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第九話 再会

令和二年四月

彩乃が旅立ってから、四ヶ月の月日が流れた。

彼女を失った直後の忍からは、かつての明るさは影も形も消え失せていた。一時は誰の言葉も届かないほど深い闇の中にいた忍だったが、季節が巡り、止まっていた時間が少しずつ動き出すように、かつての活気を心に取り戻しつつあった。

もちろん、ふとした瞬間に彩乃の話題が出れば、その瞳には今もなお消えない切なさが滲む。けれど、忍は逃げるのではなく、彼女との思い出を大切に抱きしめながら生きていくことを選んだようだった。あえて彼女の名前を口にし、その存在を心に刻みつけようとする姿は、悲しみを乗り越えようとする彼なりの決意のようにも見えた。


校庭の桜が、あの日約束した通りの淡い桃色に染まり始めた頃。空たちは、最高学年である中学三年生へと進級した。


「はぁ……とうとう最高学年か。今年もまたお前と同じクラスなんて、もはや腐れ縁を通り越して運命的な何かを感じるよな」


忍は呆れたように肩をすくめながらも、その口元にはどこか安心したような色が浮かんでいた。


「そうかもな。それに今年は蜜柑も一緒だ。改めてよろしく頼むよ」


空が窓際でクラスメイトと楽しそうに談笑している蜜柑に視線を送ると、忍はわざとらしく、地響きがしそうなほど大きなため息をついてみせた。


「……まじかよ。今年は朝から晩まで、お前ら二人のアツアツっぷりを見せつけられる刑に処されるわけ?」


忍の直球な茶化しに、空は耳の端を赤くしながら「そんなことあるわけないだろ」と必死に視線を逸らした。


「そ、それより……うちのクラスの担任って、一体誰になったんだろうな?」


露骨に話題を逸らそうとする空の問いかけに、忍は天井を見上げ思い出すような仕草をした。


「うーん……噂だと、今年ここに異動してきたばかりの先生らしいぜ」

「へえ、そうなのか」


予鈴のチャイムが校内に鳴り響くと、生徒たちは一斉に体育館へと移動を始めた。新学期恒例の始業式。壇上に目を向けると、昨年度まで熱弁を振るっていた校長や教頭の姿はなく、見覚えのない顔ぶれがマイクの前に立っていた。


(……去年、あんな事件があったからな)


空は、体育館の壁際に整列している教職員の列をぼんやりと眺めながら、組織の刷新を肌で感じていた。やがて、新任教員の紹介に続き、各クラスの担任や教科担当の発表が始まった。


「――続いて、三年一組担任、水城真希みずしろ まき先生。担当教科は理科です」


その名前が呼ばれた瞬間、空の心臓が不自然に跳ね上がった。


「水城……?」


無意識にその名を零し、空は壇上の女性へと視線を走らせる。すると、ちょうど彼女も空の方をじっと見つめており、二人の視線は静かに、けれど明確にぶつかり合った。

年齢は三十代半ばといったところだろうか。落ち着いた知性を感じさせる風貌、キッチリとした身のこなし。空がこれまでの記憶をどれほど手繰り寄せても、彼女に類する知人は一人もヒットしなかった。


(面識は……ないよな。なのに、どうして……)


空が困惑の色を隠せずにいると、彼女は唇の端をわずかに上げ、空にだけ分かるような仕草でクスリと微笑んだ。そして、何事もなかったかのように降壇し、再び壁際へと戻っていく。

その視線の意味を図りかねて目を離せずにいると、今年から教頭に就任した女性教諭の訓話が始まった。昨年度までの教頭とは対照的に柔らかな物腰で、言葉の端々にも刺々しさがない。その穏やかな様子に空は少しだけ安堵したが、頭の片隅では依然として、さっきの出来事がおりのように残っていた。

