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第五話 普通じゃない合宿

 令和元年五月二十九日 水曜日

 多くの学校があつまった埼玉県某所。ここは高校や大学が多いことから学生向けのアパートやコンビニ、そして様々な専門ショップが立ち並ぶ。原宿のような都会的な華やかさは無いが道行く人の年齢の若さから自然と活気にみちた印象をうける。この日、駅から両腕をギプスで固定された痛々しい姿の女の子と二人の中学生が出てきた。学生が多い街なことから、中高生のパーティーが闊歩していても何の違和感もないのだが、平日の昼間にこんな異常な大怪我をした女子高生が歩く姿に自ずと行き交う人の視線を集めてしまう。

ギプスの女の子 海の後ろを、空と蒼井は大きなリュックサックを背負って並んで歩いている。空は見慣れない他所の街の風景を見回していた。


「埼玉ってベッドタウンってイメージだけど、ここってうちのところよりも賑やかだね」

「うん…… というか、うちのところが都内っぽくないんじゃないかな?」


そう言いながらキョロキョロする二人の姿は、まるで田舎から修学旅行で都会に出てきた学生にみえる。そんな二人をよそに海は駅を出て有馬太一に教えてもらった道順をトレースしながら十分ほど歩いたところで足を止めた。立派な木組みの門。その前に掲げられた一枚板の看板には『無差別格闘流 極道会』と書かれている。その側にある駐車場にはメルセデスのSUVと見慣れた陸のBMWが停めてあった。


「ここで間違いなさそうね」


海は確かめる様にいう。


「うん。陸兄の車もあるしね……」


威圧的な門構えに気圧されながらも、空は重厚な門扉を開けて中に足を進めた。そこに現れたのは手入れの行き届いた日本庭園のような庭。その中を縦断する様にはられたアプローチを通って純和風な造りの玄関までやってきた。玄関先に呼び鈴は見当たらない。空が引き戸を開けると海を先頭に中へと入っていった。


「ごめんください!」


玄関の戸を閉め外界の音が遮断された土間から奥に向かって海が呼びかけると、奥の部屋から四十代頭と思われる女性が近づいてきた。その姿が見えると三人は遠巻きに会釈をする。


「あの…… はじめまして。私は早見海といいます。こっちが……」

「早見空さんと蒼井蜜柑さんですね。お待ちしておりました。どうぞお入りください」


三人は家に上がると広い廊下の奥にある和室へと通された。


「すぐに師範がまいりますので、こちらでお待ちください」


そういうとその女性は部屋を後にした。三人は部屋中央に置かれた木を輪切りにしたテーブルに着く。海は緊張した面持ちのまま大きなため息をついた。その様子に空と蒼井は海の顔に視線を向ける。


「凄いわねここ。門を入ってからここまで一寸の隙もない……」

「な……何が?」


海のこの緊張感只ならない呟きに空は思わず問いかける。


「家や庭の景観、廊下の質感、この和室の造り…… どれをとっても文句の付けようがないわ。これはお金を出せば買えると言った代物じゃないわよ」


海は興奮気味に語ってみせるが、空は興味無さげに聞き流した。蒼井は分厚い一枚板のテーブルを珍しそうに撫でている。その時「失礼します」という声と共に部屋の襖が開き先ほどの女性が姿を見せた。それと同時に黒いジャージ姿の男が部屋に入ってきてテーブルをはさんで三人の目の前に座った。純和風な道場の師範がジャージ姿だったことに三人は意表を突かれたが、目の前の師範に深々と挨拶をした。

女性は男の後にたって部屋に入ると、盆に乗せた茶碗に急須で丁寧にお茶を回し入れ始める。


「私はここの道場で師範をしている齊藤勉。そして彼女は道場の運営と女性と子供に指導をしている田嶋陽子です。」


陽子はお茶を入れる手を止めて三人に向いお辞儀をした。

勉は軽く三人に自己紹介を済ませると一呼吸置いた後、急に真顔になって話を続けた。


「陸…… いや、君たちのお兄さんから大まかな事情は聞いたよ。随分と大変な事に関わってしまったようだね。」


空と海は苦笑いを浮かべる。


「まぁ、私も有馬兄弟同様、昔早見紗季には助けてもらった口だ。遠慮せず自分の家とでも思って稽古して行ってくれ。陽子やうちの子供たちも君たちと稽古するのを楽しみにしていた。これから暫くよろしく頼むよ。

……あぁ、それとさっき連絡があったんだが、太一さんの息子さんが手伝いに来てくれるそうだよ。彼は医大生なんだが、空手を極めようと頑張っている。大会での戦績は幼少期を含めても一敗だけ。いい稽古相手になると思うよ。」

「はぁ…… 凄いですね……」


海は社交辞令的にそう返した。

海も幼少の頃から空手を習っていて、参加した大会では無敗を誇っている。陸にしても地下闘技を始める迄は無敗だった。……にも関わらず、海はあの戦闘員相手に大怪我を負い、陸は地下闘技の試合では何度も苦渋を飲まされている。


大会での戦績などあてにならない——


海はそんな不信感にも似た思いから気のない返事となってしまったのだ。勉はその反応を見て含み笑いを浮かべた。


「まぁ、一度手合わせしてみるといいよ。彼も一応組技は使えるが立技打撃を得意としているからね。地下闘技でも打撃のみで戦い続けている」


勉はそういうと壁にかけられた時計をチラリと確認してその場に立ち上がった。


「それじゃあ早速だが、これから寝泊まりする部屋と道場を案内するよ」


五人は和室を出ると、勉は空を、陽子は海と蒼井を別の部屋へと連れて行った。案内されたのは六畳程の広さに窓が一つついた洋室。そこに作り付けの二段べッドだけがある合宿所のような部屋だった。空はその部屋に入るとベッド下段に陸のものと思われる荷物が置かれているのを目にする。


