第四話 正体
意識しないままここに居ることがさも当たり前のように鉄格子の門を開けて玄関から家の中に入る。三畳はあろうかという広い玄関に陸と里絵、そして蜜柑の靴がキチンと並んでいた。空はホッとしながら「ただいま」と言って家に上がった。キッチンのドア開けて中を覗き見たあと、奥のリビングへと足を運ぶ。そっとドアを開けてみると里絵と蜜柑が並んでソファーに座りタブレットを覗き込んでいる。陸はその対面で膝にノートPCを乗せて何かしているようだ。空はその様子を確認したあとガチャリとドアを開いた。
「ただいま」
三人は顔をあげる。
「おかえりなさい。今日は早いんですね」
里絵がそういうと蒼井は部屋の時計を見上げた。
「ホントだ…… 今日は六時間授業じゃなかった?」
蒼井はそう言ってソファーの上から空の顔を見上げた。それに連動する様に陸と里絵も空に視線を向ける。
「実は……」
空は櫻井失踪と昼に発見された死体について話しだした。蒼井は身をすくめながらその話を聞いている。里絵も見ていたタブレットをテーブルに置き、陸は呆れたような顔で膝の上のPC の画面を静かに閉じた。
「この話からだと死んだのは櫻井か越谷だよな?」
「えっ? 越谷先輩?」
空は思いもしなかった名前に目を白黒させる。蒼井を見ると、彼女も不思議そうな表情を浮かべて陸の方を見ていた。空は肩にかけた鞄を床に下ろし腕を組みながら陸の隣に座る。そして数十秒天井を見ながら黙って目をキョロキョロさせた後静かに口を開いた。
「確かにありえる…… 何で言われるまで気がつかなかったんだろう。越谷先輩は犯人側としてしか考えてなかったよ……」
「まぁ、可能性の一つでしかないけどな」
陸はそういうと膝の上のPCをテーブルに置くと伸びをしながら上体をソファの背もたれに投げ出した。そしてうんざりしたような表情を浮かべ上体を戻しながら呟いた。
「しっかし何なんだ? ここ最近の東中は…… 金田一かってくらい死人がでてるな」
空はその話を聞いて小さくため息をつくと、テーブルに置かれたカップにコーヒーを注いだ。
「まったく…… 」
そう呟いたあと、さっき学校で読んだ連正会の報告書のことを伝えた。
「水城…… やっぱり死んでいたのか」
陸は空のスマホに保存された、連正会の報告書を見せてもらうと陸は目を細める。
「いるな…… 全員」
「いるって誰が?」
空は即座に陸に尋ねる。
「彰をいじめていた連中だよ。
日付からすると中学卒業したあとみたいだが、彰をイジメてた俺が知ってるは全員入っているよ」
そのスマホは空の手へと戻され、空もその記述を読み返す。死因は事故に自殺と様々だが、死亡した日はほんの数日の範囲にかたまっている。
「ということは水城聖良という彰先輩のお母さんが発動させたってことだよな」
「だろうな……」
「でも、だとしたら彰先輩をイジメた奴らが死んだんなら、なんでそこで終わりにしないんだろ?」
空はふとそんな疑問を口にした。
「まぁ、それは連正会が他の目的でその研究を支援しているからじゃねえの?」
空と陸がそんな話をしていると、蒼井は俯き震えながら黙ってその話を聞いている。そんな蒼井を気遣うように里絵はその肩に手を置いていた。
空はその様子に気がつく。
「それはそうとさ、今日うちの方は何事も無かったのか?」
空はわざと明るい口調で話しながら、コーヒーを口にして陸に視線を向けた。陸も蒼井を気にする素振りを見せたが、すぐに顔を戻し静かに話し始めた。
「さっき警察から電話あったくらいかな。司法解剖の結果はまだみたいだけど死因は脳挫傷か頸椎損傷だそうだ。簡単にいえば転落死って事だ。焼かれたのはやはりその後らしい」
「ふぅーん。でもさ、なんかやってること雑過ぎないか? なんで火をつけたか知らないけどさ、そんなんで人間の体が燃えつきるわけ無いだろ。調べれば死因だってすぐわかるだろうし。うちの学校の事件の方がよっぽど丁寧だぜ」
納得いかない様子で呟く。
「殺人の丁寧さなんて褒められた事じゃないけど、確かに蒼井さんのお母さんの方はやり方が荒すぎて、逆に不自然に思えてくるわね」
俯いて話を聞いている蒼井の横で静かに里絵がそう話した。
「でもな、そんな事を演出する理由って何かあるか? 飛び降りはともかくとして、火をつけたのはわざと誰かに見つけさせようとしているとしか思えない。そこまでして死体の在処をアピールする必要って……」
そういうと陸は唸りながらソファーにもたれて天井を向いた。四人は考えが行き詰まり部屋が静まり返ったとき、部屋のドアが前触れなく開いた。
「あれ? みんないたんだ」
そう言いながら海が制服姿で部屋に入ってきた。ドアが開くまで何の気配も感じていなかった蒼井は身体をピクリとさせて海を見上げ、他の三人も静寂を破ったその声の主に視線を移した。
「なぁに? あんまり静かだから誰も居ないのかと思っちゃった。何してんの?」
そう言いながら空のところまで歩いて来た海は、鞄をソファ脇に置くと当然のようにテーブルの空のコーヒーを口にする。空はさっきと同じように今日の出来事を説明すると、海は「ふうっー」と長めのため息をついたあと確認をするかのように話し出した。
「火をつけたことに特別な意図なんてあったのかな? 空が今朝やっつけたのって下っ端の研究員なんでしょ。蒼井さんのお母さんが狙われた理由はわからないけど、失敗して殺人のトリックがバレるのを恐れてとっさに…… とかじゃないの?」
