに、春先には桜の名を持つ花を植えることになったのですよ。」
「桜の名…?」
「あちらの花です。見えますでしょうか?桜草というそうです。」
そう言いながら指さす先には、てっきり名前からして桜の木々に色づくあの花弁のような色をしているのかと思ったのに、案外紫色に近い色をした花々が群生している。
少しだけ、私の髪色に似ている気がする。
「主に北の地域で見られる花で、東海道ではあまり見られない珍しい花なのだとか。杷勿様ご自身も大変お気に召されたようで、ここ三年程は毎年庭師に頼み植えられているのです。」
自然と社から気が逸れた。氷室がそんな話をしていると社からは感じていた視線がぱったりとなくなってしまう。
疑問は残ったが、その疑問を振り払うように、その新しい庭師が整えているという中庭をまじまじと見つめる。
なるほど綺麗なものだ。花に関してはあまり知識はないけれどもきっとこれは、今この中庭に咲き誇っている花々はどれも春の花なのだろう。色どり豊かな花が整頓された中庭を着飾っている。
自室に戻ったら何の花か調べてみるのも良いだろうと、そう思った時だった。背後からぺたぺたと軽い足音が聞こえてくる。
背後には、最近やっと顔を覚えたばかりの下女・うたの、忙しなく体を大きく揺さぶって駆け寄ってくる姿があった。
(自室から引きずりだされた直後はすぐ真後ろにいた筈なのに。)
うたはまだ十つになったばかりの幼い子供だ。成人を当に迎えている私や、大の大人である氷室とは体のつくりも足の長さも全く違う。
「そろそろ、向かいましょうか。」
うたを気にする様子も見せず、歩を進める従者の背中と息を荒げた彼女を交互に見やる。
足袋を履いている自分でも、この渡り廊下の床はまだひんやりとした冷たさを感じる。屋根がない吹き抜けの中庭は、若干陽が差し込み気が紛れるかどうかといった所だ。けれども山の斜面に立つこの屋敷は、通年山伝いに冷気が舞い降りてくる。夏場であっても普段使いの装いで気にもならないぐらいの涼しさを保っているぐらいだ。
薄っぺらい肉付きをした小さな足先は、横目でも赤く染まっているのが見て取れる。痛々しいさすら感じさせる。この屋敷に奉公に来て、まだ日も浅い彼女はきっとこの寒さにだって慣れていないだろうに。
(今度彼女のために子供用の足袋を用意してあげよう。それがいいわ。)
だから今は目を逸らす。
見ないふりは得意だ。
言葉を、飲み込む事も。
長い渡り廊下を終えると、徐々に本堂で働く下女たちの姿が目に付くようになってくる。
自分とはまるで違う、黒髪黒目が多く見受けられた。
“色持ち”という理由で襲われ傷物にされたあの日から、雪那は“色”を持たない者と多く触れる事が恐ろしくなってしまった。
(私も、貴女たちみたいに“色”を持たないで産まれたかった。)
これは、本心だ。
“色持ち”に対して理解があり、迫害により住む場所を追いやれた“色持ち”達が多く住まう榊扇の里。
それでも里の半数以上は、“色”を持たない人間が多い。
こうして屋敷で奉公に勤しむ下女たちの大半が正しくそれだ。
事故の直後は、あまりの恐怖心から近付く者全てを拒絶した。
数年間静かに離れの自室に籠り続けることで落ち着くことはできたが、“色”を持たず自分の事をよく知る彼らと接するのはどうしてもまだ怖い。
この屋敷には本家の血筋(現在は扇堂杷勿と扇堂雪那の二人のみ)以外にも、分家の者達が住んでいる。
たとえ同じ扇堂の血が流れていようとも、“色持ち”というものは遺伝で受け継ぐ物ではなく、それは自然発生であるとされている。
しかし歴代の扇堂家の当主は皆“色持ち”であり、当主になる者は“色持ち”でなくてはならないとされていた。
今この屋敷内には雪那と同世代の子息子女が、雪那を含め三人存在している。その中で“色持ち”であるのは雪那のみであった。
そんな本家の正式な跡取りであり、当主としての素質を持ち合わせた自分が我儘を押し通し続け、齢二十一になっても家督を継がずに屋敷の奥に引きこもり続けているのは、何とも笑えない。
直接顔を合わせなくても離れに届けられる手紙に込められた分家の憤りが、引きこもり始めたばかりの雪那を余計に追いつめた。