「ああ、陸も同じ部屋だよ。部屋をでて右手側にシャワー室でがあるから、稽古の後はそこで汗を流すといいよ」


そんな説明を受けた後、空は持ってきたリュックからジャージを取り出すと、残りの荷物をベッド上段に置いてすぐに着替えを始めた。着替えを終えて部屋を出ると、左隣の部屋から空手の道着をまとった海と、空と同じ学校のジャージ姿の蒼井が出てきた。


「ええーっ?空、あんたも学校のジャージなの?」


呆れたようにいう海に空は少しムッとしながら答える。


「別にいいじゃん。動きやすければ……

クラウマガの訓練の時もこれだよ」


海はやれやれといった顔で陽子と共に道場へと向った。入り口前で海はいつものように一礼をした後道場内に足を踏み入れると、その床板からは地面の上にいるような空洞感のない感触が足の裏に伝わってきた。


「ここも凄いわね」

「???」


ここでも海の感動は空に伝わらない。空と蒼井は海がやったように一礼したのち道場内に入ると、奥の方では陸は組手の真っ最中だった。陸と対峙するのはがっしりした体型 身長百八十センチ弱の二十代半ばの男。その男に陸は壁側まで追い込まれ苦し紛れのローキックを放つ。しかしその男の体は全く崩れる気配は無い。


「すげぇー 陸兄のロー喰らってビクともしないなんて……」


そして男は中段構えから体当たりするかのように、左肘を打ち込むと、防ぐこともかわす事もできないまま直撃を受けてその場に膝を着いた。


「お兄ちゃんと戦っている人…… かなり強いですね」

「あれは私の息子の(はやて)だよ。陸はここに来て約二週間こうやってひたすら組手をしている」


空はこれまで目にしたことのない、陸をも遥かに凌駕する相手に畏怖し震えがおこる。勉はその場に立ち尽くし戦いを見続ける三人に声をかけた。


「空くん。君はまだ組手のできる状態ではないと聞いている。だから陸達が戦うのを観て自分ならどう戦うかイメージしなさい。実際に戦えるようになった時、そのイメージと実戦の違いを修正するための前作業だ」


「……はい。わかりました」


空はそう言って震える身体を治めようと、右手で左手の肘をを押さえながら道場の壁際に移動して正座した。


「海さんは脚技のバリエーションを増やしたいということだったね。まずは陽子と組手をして君の実力を見せてもらってからメニューを決めようか」

「……押忍」


海は道場という空間に来たことで、いつもの空手スタイルとなっている。海は陽子とともに空いたスペースへ移動し説明を受けているようだ。


「……さて、蒼井さんと言ったかな?

 君は全くの初心者とのことだったね。」

「……はい」


蒼井がそう答えると、勉は蒼井を見たまま暫く考えていた。そして思い立ったようにに道場の入り口から廊下に出ると

携帯を取り出して電話をかけはじめた。そして一分程して蒼井の元に戻って来た。


「これから娘の由希ゆきが来るから、まずは彼女に攻撃と受け、体捌きの基本を教えてもらってくれ。ある程度基本が身についたところで約束組手で実戦に慣らしていこう」


ひとしきり説明をしたところに、廊下の方から高校生くらいのジャージ姿の女性が道場へとやってきた。ジャージにはアルファベットでHanekawaと書かれている。彼女は勉の元へやってくると、目の前の蒼井に軽く会釈した。


「これが私の娘の由希だ。」


勉がそういうと由希はもう一度ペコリと会釈して、蒼井に紹介を始めた。


「由希、彼女は蒼井蜜柑さんだ。格闘技経験は無いそうだから、パンチと蹴りの基本と体捌きをおしえてくれ。」


勉がそういうと軽く頷いた。


「はじめまして。私はここの娘の齊藤由希です。羽川学園高等部の二年よ。よろしくね」


そう言って蒼井に微笑みを向ける。続けて蒼井も丁寧に自己紹介をした。由希が通う羽川学園は全寮制の中高一貫校だが、放課後 十八時半までは部活動として自宅にあるこの道場で稽古しているという。

 由希と蒼井は勉のもとを離れ道場を出ると、さっき通って来た庭へとやってきた。水墨画にでもできそうな程趣があり整えられた庭の一角に、道場の三分の一程度の何もない土面の広場が作られていた。


「ここは?」


蒼井が尋ねる。


「ここは多目的スペース。何にでも使えるように何も置かない事になっているの。お兄ちゃんやお父さんと組手をしたり、BBQする事もあるのよ」


そういわれて辺りを見渡すと長い間、人の足により踏み固められたような凹凸がいくつもみてとれる。

 由希は着ていた長袖のジャージを脱いで庭木の枝に引っ掛けると、念入りに柔軟をして早速蒼井の指導にはいった。

 それぞれがそれぞれの場所で稽古を始め、数時間が経過し辺りが薄暗くなってきたころ、庭で稽古をしていた由希は学校の寮に戻る為にその日の稽古を終了する事にした。蒼井は水泳にはない体の動きに苦戦しながらも、由希がみせるパンチや蹴りをトレースして何度も繰り返した。そのため稽古を終えても脚はガクガクと震え、蒼井は膝に手をついて全身から流れ出る汗をそのままに肩で息をしている。


「蒼井さん、初日からキツかったかしら。でも最初からこのメニューをこなせるなんて凄いわね。何かスポーツしてたの?」


そう問いかけられて蒼井は息を整えながら上体を起こして答えた。


「……は、はい。は、春までは部活で水泳を……していました」


それを聞いた由希は「なるほど」と言いながら、納得した様子で話しかける。


「蒼井さん、今みたいに息が乱れて苦しい時はね、息吹という呼吸法で強制的に呼吸を整えることができるから覚えておくといいわ。稽古や組手のときだけじゃなく、学校で長距離走をした後なんかも使えるよ。一緒にやってみて」