「いやいやいやいや…… それかえって不自然だろ? 頸椎損傷か、焼死ってことなら事故や自殺ともとれるけど、この二つが重なったら明らかに他殺だ。警察は殺人事件として調べ始める。つーかさ、そんなこと連正会に乗り込んで指示した奴を締め上げればわかるんじゃね?」
空があっけらかんとそう言うと、海は呆れたように言った。
「空、アンタねぇ…… 相手の規模も戦力もわからないで乗り込むなんて自殺行為の何者でもないわよ。今朝の下っ端の雑さを笑えないわ」
蒼井は不安そうに二人のやりとりを眺めながら頷いている。
「確かに海の言う通りだな。だいたいお前の戦闘技術じゃ四、五人相手するのもキツいだろ?」
陸の言葉に反論できず、空はソファに身を預けた。ふと、母から聞いた“とある宗教団体”の話が記憶の底から浮かび上がる。
宗教団体というものは、理想のためなら過激な手段を平然と選ぶことがある——。
両親の母が関わっていたという宗教団体 YVは、研究機関を複数持ち、私設軍隊のような武闘派まで抱えていたらしい。目的のためなら手段を問わない。連正会も似たような研究施設を持ち、悪名の高さはYVに引けを取らない。
その連正会に正面から乗り込む——それがどれほど危険か、想像するまでもなかった。
「まあ……確かに。俺の力じゃ、どうにもならないよな」
空は海に飲まれたコーヒーカップへ静かにコーヒーを注ぎ足し、一口だけ含んだ。
乗り込む決意を取り下げた空の様子に、海はほっとしたように息をつき、空のコーヒーをもう一口すすった。
「空、ほんと無茶だけはしないでよ。……じゃ、夕飯作るね」
そう言い残して海はリビングを出ていった。
空は残されたカップを見つめ、自分の無力さを噛みしめる。これからどう動くべきか——考えても答えは出ない。
そんな空を見て、陸は深く息を吐くと、立ち上がり空の頭にそっと手を置いた。
「まぁ、そんなに気負うな。相手が動いた方が、こっちが打つ手を選びやすいこともある」
「……相手が動く?」
空は陸の手を軽く払いながら顔を上げた。
「ああ。今朝、お前が“蒔いた種”がな。そのうち芽を出すはずだ。ああいう過激な連中はプライドだけは高い。舐められたら最後、何としても落とし前をつけようとする。その辺のヤクザなんかと大差ねえよ」
陸はそう言って部屋を出ようとする。
それに気づき、理恵も立ち上がった。
「ん? 陸兄、どっか行くの?」
「仕事だ」
陸はPCを抱え、そのまま玄関へ向かっていく。続いて理恵が歩きながら補足した。
「お兄さん、今夜試合なんです。試合前に、知り合いの道場でウォームアップするって」
「そうなんだ。理恵さんも行くんですか?」
尋ねると、理恵の表情がわずかに曇った。
「いえ……私は……
陸、あまり私を試合に連れていきたがらなくて。」
「えっ? 結構強いって聞いてますけど……」
「そうですね。でも“試合場は治安が悪いから”って」
陸が今夜出る地下闘技場は、観戦料の高さゆえ客層は富裕層が多い。会場では徹底した管理がされているが、出場者には格闘家だけでなく、街の喧嘩屋、不良、ギャングの類も紛れている。控室や周辺が荒れた空気になるのも仕方がなかった。
理恵が部屋を出ていくと、少し間を置いて空は蒼井に尋ねた。
「蜜柑さん。今日、何か変わったことなかった? 昼飯は?」
二人きりになった蒼井は、どこか柔らかい表情で午前中の出来事を話した。
兄たちとも問題なく過ごし、特にトラブルもなかったようだ。空は胸を撫で下ろした。
「……そう、良かった。学校に行ってから心配になってさ。予備の携帯、渡しておけばよかったって後悔してたんだ」
蒼井は照れたように苦笑した。
「空くん、心配しすぎ。私、空くんと同い年なんだよ? 子どもじゃないんだから」
「いや、それはわかってるけど……昨日の、というか今朝のこともあったからさ」
二人の間に柔らかな笑い声が溶けていった、その時だった。パタパタと廊下を駆ける軽快なスリッパの音が響き、勢いよくドアが開け放たれる。顔を覗かせたのは海だった。
「ごめん二人とも! お米切らしてた! 今日は外で食べよ。お兄ちゃんに送ってもらうから、すぐ準備して!」
「ん? あ、ああ……。どこ食べ行くの?」
「パスタの気分だからイタリアン! 蜜柑さんもそれでいいかな?」
「はい」
二人が「よっこらしょ」と腰を上げようとした、その瞬間——。
空のポケットの中で、スマホが短く震えた。
「おっと……」
無造作にスマホを取り出すと、昼間教科書に挟まっていたあのメモ紙が、ひらりと床に滑り落ちる。
(そうだ、あのメモ……)
リビングに一人残った空は存在すら忘れかけていたそれを拾い上げながら、一方でスマホの通知をチェックする。画面にはLINEのメッセージがでていた。
『空、すまない。昼の事故の件で行けなくなってしまった』
「……だよな」
空は小さく吐息を漏らし、『わかりました。ではまた今度……』と短く返信を打つ。一息つく間もなく、今度はメモに記された「別の番号」をタップした。
『おかけになった番号は、電波の届かない場所に……』
耳に届くのは、無機質な機械音声。
(……マジかよ)
思わずチッと舌打ちし、乱暴に画面を閉じる。
イタリアンへ向かうため、私服に着替えてリビングに戻ると、ほどなくしてドアが控えめに軋んだ。準備を終えた蜜柑が、どこか落ち着かない様子で顔を覗かせる。
「空くん……」
そこにいたのは、さっきまでの部屋着姿とは打って変わった彼女の姿だった。空は思わず言葉を失い、その視線に耐えかねたように蜜柑は頬を赤らめて俯く。