現行七代目扇堂家当主 扇堂杷勿は御年還暦を迎える。
先は長くないだろうと扇堂杷勿以外の里の重鎮たちが口にする。
早く、早く次期当主を決めねばならない。
早く、決めなくては…。
―がた、…がたっ、がたっ…―
不規則な揺れに雪那は目を覚ます。
ゆっくりと目蓋を持ち上げれば、そこは先ほどまでいた筈の三ツ江の商う宿屋の一室ではなかった。
部屋をもう一室用意してもらうのは手間だからという理由で、弥代と同室で寝る事にした。直ぐ隣に布団を敷いておやすみと言葉を交わした相手も、横になった筈の布団も見当たらない。
まだはっきりと覚醒しきらない頭を抱えながら静かに体を起こすと、行灯を脇に、暗がりの中で姿勢を正した三ツ江の姿があった。
「お目覚めでございますか雪那様。」
「三ツ江、様…?」
固い床に手を付く。口にする機会はなかったが利き手がまだ痛む。畳ではない何か布が敷かれた床だ。
先ほどから感じるこの不規則な揺れは何なのか。ここはどこなのか。隣にいた弥代はどうしたのか。
上手く回らない頭の中でぐるぐると疑問だけが浮かぶ。状況整理も儘ならないでいると、一際大きな揺れに襲われた。
揺れに態勢を崩し横に体が倒れかける。衝撃を予期して目を瞑るも一向に痛みは訪れない。その代わりに温かい温もりが体を抱きとめていた。
「お怪我は、ございませぬか?」
「ありがとう、ございます。」
ぎこちなく、言葉を交わす。
支えられていた腕は直ぐに距離を取ると、また先ほどと同じ姿勢でその場に座り直す。
歯切れ悪そうに眉を顰めて口元を震わせる様は、昼に自分と話したあの三ツ江そのものなのだろうかと思わずにはいられない程様子が可笑しい。
三ツ江とは離れに引きこもる以前から何度か顔を合わせたことがあった。毎年このぐらいの時期になると質素な花を小脇に抱えて屋敷を訪れるのだ。幼少期の雪那はとても好奇心が強く、知らない見慣れない顔に初対面の相手など関係なく、しつこく三ツ江に構ったものだ。引きこもってからは顔を合わせることはなかったが、恐らく変わらず毎年屋敷に顔を出していたのだろう。
「……」
沈黙が走る。無言のまま膝の上で拳を握りしめる三ツ江に、雪那はなんと声をかけていいのか分からなかった。
静かになると、揺れとは別に何か固いものが地を蹴り上げるような、そんな音が聞こえてくる。
(弥代さん、どこにいるんですか…)
『もし、そこのお方。申し訳ございませんが、どうかお手を貸してはくださいませんか?』
夢だ。
恐らくこれは過去の記憶。
まるで思い通りに動かない体は、視界を通じて過去を追体験しているような、そんな感覚だ。
感覚はしっかりとあった。だからこそ首元に今あるはずの伸ばしかけの髪も、結紐もないことからこれは過去の記憶だと、弥代はそう納得することにした。
身に覚えのない光景だ。が、自分にはあまり昔の記憶がないので、今の自分が覚えていないだけかなのかもしれないと、それは別におかしなことではないと、そう思える。
五年以上前の記憶というものが曖昧で、自分がどこから来て何をしていたのかを弥代は覚えていなかった。
気が付いた時には雨の中、ずぶ濡れで膝を抱えていた。身に着けている着物も、持ち歩いている刀も、髪を縛る結紐もその頃のままだ。
そんな事を思い返していると、通りかかった小道の木陰から声を掛けられる。
そこには女がいた。笠で表情は伺えないが、整った黒髪が小首を傾げる様に合わせて微かに揺れる。
上等な着物だ。
それは最近目にしたあの貴族の女が着ていたものと似たように見える。
聞こえなかったことにしようとしたのか、女を無視して自分は進もうとする。が、木陰から伸びてきた、その病的なまでに白い腕に袖を掴まれてしまい逃げることができなくなってしまった。
『酷いですわ、無視をなさるだなんて。』
笠を反対の手で外しながら呟く声はなんとも品がある、抑揚の取れた耳心地のいい声だ。
しかし自分は関わりたくないのだろう。あの声を無視して素通りしようとしたぐらいだ。女が掴む袖を見つめながら口を開いた。
『離して、くんないかな。』
『お手を貸してくださると、約束をしていただけのでしたら離しますわ。』
『貸さないって言ったらどうすんの?』