式が終わり、教室に戻った空と忍が言葉を交わしていると、そこへ蜜柑が小走りで駆け寄ってきた。


「ねぇ、うちの担任の先生……どこかで会ったこと、ないかな?」


蜜柑の唐突な問いに、空と忍は顔を見合わせた。忍は記憶を探るように首を傾げる。


「いや、俺は心当たりない……かなぁ」


そう言って、忍は空へと視線を投げた。


「俺は……面識はないはずなんだけど、なんか妙に引っかかるんだよな……」


三人が顔を寄せて考え込んでいると、蜜柑のスカートのポケットの中でスマホが震えた。蜜柑は咄嗟にそれを取り出す。


「あ、瑠奈ちゃんからだ」


その名は、昨年の沖縄旅行で起きた「あの事件」の際に知り合った、ユタの血を引く少女、知念瑠奈だった。


「へぇ、懐かしいな。……で、なんて?」


空が尋ねると、蜜柑はLINEを立ち上げ、送られてきたメッセージに目を落とした。


「ええっ?!」


蜜柑が素っ頓狂な声を上げ、目を丸くする。


「瑠奈ちゃん、東京の学校に入学するんだって!」

「マジか? ってことは、瑠奈ちゃんって小学生だったのか?」


驚く空の反応に、蜜柑は黙って首を振った。


「慶應女子の高等部だって……」

「はあ!? 超難関校じゃん。っていうか、瑠奈ちゃんが年上だったことのほうが驚きだよ」

「うん、私もてっきり同い年か、歳下の子だと思ってた……」


意外な事実と再会の予感に盛り上がる二人を横目に、事情を知らない忍は不思議そうに首を傾げている。


「なぁ、さっきから何の話をしてるんだ?」


忍の問いかけに、二人が沖縄でのトラブルとをかいつまんで説明すると、忍は呆れたように深いため息をついた。


「……お前ら、コナン君並みに厄介なことに巻き込まれるよな」


空と蜜柑が揃って苦笑いを浮かべた、その時だった。隣のクラスからざわめきが伝わってくると同時に、先ほど体育館で紹介された水城が、教室の後ろのドア付近を通り過ぎるのが見えた。

その存在感に弾かれたように、教室内で散らばっていたクラスメイトたちが足早に自分の席へとつき、静寂が広がっていく。

水城は教室の前の入口から一歩踏み入れると、教室内をぐるりと見回して教壇の前へとやってきた。そして黒板に丁寧な字で『水城真希』と書き込んだ。


「みなさん、はじめまして。

今日からこのクラスを担当することになりました、水城真希みずき まきです。

担当は理科です。三年生のみなさんにとっては、受験や進路など、大事な一年になりますね。そんな一年を一緒に過ごせることを、とても楽しみにしています。」


空は、教壇に立つ水城の横顔をじっと凝視した。……しかし、どれだけ記憶の糸を辿っても、彼女の立ち居振る舞いや声の響きに心当たりは見当たらない。


(やっぱり、気のせいか……?)


空は自分の中に芽生えた既視感を、無理やり「気のせい」という箱に押し込めた。兄・陸の同級生である水城彰と同姓であることに過敏になり、無意識に共通点を探してしまっているだけなのだと自分に言い聞かせる。

ふと蜜柑の席に目を向けると、彼女は何かを懸命に思い出そうとするかのように、真剣な眼差しを真っ直ぐ正面へと向けていた。

ホームルームが終わると、真新しい教科書の配布や事務的な連絡事項が淡々と進んだ。その後、全校生徒は翌日の入学式の準備に駆り出され、作業を終えた昼前、ようやく下校の時間を迎えた。

忍は「部活勧誘の準備があるから」と昇降口で二人と別れ、空と蜜柑は並んで校門へと足を進めた。


「蜜柑、さっきから水城先生のこと、ずいぶん気にしてるみたいだな」


空が問いかけると、蜜柑は足元を見つめたまま、「うん……」と力なく答えた。


「まあ、俺も陸兄の友達の水城先輩と同じ苗字だったから、ちょっとは気になったけどさ。お母さんにしては若すぎるし、姉弟にしては少し歳が離れすぎてる気がするんだよな。どちらも絶対にないとは言い切れないけど……」


空の見解を聞いても、蜜柑の曇った表情が晴れることはなかった。


「うーん……私の場合は、もっと単純。ただ『どこかで会ったことがある気がする』ってことなんだけど。でも、そもそも先生くらいの年齢の知り合いなんて全然思い当たらなくて。さっきから水泳部関係の人だったかなって思い出そうとしてるんだけど……」