「ど、ど、どうしたの、その格好……」
「海さんが貸してくれて……。私、こういう服って着たことなくて。その……どう、かな?」
「……うん。凄く、似合ってる」
意識し合う二人の間に、妙な緊張感が走る。しどろもどろな会話が続くなか海が合流。賑やかなお喋りを夜の空気に響かせながら、三人は玄関を後にした。
門前で待機していた陸の愛車へと乗り込む。車が滑らかに走り出すと、点灯したばかりの街灯が、薄暗い路地を淡い光でドラマチックに縁取っていくのが見えた。
「里絵さんは、これからお家に帰っちゃうんですか?」
助手席で静かに前を見据えていた里絵に、後部座席から海が身を乗り出して話しかける。
「ええ、そのつもりよ」
「だったら里絵さんも一緒にレストラン行きましょうよ!」
海の誘いに、里絵は少しの間を置いてから、困ったように口を開いた。
「ありがとう。でも、大学のレポートを片付けなきゃいけないの。今日は遠慮しておくわ」
その言葉を聞くやいなや、海はあからさまに残念そうな声を上げ、シートに背中を預けた。
ちょうどその時、車は赤信号の交差点で停止する。ふと、空が何気なく歩道の喧騒に目を向けると一人の人物の姿が、その視界に突き刺さった。
(ん……? あれって……)
吸い寄せられるように、空の視線はその背中を追い続ける。
「陸兄、海姉、ごめん! ちょっと用事思い出した、俺ここで降りるわ!」
「えっ!? ちょ……ちょっと、空!?」
驚く海の制止も聞かず、空は弾かれたようにドアを開け、歩道へと飛び出した。
五十メートルほど先を行く背中を追うが、夕暮れ時の人混みが壁となり、思うように距離が縮まらない。ようやくあと二十メートルという距離まで詰め寄った、その時だった。
道路脇に停車していた黒塗りのワンボックスカー。その後部ドアが開き吸い込まれるようにターゲットはその中へと消えていった。
「今のは……確かに柴田先生だったよな……」
今の光景を脳裏に焼き付けるように、空は低く呟く。迷う暇はなかった。すぐさま道端のタクシーを捕まえると、先ほどの車が向かった方向を指差した。
幸い、夕方の渋滞で車の流れは緩やかだ。二分ほどで標的の車を捉えると、空は運転手に「あの車を追ってください」と告げた。
(事件の件で行けなくなったって言ってた柴田先生が、どうしてこんなところに……。それに、あの車は一体何なんだ……?)
胸の奥をざわつかせる正体不明の不安を抱え、空はフロントガラス越しに車を凝視し続ける。
車は高速に乗り、県境を越えて埼玉県へと突入。三十分ほど走ってインターを降りると、そこからさらに十分、ようやくターゲットの車が停車した。
空を乗せたタクシーは、あえてワンボックスを通り過ぎ、角を左折したところで停車する。
料金を払い、周囲を警戒しながら車を降りた。影に身を潜めるようにして、柴田が消えていった建物の前へと歩み寄る。
そこは、十階建てほどの無機質なビルだった。
しかし、入り口に掲げられた看板を目にした瞬間、空の背筋に冷たいものが走る。
『連正会 関東本部』
「連正会……。どうして、柴田先生がこんな場所に……?」
ビルを前に立ち尽くす空。
東中学校には連正会の人間が紛れ込んでいる——
昼間考えていたことがこんなにもすぐ目の前で証明され、
空はビルを見上げながらゴクリと唾を飲んだ。
(こんなとこでつっ立ってても何にもわかんねえよな……)
空は意を決し、ビルの正面のエントランスへと踏み込んだ。
今時、コソコソと裏口から忍び込もうとしたところで、無数の監視カメラの餌食になるのがオチだ。むしろ、その不審な挙動こそが命取りになるだろう。空はあえて「場違いな客ではない」という顔を張り付け、堂々と自動ドアをくぐり抜けることにした。
建物の奥へ進むにつれ、異様な光景が目に飛び込んでくる。通路の両側に並ぶのは『修行道場』と掲げられた部屋の数々。そこでは老若男女問わず、多くの信者たちが坐禅を組み、瞑想にふけっていた。中には完全にトランス状態に陥り、虚空を見つめている者までいる。不審者が廊下を通ろうが、それに気づくものはいない。
(……このフロアは「一般信者」用ってわけか)
空は通路の脇にエレベーターを見つけると、迷わずボタンを押し込み、滑り込んできた箱の中へと身を投じた。内壁にはよくあるフロア案内すら存在しない。
空は迷うことなく、最上階である『12』のボタンを指で弾いた。
最上階、十二階。
到着を告げる無機質なチャイムが鳴り、ゆっくりと扉が開く。
そこには、門番のように二人の男が待ち構えていた。そのうちの一人が、鋭い眼光で空を射抜く。
「ここは一般信者の立ち入りは禁じられている。……引き返せ」
いきなり殴り飛ばされる覚悟をしていた空は、その事務的な警告に身を硬くしながらも、言葉を絞り出した。
「……先生がここに入っていくのを見たんです。柴田先生に、会わせてほしい」
男たちの顔に不審な色が浮かぶ。フロアへの進入を頑なに拒む男たちと、食い下がる空。何度かの押し問答の末、ついに痺れを切らした二人が、力ずくで空を排除しようと太い腕を伸ばしてきた。
「ッ!」
空は反射的にその腕を掴み、最短距離で関節を極めながら床へと叩きつける。
だが、その一瞬の集中が仇となった。
(あ、やば――)
一人に意識を割きすぎた。もう一方の男の回し蹴りが空の脇腹を捉え、その体は紙屑のようにコンクリートの壁へと吹き飛ばされる。