『意地でも離しません。』
『そんなご無体な。』
年若い女、少女にも見て取れる。年の頃は十三、四ぐらいか。あどけなさが残る小さな口元を振るわせる。漏れ出た笑い声は鈴を転がしたかのようにか細い。
やはりあの貴族の女、雪那に雰囲気が似ている気がする。
いや、記憶の中のこの女の方が明らかに上品で気品に満ち溢れ、洗礼された動きをする。何より落ち着き方が見た目の割に大人びて見える。あの女にこんな落ち着きはなかったと弥代は失礼な事を思い浮かべる。
ふと、気付く。
それは記憶の中の自分もなのだろうか。視線は女の目元を捉える。目が、見えていないのだろうか?両の眼は一切開くことがない。形の良い眉は器用なぐらいによく動くというのにだ。
目は口程に物を言うという諺があるが、目を閉じていようともその声色と眉が彼女の感情をよく物語っていた。
『貴方が良いのです。』
『私は、貴方の手をお借りしたいのです。』
段々と、これは過去の記憶ではないのじゃないかと、そう弥代は思えてきてしまった。
既視感、とでもいうのか。
この女は、昨日出会ったばかりのあの女にとても似ている。
あの女が夢の中で形を変えて、姿を現しただけなのではないか。そう思えてしまうぐらいに似通って見えるのだ。
彼女のような紫色の、片目を覆い隠すような長い髪でも、青空を思わせるような澄んだ瞳もしていないというのに、どうしてそんな事を思ってしまうのか。違和感が拭えない。やはり、どこか似ている。
「私には、貴方が悪い人になんて見えません。」
姿が重なって見えた。
これは夢だ。
自分の意思に反して動く体。地に足のつききらない感覚。夢だ。これは夢なんだ。
そう思い込もうとしている内に、女の指先が袖口からそっと自分の指先に触れた。
『冷たい手。私の従者にそっくり。ねぇ貴方。やっぱり私貴方がいいわ。』
指先は微かに震えていた。
『私、私ね。私の名前は…』
「はるな……」
目を覚ます。
眠りは浅い方だが、寝起きにはいつも時間を費やしてしまう。
夢か現実か、行ったり来たりする定まらない思考は、しかし自分の頬を撫でる絹の様にさらさらとした肌触りの何かにより一瞬で現実に引きずりだされる。
体を勢いよく起こせば、その感触は直ぐさま離れていく。
布団の脇に置いていた刀に手を伸ばす。抜刀はしない。
床に付く際に行灯は消してしまった。この座敷に差し込むのは細い月明りのみだ。部屋の隅、月明りも届かないような闇に、溶け込むような気配を感じとる。
そこに何かがいると警戒を取る。と、そこで弥代はようやっと気付いた。
いないのだ。
右隣で寝入った筈のあの女、雪那の姿がそこにいない。
部屋の隅から距離を保ったまま、そっと雪那が寝ていた筈の敷布団に手を這わす。
微かにまだ温もりが残っている。偶然厠に行っているだけかもしれない。そうであれと願った。
が、それは部屋の奥から聞こえた声の主により叶わないものとなる。
「おりませんよここには。そして貴方は、ここにいてもらいます。」
記憶に新しい。その声は昼間自分に羽織りはいるかと問うた、あの女の声に似ている。いや、この宿屋なのだからあの給仕の女に違いはないだろう。
暗闇から姿を見せた給仕の女は、日中の姿とは打って変わった黒一色な装いをしている。
「いねぇってどういう事だ。」
「心が痛みます。数少ない同胞とこのように接さねばならないなんて、とてもとても。」
端から会話をする気がないような態度が癪に障る。
威嚇目的で柄に手を添れれば、ようやっと目が合う。
その目は覚えのない青色をしている。
見間違えかと目を細めるも、女の瞳は青いまま。
昼間に見た時は間違いなく黒目であった。
「お気付きではなかったのですね。てっきり見抜かれているのかと思いました。」
「何の話だよ。つーか答えろよあいつはどこにいんだよ。」
突然沈黙を破るように三ツ江は語りだした。
「誠に申し訳ございません雪那様っ!このようなご無礼、三ツ江はっ、三ツ江はどのようにお詫びをすればよろしいのか…。
ですが、どうか戻りたいなどと仰らないでください。あの宿にはもう戻りません。えぇ、戻るものですか。あの者は危険なのです。悍ましいあの色はっ!あの者だけはなりませぬ!
