第十三話 大晦日の災厄
令和二年十二月三十一日、木曜日。
冬休みの幕開けと共にスタートした忍と蜜柑のための勉強会は、早くも六日目を終えようとしていた。
世間は慌ただしくも華やいだ大晦日――。
世間は帰省ラッシュに沸く時期だが、短い冬休みのため、瑠奈はあえて石垣島へは戻らない決断を下していた。
——とはいえ、一人暮らし一年目の彼女にとって、初めての年末年始をアパートでたった一人、静まり返った部屋で過ごす寂しさは、想像するに余りあるものだった。
そんな彼女の孤独を案じた空の誘いもあり、瑠奈は冬期講習に区切りがついたその日から、早見家へと身を寄せていた。賑やかな笑い声と、温かな夕食の湯気に包まれたこの家で、彼女は「独りぼっちの年越し」を回避し、束の間の安らぎを分かち合っていた。
夕方五時——
勉強を終えたいつもの四人はテキストをパタリと閉じる。蜜柑はとじたものをテーブルの隅に積み重ねるながら微笑む。
「ねぇ、せっかくだし今晩、みんなで初詣に行かない?」
大晦日の浮き足立った空気に乗せて、蜜柑が弾むような声で提案した。その一言に、瑠奈が「行きたい!」と即座に身を乗り出したものの、空と忍は顔を見合わせ、揃って微妙な苦笑いを浮かべた。
「初詣かぁ……。わざわざこの雪の中、寒い思いをしてまで外に出なくてもいい気がするけど」
「それに、有名な神社はどこも激混みだろ? 寒い中、参拝のためだけに延々と行列に並ぶのは、正直勘弁してほしいな」
忍の現実的な指摘に、空も深く同意して肩をすくめる。すると、蜜柑は不満げに頬を膨らませて食い下がった。
「だったら、そんなに混まないところに行けばいいじゃない。近所の月峰神社なら、そこまでじゃないでしょ? あそこ、毎年甘酒の振る舞いをしてるんだよ」
その「甘酒」というワードに、瑠奈の瞳がキラキラと輝きを増した。
「私、甘酒って一度飲んでみたかったんです! 二人とも、ぜひ甘酒に行きましょうよ!」
「瑠奈さん……。甘酒は『行く場所』じゃなくて『飲むもの』だよ」
興奮のあまり言葉が迷子になっている瑠奈に、空が冷静なツッコミを入れる。
「まあ、月峰神社なら歩いてすぐだし、そんなに混むこともないだろうしな。シンくんはどうする?」
「……まあ、それくらいならいいか。ただ、今日はうちでも餅をつく予定があるんだ。一旦帰って手伝いを済ませてから、夜中にまた合流するよ」
そう言うと、忍はテーブルに散らばっていたテキストや筆記用具を手際よく鞄にしまい、それを肩に担ぎ直した。
「じゃあ、十一時くらいにここへ来ればいいか?」
「ああ、待ってるよ」
忍は空の部屋を後にすると、冷え込みの増した外気の中を足早に自宅へと向かっていった。忍が帰り少し静かになった部屋で空は時計を見上げながら言う。
「さて……。うちもそろそろ餅つきを始めるはずだ。俺たちも少し手伝いに行こうぜ」
空が声をかけると、蜜柑と瑠奈も楽しそうに腰を上げた。
「そういえば瑠奈ちゃん。石垣島のご実家でも、年越しそばやお餅食べたりしてたの?」
「向こうではあまりそういう習慣はないかな……。私、お餅も今まで数回しか食べたことがないかもしれない」
瑠奈の告白に、空はどこか誇らしげに微笑みを浮かべた。
「……だと思ったよ。だから父さんと陸兄、瑠奈さんに最高のお餅と蕎麦を食べさせるんだって、朝から張り切ってたよ」
「うわぁーっ、それは楽しみだね、瑠奈ちゃん」
「うん!」
三人は空の部屋をでると、そこには既に餅米を蒸した匂いが漂っていた。蜜柑は思いっきり息を吸い込み、年末らしい匂いを噛み締めた。
「私も空くんの家に来るまでは、お餅なんて殆ど食べたことなかったんだけど……去年いただいた空くんのお家のお餅、ほっぺたが落ちるくらい美味しかったんだよ」