困惑を隠せない蜜柑の横顔を見て、空は「ふっ」と小さく息を吐いた。


「そんなに無理して思い出そうとしなくてもいいんじゃないか。案外、ひょんなことで突然思い出すかもしれないし」

「……そうだね」


蜜柑はようやく少しだけ表情を緩めた。


「そういえばさ。せっかく瑠奈ちゃんが東京に来たんだし、桜が咲いているうちにお花見でもしないか? シンくんも誘ってさ」


空の提案に、蜜柑は再び難しそうな顔をして言葉を濁した。


「忍くん、誘って大丈夫かな?」

「ん? シンくんはそんな人見知りじゃないだろ。

瑠奈ちゃんだってそんな感じしないし……」


空が不思議そうに返すと、蜜柑は小さくため息を吐いた。


「そうじゃなくて……彩乃ちゃんと四人でお花見しようって、あの日約束したでしょ。そのことを思い出して、悲しくなっちゃわないかなって……」


蜜柑の言葉に、空はハッとして足を止めた。

あの日、四人で囲んだバーベキューの火。彩乃の弾けるような笑顔と、それを見守る忍の優しい眼差し。それらすべてが、つい昨日のことのように鮮明に蘇る。


「……そうだったな。確かに、まだ四ヶ月だもんな」


空は視線を桜の梢に向けた。忍は明るさを取り戻しつつあるが、その胸の奥に抱えた傷が癒えるには、まだあまりに時間が足りない。


「でもさ」


空は静かに言葉を継いだ。


「彩乃さんはきっと、忍が閉じこもっているより、みんなと笑っているところを見たいんじゃないかな。自分のために誰かが悲しむのを一番嫌がってたろ」


蜜柑は少し考え込むように俯いた後、ゆっくりと顔を上げた。


「……うん、そうだね。彩乃ちゃんなら、きっと『私の分まで楽しんで』って、笑いながら背中を叩いてくれる気がする」

「だろ? だから、あの日約束した『早見家の庭の桜』を、彩乃さんの分までみんなで見よう」

「……そうだね、それが一番いい気がする」


蜜柑の表情に、ようやく柔らかな陽だまりのような笑顔が戻った。二人は春のうららかな日差しに包まれながら、一歩ずつ踏みしめるように歩き出し、週末の計画を練り始めた。


今週の土曜日――。

あまりに急な誘いではあったが、再来週まで待てば、この美しい桜も無情に散り果ててしまうだろう。そう考えた二人は、意を決して忍と瑠奈へ招待のメッセージを送った。数分後には瑠奈から弾んだ返信が届き、それから数時間後、ようやく忍からも「行くよ」という短い承諾が届いた。空は、忍の返信までの空白の時間に、彼なりの葛藤があったことを察しながらも、静かに花見の決行を決めた。



令和二年、四月十一日、土曜日。

その日は朝から、吸い込まれるような一点の曇りもない青空が広がっていた。桜の花もなんとか枝に踏みとどまり、時折はらりと舞い降りる薄紅色の花びらが、お花見の情緒をこれ以上ないほどに引き立ててくれている。

空は庭の主役である桜の木の下に、三畳ほどのレジャーシートを丁寧に広げた。風に煽られないよう、四隅には重石代わりのレンガを置く。

そこへ、玄関の方からお茶やジュースのペットボトルが入ったレジ袋と、重なった紙コップを手にした蜜柑がやってきた。空は袋の中の冷えた飲み物を眺め、少しだけ唸り声を漏らす。


「……ちょっと、外で飲むには寒いかな?」


空の懸念に、蜜柑はいたずらっぽく微笑みを返した。


「寒くなったら、中に入ればいいじゃない。せっかくの桜なんだし、焚き火で煙たくするのも雰囲気に合わない気がするしね」

「まあ、それもそうか……」


空がそう答えると、蜜柑はエプロンをはずし始めた。


「ん? 蜜柑どうしたんだ?」

「ああっ、ええっとね。瑠奈ちゃん駅に着いたみたいだから迎えに行ってくるよ」


蜜柑はエプロンをたたみながら玄関の方へとかけていく。空は蜜柑がシートの上に置いていったペットボトルを袋から出して準備をしていると、「空ぁー!」と自分を呼ぶ快活な声が響いた。そして声の主である忍が、ひょいと庭へと足を踏み入れてくる。