「がはっ……!」
全身を貫く衝撃。視界が火花を散らすなか、空はヨロヨロと、這いつくばるようにして立ち上がろうとする。そこに立ち上がった男と共に蹴りと拳が降り注がれた。
(はは……三、四人どころか、二人相手でこれかよ……)
脳裏に『お前じゃ、三、四人を相手にするのも厳しいだろうな』という陸の冷ややかな忠告がよぎり、空は自嘲気味に口角を上げた。
男達は空に容赦なく拳を浴びせ、床へと叩きつけ、逃げ場のない追撃の蹴りが何度も空を襲った。
やがて空の動きが止まると、男たちはその体をごみ袋でも扱うかのように無造作に掴み、フロアの奥深くへと引きずっていった。
一方その頃、早見家。
帰宅した海と蒼井は、いまだ帰ってこない空を待ちわび、リビングに漂う重苦しい空気に押しつぶされそうになっていた。
「どうしたんだろう、空……。全然既読つかないし、電話にも出ない」
海はスマホの画面を見つめたまま、苛立ちを隠せない様子で爪を噛む。何度も発信ボタンを押すが、聞こえてくるのは虚しい呼び出し音だけだ。
「空くん、どうしてあんなところで急に降りちゃったんでしょう……」
「……多分だけど、あの辺りで誰かを見つけたんじゃないかしら」
蜜柑の問いに、海は腕を組み、険しい表情で天井を仰いだ。
「もしかして、あの『事件』に関わっている人とか……」
「……櫻井とか、越谷って人?」
「いえ、それは無いと思います。空くん、その先輩方とは面識がないはずですから……」
二人の間で不吉な推測が渦巻く。その時、静まり返った家に「ガチャリ」と玄関のドアが開く音が響いた。
「あれ? 空!?」
二人は顔を見合わせ、弾かれたようにリビングを飛び出した。だが、そこにいたのは空ではなかった。
「ん? 海どうしたの? 怖い顔して」
三兄妹の母、早見紗季だった。
「それと、あなたは……」
「あ、すみません。今日からお世話になってる蒼井蜜柑です」
慌てた様子で紗季に自己紹介をする。
「そう、あなたが…… 話は海から聞いているわ。自分の家だと思って安心して過ごしてちょうだい」
紗季はそう言って蒼井に笑顔を向ける。
「それよりお母さん……! 今日は遅くなるんじゃなかったの?」
「その予定だったんだけど、お父さん一人で大丈夫そうだったから先に帰ってきたのよ。それよりどうしたの?」
海と蜜柑は、夕方に起きた不可解な出来事を一気にまくし立てた。話を聞くにつれ、紗季の瞳から温度が消えていく。彼女は無言でスマホを取り出すと、位置情報共有アプリを立ち上げた。
「随分と遠くにいるわね……埼玉?」
紗季はそのまま詳細な住所を検索し、地図上に表示された建物の情報を確認する。その瞬間、彼女の顔が凍りついたように険しくなった。
「空……出かける前、何か言っていなかった?」
「特には……ねえ?」
海の問いかけに、蜜柑が記憶を呼び起こすように答える。
「あ……でも、家を出る直前、誰かにLINEをしていました」
その言葉を聞いた紗季は、沈黙したままスマホの画面を二人に向けた。
「ここって……」
海がストリートビューの画面を拡大し、表示された建物の看板を覗き込む。
「『連正会』……? まさか、あいつ、一人でこんな場所に……っ!」
二人の脳裏に、空との何気ない会話が不吉な予感と共にフラッシュバックする。
「お母さん! お願い、すぐここに向かって!」
紗季は短く頷くと、踵を返して部屋を飛び出した。
「蜜柑さんは家で待ってて」
「でも……っ!」
不安に押しつぶされそうな蜜柑が、すがるような視線を海に向ける。海はその肩を強く掴み、言い含めるように告げた。
「もしもの時は、お兄ちゃんに状況を伝えて。お願い!」
海は自分のスマホを蜜柑の手に押し付けると、リビングの外へと駆け出した。海は玄関前に待機していた紗季の車に飛び乗る。行き先は、埼玉県にある連正会 関東本部。自宅からは五十分ほどの距離——。
いつもなら大したことのない時間が、今は永遠のように長く感じられる。赤信号に捕まるたび、海はシートを拳で叩き、焦燥感をぶつけた。
「こんな時に……っ! 」
高速に乗った瞬間、紗季はアクセルを床まで踏み込んだ。エンジンが悲鳴を上げ、車体は矢のように夜のハイウェイを突き進む。車間を縫うような猛烈な追い越しに、海は無言で拳を握りしめた。
三十分後。
タイヤを軋ませて『連正会 関東本部』のビル前に滑り込んだ車は、玄関ギリギリに急停車した。
紗季と海は迷うことなくビルの中へと突入する。エレベーターに飛び乗り、叩きつけるように最上階のボタンを押し込んだ。
扉が閉まる瞬間、二人の瞳には「何があっても引き下がらない」という、静かだが苛烈な怒りが宿っていた。
チリン、と無機質なチャイムが鳴り、エレベーターの扉が開く。
そこには、十人の男たちが壁のように立ち塞がっていた。その瞬間、海は迷わず迎撃の構えを取り、紗季は淀みのない動作で懐から二本のアーミーナイフを抜き放つ。
対峙する男たちは、空の時のように警告を発することすらなかった。殺気を剥き出しにした集団が、二人を排除せんと一斉に襲いかかる。
「邪魔よ、どきなさい」
紗季の氷のような声が響く。彼女はまるで舞うように、襲いくる拳や蹴りを最小限の動きで捌き、急所を的確に突きながら群れの中へと突入していく。
一方、海は荒々しくも泥臭い戦い方だった。数発の打撃を肉体で受け止めながらも、一人、また一人と確実に意識を刈り取って前進する。
(お母さんの、あの動き……! 嘘でしょ、何なの……!?)
