第十二話 早見宅での勉強会 瑠奈と忍が急接近?
令和二年十二月十九日、金曜日。
街を彩る華やかなイルミネーションや、どこからともなく流れるクリスマスソングに心を躍らせ、目前の冬休みを指折り数えて待ちわびる――それが例年の光景。しかし、人生の岐路ともいえる「高校受験」という巨大イベントを目前に控えた空たち中学三年生にとって、本日の終業式は休息への誘いなどではなく、不眠不休の戦場へと赴く「冬の陣」の出陣式に他ならなかった。
凍てつくような体育館の冷気に身を縮めながら教室へ戻るなり、そこには三者三様の、あまりに対照的な光景が広がっていた。
窓際の席に陣取る空は、この切迫した状況にあって、どこか他人事のような涼しい顔を浮かべている。愛用の万年筆を走らせ、没頭しているのはプロットの構想だ。これまでの模試の結果から志望校との距離を冷静に測り終えている彼にとって、受験への焦燥感など微塵も持ち合わせていないようだった。
「……空くん。なんでこの期に及んで、そんなに余裕な顔をしていられるの?」
空の席まで這うようにやってきた蜜柑が、恨めしさを通り越して深い溜息混じりの声を上げた。
「いや、これでも俺、結構焦ってるんだよ。来月の締め切りに絶対に間に合わせなきゃいけないから、冬休みの執筆スケジュールを詰めないと……」
「執筆!? 空くん、一応確認するけど同じ受験生だよね? 受験本番を目前にして、まだ仕事するつもりなの?」
「いや、原稿を落とすわけにはいかないだろ。担当さんや読者のみんなに迷惑かけるわけにはいかないし……」
「焦り」のベクトルがあまりに斜め上を向いている空の返答に、蜜柑は完全に脱力し、彼の机に突っ伏して「信じられない……」と呻いた。
するとそこへ、廊下側からさらに悲痛な、もはや魂が口から抜けかけているような声が響き渡った。
「おい、空……。頼む、数学と理科の点数が全然上がってこねーんだ。冬休みは毎日お前の家に通い詰めるから、俺に勉強教えてくれよぉ……」
現れた忍の顔は、幽霊も裸足で逃げ出すほどの土気色だった。彼は机に沈没している蜜柑の隣に並ぶと、同志を得たとばかりに、二人揃って空を恨めしそうに見上げた。
「「……空(空くん)、お前(空くん)だけが頼りなんだ」」
二人の切実すぎる視線をダイレクトに受け、空は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「シンくん、蜜柑。俺だってマジで余裕ないんだって。二人まとめて勉強を見てたら、俺の仕事が進まなくなっちゃうだろ」
「「ううっ!!」」
逃げ道を塞がれた忍と蜜柑が、示し合わせたように声を揃えて絶望の呻きを上げる。
「……はぁ。だいたい、蜜柑はどの科目がやばいんだ?」
「数学と……あと、国語かな……」
それを聞いて、空はさらに深い溜息を吐き出した。
「結局、二人とも数学が鬼門ってことか。何にしても俺一人じゃ手が回りそうにないし……瑠奈さんに助っ人を頼んでみるか?」
「瑠奈ちゃん! いいね、それ。瑠奈ちゃん医学部を目指してるって言ってたし、数学も理科も得意そうだもんね」
「というか、あの慶應女子を突破してるんだから、全教科死角なしだろ」
空と蜜柑が救世主の出現に期待を膨らませて盛り上がる傍らで、忍だけが少し複雑そうな、どこか遠くを見るような表情を浮かべていた。数ヶ月前、忍が想いを寄せていた仙水彩乃が、瑠奈の身体を借りてこの世界に留まった数日間。その鮮烈な記憶が、今も彼の胸の奥で燻っているのだろう。無意識に瑠奈の中に彩乃の面影を探してしまう自分に、戸惑っているようだった。