「あれ、門の鍵開いてたか?」

「いや、呼び鈴鳴らしたら海先輩が出てくれたんだ。その瞬間にまた『海姉ちゃん』って呼び直しさせられちゃったよ、相変わらず手厳しいよなぁ」


忍は照れくさそうに頭を掻きながら、苦笑いを浮かべて答えた。空は、あえて秋のバーベキューの思い出に触れるような忍の振る舞いに、彼なりの前向きな決意を感じて胸が熱くなった。けれどそれを悟られないよう、「そうか」と短く言葉を返す。


「……それで、知念さんだっけ? その子はまだ来てないのか?」


忍は、春の光に目を細めながら辺りを見回し、今日初めて顔を合わせる新しい友人の姿を探した。


「ああ、ついさっき最寄駅に着いたってラインが入ってたよ。今、蜜柑が迎えに行ってるんだ」

「そうか……」


忍は短く応じると、右手にぶら下げていた小さな紙袋を空の前へと差し出した。


「ん? これは?」

「ああ、途中で買ってきた。桜餅だよ。団子にするか迷ったんだけど、今日はお花見だからな。こっちの方がらしいだろ?」

「そっか、ありがとな」


空は受け取った包みを、冷えたペットボトルの隣にそっと並べた。二人はレジャーシートの端に腰を下ろすと、吸い込まれるような空へと枝を伸ばす桜を見上げるようにして、ゆっくりと上体を後ろへ投げ出した。

視界いっぱいに広がる薄紅色の天蓋。風が吹き抜けるたび、無数の花びらが光を反射しながら、雪のように二人の上に舞い降りてくる。その、あまりに完成された春の美しさに、忍の口から震えるような溜息が漏れた。


「……なあ、空。この桜、やっぱり彩乃と見たかったな」


絞り出すような忍の呟きが、春の静寂に溶けていく。

あの日以来、忍は何度も会話の中で彩乃の名前を出してきた。それは彼女を過去にしないための、彼なりの懸命な儀式のように見えた。最近ではようやく、穏やかな顔で彼女の思い出を語れるようになってきたのだと、空はどこかで安心していた。

しかし、隣で仰向けになり、逃げ場のない空を見上げている忍の肩は、堰を切ったように激しく震え始めていた。

空は、隣に横たわる親友に声をかけることも、その肩を抱くこともしなかった。ただ、自分も同じように真っ直ぐ真上を見つめたまま、じっと動かずにいた。

視界を横切る花びらの向こうで、忍の喉がひゅっと鳴り、堪えきれない嗚咽が漏れ出す。それは、これまで周囲に心配をかけまいと、心の奥底の固い箱に閉じ込めてきた剥き出しの悲鳴だった。

空は黙って、その音を聞き続けた。

今、忍に必要なのは慰めの言葉でも、同情の視線でもない。ただ、誰にも邪魔されずに、この残酷なまでに美しい春の景色の中で、愛した人を想って泣く時間なのだ。


「……ああ、本当に綺麗だな」


空はあえて前を見つめたまま、静かに独り言のように呟いた。

忍の嗚咽が激しさを増し、熱い涙が彼のこめかみを伝ってシートに吸い込まれていく。空は、自分たちの体の上に舞い降りる花びらを、ただの一枚も払おうとはしなかった。時折、風が木々を揺らす音と、親友の震える呼吸の音だけが庭に満ちる。


桜の梢を揺らす風の音と、時折遠くで鳴く鳥の声。それ以外は何も聞こえない、止まったような静寂が庭を支配していた。

空は、隣に横たわる忍の嗚咽が少しずつ穏やかな呼吸に変わっていくのを、肌で感じていた。剥き出しになった感情が、春の柔らかな日差しに溶かされ、凪いでいく。忍の目蓋から溢れていた熱い雫は、今では頬に冷たい筋を残すだけとなっていた。