蜜柑は期待に胸を膨らませる瑠奈にそう告げると、弾むような足取りでトントンと階段を駆け降りて行った。キッチンへ足を踏み入れると、そこはまるでお祭り前の活気に満ちていた。海が小気味よい音を立てて天ぷらを揚げ、紗季は出汁の香りを漂わせながら薬味の三つ葉を刻んでいる。そして、陸が手際よく餅つき機をセットする傍らでは、父・陣が職人のようなに蕎麦を打ち、粉を散らしていた。
「あれ? 陸兄、今日は里絵さんは一緒じゃないんだ?」
「ああ、里絵は昨日から実家に帰ってるよ」
珍しく早見家の面々が勢揃いしたキッチンでは、誰が指示を出すでもなく、長年の呼吸でそれぞれの役割が流れるように進んでいく。
「陸兄、俺たちは何を手伝えばいい?」
空の問いかけに、陸は少し考えたあと、いくつかの指示を与えた。
「じゃあ、つき上がった餅を並べる大皿を三枚用意してくれ。それから、別の器に餡子ときな粉、それと……納豆を準備しておいてくれるか」
「納豆? 納豆なんて、一体何に使うんだよ」
空が素っ頓狂な声を上げると、陸はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「これも餅の具材だ。前に里絵の実家でご馳走になった『納豆餅』が絶品でさ。今年はうちでも取り入れてみようと思ったんだ」
「へぇ……。餅に納豆ねぇ」
空がテーブルを見回すと、納豆のパックの隣には刻まれた大葉と、鰹出汁の麺つゆがスタンバイされていた。
「納豆のお餅なんて、初めて聞いたね」
蜜柑と瑠奈は顔を見合わせ、未知の味への期待と不安を混ぜ合わせたような表情でささやき合う。
調理は順調に進み、六時半を回る頃には、テーブルの上を無数の餅と打ち立ての蕎麦が埋め尽くした。それぞれのグラスに飲み物が注がれ、大人たちの前には冷えた缶ビールが置かれる。
「それじゃあ、今年も家族みんなが無事に一年を過ごせたことに感謝して……乾杯!」
「「「「「かんぱーい!」」」」」
家長である陣の力強い発声とともに、今年最後にして最高のご馳走が幕を開けた。
「……というかさ、お父さん。今回が初登場でしょ?」
「ああ。物語が始まってから、一度も姿を見せてなかったよな」
海と陸の遠慮のない突っ込みに、陣はジトリとした不服そうな視線を二人に向けた。
「……そういうメタな発言はやめなさい。それより、蕎麦が伸びないうちに早く食べてみろ」
三人の丁々発止のやり取りを苦笑いしながら眺めていた空、蜜柑、瑠奈は、促されるまま目の前のどんぶりへと箸を伸ばした。
そこにあったのは、太めに切り揃えられた力強い田舎蕎麦。黄金色のつゆの上には、立派な海老天が二本そびえ立ち、鮮やかな三つ葉が香りを添えている。
「「「!!!」」」
一気に啜り込むと、鼻を抜ける芳醇な蕎麦の風味と三つ葉の清涼感。噛み締めるほどに蕎麦の甘みが溢れ出し、濃いめのつゆと完璧な調和を見せる。そのあまりの美味さに、三人の箸は止まらなくなった。
「「美味しいっ!」」
蜜柑と瑠奈が声を揃えて絶叫する。その反応に、陣は満足げに口元を緩め、「……だろう?」と短く呟いた。黙々と食べ進めていた空は、早々にどんぶりを空にして「ふぅーっ」と至福の吐息を漏らす。
「確かに、これは凄いわ。父さん、いつの間にこんな本格的な蕎麦打ちを覚えたんだ?」
「俺と紗季は一年中あちこち飛び回ってるからな。蕎麦の名産地に行った時は、その土地の師匠に直伝で教わってたんだよ」
空が「へぇ」と感心しながら次に手を伸ばしたのは、陸おすすめの『納豆餅』だ。一口大に丸められた柔らかな餅に、麺つゆで味付けされた納豆がたっぷりと絡み、仕上げの千切り大葉が美しく散らされている。
それを口に運んだ瞬間、空の脳内に衝撃が走った。
「これも最高だ! ご飯にかけるのとは違う、餅特有の甘みと納豆のコクが絶妙にマッチしてる……。そこに大葉の爽やかな香りがアクセントになって、後味をスッキリさせてくれる。これなら、いくらでも胃袋に吸い込まれていくぞ」