そして由希が蒼井の隣に来ると、ふらふらしながら由希の動きを真似る。

両腕を肩の高さに地面と並行に伸ばすと、手を胸元に引き戻しながら息をゆっくりと十秒程かけて吸い込む。その後一旦息を止めて、掌を地面に向けて下ろしながら細く長く息を吐いていく。これを二回繰り返し、由希と会話ができるまで回復することができた。


「凄い…… こんな方法があるなんて……」


そう言いながら目の前で掌を握ったり開いたりしながら驚きをかみしめている。

その後由希が学校の寮へと戻っていくのを見送ると、海や陸が稽古している道場へと戻って来た。海は陽子を相手に蹴り技のコンビネーションを放っては指導を受けてを繰り返し、陸は今も組手を続けている。道場の壁際ではさっきと同じように空が陸達の組手を見学していた。蒼井は空の方へと歩み寄り、その隣に正座した。


「蜜柑さん。稽古どうだった?」


疲れた様子の蒼井をみつけた空は心配そうにそう話しかけた。


「うん、なかなか思ったようにはできないね。キックやパンチなんてしたこと無かったから、こんなに難しいとは思わなかった。」


そう言って蒼井は力なく笑った。


「まぁ、焦る事ないんじゃない?海姉みたいに小さい頃から空手とかしてないと、なかなかあんなパンチや蹴りは出せないよ。」


そう言って海の方をみると、海は右足で足払いをした後、上段掛け蹴りに繋げて更に左中段回し蹴りをくり出していた。その攻撃を陽子は体捌きと腕だけでかわしたり受け流したりしている。


「……にしても、あの人……陽子さんだっけ?とんでもなく強いな。もしかしたら陸兄よりも強いかも……」

「そうなんだ。陽子さんて師範の奥さんなのかな?さっき私に教えてくれた由希さんって師範の娘さんって言っていたけど……」

「さぁ…… どうなんだろう?」


空は全く気にも止めなかったことを聞かれて、とっさに勉と颯、陽子の顔を交互に見比べる。


「……違うんじゃない?あの歳であんな大きな息子さんいるとは思えないし。それに陽子さんの苗字、田嶋って言ってなかった?」

「うーん…… そうか。そうなのかな?」


蒼井も空と同じように三人の顔を交互に眺めてはじめた。そして蒼井が道場に戻り一時間が経ったころ、師範の「止め!」という号令で四人は手を止めた。互いに向き合い礼をして師範の元に駆けていくと、空と蒼井もその場に駆け寄った。勉は陸と颯に二言三言アドバイスすると、「三十分後に食堂で夕食」と告げられ解散となった。

 空は二十日ぶりに陸と顔を合わせ言葉に迷っていると、陸が口火をきって話し始める。


「蒼井さん。海と空の面倒見て貰ってすまない。特にコイツは見た目以上にガキだから迷惑かけたんじゃないか?」


陸は空の顔をチラ見しながら蒼井に問いかけた。


「いえ……そんな……」


蒼井の言葉が終わらないうちに空は荒げた声を上げる。


「あァ?!俺が蜜柑さんに迷惑なんて……かけてないとは言えないけど、俺ずっと動けなかったんだぜ。どんなガキっぽいことするってんだよ?!」

「蒼井さん、ずっと海にかかりきりになって構ってもらえなくてうじうじしてたとか?」

「ゔっ…… だ、誰がうじうじなんて……」


一触即発といった陸と空に蒼井はオロオロしている。


「あっ、あの…… 二人とも…… 海さんも空くんも迷惑なんてかけてないですから……」


蒼井はあたふたしながら二人の顔を交互にみながらフォローを入れる。そんな蒼井を姿を目にして、陸は「プッ」と吹き出した。


「冗談だよ、蒼井さん。コイツがあんまりからかい甲斐があるから……」


そういうと空は陸を見ながら頬を膨らませている。


「ほらな?ガキっぽいだろ?」


陸は空を指差し蒼井に言った。

蒼井は苦笑いを浮かべる。


「まぁ、これだけ元気なら大丈夫だろ。

……にしてもここも随分と大所帯になっちまったな。まさか蒼井さんも稽古始めるとは思わなかったよ。初めての稽古キツくなかった?」


陸にそう聞かれて少し考えたあと静かに答えた。


「確かにキツイですけど、私この機会に強くなりたいし、頑張ってついていこうと思います。それにこうして皆さんと同じことをしているのって部活みたいで楽しいなって…… 学校の部活は辛いことの方が多かったですけど……」


そういう蒼井に空は真っ直ぐ前を向いたまま話しかける。


「まぁ、あまり気負わずに頑張ろうよ。今回の事で自分の弱さが身に染みてわかったし、今度はあんな事にならないようにしなきゃ……」


そういう落ち込んだ空の顔を見た陸は、空の頭を鷲掴みしながら撫でた。


「俺もこの前の試合で惨敗したからな。 

ここで稽古して、今度リベンジしてやるぜ」


そう意気込む陸は思い出したかのように口をひらいた。


「そういえば、お前が入院していた有馬病院の医院長。ここの師範と知り合いなんだってよ」

「そういばそんな事言ってたな。古い友人とかって……」

「ああ、師範はその医院長の太一さんから戦い方を教わったそうだ。この道場で太一さんと師範が組手してるの見た事あるけど、金払ってでも見たいくらいハイレベルな試合だったよ」

「まぢ……?」


空は目を見開き食い気味に前のめる。


「ああ、それにお前を手術した有馬卓也先生。彼は太一さんの弟なんだけどな、師範とは幼馴染でよく一緒に稽古していたそうだ。その頃、師範は全く卓也先生に歯が立たなかったらしいぜ」


空は自然と大きなため息が漏れた。

空はICUでベッド越しに卓也と向き合った時のことを思い出した。


「なんかさ、俺、これまで誰と喧嘩しても余裕で勝てて、自分が強い気になってたのが恥ずくなってきたよ。ここの人たちって当然の様に異次元の強さで、ホント俺、井の中のナマズだったんだなって……」