やがて、遠くの角を曲がったあたりから、春の空気に弾けるような二人の少女の声が聞こえてきた。


「……あ、来たみたいだな」


忍が、掠れた声で呟いた。彼は上体を起こすと、手の甲で手荒に目元を拭った。赤く腫れぼったくなった瞼を隠すように、何度も何度も目をこすり、強引に「いつもの自分」の仮面を被り直そうとする。

その隣で、空は目を閉じ、規則正しい静かな寝息を立てていた。


「おい、空……寝てんのかよ」


忍が苦笑混じりに声をかけたが、空は答えない。わずかに開いた口元から漏れる寝息は、まるでこの場の重苦しい空気をすべて吸い込んで、穏やかな春の眠りに変えてしまったかのようだった。


「もー、空くん! お客さんが来てるのに、こんなところで寝てちゃダメだよ!」


庭の入り口から、蜜柑の明るい叱咤が飛んできた。彼女の後ろには、萌黄色のワンピースに身を包んだ少女――知念瑠奈が、少し遠慮がちに立っていた。

蜜柑は呆れたように大きなため息をつくと、レジャーシートの上で無防備に眠る空のそばへ駆け寄り、その肩を優しく揺り動かした。


「ほら、起きて。瑠奈ちゃんが来てくれたよ」

「……ん、あぁ……」


空は、重たい瞼をこじ開けるようにして、ゆっくりとムクリと起き上がった。焦点の定まらない目で辺りを見渡し、最後に蜜柑の顔を捉えると、彼は大きく一つ、喉の奥が見えるほどの大あくびをした。


「……わりぃ。昨日、新作のプロットを深夜まで練ってたからさ。つい寝ちゃった」


目をこすりながら、空はもっともらしい言い訳を口にする。隣でそれを見ていた忍は、空が自分の泣き顔を見せないために、あえてそんな言動をしたのだと直感した。余計な気を使わせないための、空なりのぶっきらぼうな優しさ。忍は胸の奥に灯った小さな温もりを噛みしめながら、立ち上がって服についた花びらを払った。忍は、努めて快活な声を出し、瑠奈に向き直った。


「瑠奈ちゃん。こちら同じ学校の友達の三宅忍くん」

「はじめまして、俺は三宅忍。空の腐れ縁……いや、親友かな。よろしく」


そう言って忍は手を差し出した。

瑠奈は、忍の周囲を気にするように眺めた後、彼の少し赤い目元をじっと見つめた。瑠奈は凛とした、それでいて少女らしい柔らかな微笑みを返した。


「私は知念瑠奈です。沖縄の石垣島出身で今年から東京の学校に通うことになりました」


そう言って瑠奈は忍の手をとり握手を交わすと、空の方へと向き直る。


「今日は誘っていただいて、ありがとうございます。……とっても素敵な桜ですね」


瑠奈が目の前の桜の木を見上げる。そこには、あの日、沖縄の青い海の下で出会った時よりも、少しだけ大人びた彼女の姿があった。


「だろ。さあ、立ってないで座ろうよ。俺と蜜柑でたくさん弁当作ったんだよ。それとシンくんが美味しい桜餅を買ってきてくれたんだ」


空が促すと、四人は桜の木の下、花びらが降り積もるレジャーシートの上に円を描くように座った。

そしてかつてここにいたはずだった少女の席が物理的に空いている。

空と忍は紙コップにジュースを注いでは、蜜柑や瑠奈に手渡した。そして最後の一杯――。少しだけ多めに注がれた紙コップを、忍は慈しむような手つきで、その空いた席の前へとそっと置いた。


「じゃあ、新しい春に……乾杯しよっか」


蜜柑の提案に、四人は紙コップを掲げた。

冷たいジュースと、甘い桜餅の香り。そして、新しく加わった瑠奈の笑い声。

忍は、空高く舞い上がる花びらを追いながら、心の中で静かに呟いた。


(彩乃、見てるか? ちゃんと、約束のお花見、やってるぞ)


空はそんな忍の横顔を、もう心配そうに見ることはなかった。ただ、新しく始まった中学三年生という季節を、この仲間たちと共に一歩ずつ踏みしめていこうと、静かに決意していた。