まるでグルメレポーターのように熱弁を振るう空に、今度は海が冷ややかな視線を向けた。
「あんた……これ、そういう食レポ漫画じゃないでしょ」
「まぁまぁ、そんなメタ発言はやめてあげてよ」
紗季が苦笑いでたしなめる。賑やかで、どこまでも温かな早見家の夜は、雪の降る外の寒さを忘れさせるほどに熱く、楽しく更けていった。
「ふぅ……食べた、食べた。納豆とお餅があんなに合うとは思わなかったな。あとでシンくんにも教えてやろうぜ」
大満足の夕食を終えた空、蜜柑、瑠奈の三人は、賑やかなキッチンを後にして二階の空の部屋へと足を運んでいた。
「私、石垣島の実家に帰ったら、お父さんたちにあの納豆餅を作ってあげようかなぁ」
お腹をさすりながら歩く空の背中越しに、瑠奈が蜜柑へとはずんだ声でそんな決意を語っていた。階下のキッチンでは、空の両親と陸が、海の作る酒の肴をつまみながら、依然として和やかな晩酌の時間を楽しんでいる。
部屋に戻って一息つき、壁に掛けられた時計を見上げれば、時刻はちょうど二十一時――。
忍が合流するまでには、まだたっぷりと時間があった。
「俺、集合の時間まで少し仕事を進めておくよ。シンくんが来たら教えてくれないか?」
空はそう言いながら、手慣れた様子で仕事用のデスクに向かった。
「お仕事するの? じゃあ、私たちリビングに居ようか。集中を乱しちゃ悪いし」
気遣う蜜柑に、空は「大丈夫だよ」と微笑んで返したが、二人は遠慮してリビングへと足を運ぶことにした。そこでは海がソファに深く腰掛け、ゆったりと紅白歌合戦を眺めていた。
リビングに現れた二人に、海がふと視線を向ける。
「あら、空はどうしたの?」
「初詣の時間までお仕事するみたいで。邪魔になると悪いから、ここで一緒にテレビでも見ようかなって……」
蜜柑がそう告げると、海はソファの真ん中から少し横にずれ、隣に座るよう二人を促した。
「紅白って、やっぱり大晦日らしくて情緒がありますねぇ」
「そうね。まあ、私はYOASOBIの出番さえ拝めれば、それで満足なんだけどね……」
海はそう言いながら、手元のスマホを操作しつつも、視線はテレビの画面へと向けている。
海がリラックスした様子で画面を眺める傍ら、蜜柑と瑠奈は次々と登場するアーティストたちの歌声に耳を傾け、一年の締めくくりにふさわしい贅沢な時間を堪能していた。すると、静まり返った夜の空気を切り裂くように、玄関の方から軽快な呼び鈴の音が響き渡った。
「あ、忍くんが来たかな?」
蜜柑は弾むようにソファから立ち上がると、リビングを出て玄関へと向かった。ほどなくしてリビングにひょこっと顔を出した彼女は、「忍くん来たよ! 初詣に行こう」とだけ告げると、二階で仕事に没頭している空を呼びに階段を駆け上がっていった。
三人はそれぞれ、厳しい夜の寒さに備えて厚手のコートやジャンパーを羽織り、準備を整えて玄関へと集まっていく。賑やかなキッチンの前を通りかかると、大人たちは相変わらず楽しげに酒を酌み交わし、談笑の真っ最中だった。
「シンくん、お待た!」
空は防寒具のジッパーを上げながら、玄関で待つ忍の前へと歩み寄った。
「おう、来たか。……にしても外、相当冷え込んでるぜ。なんなら初詣は中止にして、空の部屋でのんびり年越しってのも悪くないんじゃねぇか?」
忍の現実的な提案に、空は小さく溜息をついて肩をすくめた。
「俺もその案には大賛成なんだけどさ。後ろの二人が、それで納得するとは思えないだろ?」
空が背後を振り返ると、そこにはやる気満々の二人が立っていた。
「うん、 私たち、来年は受験なんだよ? しっかり合格祈願しなきゃ!」
「それに、私はどうしても甘酒が飲みたいんですもん」
蜜柑の鼻息の荒さと、瑠奈の食いしん坊な主張に、空は降参といった様子で苦笑いを浮かべる。忍も思わず表情を緩め、「……今の瑠奈さん、なんか言い方可愛かったな」と、心の声がポロリと漏れてしまった。