雪那様、貴女様がどのようにしてあの者と出会ったとしても、たとえそれが命の恩人だと貴女様が仰られてもならぬのです!あの者と一緒にいてはいけないのです。あの者は、あの者は…っ!」
譫言のようにブツブツと呟くその様は、まるで何かに取り憑かれたかのよう。
自分よりも長く生きた男が、自身の体の震えを抑えようと赤子の様に強く抱きしめている。
わけがわからない。わけがわかるわけがない。未だに雪那にはここがどこなのかも、どうして三ツ江と二人この空間にいるのかも、弥代がどうなっているのかも分からないままなのだから。
それでも、それでも眼前の男が恐怖に身を震わせるのをただ見ていることはできなかった。
二の腕周りに深く突き立てられた、震えるその指先を、優しく、優しく解すように、雪那はそっと自身の手を添える。
「お話くださいな三ツ江様。お聞かせください。どうか、どうか…。」
「しゃらくせぇ!」
ー畳の暗闇に声が響く。
天井のある屋内で刀を振るうのは無謀だ。慣れた空間でもなければ、間合いの取り方など分かるわけもない。夜の暗がりの部屋の中、影が頭上から勢いよく飛び掛かってくる。
刀で振り払うも、何か糸の様なものが絡みつく感覚が伝う。前へとつんのめりそうになるのを踏み込んだ右足で押し留まる。
両手に持ち替えると、逆にその糸らしきものを巻き上げるように後ろへと振るう。
暗闇から出てきたその影に狙いを定め、体を捻りながら蹴り上げる。
どこに入るかは運任せだった。感触からして柔らかいそれは腹か。何か水っぽいものが足元に飛び散る。
「俺をここにいさせてぇんじゃねぇのかよ⁉やれるもんならやってみやがれ‼」
幼子を優しく宥めるような雪那の声に、三ツ江の呼吸が徐々に整っていく。
「あの子供、あの子供は…っ」
「あれは…っ」
「人成らざる、鬼の子なのですっ‼」
「鬼の子…?」
あの子供、それが先ほどの三ツ江の口振りからして、雪那の事を助けた弥代の事を指し示しているのだろうということは理解できた。だが三ツ江は、彼は何を言っているのだろうか。鬼?鬼とは何だ?