「空くん、それ(カワズ)でしょ」


思わず出た蒼井のツッコミに陸は思い切り吹き出した。


「お前、本当にプロの作家か?」


その瞬間空の顔は真っ赤に染まった。


「じょ、じょ、冗談だよ。この場の空気を和ませようとわざと言ったのわからないのか?俺がそんな間違いするわけないだろ!」


完全に動揺している空に陸はまたも空の頭を鷲掴みして顔を近づける。


「わかった、わかった…… プロの作家さんが、そんな間違いするわけないもんな!」


ケラケラ笑いながらそういう陸は完全に揶揄っている。そんなやりとりをしながら宿泊部屋へと入っていく二人を微笑ましくながめながら蒼井も自分の部屋へと入って行った。

 三十分後、軽くシャワーを浴び着替えをした空は陸に連れられて食堂にやってきた。そこは十ニ畳ほどの部屋に大きなダイニングテーブルが置いてあり、その上には刺身の舟盛りやオードブルの皿が載せてあった。そこで蒼井は陽子を手伝って箸や皿を並べている。海は椅子に座り勉と面と向かいながら話をしているようだ。


「あ、蜜柑さん。俺も何か手伝うよ。」


蒼井の働く姿を見た空はそう声をかける。


「あ、うん。じゃあグラス並べてくれる?」


そう言われてテーブルに置いてある椅子の数をかぞえた。


「ひい、ふう、みぃ…… 九個?」

「うん」


そう言われて空は部屋にいる人を数え始めた。


「俺達四人と、師範、颯さん、陽子さん…… あとは?」


そう問いかけると蒼井は少し考える仕草をしながら言った。


「あと、晶子さんっていう颯さんのお母さんと、明日から稽古手伝ってくれる有馬医院長の息子さんがくるらしいよ。慶應の医大生なんだって!」

「へーっ 慶應大の医学部ってボンボンのイメージ強いけど、あの医院長先生の息子さんだからなぁ……やっぱり強いんだろうな」


近くでその話を聞いていた陸は空のところに歩み寄ってきた。


「太一さんの息子さんくるのか?息子がいるってのは聞いてたけど、格闘技できるひとだったんだな」


そういうと陸は嬉しそうにテーブルの椅子に腰をかけた。それから何分かしてだいたいのメンバーが食堂に集まった頃、勉はみんなを席に着かせるとグルリと辺りを見回した。


「まだ一人来ていないが、時間なので始めようか……」


そう言って簡単な挨拶をした後、今日から稽古に加わった海と空と蒼井に自己紹介をさせた。そして勉が田嶋姉妹、颯との関係をザッと説明すると、海と蒼井は興味深げにそれに聞き入っていた。


「師範はサラッと言ってるけど凄い関係よね…… うちといい勝負だわ……」


そんな海の呟きに海達の両親の関係を知らない蒼井は疑問符を浮かべる。


「……とまぁ、そんな事でこれから暫く一緒に生活していくことになるので、ささやかなながら今日は歓迎会を開催した。これからの健闘を祝して大いに食って呑んでくれ。

……それじゃ、かんぱーい!」


勉の発声で皆はグラスを高らかに掲げると宴が始まった。

宴会の場に馴染みのない海達はその場の雰囲気に戸惑っていたが、晶子と陽子が三人のところにやってきて話しかけた事で次第に場の空気に順応していった。そして暫くして始まった女子トークに居心地が悪くなった空は、そそくさと師範や陸たちのいる輪の中に入っていった。それぞれの輪の中で様々な話題で盛り上がって来た時、食堂のドアから二十歳くらいの爽やか系の男子が入ってきた。


「押忍!遅れてすみません!」


そう声をかけると、皆の視線はその男に集まった。そして男は面識のない空達と目が合うと軽く会釈をしてその場で自己紹介を始めた。


「どうも、有馬悠人(ありまゆうと)といいます。歳は二十二で大学四年生です!どうぞよろしくお願いします!」


ハキハキと挨拶するこの青年を目にした陸は急に目を見開き叫び声を上げた。


「ああっ!YUTOさん?!チャ、チャンピオンですよね?!地下闘技の?!」


そう言われて悠人は陸に目を向ける。


「えっと…… 君は? ……ああっ、闘技場の……」


悠人は地下闘技の会場で何度か顔を合わせた陸の顔を思い出した。すると勉は椅子から立ち上がり悠人の自己紹介を補足した。


「彼は有馬病院の医院長、有馬太一さんの息子だ。慶應大学の医学部に通う医者の卵だよ。そして今陸が言ったように地下闘技場のファイターでもある。彼は今、父親の太一さんが打ち立てた三年連続チャンピオンを破ろうと頑張っているところだ。みんな、よろしく頼むよ」


陸はその話を聞いて驚きの表情を浮かべている。


「YUTOさんて太一さんの息子さん?しかも、た、太一さんは地下闘技のチャンピオンだったんですか?三年連続って……」

「知らなかったのか?前は闘技場に歴代チャンピオンの写真が飾ってあったんだがな……」


平然という勉に陸は興奮しながら顔を近づけ力説する。


「確かに飾ってありますが、過去五年より前のはコミッショナーの部屋にあるとか……って。……って、なんで師範がそんな事知っているんですか?もしかして師範もファイターだったとか?」