不意の一言に瑠奈が頬を林檎のように染めるなか、一行は玄関を出て、目的の月峰神社を目指して歩き出した。小雪が舞い散る真っ暗な夜道。アスファルトには一、二センチほどの淡雪が積もっており、空はその白い絨毯をつま先で軽く蹴散らしながら進む。
「このあたりで大晦日に雪が積もるなんて、珍しいよな」
「ああ。間も無く受験本番なんだから、滑って転んで怪我したなんてことにならないよう、足元には気をつけようぜ」
忍は後ろを歩く蜜柑と瑠奈を気遣うように、何度も振り返りながら注意を促した。
五分ほど歩くと、月峰神社の入り口に到着した。普段の静寂が嘘のように、参道を照らす灯籠が幻想的に灯り、鳥居の先に続く石段には数人の参拝客が行き交っている。
「やっぱり、地元の神社にして正解だったな。これなら行列に並ぶこともなさそうだ」
忍は軽快な足取りで石段を登り始めた。
「そうだな。有名どころに行けば屋台もたくさん出てるんだろうけど、俺はこういう静かで人が少ないところの方が、大晦日らしくて風情があると思うよ」
空のしみじみとした言葉に、蜜柑が呆れたような視線を向ける。
「もぉ……空くん、発言がおじいちゃんみたいだよ?」
クスクスと隣で瑠奈が忍び笑いを漏らすなか、一行は百段ほどの石段を登りきった。
境内に辿り着くと、町内会の名前が入ったテントが設営されており、そこでは温かな甘酒や餅の振る舞いが行われていた。
四人はまずは本殿でお参りを済ませる。それが終わるやいなや、蜜柑と瑠奈は吸い寄せられるようにテントへと駆け出していった。
少し離れた場所で二人を待っていた空と忍は、ホカホカと湯気を立てる甘酒と餅を宝物のように抱えて戻ってくる彼女たちを、どこか保護者のような優しい目で見守っていた。
「もらってきたよー! 二人はもらってこないの?」
蜜柑の問いかけに、空と忍は顔を見合わせて苦笑いした。
「いや、俺たちはさっきの夕飯でお腹いっぱいだから、今はいいかな……。……というか蜜柑、よくここで甘酒の振る舞いをしてるなんて知ってたな」
空が何気なく尋ねると、蜜柑の表情にふっと、淡い寂しさが混じった。
「私、空くんの家に来る前は、大晦日でもお母さんがいないことが多かったから、よくこの神社に来ていたのよ。甘酒やお餅……小学生の頃はお菓子も貰えたから」
蜜柑はぽつりと、伏せられていた過去を口にした。
空が「地雷を踏んでしまった」という後悔に苛まれるなか、忍は咄嗟に瑠奈へと話題を振った。そこには、紙コップに入った甘酒を両手で包み込むように大切に持つ瑠奈の姿があった。
「瑠奈さん、初めての甘酒はどうだった?」
忍はあえて明るい声を出し、彼女に問いかけた。
「う、うん。すっごく甘くて、お米の粒が口の中で優しく転がって……飲み物というより、温かいデザートみたいですね」
「凄いな瑠奈さん。そのままテレビで食レポできそうなコメントだよ」
忍が茶化すように言うと、先ほどの夕食の出来事を思い出した蜜柑が、空の放った「納豆餅」への熱烈なレビューを暴露した。空は照れ隠しに、納豆餅がいかに絶品だったかを忍に力説する。
「へぇ、納豆とお餅ね。確かうちにも材料はあったはずだし、明日にでも……あ、日付的にはもう今日か。とにかく一度試してみるよ」
四人の間に再び明るい空気が戻ると、結局全員で甘酒をいただき、通路の脇でとりとめのない会話に花を咲かせた。
「じゃあ、お参りも済んだし、甘酒も堪能したし……そろそろ帰ろうか」
空が促し、一行は石段の方へと歩みを進めた。前を行くのは蜜柑と瑠奈。空と忍はその背後から、楽しげに語らう二人を静かに見守りながら、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。
「二人とも、石段が滑るから気をつけなよ」