空はそんな親友の揺れる横顔を視界に捉えると、すべてを察したように優しく微笑み、その肩にそっと手を置いた。
「……お願いするのは、あくまで『知念瑠奈さん』だから」
空がそう言うと忍は力なく微笑んだ。
「ああ、わかってる」
空はその言葉を聞くと、静かに頷いてポケットからスマホを取り出した。
今は平日の日中――。
瑠奈は今ごろ授業の真っ最中だろう。
そう思いながらも、空はメッセージアプリを立ち上げ、勉強会の助っ人をお願いする旨を瑠奈へ送信した。すると、意外にも数分もしないうちに、瑠奈からの返信を告げる通知音が響いた。
瑠奈:『空さん、お久しぶりです。勉強会の件、了解しました! 29日までの平日は学校の冬季講習が入っていますが、土日と年末年始なら時間は取れますよ。』
画面には、彼女らしい簡潔で頼もしいメッセージが並んでいた。
空:『助かる。それじゃあ、さっそく明日からお願いしてもいいかな?』
瑠奈:『オッケーです。明日、皆さんに会えるのを楽しみにしていますね!』
「……だってさ」
空はそう言って、瑠奈とのやり取りが映し出された画面を、食い入るように見つめる二人の前にかざして見せた。
忍はさっきまでの複雑な動揺を無理やり振り払うように、「よしっ!」と気合の入った声を上げ、胸の前で拳を手のひらに力強く叩きつけた。
隣でそれを見ていた蜜柑も、パッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「じゃあ、明日は朝九時に俺の家に集合ってことで」
空が最終確認の言葉をかけると、二人は力強く頷き、それぞれの机へと戻っていった。
翌朝、冬の澄んだ空気が窓を白く叩く土曜日。九時を少し回った頃、早見家の玄関チャイムが賑やかに鳴り響いた。
「はーい、今開けるね!」
昨日から気合十分だった蜜柑が、弾んだ足取りで玄関へと駆け出す。重い木製のドアを開けると、そこには冬の柔らかな日差しを背負った二人の姿があった。
「おはよう、蜜柑ちゃん」
「……お、おはよう」
柔和な笑みを浮かべる瑠奈と、どこか身体を硬くした忍が並んで立っている。蜜柑は目を丸くして、交互に二人を見つめた。
「あれ、一緒に来たの?」
蜜柑の問いに、忍はきまり悪そうに視線を泳がせ、瑠奈がクスクスと鈴の鳴るような声で答えた。
「ううん、偶然。そこの角のところで、忍くんが電柱に向かってブツブツ呪文を唱えているのを見かけちゃって」
「瑠奈さん! そんな事言わなくていいから……」
顔を真っ赤にして抗議する忍を、蜜柑はニヤニヤと眺める。どうやら忍は、瑠奈の中の「あの面影」を意識しすぎて、玄関をくぐる前から極限の緊張状態にあったらしい。
「まあまあ、入りなよ。空くん部屋で待ってるよ」
二人は靴を揃えて家の中へと上がり、慣れた足取りで二階の空の部屋へと向かった。
部屋に入ると、そこにはすでに座卓が広げられ、窓からの冬の日差しが室内を明るく満たしていた。空は愛用の万年筆を置き、やってきた二人を穏やかな表情で迎える。
「いらっしゃい。瑠奈さん、休みなのにわざわざごめんね」
「いいのよ。私もみんなに会いたかったし、教えるのは自分の復習にもなるから」
瑠奈はそう言って、持参した分厚い参考書とプリントの束をテーブルに置いた。その無駄のない動作に、蜜柑と忍は「これぞ難関校を突破した猛者」と畏怖の念を抱かずにはいられない。
そこへ、空がいったん階下へ降り、お盆を抱えて戻ってきた。盆の上には、湯気を立てる温かい緑茶と、地元で評判の和菓子屋のどら焼きが並んでいる。