「鬼の、子…?それは、一体、どういうことですか?」
月明りを帯びた青が弧を描く。
「美しい、とても美しい瞳ですね。」
「あぁ?何言ってんだよあんた。」
畳の上に転がった体を起こすことなく、そのまま天井に視線を逸らす女はどこか満足気な表情だ。
大して戦うこともなく、あっけなく降参の態度を見せてくる。命を狙われたわけではなく初めに言っていたように足止めが目的だとしたら、強く蹴り上げすぎてしまったかもしれない。
「三ツ江様には、貴方は危険だから始末するように言われたのですよ。でも私は同胞を手に掛けるのは胸が痛みますので。今は貴方に蹴られた腹がとてもとても痛みますが…。」
「紛らわしいこというアンタが悪ぃんだからな⁉つーか弱すぎんだろ!そんなんでよく喧嘩吹っ掛けてきやがった…。」
弥代は女、絹の横に腰を下ろすと、自分が蹴り上げただろう部位に触れた。
触れた、筈だった。感覚がない。感覚がないのだ。
先ほどはしっかりと柔らかい腹を蹴り上げたという感覚があった筈だ。それが、ない。
「んだよこれ?」
「本当に、気付いておられなかったのですね、貴方は。」
女だ。女の筈だ。この場にいるのは、自分と同じ“色持ち”の女の筈なのだ。
何故か女の影が揺らぐ。少しずつ輪郭が霞む。目を凝らすまでもない。女の姿は人の形を保つことができなくなってしまう。そう、そこにいたのは青い目をした狼だ。
「なんだ、あんた…、なんだよそれ…!」
「世にも珍しい、人の言葉を喋ることができる、更に申し上げるのでしたら“色持ち”の狼にございます。」
「“色持ち”の狼…?」
「何も“色持ち”は、人間にのみ見られる現象ではございませんよ?私の様に、人間以外の動物にも起きうる変異なのでございます。」
腹を庇うような姿勢で自分と向き合うのは、どこからどう見ても狼だ。
今自分は、自身を狼と名乗る、いや見てくれはどこからどう見ても狼に間違いはない存在と言葉を交わしている。動物と言葉を交わすことができる日が来るだなんて思ってもみなかった。ちょっとだけその毛並みが綺麗だなとか、触り心地はどうなんだろうとか、そんな考えが過り、手を伸ばしそうになる。
「違ぇよ‼雪那はどこにいんだよ⁉」
「忙しない男性は嫌われますよ。三ツ江様を思い浮かべてくださいな。」
「そういうの関係ねぇんだよ‼いや三ツ江!あの男は関係あんなっ‼」
先々代から両替商を生業にしていた私の家はそこそこ、裕福でありました。
何をしなくとも金が転がり込んでくる、親から子へ何不自由なく継がれてきた商売でございます。
産まれも育ちも武蔵国、かつて幕府があったとされる土地に根付いていた為、寝食の心配などしたことが一度たりともございませんでした。
財をどのように増やすのかは、父が幼い頃からよく教えてくれました。
が、そんな事当時から私は気にも留めておりませんでした。私の関心は、すべて双子の兄に向けられておりました。
兄の名は、三ツ江文右衛門。
私、三ツ江文左衛門は、三ツ江家の次男でございました。
双子の兄は、温厚だと言われる私の目から見てもとても気性が荒く、父は商売には向かないと幼い頃から口にしておりました。
だというのに気性の粗さとは裏腹に愛嬌があり、人に愛される才に恵まれておりました。
愛嬌というものは、商売にとってなくてはならないもの。そう考えを持つ父の目には当時、兄に商売は向かないと口にするのにも関わらず、兄に家督を継がせようと、そんな考えが既に宿っていたのでしょう。
父は私が兄が成人を迎える頃には早々に隠居し、家督を兄・文右衛門に継がせました。
父は私に言いました。兄を助けてやりなさいと。
文右衛門は、女癖が控えめに言っても良くはありませんでした。
元来の気性の粗さもあったのでしょう。家督を継いで間もない頃は、日夜違う女の名を呟きながら花街に消えていきました。
いつか、そのうちいつか落ち着くだろうと私は兄を信じておりました。
それは三年も経つ頃には落ち着き、その頃には文右衛門も私も嫁を貰うことができました。
それからまた数年後、文右衛門は商売の拡大をしようと私に酒の席で提案してきたのです。相模国にあるという名高い里では、里独自に交易が盛んであり、まだ両替商は商いをしていないという話を聞いたというのです。根拠もない噂話で軽率な行動を取るのは愚行であると、意見をしましたが殴られてしまいました。そうなのです、文右衛門とはそういう男なのです。