空が注意を促した、その瞬間だった。
蜜柑が「わかってるよ」と笑顔で振り返った刹那、その足が凍った石段を滑った。彼女の身体が石段の下、底知れぬ暗闇へと吸い込まれていくのが見えた。
「蜜柑っ!!」
空は咄嗟に手を伸ばし、彼女の手首をひったくるように掴んだ。そのまま自分の身体を緩衝材にするようにして彼女を抱き寄せたが、二人の身体は無情にも石段を転げ落ちていった。
目の前で暗闇の底へと消えていった二人を見て、忍と瑠奈は青ざめた顔で階段を駆け降りた。
石段の下、鳥居のそばには数人の人だかりができていた。その中心で倒れていたのは、空と蜜柑だった。忍たちが息を切らして到着すると、二人は「ううっ……」と呻き声を漏らしながら、ゆっくりと上体を起こした。致命的な怪我はなさそうなその様子に、二人は「ホッ」と深く胸を撫で下ろした。
無事を確認した野次馬たちは、潮が引くようにその場から散っていく。
「おい、大丈夫か? あんな上から落ちて、平然と起き上がれるなんて……お前ら、どんな身体してんだよ」
忍が呆れと安堵の混じった声で言うと、蜜柑は立ち上がりながら口を開いた。
「……まぁな。こう見えても、日頃からそれなりに鍛えてはいるからな」
そう言いながら、何気ない動作でコートについた雪を払う蜜柑。
「空さん、蜜柑ちゃん。怪我は?!」
「俺は何とか大丈夫」
だが、その落ち着き払った仕草と、口調に、忍、瑠奈、そして蜜柑本人も強烈な違和感を覚えた。
そして、その横で身を起こしながらも、なかなか立ち上がれずにいる空を見た瞬間――蜜柑は、夜の静寂を切り裂くような絶叫を上げた。
蜜柑は震える指先を伸ばし、目の前でうずくまっている「空」の肩に、恐る恐る触れた。
「痛っ……!」
反射的に漏れた苦悶の声。なんとか身を起こしたとはいえ、硬い石段に幾度となく打ち付けられたその身体には、無数の打撲や擦り傷が刻まれているに違いない。
「シンくん、悪い。……立たせるのを手伝ってくれないか?」
「蜜柑」の口から滑り出た、あまりに自然で、けれど決定的に彼女のものではない口調。その一言が、周囲に漂っていた違和感を鋭い確信へと変えた。
「蒼井……お前、今……」
忍が言葉を失って立ち尽くすと、地面に座り込んでいた「空」が、不安げな瞳でゆっくりと忍の方を振り仰いだ。
「なあ、もしかしてお前たち、中身が入れ替わってないか?」
忍の指摘に、蜜柑(の姿をした空)は、重苦しい溜息を吐き出した。
「……どうやらそのようだな。目の前に自分の身体が転がっているのを見た瞬間は、さすがに頭が真っ白になったよ」
「つか、蒼井……お前、意外と冷静だな。もっとパニックになりそうなもんなのに」
忍は、空の肉体に宿った蜜柑をまじまじと見つめた。
「驚いてはいるよ。でも、それ以上に身体のあちこちが痛くて……。それに、夏に瑠奈ちゃんの身体に彩乃ちゃんが入ってるのを見てるから、『こういう不思議なことって本当にあるんだな』って、変に納得しちゃってるところもあるかも」
ようやく立ち上がった「空の姿をした蜜柑」は、そう言いながらズボンに付着した泥や雪を両手でパンパンと払った。
「蜜柑ちゃん……歩けそう?」
日頃から霊的な存在に馴染みがあるためか、瑠奈は戸惑うことなく、空の肉体の中にいる蜜柑へと問いかけた。
「うーん……ちょっと足首を捻っちゃったみたい。自力で歩くのは、少し厳しいかもしれないな」
空(の姿をした蜜柑)のその言葉を聞きながら、蜜柑(の姿をした空)は再び深い溜息を漏らした。
「……俺の声で蜜柑の喋り方をされると、ものすごい違和感だな」
「それを言うなら、蒼井の声で空の口調っていうのも、相当なものだよ」
シュールな光景に忍が冷静なツッコミを入れていると、瑠奈がそっと忍に声をかけた。
「忍くん、蜜柑さん(空くんの身体)をおんぶして、お家まで運んであげてくれないかしら」