「とりあえず、頭を使う前に糖分補給しておこうか。これ、母さんが金沢の出張土産で買ってきたやつなんだ。美味しいよ」
空が一人ひとりの前に茶を置くと、張り詰めていた部屋の空気がふっと緩んだ。
「わあ、美味しそう! いただきまーす」
蜜柑がさっそくどら焼きに手を伸ばし、忍もおずおずと温かい茶を啜る。瑠奈は小ぶりな湯呑みを両手で包み込み、ふぅ、と白く立ち上がる湯気に小さく息を吹きかけた。
「ありがとう、空さん。……それで、私はまず忍くんに数学を教えればいいのかしら?」
「ああ。俺もまずは蜜柑に数学を教えるけど、午後からは交代して、瑠奈さんに蜜柑の国語を見てほしいんだ。その間、俺がシンくんに理科を教えるから」
「わかったわ」
窓の外では、冬の雀がチチッと短く鳴いて飛び去っていった。甘い餡の香りと、お茶の柔らかな湯気に包まれて、早見家での勉強会がいよいよ静かに幕を開けた。
座卓の上では、現在の弱点を洗い出すために、忍と蜜柑が瑠奈の持参した過去問プリントに取り掛かっている。「少し優しめのものを選んできた」と彼女は微笑んでいたが、それはあくまで「才媛・知念瑠奈」の基準だ。並んでいるのは学習院や中央といった難関校の良問ばかりで、横から覗き込んだ空は思わず苦笑いを浮かべた。
(……これを自力で解けるくらいなら、二人も俺たちに泣きついてこないよな)
忍と蜜柑が必死にペンを走らせる間、空と瑠奈はそれぞれ自分の執筆や勉強に没頭した。一時間ほどして解き終えた答案を採点してみれば、二人の正答率は三割に届くかどうかといったところだ。空と瑠奈はすぐさまそれぞれの担当に付き、マンツーマンの解説を開始した。
忍は二次関数に、蜜柑は図形の証明問題に苦戦していたが、午前中みっちりと叩き込まれた甲斐あって、昼前には同種の類題をそれなりに解き進められるまでになっていた。
十二時を回った頃、空の部屋のドアに「コンコン」と軽やかなノックの音が響いた。空が返事をすると、ドアがゆっくりと開かれ、海がひょっこりと顔を覗かせた。
「あ、海姉ちゃん。お邪魔してます!」
忍は彼女の顔を見るなり、立ち上がらんばかりの勢いでお辞儀をした。続いて瑠奈も、居住まいを正して丁寧に頭を下げる。
「……彩乃ちゃん。じゃなくて、その……」
海は一瞬、言葉に迷ったような表情を見せた。目の前の少女の身体に、かつて彩乃が宿っていたあの数日間の記憶が、どうしても脳裏をよぎるのだ。
「初めまして、知念瑠奈といいます。今日はお邪魔しています」
「……いらっしゃい。そっか、瑠奈さんとして言葉を交わすのは、これが初めてだったわね。よろしくね」
海はどこか感慨深げに微笑むと、我に返ったようにお盆を部屋の中へと運び入れた。
「それはそうとお昼、持ってきたんだけど。そろそろ休憩にしない?」
お盆の上には、三角おむすびの先からぷりっとした海老の尻尾が覗く「天むす」が、山のように盛られていた。勉強の疲れが見え始めていた一同は、その魅力的なビジュアルに「うわぁ……!」と感嘆の声を上げて身を乗り出した。
「勉強の合間だし、片手で手軽に食べられる方がいいと思ってね」
海はそう言って微笑みを浮かべた。
その言葉を合図にするように、四人は一斉に分厚いテキストを閉じ、「ふぅ……」と深く長い溜息を吐き出した。空が手際よくポットを手に取り、それぞれの湯呑みへと温かい茶を注ぎ入れていく。
「「「「いただきます!」」」」
揃いの声が部屋に響き、各々が皿の上の天むすへと手を伸ばした。香ばしい衣を纏った海老の尻尾が、おむすびの頂から誇らしげに覗いている。
「……美味しいっ!」
「うん、塩加減が絶妙だね。疲れが吹き飛ぶよ」