初めて目にする「戦う母親」の異様なまでの手際に、海は驚愕で心臓を跳ねさせた。だが、呆気にとられている暇はない。紗季が切り拓いた血路を追い、海も残った男たちをなぎ倒しながら奥へと突き進む。
廊下の突き当たり、ひときわ重厚な扉。
それを乱暴に蹴破った先で、異界のような光景が二人を待ち受けていた。
部屋の隅、床にぐったりと横たわる空の姿。
その傍らに立つ二人の男と、さらに奥、禍々しい気配を放つローブを纏った五十代半ばの男。
そして部屋の最奥には、ガラスケースに収められた『即身仏』が、冷徹な眼差しでこの場を支配していた。
「空っ!」
海が叫び、真っ先に弟の元へと駆け寄る。
震える手でその胸に触れ、呼吸と心音を確認する。ドクン、ドクンと刻まれる確かな鼓動に、海は一瞬だけ安堵の表情を浮かべ顔を上げ立ち上がる。
「さて……。じゃあ、まずはうちの弟をこんな目に遭わせた落とし前、キッチリつけてもらいましょうか……!」
海の声から温度が消えた。
言い放つと同時に、地を這うような鋭いローキックが手前の男の膝を打ち抜く。男が体勢を崩した刹那、海はバネのように跳躍。逆の足で放たれた鮮やかな後ろ回し蹴りが、逃げ場のない男の顔面を正確に捉え、その巨体を横ざまに吹き飛ばした。
しかし海が着地したその瞬間、死角からもう一人の男が凶悪な肘打ちを脳天めがけて振り下ろした。
「海、危ないっ!」
紗季が叫び、海の体を力任せに突き飛ばす。
しかし直撃は免れたもののその一撃を肩で受け止めた海の体から、嫌な音が響いた。左腕が力なくダラリと床へ垂れ下がる。
「くっ……あぁぁぁ!」
激痛に顔を歪めながらも、海の闘志は潰えなかった。残った右足で渾身の足払いを叩き込み、男の姿勢を強引に崩す。
男の体が重力に引かれるそのわずかな隙—— 紗季は閃光のような速さでアーミーナイフを突き出し、倒れ込む男の喉元へとその切っ先を深く沈めた。
目の前に立つローブの男。おそらくはこの狂信的な集団を束ねる教祖。
これまでの刺客たちのような、洗練された戦闘技術があるようには見えない。
「……あと一人」
海は自分自身に言い聞かせるように、低く、湿り気を帯びた声で呟いた。
だが、教祖と思われる男はこの惨状を目の当たりにしてもなお、眉ひとつ動かさずに海たちを凝視している。その不気味なほどの静寂が、かえって「こいつが一番厄介だ」という本能的な警鐘を鳴らした。
紗季と海は、獲物を追い詰める野獣のような足取りで、じりじりと男との距離を詰めていく。
先に仕掛けたのは紗季だった。
残った右手に握るナイフを逆手に持ち替え、抉り抜くようなパンチの軌道で切りつける。男はそれを紙一重でかわすが、紗季は止まらない。流れるような動作でナイフを振り下ろす鉄槌へと変化させ、相手の追撃を許さぬ横蹴りで距離を取りつつ、再び体勢を整えた。
海は倒れた男の首筋からナイフを力任せに引き抜くと、それを手に加勢に入る。攻撃の最中にナイフを紗季へと手渡す。
二本の凶器が再び紗季の手へと戻った。
海が囮となるように男の死角へ回り込み、一瞬の隙を突いてその背後から羽交締めに持ち込む。
「お母さん!今よ!!」
逃げ場を失い、無防備に晒された男の胸部。そこへ、紗季の振るう二本の刃が、容赦なく、そして深く深くと突き立てられ男は崩れ落ちた。
その瞬間ローブの男の仮面が、ついに剥がれ落ちた。絶望的な動揺に顔を歪ませ、男はガタガタと無様に後ずさりする。死への恐怖に追い詰められ、何かに取り憑かれたように懐へ手を突っ込むと、ローブの中から暴力的な火花が二度散った。
「がぁっ……!」
放たれた二発の弾丸。そのうちの一発が海の太ももを深く抉り、彼女はその場に崩れ落ちた。
「海っ!」
紗季が叫ぶ。だが、男の手元にある銃口が次にどこへ向けられるか分からない。
撃たれた足を押さえながら海は顔を上げてローブの男を睨む。
「あなたは…… 連正会はあんな箱を使って何をしようとしているんだ?」
海がそういうと小さく笑みを浮かべながら、海へと近づく。
「国家の転覆…… そして、あのお方の復活」
そう言ってチラリと背後に置かれた即身仏に目を向ける。
「そいつは一体——」
「物部天獄。ここの開祖ともいえるお方だ。そして国家転覆は彼の願いでもある」
その話を聞いて紗季は眉を顰めた。
「物部天獄だと? そいつは天魁教の教祖ではなかったか?」
「ほう、詳しいな。連正会は天魁教だった先先代が開いたものだ。そして天獄様の意志も受け継いでいる」
「邪教の文派か……」
紗季はそう吐き捨てると、ローブ内から放たれた放たれた弾丸は、紗季の足元に
着弾する。
「今後の日本、天獄様の復活をお前にも拝ませてやりたいところだが、ここでおしまいだ」
そう言って男は紗季へと歩み寄る。
紗季は一歩も動けぬまま、冷や汗を流して男を凝視する。
——と、その時だった。
教祖の動きが、糸が切れた人形のようにピタリと止まる。
彼は極限まで見開いた瞳で、紗季の背後——あるいは、そこにある「何か」を凝視し、狂ったように身を震わせ始めた。
「み、水城……、やめろっ!」
喉の奥から絞り出される、獣のような悲鳴。男は震える手で拳銃を握り直すと、あろうことかその銃口を自らの口内へと乱暴に突き立てた。
必死に首を左右に振り、何かを許しを乞うように叫んでいるが、もはや言葉にはなっていない。
引き金にかけられた指が、限界まで強張る。
――乾いた銃声が、静寂のフロアに突き抜けた。
顎から上が弾け飛び、物言わぬ肉塊と化した遺体が、床へと重く倒れ込む。
直後、ビルを包んでいた異様な人の気配は霧散し、耳が痛くなるほどの静寂だけが残された。
紗季は咄嗟に背後を振り向く。
そこには誰の姿もなかった。
しかしのんびりしている暇など一秒もない。銃弾を受けた海の足からは夥しい鮮血が溢れ出し、床に横たわる空はいまだ深い意識の底に沈んだままだ。
金縛を解かれたように紗季は二人に駆け寄る。
「……っ、しっかりしなさい二人とも!」
紗季は折れそうな肩で空を背負い、負傷した海をもう片方の肩で支え、必死の思いで建物の外へと這い出した。
二人を強引に車へ押し込み、追っ手がこない事を確認しながらアクセルを踏み込む。数分後、ようやく見つけたコンビニの駐車場に車を滑り込ませると、紗季は震える指でスマホを握りしめた。
「早見紗季です……。有馬先生……ですか?」
血の匂いが充満する車内で、彼女の声だけが震えていた。
令和元年五月十五日 水曜日
(眩しい…… ここは何処だぁ〜?)