頼まれた忍は、空の肉体の前で背中を向けて屈み込み、その身体を背負い上げた。
「……忍くん、ありがとう」
耳元で空の低い声でそう言われ、忍は小さく息を吐いた。
「どうせなら、そのセリフは蒼井の声で聞きたかったぜ」
奇妙な四人組は、夜の冷気の中を十五分ほど歩き、ようやく早見家の玄関へと辿り着いた。
四人が玄関を上がりリビングへ足を踏み入れると、そこには先ほどと変わらず、テレビを点け放したままソファでスマホをいじっている海の姿があった。
海は帰宅した四人に視線を向けたが、忍に背負われた空の姿に気づくやいなや、弾かれたように駆け寄ってきた。
「ちょっと空、どうしたのよそれ!」
目を丸くして驚く海に、蜜柑の可憐な声をした「空」が語りかける。
「海姉、落ち着いて聞いてくれ。月峰神社の石段でさ、蜜柑が足を踏み外したのを助けようとして、二人して転げ落ちちゃって……」
「……海姉? 俺?」
空の言葉の内容よりも先に、発せられた単語の違和感に海は困惑し、疑問符を浮かべて呟いた。
「海さん、実は空さんと蜜柑ちゃん、石段から落ちた衝撃で中身が入れ替わってしまったみたいなんです。空さんの身体が足を挫いてしまったので、忍くんに背負ってきてもらいました」
瑠奈が状況を補足すると、海は目をパチクリさせた。
「中身が入れ替わった……? ということは、今おんぶされてる『空』の中身が蜜柑ちゃんなの?」
海は納得したように頷くと、忍の背から空の身体をソファへと下ろし、手際よく靴下を脱がせて足首の状態を観察し始めた。
「骨は折れてなさそうだけど、結構ひどい捻挫ね。これじゃあ自力で歩くのは厳しそう」
そして、泥と擦り傷で汚れた「空の姿をした蜜柑」の顔を見上げる。
「まずは汚れを落としてから手当てしましょう。一人で入浴するのは無理そうだし……そうね、忍くん、一緒に入ってあげてくれる?」
その提案に、空の姿をした蜜柑が「ええっ!」と悲鳴に近い声を上げた。
「わ、私、忍くんとお風呂に入るなんて……それはちょっと……!」
「あら、どうして? 身体は男同士じゃない」
海が不思議そうに首を傾げると、蜜柑は顔を真っ赤にして俯いた。
「だって、忍くんの裸を見ちゃうことになるし……」
その言葉に、話を振られた忍の顔までボッと赤く染まる。
「かといって、瑠奈ちゃんにお願いするわけにもいかないしねぇ」
「「それは絶対にダメです!」」
海の発言に、蜜柑の姿をした空と、瑠奈の声が綺麗に重なった。
「じゃあ、消去法で私? さっき入ったばかりなんだけど……」
海が腕を組んで考え込むと、空(見た目は蜜柑)が小さな溜息を吐いた。
「……俺でいいだろ。俺は自分の身体を洗うだけだし、蜜柑だって自分の身体(に入っている俺)なら抵抗も少ないはずだ」
空の提案に、三人は「なるほど」と手を打った。
「でも、そう考えると入れ替わったのが空と蜜柑ちゃんだったのが、不幸中の幸いかもしれないわね」
海は二人の顔を交互に見比べながら、しみじみと呟いた。
「……どういう意味だよ?」
空が思わず問い返すと、海はニヤリといたずらっぽく笑った。
「だって、もし空と瑠奈ちゃんが入れ替わってごらんなさいよ。もっと話がややこしいことになってたわよ?」
「まあ……確かに。風呂やトイレのたびに、どこに目を向ければいいか分からなくなりそうだな」
空が真面目な顔で同意すると、瑠奈は真っ赤になって顔を伏せてしまった。
そして空は蜜柑と自分の着替えをニ階に取り行くと、蜜柑を介助しながら浴室へと向かう。
「海姉ちゃん、あの二人大丈夫かな?」
「とりま、このお風呂が第一関門って感じじゃない?」
忍と海はそう言いながら顔を見合わせて笑った。
一時間後——。
浴室での壮絶な「格闘」を終えた空と蜜柑は、魂が抜け出たような疲れ切った顔でリビングへと戻ってきた。
「あらあら、二人ともなんだか随分とお疲れのようねぇ」