「「かんぱーい」」


桜の木の下、四人の笑い声が高らかに響き渡る。はじめこそ、忍と瑠奈の間には初対面特有の微妙な距離感があったものの、三十分もすれば、まるで以前からの親友同士であるかのように打ち解けた空気が流れていた。


「そういえばさ、瑠奈さんってなんでわざわざ東京の学校に?」

「そうそう、沖縄で『東京に行ったら』って言ってたとき、私はてっきり観光のことだと思ってたから本当にびっくりしちゃった」


空と蜜柑が素直な疑問を投げかけると、瑠奈はどこか遠くを懐かしむように空を見上げ、言葉を丁寧に紡ぎ出した。


「あの時ね、東京の高校を受験することは決めていたんだけど……合格する自信が全然なかったから言わなかったの」


瑠奈は少しだけ照れくさそうに、苦笑いを浮かべて答えた。


「凄いですよね。慶應女子なんて超難関校……。このメンバーの中でそのレベルに手が届きそうなのなんて、空くらいじゃねえの?」


忍が空と蜜柑の顔を交互に見やりながら言うと、空は即座に肩をすくめた。


「俺が女子校に入れるわけないだろ」

「それに、ついでみたいに私の成績までバラさないでよ」


空と蜜柑のテンポのいい反応に、忍が悪戯っぽい笑みを向けると、つられるように瑠奈の表情も華やいだ。


「私ね、小さい頃からユタになるための修行や勉強をずっと続けてきたんだけど……それとは別に、お医者さんになるのが夢だったの。沖縄には『医者半分、ユタ半分』という言葉があってね。体と心の両方を診ることができれば、もっとたくさんの人の役に立てるんじゃないかなって思ったんだ」


瑠奈は未来を描くように目を輝かせ、真っ直ぐな想いを語ってみせた。


「沖縄で会った時はてっきり同い年か年下だと思ってたけど、今の話を聞いてると本当に年上のお姉さんって感じがするよ」

「ごめんなさい……私もてっきり同い年だと思って『瑠奈ちゃん』なんて呼んじゃって……」


恐縮する蜜柑に、瑠奈は慌てて首を振った。


「ううん、気にしないで。私もあの時はみんなのことを同い年だと思って接していたし、何より命の恩人に急に年上扱いされるのは、なんだか落ち着かないから……。だから、これからも今まで通りに接してもらえると、すごく嬉しい」


瑠奈が浮かべた柔らかな微笑みに、三人の表情も春の日差しに溶けるように和らいでいった。


「それにしても、石垣島からいきなり東京に出てきて生活するなんて、いろいろと苦労も多いんじゃないですか?」


忍が気遣わしげに問いかけると、瑠奈は「本当にそうなの!」と勢いよく頷いた。


「うん。受験のために初めて東京へ来たときは、お母さんと二人で駅の中で迷子になっちゃって……。予約していたホテルになかなか辿り着けなくて、泣きそうになったんだよ」

「ははは、そうだったのか。水臭いなぁ、連絡してくれれば俺たちが案内しに行ったのに」


空は笑いながら重箱に手を伸ばし、艶やかなごま結びを一つ取ると、そのまま口の中へと放り込んだ。


「それに、電車ってやっぱり乗り慣れてないから。地下鉄に乗ると、今自分がどこを走っているのか全然わからなくなって、すごく不安になるの」

「ああ、それはわかる気がする。俺だって、地下鉄に乗ってたはずなのに、いきなり地上に出てきたときは『えっ、どこ!?』ってびっくりしたもんな」


忍は瑠奈の話に深く共感した様子で、何度も頷きながら言葉を返した。


「あと文化や習慣も石垣島とはずいぶん違うんですよ。こういうお花見も、向こうではお酒を飲んで騒いだりすることはあまりないんです。それに、向こうで見る桜は『寒緋桜カンヒザクラ』といって、もっと色が濃い、鮮やかなピンク色の桜なの」


瑠奈がどこか遠くを懐かしむように語ると、三人は「へぇー!」と感心した声を上げ、自分たちの真上にある淡いソメイヨシノとは対照的な、南国の鮮やかなピンク色の姿を思い描いた。