閉じた瞼の向こうで、強すぎる光がじわりと滲んだ。その明るさは、眠りから無理やり身体を引きはがすような不快さを伴い、空は思わず瞼の上に手をかざそうとした。
——しかし、腕が動かない。
持ち上がらない。
それは鉛の塊のように重く、指先すら思うように動かせない。そして耳に入り続ける機械の駆動音、一定のリズムを刻む空調の風切り音。鼻を刺すような消毒液の匂いが、吐き気を誘う。
意識はまだ深い霧の中にあった。
だが、その不快な微睡に耐えられず、空はゆっくり瞼を押し上げた。見えたのは、知らない天井。白いはずなのに、どこかくすんで見え、ぼやけた視界に異様な圧迫感だけが残った。
眼球だけを動かして周囲を探ると、ビニール製の透明なカーテンに囲まれていることに気づいた。アルミフレームに吊られた簡易的な隔離スペース——。
(……病院?)
そう思ったが、確信は持てない。どこなのか、どうしてここにいるのか、一切記憶がつながらない。
空は現状を確かめようと、左腕に力を込め、上体を起こそうとした。
次の瞬間——。
(っ……!!)
脳天に突き抜けるような痛みが走り、息が漏れた。瞬間、全身が硬直し、喉から掠れた呻き声が漏れそうになる。モゾモゾと痛みに耐えながら動いたそのわずかな気配を察したのか、ビニールカーテンの向こうでドアが開く音がした。すぐに、ナース服を着た女性が早足で空のカーテンへ駆け寄ってきた。
しかしその表情は、安堵ではなく、どこか緊張に満ちているように見えた。そのことが、空をさらに不安へと突き落とすのだった。
「早見さん! 動かないでください!!」
慌てた様子でカーテンの中に入り、起きようとする空をベッドに横たえようとした。空は頭を上げて看護師と思われる女性に話しかけようとするが声を出そうとする度に全身に激痛が走りうまく声にならない。そしてその十数秒後、再び部屋のドアが開き今度は白衣姿の男が入ってきた。
「早見空くん、君はいま起き上がれる状態ではない。横になってなさい」
歳は四十代半ばと言ったところだろうか。しかしその男が持つ威厳…… いやオーラというべきか、とにかくただならない雰囲気に呑まれ言われるがままベッドに頭を落とした。その様子に男はフッと笑みを浮かべる。
「君は大きな手術をしたばかりだからね。暫く大人しくしててもらうよ」
男がそう言うと、空はその顔をジッと見つめた。男は空の視線に目を合わせていたが、暫くの沈黙の後静かに口を開いた。
「さすが早見紗季の息子だな」
そう呟くと空のいるベッドに二、三歩歩み寄る。
「君が質問したい気持ちはわかる。だがとりあえず私の話を聞きなさい。質問は空くんが話できる状態になったときに聞くことにしよう。それでいいかな?」
その言葉に空は戸惑いながらも瞼で返事をする。男は空の意思を汲み取り頷くと話を始めた。
「私はここの外科医師で有馬卓也と言うものだ。君のお母さんとは昔からの知り合い…… というより因縁があってね。君のお母さんから絶対に君達を助けてくれと懇願された」
空は目を動かして部屋の中に母親の姿を探す。
「ここはICUだからね。君の家族の人はいないよ」
そう言われて空は視線を有馬に戻した。
「——六日前、君が連正会のビルに侵入したのは覚えているだろ」
有馬はカルテから視線を外し、空の顔を真っすぐに見た。
「君は、全身を強く打って10箇所も骨折して、内蔵の損傷も酷い状態でここに運び込まれた。空くんが家に帰っていないことから君のお母さんがスマホの位置情報から居場所を割り出して、お姉さんと一緒に連正会のビルに乗り込んで連れ出してきたそうだ。君のお姉さんも酷い怪我をして別の部屋で治療を受けている」
淡々と語られる言葉が、静かな病室の空気に不気味な重さを落とす。そして海までもが大きな怪我を負ったことがショックでならなかった。
空は再び目を開き、有馬の表情を探るように見つめた。有馬は淡々と続ける。
「とりあえず君の臓器の再生処置と骨の結合手術を施した。あと二、三日は集中治療室で様子を見る。それから脳の検査をして一般病棟に移ってもらう。退院は……そうだな、十日後くらいだろう」
淡々とした口調とは裏腹に、その内容は重い。
空の頭は枕に沈み、力が抜けていく。
空は六日前、連正会に乗り込んだ時の事を思い出そうと目を閉じる。
あのとき—— 車窓からみた人物は確かに柴田先生だった。しかもその感じからして単なる連正会信者でないのは明らかだった。この何もわからない状況で、何もできない苛立ちに胸が押しつぶされそうになる。
「……まぁ」
有馬はそこで言葉を切り、少しだけ表情を険しくした。
「君たちがどんなことに巻き込まれたのか—— あるいは、首を突っ込んだのかは知らない。しかし、ひとつ忠告しておく。多少鍛えていたところで……組織相手に一人でどうにかしようとは思わないことだ。無謀どころか、自殺行為だよ」
その声音は妙に冷たく、空の胸に刺さる。反発したくなるような言い方だった。だが、同時に有馬の視線は、空の心の奥まで見透かしているように鋭い。その目を正面から受けた瞬間、空の中にあった苛立ちは霧のように消え、ただ得体の知れない恐怖だけが残った。
(何なんだ…… この人。)
目の前の男は自分を威圧しているわけでは無い。……にも関わらずベッド越しに対峙しているだけで、汗が吹き出し鼓動が速くなる。