蜜柑と瑠奈が顔を見合わせて声を弾ませる。絶賛の言葉とともに、山盛りだった天むすはみるみるうちにその姿を消していった。
「そういえば、海姉ちゃんも今、高校三年生だよね? 大学受験とか、大変な時期じゃないの?」
ふと思い出したように、忍が頬を膨らませたまま問いかけた。その純粋な疑問に、海は少しだけ視線を落とし、穏やかな、けれど芯のある声で答えた。
「ええ。でも……私は大学には行かないから」
その静かな断言に、忍は天むすを口に運ぶ手を止めて目を丸くした。
「マジで? なんでまた、そんな……!」
「海さん、あんな有名な進学校に通っているのに、本当に行かないんですか?」
忍の驚愕に引きずられるように、蜜柑も信じられないといった様子で声を上げる。進学校の三年生という肩書きから、当然のように「受験生」だと思い込んでいた二人にとって、その決断はあまりに意外なものだった。
「まぁ、高校に入ったばかりの頃は、普通に進学するつもりだったんだけどね。でも、今のお仕事も順調だし……何より、これから本当にやりたいことが見つかったから。今の私にとって、大学に行く必要性をあまり感じていないだけよ」
海は気負うこともなく、どこか誇らしげに、けれど淡々と自分の指針を語った。その迷いのない横顔に、空は眩しさを感じるような羨望の眼差しを向けて口を開く。
「海姉の場合、現時点ですでに自立して結果を出してるようなもんだしな。進学いう名のレールに縋っている凡人の俺には、到底及ばない境地だよ」
「……となると、成績すらパッとしない俺たちは、一体どうなるんだよ」
忍が深い溜息とともにこぼすと、隣で天むすを咀嚼していた蜜柑が、自分を指差しながら目をキョロキョロと泳がせた。
「えっ? その『俺たち』って……もしかして、私もカウントされてる?」
コントのような二人のやり取りに、空は堪えきれずケラケラと笑い声を上げ、瑠奈と海も顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「どんな道を選ぼうが、最終的に自分が納得して、満足できる場所を見つけられればそれでいいのよ」
海の言葉に、瑠奈も深く頷いて微笑む。
「まぁ、将来のことはさておき……君たちはまず、目先の『高校受験』という高い壁を乗り越えなきゃね。午後からも気合を入れて頑張って!」
海はそう締めくくると、空いた大皿を盆に乗せ、軽やかな足取りで部屋を出ようとした。だが、その背中に「待って」と制止の声が飛ぶ。その主は、空だった。
「海姉、悪いんだけど……ちょっとの間、シンくんの理科を見ててくれないかな」
不意の頼みに、海は不思議そうに首を傾げた。
「ん? 急にどうしたのよ」
「せっかくこうしてみんな集まってるんだしさ。少し早いけど、今夜はクリスマスパーティーでもしようかと思って。そのための買い出しに、今から行ってきたいんだ」
海は一瞬考えるような顔をしたが、すぐに合点を承知したようにクスリと微笑んだ。
「なるほどね、そういうこと。お母さんたちも仕事で泊まりだし、お兄ちゃんたちもお泊まりデートみたいだから、ちょうどいいかもしれないわね」
買い出しを空に託し、午後の勉強会はさらに密度を増していった。講師役を引き継いだ海は、空の穏やかな教え方とは一線を画す「徹底効率重視」のスパルタスタイル。忍の天敵である化学反応式を、鮮やかな手捌きで解体するように次々と裁いていく。
「いい? 石灰水に息を吹き込んで白く濁るのは、水酸化カルシウムに二酸化炭素が反応して、水に溶けにくい『炭酸カルシウム』と水ができるから。この白濁の正体こそが炭酸カルシウムなの。これを化学反応式に書くと……」