兄に付き添う形で私もその里、榊扇の里へ向かうのでありました。
春が薫りだす弥生の頃、その里はこれから迎える恵みの季節への準備でとても活気づいていました。
山の麓から海沿いにかけて広がるその里は、寒気がとても堪えるそうで、冬にはあまり商売をする者も少ないのだと、道を尋ねた商人に兄は教えてもらっていました。
春の活気づく季節にここで商売を始めることが出来るのはきっと好い事だと、兄は大層喜んでおりました。
しかし予め確認を怠ってしまった結果、その里の大主である扇堂家の当主様とのお約束を取り付けることができず、商談をすることが出来ませんでした。
そういったこともあると窘める私の言葉に耳を傾けることなく、節介はるばる武蔵国から来たんだぞと声を荒げ、屋敷の周りにいた警護の方々に暴行を振るい、止めようとした私は兄共々ひっ捕らえられてしまったのです。
兄はそれはそれは暴れました。しまいには縄で縛られ、屋敷内の小さな蔵に閉じ込められてしまう程でした。私はどうにか警護の方に状況を説明し、蔵に入れられることは免れましたが、だからといって他に行く宛てもなく、敷地内を出るように言われてしまったのです。
里内の宿で一晩明かし、翌朝頭を冷やしただろう兄を迎えにいけばいいと、それから改めて当主様にお約束を取り付ければいいではないかと、そう思い屋敷を後にしようとした、その時でございました。
二十数年生きていた中で初めて耳にするような爆音が、私の体を激しく揺さぶりました。
同時に、背中が言葉にするのも甚だしい激痛に襲われたました。何が起きたのか、後ろを振り向くことも儘ならないまま、私は地面に倒れました。
春先前の、冷たい土でした。
ひんやりとした熱に、目を覚ましました。
どれほどの時間意識を失っていたのか、先ほどまで聞こえなかった数えきれない悲鳴が鼓膜を揺らします。
辺りを見渡すと、屋敷の正門からみて正面に位置する大きな建物が、轟々と燃え盛っておりました。
これほどまでに大きな炎を目にするのは、先の爆音同様初めてでした。
恐ろしいと、感じました。
身の危険を、生命の危機というの感じたのは、その一度きりでしょうか。
私の背中には爆音の際に生じたと思われる破片らしきものが深々と刺さっており、自分の体だというにも関わらず、あまりの痛々しさに目を逸らしてしましました。
破片を抜こうかという考えも浮かびましたが、以前人は血を失いすぎるとそれだけで死んでしまうことがあるといった話を思い出し、抜くのをためらいました。
すると、どうでしょうか。
逸らしたその先に、兄が閉じ込められた蔵がございました。
火は今尚広がり続けております。まるで意思を宿したかのように、それは激しく揺らぐのです。
痛む体に鞭を打つように、私は兄を助けようと、兄のいる蔵に向かおうとしました。向かおうと、しました。
体が動きませんでした。
兄・文右衛門は、私よりも気性が荒く商人には向いていないと父は言っておりました。幼い頃は気に食わない事があるとすぐ隣にいた私に手をあげたものです。
しかし私と比べて人に愛される才に恵まれており、結局の所、父は私ではなく兄に家督を継がせました。
嫁を貰いました。しかし嫁は私を愛しておりませんでした。嫁が愛したのは私の双子の兄でした。双子の兄と何が違うというのでしょうか。分かり切っております。
えぇ、それは兄の隣にずっといた私が一番よく分かっていることなのです。
兄は、私に持っていないものを、私の欲しいものを全て持っていました。
私にはない、“色”を宿していたのです。
忌み嫌われる存在として世に知れ渡ろうとも、人は自分にない物を持つ者に惹かれてしまう、そういう生き物なのです。
その、青を灯した瞳が、私、私は、憎くて、憎くて、憎くて仕方がなかったのでございます。
私は兄を見殺しにしたのです。
次第に、蔵に炎が燃え移っていく。
炎に飲み込まれていく蔵から目を離すことが出来ませんでした。
笑いがこみ上げてきました。あんなにも私を力で従わせていたあの兄が、酒癖も女癖も悪く問題を起こしてばかりだったあの兄が、両親から私以上に愛されていたあの兄が、私にないものを持っていたあの、あの文右衛門が…!