陸にそう言われて勉はキョトンとした目でみる。


「あれ?言ってなかったか?」

「親父は何度かチャンピオンになっているんだぜ。太一さんみたいに連続ではないけどな」

「うん。チャンピオンの回数なら僕のお父さんより多いんじゃないかな。師範は強そうな相手が出てきた時だけ参戦してたらしいから」


陸の表情は驚きの表情を通り越して、涙目になってきた。


「なんなんだこの人たちは…… 当たり前のようにみんなチャンピオンになっているなんて…… まさか、卓也先生も?」


陸は勉に問いかけた。


「いや、あいつは地下闘技には出てないよ。子供の頃は合気道やってたけど、そういう大会に出たって話は聞いたことないな。完全な実戦志向だな」

「うん。俺は卓也さんのそういうストイックさが好きなんだよな。だから俺も大会や地下闘技には出てないぜ」


颯がそういうと、ここまで黙って聞いていた空は大きなため息をつく。


「なんかこうして聞いていると、ほんと俺ってナマズだな」

「「ナマズ?」」


その場の殆どが声を揃えて聞き返した。


「カワズな。井の中の蛙大海を知らず……って奴」


陸にそうフォローを入れられると、ドッと笑いが起こる。空は耳まで真っ赤にして言葉を加える。


「い、いや、だから俺はこの場の空気を和ませようとして……

……って、でもここだと俺と蜜柑さんが最年少なんですね。みんな大人ばっかりで、しかも桁外れに強い人ばっかりで緊張しちゃいますよ」


勉が空の言葉にすぐ乗ってきた。


「うちの由希は海さんと同い年だから、そんなに年は離れてないだろ。それに今日は来てないけど、颯と由希の弟のかえでもいる。小六で、来年羽川学園を受験するから今は塾行ってるけどな」


年下がいると知って、空はようやく肩の力が抜ける。そして気になっていたことを口にした。


「その…楓くんも強いんですか?」

「まぁ、ぼちぼちだな。由希もそうだったけど、楓も空手の自己推薦で受験するみたいだ。空くんも腹の傷が治ったら、一回やってみるといい」


空が頷くと、勉はビールをぐっと飲み干した。

その夜の宴は夜中まで続き、空たちが部屋へ戻ったのはもう一時過ぎだった。


陸は下段ベッドに倒れ込むなり、すぐに寝息を立て始める。


(あーあ…… 完全にこの生活に馴染んでるじゃん)


空は苦笑しつつタオルケットをかけ、自分は上段へ登って布団に横になる。


(こういうの、小学校の林間学校以来だな)


そう思って目を閉じるが、どうにも眠れない。枕の位置を直したり寝返りをうったりしても落ち着かない。


(俺、枕変わるとダメなタイプだったっけ? こんなデリケートだったかな?)


結局、空は体を起こしてしまった。


「……シャワー浴びたら眠くなるかな」


誰に聞かせるでもなくつぶやき、リュックからタオルを二枚取り出して部屋を出る。

“シャワー室” と書かれた扉を開けると、そこは銭湯の脱衣所のような空間があった。そして奥のアルミの引き戸越しに、三つのシャワーブースが見える。


(明るいな……誰か入ってるのかな?)


空が服を脱いで引き戸を開けると、中央のブースのカーテンの向こうから水音がした。空は手前のシャワー室に入り、カーテンを閉めてレバーに手を伸ばす。


そのとき――

アクリル仕切り越しに、その “誰か” と目が合ってしまった。


「蜜柑さん!?」「空くん!?」


二人の声が重なる。

仕切り越しなので頭と膝下しか見えないが、あまりにも気まずい。二人は反射的に背中を向けた。


すりガラス状の仕切りに映るのは、ぼんやりしたシルエットだけ――それでも十分に気恥ずかしい。沈黙が続き、ようやく蜜柑の方が口を開いた。


「そ、空くん……どうしたの?こんな時間に」

「えっと、眠れなくて…… 熱いシャワー浴びたら眠くなるかなって」

「そっか。私も……」


蜜柑がシャワーを止め、ふっと言葉を続けた。


「ねぇ……ずっと聞けなかったんだけど…… その、お母さんのこと……」


短い沈黙のあと、蜜柑は静かに答える。


「……うん。空くんと海さんが入院してる間に、簡単にお葬式だけ済ませたよ。死因は“転落死”ってことになってるけど、詳しいことはまだ何もわかってないの」

「家の中を調べれば連生会の関わりは気づくだろうけど……犯人特定は難しいよな」


空がそっと蒼井の方を見ると、仕切りの向こうで彼女の視線と交わり、力ない笑みが返ってきた。


「大丈夫? お母さんのことがあって学校も行けてないし、住む場所も転々として……疲れてない?」

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。あのアパートにいた頃はほとんど一人だったし、お母さんと顔を合わせることも少なかったから……

不謹慎かもしれないけど、今こうやってみんなと過ごせるの、すごく楽しいの」


そう言って蜜柑は仕切りに近づく。

すりガラスの向こう、輪郭がさっきよりもはっきり表れる。

空は思わず目が離せなくなった。


「そ、それならいいんだけど……」


視線を逸らせない空に、蒼井が不思議そうに首を傾げ怪訝そうに視線を追った。


「きゃっ!!」


蒼井は、空が仕切り越しに自分を見ていたことに気づき、慌てて胸と下腹部を隠した。


「空くんっ!!」

「ご、ごめん!ビックリして、つい……!」

「もーっ、それ全然フォローになってないよ! 空くんのエッチ!」


蚊の鳴くような声で必死に謝る空。

蒼井は口元を押さえ—— ぷっと吹き出した。


「大丈夫。怒ってないよ。ちょっと驚いただけだから」


顔を真っ赤にしながらも笑っていた蒼井は、ふと表情を引き締めた。


「空くん……私、強くなりたいの。

誰かに縋るんじゃなく、自分の力で生きていけるようになりたい。神様がいるのかどうかなんてわからないから」


空はその横顔から目を離せなかった。

蒼井はハッとしたようにバスタオルを胸に巻く。


「……わ、私、もう出るね!」


逃げるようにブースから出ていった。

一人残された空は、シャワーを全開にし、湯に打たれながら蒼井の表情を思い返した。


(今回の稽古相手は日本トップクラスだ。こんな合宿、どう望んでも参加できるものじゃない。だから陸兄も海姉も必死にくらいついている。蜜柑さんも“特別な時間”ってことわかってる。俺だって気合い入れないとな……)


空は湯を仰ぎながら息をつく。


(……それにしても……さっきはマジで焦ったな。里絵さんのときもビビったけど、すりガラス越しとはいえ蜜柑さんまで……)