そう言って手元のらくがき帳にスラスラと化学反応式を書いていく。
「炭酸カルシウムってこれ?」
頭を抱える忍の横で、ペンを回す海の視線が鋭く光る。
一方、瑠奈から国語の指導を受ける蜜柑の席では、別の角度からの「攻め」の講義が展開されていた。
「旧暦の一月から十二月は、語呂合わせで一気に覚えちゃいましょう。『むっつり妃の弥生のウツボは、さっきみんなに踏みつけられて、恥ずかしながらも感じちゃう。下ネタまでも言わされた』。これに当てはめれば、一瞬で頭に入るわよ」
「む、睦月、如月、弥生……。……瑠奈ちゃん、これ、覚えやすいけど内容が凄くない……?」
想定外にパンチの効いた暗記術に頬を赤らめつつも、蜜柑は確実に言葉を紡いでいく。瑠奈の意外な一面に驚かされながら、難攻不落だった国語が、少しずつその輪郭を現し始めていた。
ふと顔を上げると、窓の外は午前中の鮮やかな冬晴れが嘘のように、低く重い雲がどろりと垂れ込めていた。鉛色の空は水分をたっぷりと孕み、今にも冷たい白い粒が零れ落ちてきそうな、静謐な予感を漂わせている。
夕方五時――。
両手に重そうな袋を提げた空が、寒さで頬を林檎のように赤く染めて帰宅した。
「ただいま! ケーキとターキー、なんとか確保できたよ。あと、もうすぐお寿司も届くから、みんなで思いっきり食べようぜ!」
弾んだ声とともに自室へ戻った空が目にしたのは、海の徹底したスパルタ教育に魂を吸い取られ、テーブルに無惨に突っ伏している忍の姿だった。
「……なんだよシンくん。海姉にしごかれるのは、お前にとってむしろ『ご褒美』なんじゃないのか?」
「……っ! 俺、どんなドMだよ!」
空のからかいに弾かれたように跳ね起きた忍を見て、空はクスリと口元を緩める。
「で、蜜柑の方の国語はどうだったんだ?」
「うん、今日一日だけですごく身についた気がする。瑠奈ちゃんの教え方、本当に魔法みたいに分かりやすかったよ」
蜜柑が心底感心したように言うと、瑠奈はどこか呆れたような苦笑いを浮かべた。
「……というか蜜柑ちゃん。それだけ物覚えが良いのに、どうして今まで点数が取れなかったの?」
「それはアレだな。蜜柑が勉強という概念を人生からアンインストールしてたからだよ。そもそも国語の対策なんてしたことなかっただろ?」
「うーん……言われてみれば、そうかも。国語ってどう勉強していいか分からなくて、いつも感覚だけで解いてたから……」
空は深く、重いため息を吐き出した。
「とりあえず、瑠奈さん。お疲れ様。助かったよ」
「ふふっ、お役に立てたなら光栄だわ」
その時、一階の玄関で軽快な呼び鈴が鳴り響いた。空が財布を手に部屋を飛び出していくと、海が「さあ、キッチンに移動よ」と一同をキッチンへと促した。
キッチンのテーブルには、香ばしく焼き上がったターキーや色鮮やかなサラダ、そして届いたばかりの豪華な寿司が並び、部屋の隅では一週間前に海と蜜柑が飾り付けたクリスマスツリーが、雪の夜を予感させる幻想的な光を放っている。空と蜜柑が手際よくグラスと皿を並べ、海は冷蔵庫から冷えたジュースやお茶を取り出してテーブルへ置いた。
ふと、海は思い出したように瑠奈へ視線を向ける。
「そういえば瑠奈ちゃん。クリスマス直前の貴重な休日だけど、夜まで大丈夫だった? 彼氏さんや、お友達との約束とか……」
心配そうに尋ねる海に、瑠奈は慌てて両手を振りながら答えた。
「いえ、全然……! 私、彼氏はいませんし。それに、学校も勉強一色でクリスマス前のふわふわした雰囲気なんて欠片もなくて。だから、こうしてみんなと過ごせて本当に嬉しいんです」