「俺もそれ、一度見てみたいなぁ。今度は沖縄で花見をするっていうのも、面白いかもしれないな。なあ、シンくん?」


空が期待を込めて忍に視線を向けると、忍は脱力したように深いため息を吐き出した。


「お前なぁ……うちは至って平凡な一般家庭なんだぞ。そんな気軽に沖縄旅行なんて行けるわけないだろ」


忍の現実的なツッコミに、蜜柑は「たしかにね」と苦笑いを浮かべた。


「……というか、瑠奈ちゃんは大学もこっちの学校にするつもりなの?」


蜜柑が問いかけると、瑠奈は人差し指を薄い唇に当て、少し考える素振りを見せた。


「うーん、今のところはまだ決まってないかな。うちも普通の家庭だから、私立の医学部なんてとても無理だし……。国立の医学部に入るために、無理を言って東京の高校に通わせてもらったんだよ」


瑠奈は少しだけ申し訳なさそうに、けれど決意の滲む苦笑いを浮かべて答えた。


「それじゃあ、少なくともこれから三年間は、いつでも会えるってことだね」


蜜柑が嬉しそうに微笑むと、瑠奈もパッと顔を輝かせて微笑み返した。


「まぁ、こっちでの生活で何か困ったことがあったら、いつでも相談に乗るよ。遠慮しないでさ」

「ははっ、年下の男に言われても……って思うかもしれないけど、こいつ意外と頼りがいだけはあるからさ」


空の真っ直ぐな提案に、忍が茶化しながらも力強くフォローを入れた。

その後のお花見は、春の穏やかな陽光に包まれながら、笑い声の絶えない賑やかな時間となった。

忍が買ってきた桜餅は絶品で、塩漬けの葉の香りが春の訪れをより濃く感じさせた。蜜柑が用意したおにぎりをつつき、空が書いている小説の突拍子もない設定に瑠奈が目を丸くしたり、忍が中学の部活動での失敗談を披露して全員を爆笑させたり。


「……なんだか、本当にずっと前から友達だったみたい」


ふとした合間に瑠奈がそう呟いた。

空白の席に置かれた紙コップと桜餅。コップの中には彩乃が好きだったオレンジジュースが注がれている。忍は、そのコップを優しく見つめながら「ああ、そうだな」と静かに頷いた。

日が少しずつ西に傾き始め、庭の桜が黄金色の光に照らされ始めた頃、宴は終わりの時間を迎えた。


「それじゃあ、今日は本当にありがとう。すごく楽しかった」


瑠奈が膝に積もった花びらをそっと払い、服のシワを整えながら立ち上がった。


「ううん、気にしないで。またいつでも遊びにおいでよ。

……あ、そうだ。シンくん、瑠奈さんを駅まで送っていってくれないか?」


空がさらりと提案すると、忍は「ああ、そのつもりだよ」と迷いなく立ち上がった。

四人で門の外へ出ると、夕暮れの涼しい風が通りを吹き抜けていく。空と蜜柑は並んで立ち、遠ざかっていく二人の背中を見守った。蜜柑は門のところで「またね、瑠奈ちゃん!」と、ちぎれんばかりに大きく手を振っていた。

駅へと続く道のり。忍と瑠奈は、すべてをオレンジ色に染め上げる柔らかな夕景の中を、一歩ずつ確かめるようにゆっくりと歩いた。


「東京の電車、少しは慣れた?」


忍が隣を歩く瑠奈に問いかけると、彼女は「うーん、まだ路線図を見ると目が回っちゃうな」とはにかんだ。


「まあ、すぐに慣れると思うけど。……もし迷子になりそうになったら、いつでも呼んでくれ」

「ふふ、ありがとう、忍くん」


瑠奈はそう言って穏やかに微笑んだが、不意にその表情をわずかに曇らせ、ふらりと足を止めた。


「忍くん。……ほんの少しだけ、お話ししてもいいかな?」


唐突な瑠奈の呼びかけに、忍は驚いたように振り返り、その足を止めた。


「う、うん。いいけど……」


二人は駅への経路に面した、こぢんまりとした公園へと立ち寄った。沈みかけた夕陽は、誰もいなくなった公園の遊具を赤々と照らし出し、その影を地面に長く、鋭く伸ばしている。二人はまるで影絵の世界に入り込むように、並んで設置されたブランコへと腰を下ろした。