『グビッ!』



 令和元年九月一日 日曜日

 コンクリートのビルが立ち並ぶ街。そんな中にある純和風な格闘技道場 極道会。敷地には沢山の木があり、初夏の頃からセミの鳴き声を響かせている。それは九月になっても鳴り止まなず、むしろ残り少なくなった命を燃え尽くそうとばかりに、自暴自棄とも思えるけたたましい鳴き声を轟かせ暑苦しさを増長させていた。……とはいえ盆の頃を過ぎたあたりから夏の暑さは急に和らいで、涼しさを感じる日も多くなってきた。

 道場に隣接された宿泊部屋では、合宿最後の稽古を終えた三人が帰り支度をしていた。三ヶ月もの間寝泊まりした部屋…… 空は窓を全開に開け、見慣れた風景を感慨深く眺めている。


「ふぅーっ!!」


そんな声をあげて窓から外に身を乗り出した。

五月の終わりから殆ど全ての時間を稽古に費やした早見兄弟と蒼井。そんな生活も今日で終わり、明日からは学校生活が始まる。空と蒼井は表面上は短期留学していることになっていた。本来なら大量の夏休み宿題に追われていたであろうこの日を解放的な気分で迎えてはいるものの、これから戻る日常を前にちょっと鬱な気分もある。そんなとき隣の部屋の窓から蒼井がひょっこり顔を覗かせた。


「空くん、合宿終わっちゃったね……」


少し残念そうな顔で話しかけてきた。死なない為という部活とは全く違うテーマのもと開かれた三ヶ月間の合宿。格闘も戦闘も全く未経験の蒼井が合宿に参加してどうなることかと思われたが、彼女はどんなハードな稽古にも貪欲に挑み、どんなに辛い状況でも終始楽しそうにして道場内のムードメーカーとなっていた。

目的はどうあれ、皆が同じ目標に向かって日々稽古に打ち込むこの環境は蒼井にとって居心地が良かった。


「うん。三ヶ月って長いようであっという間だったような気がする。蜜柑もたった三ヶ月で俺や海姉と組手できるまでになったもんな。師範も上達の早さにビックリしていたよ」


そう言われて蒼井は照れた笑みを浮かべた。

蒼井の戦闘技術はこの合宿前の空と近いレベルになっていた。中学から始めた強豪校でのハードな部活で身体が形成されていたことが幸いし、更に彼女の飲み込みの早さが空の上達速度を凌駕して空のレベルに追いついてしまったのだ。


「由希さんや陽子さんの教え方が良いんだよ。海さんもよく自分が強くなっていくのがわかるって言ってるよ」

「ははっ…… そう考えると、俺がまともに稽古出来なかった最初の一ヶ月が勿体無かったな。まぁ、仕方ないけどさ……」


そんな話をしていると後ろから空を呼ぶ声に振り返った。


「おい、そろそろ出る時間だぞ」


そう声を掛けてきたのは陸だった。


「うん。わかった……ってあれ?何で陸兄は稽古着のままなんだ?」


空の問いかけに陸はニヤリとする。


「俺はあと二週間くらい夏休みあるからな。それまでここで稽古していくよ」

「そなの?……ってか、里絵さんは大丈夫なのか?三ヶ月も放っておいて、更になんて。愛想尽かされて捨てられても知らないよ」

「ほぅ…… わかったこと言うじゃねぇか。彼女ができて女の子の気持ちわかるようになったか?」

「そんなこと……」


空と蒼井はこの三ヶ月の共同生活の間に距離が縮まった。毎日の過酷な稽古の中で吊り橋効果ともいえる恋愛感情の芽生えがあり、お互い励まし合えたことが苦にならなかった要因とも言える。

空は口の中でモゴモゴと何かをいいながら、ベッドに置かれたリュックサックを肩に引っ掛け、部屋をぐるりと見回した。すると自然とため息が漏れる。


「やっぱり俺ももう少しここで稽古したかったな。たった三ヶ月でこうもアッサリ蜜柑に追いつかれるなんて…… 格闘技経験者として示しがつかないよ」

「ふっ…… お前普段稽古らしい稽古してなかったし、体動かすのだって学校の体育くらいなもんだろ。自業自得だ」


陸の追い討ちをかけるような言葉に一瞬顔を顰めるが、部屋の中に忘れ物が無いことを確認すると名残惜しそうに廊下に出た。そこには蒼井と一週間前に両腕のギブスが取れたばかりの海が空を待っていた。


「あーあ…… 私ももう少し稽古したかったな。」


稽古着姿の陸を目にした海はつぶやいた。陸はそんな羨ましがる海をみて自慢げに言う。


「いいだろー 戻ったら稽古の成果を見せてやるよ」


部屋の前でそんな話をしていると、母屋の方から勉や田嶋姉妹、颯が四人の元にやってきた。その顔ぶれを前に海、空、蒼井は一列に並んで姿勢を正した。


「皆さん、長い間大変お世話になりました」


海がそういうと三人そろって深々と頭を下げた。その姿を前に勉はにっこり微笑む。


「私もこの三ヶ月楽しかったよ。由希や楓があんなに嬉しそうに稽古するのを見たのは久しぶりだ。またいつでも稽古にきなさい」

「はい。俺 結局楓に一度も勝てなかったし、向こうで稽古して組手にしまた来ます!」


空はこの場に楓がいないことを残念がりながら、勉にそう誓う。


「うん、楓も喜ぶ……伝えておくよ」


そういうと三人は玄関に向かいながら各々が礼をいいながら別れを惜しんだ。そして玄関前で勉達と別れ門を出ると皆は揃って両手をあげて伸びをする。三ヶ月ぶりに外界に出た三人は名残惜しさと開放感の混じった複雑な気分でいる。そんな三人の後ろに見慣れた顔があることに海が気付く。