瑠奈の言葉に、海はどこか安堵したような微笑みを浮かべた。しかし、そこで忍が何気に唐突な質問を投げかけた。
「……瑠奈さんは、その、彼氏作る気はないんですか?」
あまりに直球な問いに、一瞬だけテーブルの空気が止まる。瑠奈は少しだけ視線を落とし、穏やかに、けれどどこか決然とした声で答えた。
「うん……今は考えていないかな。私、どうしても医学部に入りたいから、今は勉強に全てを捧げたいの。それに……」
彼女はそこで一度言葉を切り、窓の外の暗がりに目を向けた。
「大学を卒業したら、私は石垣島に戻るつもりだから。誰かと付き合っても、いつか遠くに離れてしまうのは嫌だし……」
瑠奈の横顔に、微かな寂しさが影を落とす。
「確かに石垣島は遠いけど、東京からの直行便もあるからね。近県の人と付き合うのと大して変わらないようにも思えるけどな」
空が静かに零した言葉が、ターキーから立ち上がる温かな湯気の中に溶けていく。雪が降り始めた窓の外とは対照的に、キッチンには切なくも温かな、特別な夜の熱が満ち始めていた。
パンパン――。
湿り気を帯びた冬の空気の中に、海が仕切り直すように打ち鳴らした乾いた柏手が響き渡った。
「はいはい、湿っぽい話はそこまで! そんなの、いつか瑠奈ちゃんに心から好きな人ができた時に、その人と一緒に悩めばいいじゃない。もしかしたら『君について石垣島まで行くよ!』なんて情熱的な人が現れるかもしれないしね」
海の屈託のない物言いに、空と忍は顔を見合わせ、思わずクスリと肩を揺らした。
「相変わらず、海姉のポジティブシンキングには恐れ入るよ」
「確かに。海姉が隅っこで膝を抱えて落ち込んでる姿なんて、逆立ちしても想像できないな」
そんな茶化すような言葉に、海は「なによ」と唇を尖らせ、二人へ冗談めかした睨みをきかせる。
「……というか、瑠奈さんよりも、海姉ちゃんこそ彼氏を作ったりしないのか? 」
忍は海の視線に臆することなく、さらりと軽口を投げ返した。すると、海はいたずらっぽく小首を傾げ、意味深な笑みを浮かべる。
「あれ? 私、言ってなかったかしら?」
その思わせぶりな返しに、忍も蜜柑も、そして瑠奈までもが「ついに彼氏宣言か?」と身を乗り出し、彼女の唇から溢れる次の一語を固唾をのんで見守った。ただ一人、その先に続く「爆弾発言」を知る空だけが、居心地悪そうに苦笑いを浮かべながら視線を逸らした。
「私、彼氏も旦那さんも作る気はないわよ」
「「「えっ?!」」」
三人の目は点になる。そして空はここぞとばかりの大きなため息をついた。
「……でも、子供は欲しいから、お兄ちゃんか空のどちらかに協力してもらうつもりなの」
あまりにあっけらかんと、迷いの一片すら感じさせないトーンで放たれた言葉。それを耳にした瞬間、三人は一斉に吹き出した。
その隣で空は脱力したように首を振る。
「それはさておき……」
空はあまりの衝撃発言に漂った妙な熱気を冷ますように、落ち着いたトーンで切り出すと、結露したコーラのグラスを手に取った。
「それじゃ、せっかくの料理が冷めないうちに、乾杯して食べようぜ」
その言葉に促され、一同はまだ動揺で手が震えながらも、それぞれの飲み物が入ったグラスを持ち上げた。
「じゃあ、乾杯の音頭は……さっきの爆弾発言の主、海姉に任せるよ」
空は、湿っぽい空気を一気に吹き飛ばし、ついにはカオスな領域まで持っていった姉へとバトンを渡した。海は事もなげにふふんと鼻を鳴らすと、高々とグラスを掲げた。