「どうしたの?」


知り合って間もない瑠奈からの、あまりに改まった空気。その内容がまるで見当もつかない忍は、落ち着かない気持ちを抑えきれず、急かされるように彼女へ問いかけた。


「うん……」


瑠奈は少し躊躇うように視線を落とし、小さく息を吸ってから、意を決したように静かに口を開いた。


「あのね――」


その一言に、忍は知らず知らずのうちにゴクリと唾を飲み込んでいた。


「お花見のとき、一つ多くコップを出していたでしょ。あれって――」


忍は瑠奈が何を尋ねようとしているのかを瞬時に察し、影が伸びる地面に視線を落とした。


「ああ……四ヶ月前に亡くなった、友達の分だよ。去年の秋にさ、『今度はここでお花見をしよう』って約束してたんだ。だけど……」


忍はそこで言葉を詰まらせた。喉の奥が熱くなり、その先の言葉が形を失って消えていく。


「そう……だったんだね」


瑠奈は忍から視線を外し、悼むように悲しげに俯いた。


「実はね、今日初めて忍くんに会ったとき……忍くんの側に、誰かがいるなぁって感じていたの」


その瞬間、忍の心臓がドクリと大きく跳ね上がった。


「それって――」

「女の子……だね。お花見の最中も、ずっと忍くんの隣に嬉しそうにちょこんと座っていて。それで、その子の気配に触れているうちに……色んな気持ちが、私の中に流れてきたの」


忍はブランコの鎖を握りしめたまま、淡々と語る瑠奈の横顔を食い入るように見つめた。


「忍くんと過ごした、幸せな日々のこと。本当はもっと、もっとたくさん一緒にいたかったのに、って」


忍は奥歯を噛み締めた。その言葉は、彼がこの四ヶ月間、自分自身を責め続けてきた棘そのものだった。


「……彩乃は、俺が送った最後のメッセージ、読んでないんだよ。俺も大好きだよって返したけど、既読もつかないまま逝ってしまった。ちゃんと顔を見て、自分の声で伝えたかった……。あいつが隣にいた時に、どうしてちゃんと言葉にしなかったんだろうって。今でも、それだけが悔しくて、苦しくて……。今だって、あの時言えなかった『好きだ』って気持ち、全然変わってないんだ」


震える声で吐露した忍の告白を、瑠奈は遮ることなく静かに受け止めた。そして、さらに深く、その「気配」に意識を集中させる。


「大丈夫だよ。彼女、さっきからずっと頷いてる。それから……こうも言っているわ」


瑠奈はゆっくりと視線を忍に戻し、慈しむような微笑みを湛えた。


「『私も、今でも忍くんのことが大好きだよ。ずっとずっと、変わらないから』って。言葉にしなくても、あなたの気持ちは全部伝わってた。……彼女、本当に幸せそうに笑っているのよ」

「彩乃……」


忍の口から、震える声でその名が漏れた。


「あいつ、いつも自分のことより、俺たちのことばかり心配して……。最期まで、そうだったんだな」


忍は深く頭を垂れ、こぼれ落ちる雫を隠さなかった。けれど、その涙は先ほど空の庭で流したものとは少し違っていた。後悔の澱を洗い流し、彼女の愛を再確認するための、浄化の涙だった。


「瑠奈さん……ありがとう。……ようやく、ちゃんと届いた気がするよ」


忍が顔を上げると、そこには腫れた目ながらも、少しだけ吹っ切れたような穏やかな笑みがあった。


「お礼を言うのは私の方だよ。あの子の真っ直ぐな想いに触れさせてくれて、ありがとう」


瑠奈はブランコを降り、夜の帳が下り始めた駅の方へと一歩踏み出した。


「よし、それじゃ、暗くなる前に帰ろう」


忍はそう言って力強く立ち上がると、駆けるように瑠奈の隣に並んで歩き出した。

夕闇に包まれつつある街の上空には、一番星が静かに瞬き始めていた。まるで、誰かが空から微笑みかけているかのように。

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