「あれ、お兄ちゃん?ここに残るんでしょ?」

「ん……ああ、ちょっと里絵の顔見に行ってこようかと思って。ついでにお前らを家まで送ってやるよ。ここで待ってな」


そういうと、ポケットから車のキーを取り出して指先でクルクル回しながら駐車場の方へと歩いて行った。その姿に空は含み笑いを浮かべる。


「どうしたの?」


その様子に蒼井は空に問いかけた。


「いや、別に……」


そう言いながらも笑い続ける空に蒼井は首を傾げた。

道場の門の前でっていると陸の車がやってきて目の前で止まった。海は助手席に、空達二人はリアシートに乗り込む。カーステレオからはXのART OF LIFEが流れている。


「なんか音楽聴くのもすごい久しぶりだね」


海は普段は聴かないロックミュージックに耳を傾け目を閉じシートにもたれた。リアシートでは空の蒼井は頭を並べて寝息を立てている。陸はルームミラーでリアシートの二人に目を向けるとクスリと笑い都内に向け車を走らせた。


 令和元年九月二日 月曜日

 長い合宿生活のあいだ自宅を離れ、稽古だけに身を置いていた海、空、蜜柑の三人は、昨日ようやく家へ戻ってきた。そして今日、いつもの生活が静かに――しかしどこかぎこちなく――再開した。

 長いこと学校を休んでいた三人は、三ヶ月前の記憶をたどり寄せながら、登校の準備を進めていく。


 九月になって初めて夏服に袖を通した空と蒼井が玄関から姿を現した。二人は並んで歩き出すものの、心のどこかで、今日からの学校生活が以前と同じではないことを理解していた。


 東中学校に起こった呪いの目安箱にまつわる事件。一生徒が授業で作った木箱が恐ろしい呪物へと変化して何人もの人が命を落とした。

「この時代に“呪い”なんてさ……」

 空は最初こそ苦笑していたが、この名前を聞いた瞬間に笑みは固まった。

コトリバコ——あまりに有名すぎる禁忌との関連を知る。


 あの日から三ヶ月。

 柴田の姿は、もう学校にはないはずだ。そして柴田が連正会と関わっているならば、呪いの目安箱も二度と校内には現れないだろう。


 ——だが、油断はできない。


 連正会の目的は国家転覆。

そんな壮大な計画を知ってしまった空たちは、いつ連正会に命を狙われてもおかしくないのだ。

空は歩みを進めながら、周囲に気を配る。そんな空の隣で蒼井も緊張し言葉数が少なくなっている。


 校門が目前に迫り、多くの生徒のざわめきに紛れながら門をくぐろうとした、その瞬間だった。

 背後から、肌に触れるほどの“微かなナニカ”が忍び寄ってくる。空の背筋がわずかに粟立つ。気配が背中に触れようとした刹那、空の身体が反射的に動いた。一歩、地面を踏み鳴らし、振り返りながらに回し蹴りの体勢へと重心を落とす。


「うわぁ!!」


 間の抜けた叫び声が張りつめた空気を裂く。視界に飛び込んできたのは、尻餅をついてこちらを見上げる忍だった。


「シン……くん?」


空は息を吐き、蹴りの姿勢をほどいた。


「なんだよ、脅かすなって……」


 呆れながらも手を差し出す空。忍は“それはこっちの台詞だ”と言わんばかりに引きつった顔でその手を掴み、立ち上がった。尻の汚れを払い落とした忍は、空の隣に立つ蒼井に視線を移し、口角をにやりと歪めた。


「ほほぉ……二人並んで登校するなんて、いつの間にそんな関係になったんだ?」


 空は面倒そうにその揶揄を流し、三人は校舎の中へと進んでいく。

夏休み明け初日。廊下や教室はいつも以上に賑やかな声が響いている。そんな中を潜り抜け三組の教室前で蒼井と別れると、途端に忍が空の首に腕を絡めてきた。


「おい、いつの間に蒼井とくっついたんだよ」


 再び忍のからかう声が耳元で響く。

さっきは蒼井がいたので、簡単に引き下がった忍だが、二人きりとなった今はダル絡みしてきそうな感じだ。

「まぁ……」と曖昧に返しながら、蒼井と交際を始めたことを忍に伝える。空は自分の机にカバンを引っ掛けると、忍と共に窓へと向かい、窓枠によりかかる。

眼下には校門前で遅れてきた生徒を急かしている教師の姿が見える。


「……で? 蒼井とはどこまで行ったんだ?」

「どこまでって…… 留学先に行っただけだよ」


空の的外れな返答に忍は肩が抜けそうになる。


「……んな事聞いてんじゃねぇよ。蒼井と——」


忍の言葉を遮るように、空は強引に話題を切り替えた。


「それより……俺たちが留学してた間、あの事件について何か分かったのか?」

「あの事件? ああ、例の『呪いの目安箱』の件か」


忍は一瞬きょとんとしたが、すぐに記憶を掘り起こすように眉間にシワを寄せた。


「そういえばお前、保科が死んだ後、プールで見つかったのが誰だったか知ってるか?」

「え……それって櫻井先輩じゃなかったのかよ」


合宿前のあの息苦しい空気、そして忍と立てた仮説を一つずつ手繰り寄せながら、空は問い返す。


「いいや。あの時死んでたのは、俺たちのクラスの庄子美優だ」

「庄子美優? 確かあいつも、水泳部だったよな……」

「ああ、そうだ」


空は腕を組み、唸るように沈黙した。


「いくら水泳部だからって、なんでまた昼休みにプールなんかにいたんだ?」


「さあな。学校中、憶測だけでパンパンだよ。……ただ、一つだけ確かなことがある」


忍はさらに声を落とし、空の耳元で囁くように告げた。


「死因は溺死じゃなかった。……毒による自殺だ」

「毒……?」

「ああ。何を飲んだのかは伏せられてるけど、あいつ、プールサイドで毒を煽って、そのまま水に倒れ込んだらしい」


空が深くため息を吐くと、忍は声をさらに一段落として続けた。


「でもな、これには続きがある。その庄子美優、以前に櫻井先輩と付き合っててさ……その時に妊娠しちまったって噂だ」

「……そういえば、そんな話俺も聞いたな。それが、庄子だったのか」

「らしいぜ。

それで実はこれ、女子の連中から小耳に挟んだんだけどさ」


忍が周囲を警戒するように首を振ってから、声を潜めた。


「庄子のやつ、死ぬ直前まで櫻井のことを相当恨んでたらしいんだ。クラスの女子グループに、ボロボロ泣きながら漏らしてたって話だぜ。『あいつだけは絶対に許さない。地獄に道連れにしてやる』ってな」