心が澄み渡るかのように満たされました。
自分からそのような笑い声が漏れ出るなど、私は思ってもいなかったのです。
私は、兄を見殺しにしました。
兄は、燃え盛る蔵の中で、縄に縛らたまま、何を思って死んでいったのでしょうか。きっと無念だったでしょう。成す術もなく死にゆくというのは、なんとなんと哀れなのでしょうか。
背中の痛みなど、当に忘れていました。
私、私は、私は、私は、私は……
火は屋敷に留まらず、門から外へ、里全域へと広がったのです。
風向きもあったのでしょう。ですが里そのものをまるで燃やし尽くすまで潰えないとでも言うかのように、その炎は広がっていきました。
春が薫りだす弥生の頃、恵の季節に向けて活気づいていた里はあっという間にその炎に包みこまれるのを、私はただ、ただ茫然と見ていました。
「その時でございました。」
声色が変わる。
「私はその晩、目にしたのです。あの燃え盛る炎の中、渦を巻く角を生やしたあの鬼を。兄の瞳のような青い髪に、炎さえも取り込むような紅い、紅いあの瞳を…あの鬼の姿を…‼」
雪那はその話にジッと耳を傾け続けた。
まるで神に許しを請うかのように、語り終えると頭を差し出しす。
「お許しください雪那様。ですが、ですが貴方様をあの者の傍にいさせるわけにはいかないのです。貴方は、幸せにならなくてはならないのですっ‼」
また、だ。
何故か、何故なのか分からない。
私は、他者に幸せであることを望まれている。
幸せというものを押し付けられている。
幸せでなくてはならないと、そう、教えられてきた。
そこに私の意思は必要なく、強要されたそれを、受け入れなくてはならない。
私はそれが嫌で、嫌で、嫌で、私の意思を聞き入れてもらえない事を恐れた。
だから、あそこにいたくないと、もう戻りたくないと、やっと自由になれたのだと、そう、思えたんです。
「絹に、調べさせました。」
(止めて。)
「雪那様、貴方は、」
(それ以上、何も言わないで。)
「三ツ江は貴方を、お相手の方の元へ連れていきます。」
『何を、泣いているの。』
お庭に咲く、菫の花のような色の髪をした、不思議な人だった。
珍しい蝶を見かけた。
誰もいないことを良いことに、行儀の悪い幼馴染を真似て下履きを履き替えずに裸足でお庭に飛び出た。
そしたら意外と尖っていたのか、小さな砂利が薄い足裏に刺さってしまった。
痛みに驚いてそのまま前に倒れてしまう。
ほんの数歩も縁側から離れていないというのに、周りには誰の姿もなくて、私にはそれが途方もなく遠く感じられてしまった。
お気に入りの薄紅色の着物の裾を、くしゃくしゃに握りしめて痛む足裏から目が離せなくて、そのまま泣いてしまったの。
五歳ぐらいの頃だったと記憶している。
わんわんと、泣きじゃくっていると、その不思議な人が声を掛けてきたの。
さっきまでそこには誰もいなかった筈なのに、一瞬、瞬きをした時にはそこにいた。
長い、長い髪。見たこともないような結われ方をしていた。
そう、初めて見る、先の尖った耳を持つ彼女。
『馬鹿ね。痛い思いをすると、どうして分からなかったの?』
言いながら屈むと、鋭い爪をした指先で優しく私の痛む足裏に触れてみせた。
『本当に、手間が掛かるのはあの子譲りね。』
温かい、光。彼女の手元で灯る青白い光が、足裏を包むと次第に痛みが引いていく。不思議な光景だったわ。
『いたく、ない。』
『治してあげたのよ、お礼ぐらい言いなさいな。』
脇に手を回され、ひょいっと、軽々しく彼女に持ち上げられる。
いきなり地面を失って驚いた私は、そのまま彼女にしがみつく形になってしまった。
『ありがとう?』
冷たい体。肩のない変な着物に小さな手で力いっぱいしがみつく。
と、目元を隠す布越しに微かに見えたそれは、とても、とても優しい眼差しをしていたの。
幸せにおなりなさい。
貴女は、あの子の分まで幸せにならないといけないわ。
それが貴女を残して逝ってしまった、あの子の最期の願い。
雪那、貴女は幸せにおなりなさい。
それを貴女が望まなくても、貴女が拒絶したとしても覆らないのよ。
貴女、貴女は、扇堂の血を継ぐ者なんだから。