海は、すべてを見透かしたような意地悪な笑みを浮かべながら、手ぐすね引いて二人を迎え入れた。
「……想像以上に疲れたよ。お互いの身体は見慣れているつもりだったけど、いざ目の前で自分の身体を洗ったり、逆に洗われるのを見るのは、とてつもなく恥ずかしかった。それに、胸がちょっと何かに触れるだけで痛いし、ブラジャーの付け方なんてさっぱり分からないし……」
力なく愚痴をこぼす「蜜柑の姿をした空」の隣では、「空の姿をした蜜柑」が、顔を真っ赤にしたまま一言も発さずにじっと床を見つめて俯いている。
「とりま、その傷の手当てから済ませちゃいましょうか」
海は慣れた手つきで「空の身体」の足首に手際よく湿布をあて、包帯でしっかりと固定した。続けて、手足や顔にできた擦り傷を丁寧に消毒し、次々と絆創膏を貼り付けていく。
「とりあえず、蜜柑ちゃんの体に目立つ傷が残らなくて一安心ね。女の子の体にこれだけの怪我したら大変よ」
そう言いながら処置を終えた海は、手早く救急箱を片付け始めた。
「海さん、ありがとうございます」
「いいのよ。でもね、こういう打ち身って翌日の方が痛みが酷くなることが多いから。あんまり無理をしないで、今夜はしっかり体を休めなさい」
海のアドバイスに、空の姿をした蜜柑はこくりと素直に頷いた。そして、ふと思い出したように、自分の肉体に宿っている空の方へと向き直る。
「……そういえば空くん。あと数日で生理が来る予定なの。もしお腹が重苦しくて痛むようなら、我慢しないで海さんに薬をもらって飲んでね」
蜜柑のあまりに切実で具体的なアドバイスに、海はいたずらっぽく口角を上げた。
「空、男子が生理を実体験できるなんて、滅多にないチャンスよ。女の子が毎月どれだけ大変な思いをしてるか、身をもってたっぷり学びなさいな」
その生々しいやり取りに、瑠奈は頬を染めて苦笑いを浮かべ、忍は居心地が悪そうに視線を泳がせて黙り込んだ。
「それよりシンくん、俺たちはそろそろ限界だから寝るけど……お前、今晩も泊まっていくか? まだ布団は出したままだから大丈夫だぞ」
「いや、俺汗かいたし、帰って風呂入って寝るわ。明日は朝から親戚の家を回らなきゃならないしな」
忍はそう言い残すと、そそくさと帰り支度を始めた。
「忍くん、今日はここまで運んでくれて本当にありがとう」
空の姿をした蜜柑が、心からの微笑みを向ける。だが、忍はなんとも言えない複雑な表情を浮かべ、「……ああ」と短く答えるのが精一杯だった。
「……やっぱり、空のツラと声でそんな聖母みたいな微笑みを向けられると、違和感で背筋がゾワゾワするぜ」
それだけ言い残し、忍は嵐が去った後のような脱力感を漂わせながら、夜の闇へと帰っていった。
翌日――。
海の忠告は、残酷なほど的中した。
空の肉体に宿った蜜柑を、昨日とは比べものにならないほどの激痛が襲った。打ち付けられた全身が悲鳴を上げ、ほとんど寝返りすら打てないまま、この年最初の一日は布団の中で過ごすこととなった。
そしてその翌日。今度は蜜柑の予告通り、彼女の身体に生理が訪れた。空は生まれて初めて手にする生理用品の扱いに戸惑い、内側から突き上げられるような独特の腹痛に悶絶することとなった。男としての人生では決して味わうことのなかった未知の苦しみ――。
二人は、これまで経験したことのない過酷で、奇妙な正月を過ごすことになった。
一月三日を迎え、瑠奈は名残惜しそうにしながらも自分のアパートへと戻っていった。しかし、空と蜜柑の入れ替わりは、解ける兆しすら見せないまま続いていた。
カレンダーの数字が刻一刻と進む。迫りくる登校日、そして人生を左右する受験本番……。
鏡に映る自分ではない姿を見つめながら、今の状況にのんびりと甘んじてはいられない事実に、二人はようやく、底知れぬ焦燥感を抱き始めるのだった。