有馬は視線を逸らしてベッド脇に置かれた機械に目を向ける。
「ああ…… すまない。大怪我を負った人にする話ではなかったな。まぁ、兎に角 君のお母さんには世話になった恩義もあるし、困ったことがあったら相談してくれ。とりあえず君の意識が戻った事をお母さんに伝えておくよ」
そう言って有馬はビニールカーテンを抜けて部屋を出て行った。空は看護師に処置された後、目を閉じて有馬に言われた事を思い出していた。
(そういえばちょっと前に陸兄からも似たような事言われたっけな。暫く兄貴と戦った事もないのに…… 見る人が見れば戦うまでもなく俺の力なんてはかれるってことか。)
空は初対面の有馬という男に一目で自分の力量を見通されたことに落ち込み、ため息が漏れた。そのうち急な眠気に襲われ意識は深いところに落ちていく。
令和元年五月二十一日 火曜日
一般病棟五階にある白を基調にシックに整えられた病室。窓から眺める景色は「本当にここは東京なのか?」と思わせるほど自然にあふれた風景が広がり患者の心を癒やしてくれる。
六日前に意識を取り戻した空は順調に身体の傷を回復させ、三日前に姉のいるこの二人部屋へと移ってきた。ベッドに取り付けられたテーブルの上には昼食として出されたおも湯の飲み終えた器がのせてあり、空はベッドに横になり瞬きもしないで一点を見つめている。その視線の先にあるのは若葉に彩られた風景……ではなく、隣のベッドで蒼井の介助を受け食事をしている海の姿だった。海は先日の戦いで肩骨と両腕を骨折して一人では食事もトイレも済ますことが出来ず、入院した日から里絵や蒼井の助けをもらいながら入院生活を送っている。
海は時折隣から感じる空の視線を気にしながら、蒼井がスプーンで掬ったご飯を口に運んでいた。
「空。隣でそんなジーっと見られていると食べにくいんだけど……」
そんな視線に耐えきれず、ベッドに横たわっている空に顔を向けそう発した。蒼井は皿の上の焼き魚を箸でほぐしながらその身をスプーンに乗せている。
「いや……だって、俺の昼ご飯こんなお湯一杯って酷くね?海姉のはちゃんとしたご飯なのに……」
そう言いながら蒼井が掬い上げたスプーンを凝視している。海は呆れたようにため息をついてそれに応えた。
「それは仕方ないでしょ。あんたこの前お腹の手術したばかりなんだら…… いまこんなの食べたら縫ったばかりの腸が裂けてご飯はみ出ちゃうわよ」
そういうと蒼井は、海が口にした状況を想像したのか顔を引き攣らせながらスプーンを持ち上げ海の方に向けた。海はそのスプーンをパクりと口に入れた。
「でも空くん元気になって良かったよ。この部屋に移ってきたときは重湯飲むのさえ苦しそうだったじゃない?」
「そうよね…… あんまり痛々しくて私も食事喉を通らなかったわよ」
海は空をからかうような表情をしてみせたが、悔しがる空を目にして安堵の表情に変わった。
「でも……、本当に良かったわ。六日間も意識を戻らないなんて、本当に死んじゃうかと思ったもの。」
その言葉に空は少し照れ臭そうに二人の視線から顔を逸らした。その途端に「ぐぅーっ」という音が空の布団から鳴り出した。
「ふふっ…… もう少し我慢しなさい。退院したら空の食べたいもの作ってあげるから」
海が宥めるようにいうと二人は顔を合わせ頷いた。海は蒼井に手伝ってもらいながら食事の続きを始めると、空はテーブルに置かれたスマホを手探りで手に取り、それを自分の前に持ってきて画面を眺め始めた。その画面を指で何回かフリックしたとき、首を傾げるようにしながら頭を少し持ち上げる。
「ねぇ、そういえば陸兄全然来ないけどどうしたの? 昨日LINE入れたのに既読すらつかないし……。まさか、一人でどこかに乗り込んだりしてないよね?」
空は拭いきれない不安を滲ませ、海へと視線を向けた。
「まさか。いくらお兄ちゃんでも、そんな無茶はしないでしょ。それに、あの教祖だってもういないんでしょ?」
軽口を叩きつつも、海の瞳には隠しきれない不安が揺れている。二人は磁石に吸い寄せられるように、互いに顔を見合わせた。
「蜜柑さん。今日、家にお兄ちゃんっていた?」
「いえ……お父様とお母様はいらしたようですけれど……陸さんは」
蜜柑の言葉に、空は弾かれたように上半身を起こした。
「えっ!? 母さんたち、うちにいるの!?」
「あんたねぇ……」
驚愕する空に、海は心底呆れたような視線を投げた。
「自分の子供が死ぬか生きるかって時に、仕事なんて手に付くわけないじゃない。ICUにいた時は毎日来てたし、ここに移ってからも何度か来てるわよ。あんたが爆睡してる時ばかりだったけど」
「じゃ、じゃあ……蜜柑さんは母さんと会ってるのか?」
恐る恐る尋ねる空に、蒼井は小首をかしげてあっさりと答えた。
「うん。最初にご挨拶してから、何度かお会いしてるよ」
「そ、そうか……。なら、いいんだけど……」
ようやく空の顔に安堵の色が戻る。それを見た海が、不思議そうに眉を寄せた。
「空、何をそんなに心配してんのよ」
「いや……あの母さんだろ? 初対面の相手にどんな反応するか、想像するだけで怖くてさ」
空が引きつった笑いを浮かべる隣で、蜜柑は不思議そうにパチパチと瞬きを繰り返した。
「まぁ、とりあえず何事もなくてよかった。……で、結局、兄貴はどこで何してんだ?」