空の背筋を、冷たい指先でなぞられたような悪寒が走った。


「地獄に、道連れ……?」

「ああ。櫻井に妊娠を告げたら、あいつ『俺の将来を潰す気か』って逆ギレして、庄子を突き放したらしい。それ以来、庄子の様子が完全におかしくなった。昼休みに一人でぶつぶつ何かを呟いてたり、あの『目安箱』に何度も手紙を放り込んでる姿が目撃されてる」


空は『水城ファイル』の内容を思い出し、喉が渇くのを感じた。

水城先輩は自らの血液と「負の感情」を媒介にコトリバコを再構築しようとし、更に母親の手で呪物と化した。

そこに憎悪に満ちた投書をしたのなら十中八九櫻井はこの世にはいないだろう。


空は、連正会と目安箱の黒い繋がりについては伏せつつも、「あの目安箱の呪いは、本物だ」ということだけを忍に告げた。その瞬間、忍の顔が恐怖で強張る。


「……だとしたら、櫻井先輩もどこかでのたれ死んでる可能性が高いよな」

空の推測を、しかし忍は力なく首を振って否定した。

「いや、櫻井先輩はもう見つかってるんだ。学校から姿を消した後、あいつ、越谷先輩の家に身を潜めてたらしいんだけどさ……。そこで突然、のた打ち回るほど苦しみだして、そのまま逝っちまった。状況が状況だから救急車も呼べなかったみたいでな。時系列でいえば、その直後に庄子が後を追うように自殺したってわけだ」

「……ってことは、庄子は櫻井先輩が死んだのを確認してから、自分も毒を煽ったってことか……」


空はやりきれなさに、深いため息を吐き出した。


「今更だけどさ、この学校、人死にすぎだろ。『Another』なら死んでた……なんて笑えないぜ。もうそのレベル超えてる」

「全くだよな」


忍が自嘲気味に苦笑いを浮かべたところで、空は核心に触れようと言葉を継いだ。


「それと……ちょっと話変わるんだけど、柴田先生のことで――」

「ああ、それだよ。柴田先生な――」


忍が身を乗り出し、声を潜めて語りだそうとしたその時。

無機質なチャイムが鳴り響き、始業式のために体育館へ集合するよう促す校内放送が、二人の会話を無慈悲に遮った。忍はあからさまに「チッ」と舌打ちをすると、重い腰を上げて廊下へと歩き出す。

各教室から吐き出された生徒たちが、一列になって体育館へと吸い込まれていく。

一歩足を踏み入れると、そこには夏の名残のようなムワッとした熱気と、人の群れが作り出す澱んだ空気が充満していた。不快感がじわりと肌を撫でる。

教壇の方を向いて整列する生徒たちの脇で、教師たちが申し訳程度にハンカチで汗を拭っているのが見えた。


(こりゃ、何人か熱中症で運ばれる奴が出るな……)


空がぼんやりと周囲を観察していると、三年生の列に先日話を聞いた太田と笹原の姿を見つけた。偶然にも目が合ってしまい、空は気まずさを隠すように軽く会釈をする。


(……そういえば、越谷先輩は来てるんだろうか)


櫻井の最期を看取ったというその人物を捜して三年生の列に視線を走らせたが、そもそも面識がないことに気づき、すぐに諦めて正面へと向き直った。


始業式が始まっても、空の意識は壇上の校長の退屈な話には向かなかった。

視界の端でゆらゆらと揺れる熱気の中に、死んだ庄子美優や櫻井先輩、そして水城先輩の影が混じっているような錯覚に陥る。


「……次に、この夏休みの間に退職された柴田先生に代わり――」


教頭のアナウンスが流れた瞬間、空の背筋が凍りついた。


(やっぱり、あの時連正会のビルにいたのは柴田先生だったんだ)


薄暗い夕方の街、その後の衝撃により、「あれは夢だったのか?」と思うことがあるほど記憶は朧気になりつつある。

しかしこの事実を耳にして、ハッキリとアレが柴田だったことを認識する。そして柴田が、空の前から姿を消したことから、あのビルに空が侵入したことを知っていたのだと認識する。


「……後任の、新井です」


紹介された新しい教師が壇上に上がるが、空の目はそれを見ていなかった。

始業式が終わり、ホームルームが終わると、二学期の授業が開始された。

一応道場にこもっていた間も、蒼井と共に一学期の内容を学習していた事で、授業に戸惑う事はない。

空は窓から見える澄み切った青空を眺めている。


(これで、今回の事件はすべて終わってくれるといいんだけど……)


そんな淡い期待を込めて深く息を吐き出し、空は再び黒板へと向き直った。


あの禍々しい「箱」が、この東中学校に再び姿を現すことはもうないだろう。

実行犯であった連正会の教祖も、自ら命を絶ったと母の口から聞いている。

依然として謎のまま残されたピースは山ほどあるものの、表面上の状況だけを見れば、今回の一件はひとまずの収束を迎えたようにも思えた。


だが、空の脳裏には、母に聞いた教祖が死に際のイメージがずっと焼きついている。そして最後に発した言葉…… とても、自らの意思だけで引き金を引いたようには思えなかったのだ。


(……考えすぎ、か)


今はただ、何も起きないことを願うしかない。

得体の知れない不安を心の奥底に押し込み、空はしばしの平穏へと、その身を投じていった。

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