「それじゃあ、みんなの合格を祈って……。そして、私の卒業後、一日も早く可愛い赤ちゃんの顔が見られる素敵な未来に期待して――乾杯!」
「「「「……かんぱいっ!?」」」」
祝福と困惑が入り混じった、前代未聞の乾杯の唱和がキッチンに響き渡った。
その後、五人は解き放たれたように次々と料理を頬張り始めた。瑠奈は小皿に取り分けた艶やかなマグロや、宝石のように輝くイクラを口に運び、至福の表情を浮かべる。
「んんーっ、美味しい……! 私、一人暮らしを始めてから、こんなに豪華なお寿司を食べたの初めて」
全身で喜びを噛み締める瑠奈の姿に、空はホッとしたように目を細めた。
「喜んでもらえて良かったよ。それ、海姉が行きつけにしてるお気に入りのお店に無理を言って届けてもらったんだ」
そんな和やかな会話が交わされる傍らで、それまで静かに、どこか一点を見つめながら寿司を啄んでいた蜜柑が、意を決したように口を開いた。
「ねぇ、空くん……」
あまりに神妙な、湿り気を帯びたトーン。空と瑠奈は思わず箸を止め、彼女の方へと視線を向けた。
「空くんは……海さんと、その、エッチするの?」
唐突に投げ込まれた禁断の直球に、二人は食べていたものを吹き出しそうになり、慌てて口を押さえて悶絶した。
「な、な、な……っ! 何を藪から棒に……!?」
狼狽しきって顔を真っ赤にする空を、蜜柑は捨てられた小動物のような、縋るような瞳で見つめ返した。
「だって、さっき海さん……陸さんか空くんと子供を作るって、あんなに堂々と言ってたから……」
本気で心配しているらしい蜜柑の様子に、空は苦笑いしながら彼女の頭にポンと手を置いた。
「……海姉、前にも似たようなことを言ってたけどさ。里絵さんまでノリノリだったし、現実的には陸兄で作るんじゃないかな。あの二人なら、案外さらっと合意しそうだし」
「『陸兄で』って……。実のお兄さんを道具みたいに言わないでよ」
瑠奈が呆れたように、けれどどこか楽しげに突っ込みを入れる。
「ううん、そうじゃなくて。空くんとでもいいんだけど……その……」
蜜柑は何かを言い淀み、視線を指先へと落とした。だが、すぐに意を決したように顔を上げ、燃えるような熱を帯びた瞳で空を真っ直ぐに見据えた。
「海さんとする前に……私と、してほしいな……って……」
言い終えるなり、蜜柑の顔は耳の裏まで林檎のように真っ赤に染まった。そのあまりに直球で、けれど切実な「予約」を突きつけられた空も、一瞬で顔面を沸騰させ、言葉を失ってフリーズしてしまった。
乾杯以降、二人で盛り上がっていた忍と海も、不自然なほど静まり返った三人の空気に気づき、不思議そうに輪に加わってきた。
「ちょっと、この二人どうしたの? 」
海が、二人を愛おしげに見守る瑠奈に問いかけると、彼女は口元を綻ばせて答えた。
「いえ……蜜柑ちゃんと空さんが、なんだか凄く可愛らしくて」
「「?」」
理由の分からない海と忍は、揃って首を傾げるばかりだった。
その後も宴は賑やかに続き、時計の針が二十一時を指した頃。
「それじゃあ、皆さん。電車の時間もありますし、私はそろそろ……」
瑠奈が名残惜しそうに席を立とうとした瞬間、海が手元のスマホで時刻を確認し、制止の声を上げた。
「あら、もうこんな時間? 女の子の一人歩きは物騒だし、今夜はうちに泊まっていきなさいよ。明日も朝から勉強会でしょ?」
海の迷いのない提案に、空も大きく頷いて加勢する。
「それがいいよ。俺、布団出してくるからさ。……ついでに、シンくんも泊まっていけよ。合宿みたいで楽しそうじゃないか」