再びスマホを覗き込むが、画面の「既読」の文字は虚しく消えたままだ。その時、病室のドアを控えめにノックする音が響いた。現れたのは、この病院の院長であり、家族の主治医でもある有馬太一だった。
「あ、院長先生……こんにちは」
「こんにちは、有馬先生」
海と蜜柑が会釈を返すと、太一は室内をぐるりと見回した。テーブルの上に置かれた空の重湯の器を確認し、ベッドの上の空へと穏やかな視線を向ける。
「うん、だいぶ顔色が良くなったね。この調子なら、あと二、三日もすれば普通の食事に戻してもいいかもしれない」
「ええっ! そんなに先なんですか!?」
絶望したような声を上げる空に、太一は苦笑交じりに微笑んだ。
「でも普通の食事が摂れれば、退院はもうすぐだ」
太一はそこで一度言葉を切ると、ふっと表情を険しくさせ、三人の顔を交互に見据えた。
「……陸くんから、君たちに言付けがあるんだ」
「陸兄から?」
待ちわびた名前に、空は思わず身を乗り出そうとした。だが、腹部に力を入れた瞬間、鋭い激痛が走る。
「い、痛たたたっ……!」
「空くん! 傷口はまだ塞がっていないんだ。寝たままで聞いてくれ」
太一に窘められ、空は渋々ベッドに体を沈めた。
「陸くんは今、埼玉にある知り合いの道場に住み込みで稽古している」
「埼玉の道場……。昔から通ってるところですよね? 行ったことはないですけど」
空の言葉に、太一は重々しく頷いた。
「あそこの師範は私の古い友人なんだが、退院したら君たちもそこで『稽古』をしないかという事だ」
「稽古……?」
「実際には、実戦を想定した戦闘訓練だ。相手をするのは道場生じゃなく、師範とその息子さんたちが、直接君たちの相手をしてくれるそうだ」
太一の言葉の重みに、空は複雑な表情で黙り込んだ。
「戦闘訓練……」
空が天井を見上げながら呟いた。病室を包む空気は、先ほどまでの穏やかさが嘘のように張り詰めている。
海もまた、自身の包帯が巻かれた太ももをそっと撫でた。
「俺、正直たった二人を相手に、こんなにも簡単にやられるとは思ってもみなかった」
自分の不甲斐なさが海に大怪我をさせ、母親をも危険な目に合わせてしまった。もう二度とこんなことを繰り返すわけにはいかない。
「……行きます」
空は短かくこたえる。握りしめた拳が、病衣のシーツをくしゃりと歪める。
「私も、行くわ」
その瞳には、あの夜、母・紗季が見せた圧倒的なまでの強さへの憧憬と、守られる側で終わることへの拒絶が宿っていた。
「お母さんがあんなに強いなんて知らなかった。私も強くなって、今度は私が家族を守れるようになりたい」
太一は二人の覚悟を確かめるように頷き、最後の一人、静かに蜜柑へと視線を移した。
「それと、蒼井さんだったかな…… あなたもそこに招かれている。紗季さんたちは家を空けることが多いからね、一人で早見宅にいるよりは安全な筈だよ」
そう言われ空をみると黙って頷いていた。
「はい。私も空くんや海さんと一緒に行きます」
そう聞いた太一は三人に対して「わかった」と残して病室を後にした。この中で一番の意気込みをみせる海は布団の中の脚をポキポキと鳴らして気合を漲らせている。
「海姉。気合い入れるのはいいけど、そんな身体で稽古なんかできるの?腕もそうだけど、足の傷だって治ってないんだろ?」
そう言う空に海は呆れたように溜息をついていった。
「空。できない事じゃなくてできることをすればいいでしょ。そんな凄い人の稽古なら間近で見るだけでも参考になるじゃない。なんでもネガティヴに捉えるのはあんたの悪い癖よ」
そんな海の言葉を聞いて、蒼井は掌をぎゅっと握りしめて思い立ったように顔を上げた。
「……あの!!」
突然大きな声を上げる蒼井に、驚いた顔の二人が顔を向けた。
「えっと…… その…… 私も、皆さんと稽古していいでしょうか?」
突然の蒼井の申し出に慌てた様子で言葉を探す空。
「えっと……蜜柑さんが?戦闘訓練?
でも……その……なんでまた?」
返す言葉が見つからず、しどろもどろな空をよそに海は納得した様子で蒼井を見ていた。
「いいんじゃない。女の子だからって守ってもらうばかりじゃ嫌だよね」
蒼井は頷きながらさらに言葉を続ける。
「私も自分の身は自分で守れる様になりたいって思ったんです。何も出来ずに、何もわからないままやられるのは嫌なんです」
そんな決意を真っ直ぐな眼差しで語る蒼井。しかし蒼井と戦闘というワードが結び付かず、空は未だ困惑していた。
「でも蜜柑さんが戦闘なんて…… 今までそんなことした事ないでしょ?」
「ほらまたぁー そういうところがネガティヴ思考って言ってるのよ。精神的にはあんたよりよっぽど蜜柑さんの方が大人だわよ。誰だって最初は初心者なんだよ。中ニで格闘技始めるなんて別に全然遅くないでしょ!」
そう言われて空は言い返すことができず俯いてしまう。蒼井はそんな空を申し訳なさそうに眺めつつも、そんな自分の意思を伝えようと二人に視線を送っている。
「……いいわ!最初は私が手ほどきしてあげる。ここの病院は屋上解放されているから、そこで基本的な足の運びやパンチや蹴りの打ち方を練習しましょ。私達が退院するまでに少しでも強くなって稽古に参加しましょ!」
そういう海に蒼井は力強い笑みを浮かべ目の前で両手を握りしめ力を込めた。そしてその日から海は蒼井に個人レッスンを始まった。