忍はしばし考えを巡らせてから、決意を固めたように海へと視線を戻した。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせてもらおうかな」
その一言で、早見家は即席の合宿所へと姿を変えた。空はすぐさま二階へ駆け上がり、押し入れの奥で眠っていた予備の布団を引きずり出す。長らく出番のなかった厚手の布団を広げ、敷布団と掛け布団の間にノズルを差し込むと、布団乾燥機のスイッチを入れた。ふぉーん、という低い作動音とともに、冷え切った寝具に命が吹き込まれていく。
準備を終えた空が再びキッチンに降りていくと、四人はすでに後片付けを終え、整えられたテーブルを囲んで静かにコーヒーを啜っているところだった。
「……で、海姉。部屋割り、どうするんだ?」
空が問いかけると、海はカップを置いて指先を顎に添えた。
「そうねぇ……。基本的には、蜜柑ちゃんと瑠奈ちゃんが私の部屋。忍くんが、あんたの部屋で寝るのが自然だとは思うけど……」
そこまで言いかけて、海は唇の端を吊り上げ、獲物を見つけた猫のような笑みを浮かべた。
「もし、空と蜜柑ちゃんが『そういうこと』をしたいっていうなら、瑠奈ちゃんと忍くんを私の部屋に監禁してあげてもいいわよ?」
再び突きつけられた過激な提案に、空と蜜柑の顔はまたしても沸騰せんばかりの熱を帯びていく。
「……っていうかさ、合宿らしく全員で空の部屋に雑魚寝ってのでいいんじゃねぇか? 蒼井と瑠奈さんが良ければだけどな……」
忍が何気なく放ったその一言が決定打となり、海を除く四人は空の部屋に集結することになった。部屋に戻った一行が寝床を整え終えると、まずは蜜柑と瑠奈の女子陣から入浴することに。着替えを持参していなかった瑠奈は、海からパジャマと下着を借りて脱衣所へと向かった。
残された男子二人は、湯上がりの熱気を待ちながら、手持ち無沙汰に温かい茶を啜り、取り留めのない会話で時間を潰していた。
「お前と蒼井って、普段から一緒に寝てんのか?」
「いや、基本的には蜜柑は海姉の部屋だよ。秋に海姉がインフルでダウンした時に、感染防止で俺の部屋に避難してきた時くらいかな」
忍は「ふぅん」と素っ気なく返したが、その瞳の奥にはまだ探りを入れるような光が宿っていた。
「……じゃあさ、ぶっちゃけ蒼井とはどこまで進んだんだ?」
あまりに直球な問いに、空は目を見開いて親友の顔を覗き込んだ。
「お前なぁ……普通、そんなデリケートなこと聞くか?」
呆れ果てて返す空に対し、忍はどこか脱力した様子で口を開く。
「いや、さっきベッドの下に、妙なものが落ちてるのに気づいちまってな……」
忍が指先で差し出したのは、見覚えのあるコンドームの個包装の空き袋だった。
「――っ!!」
それを見た瞬間、昨秋のあの「練習」の記憶がフラッシュバックし、空の顔面はボッと音を立てるように赤く染まった。
「まぁ、相手が蒼井なら見られても笑って済ませてくれるだろうけど、瑠奈さんには見られない方がいいと思ってな……」
「いや、俺、まだ蜜柑とはしてないって!」
その否定に、今度は忍が顔色を変えて身を乗り出した。
「まさか、既に海姉ちゃんと済ませたのか!?」
「んなわけあるか! だいたい、海姉の目的は『子供』なんだぞ。だったらゴムなんて使う必要ねぇだろ……」
空の身も蓋もない正論に、忍はぐうの音も出ず黙り込む。
「……だったら、一体誰と使ったんだよ」
「誰ともしてねぇよ! 前に里絵さんから手渡されて、『いざという時のために練習しとけ』って言われたんだ。それで、とりあえず装着の練習だけしてみたんだよ……」
忍は深いため息を吐き、呆れたように肩を落とした。
「……にしてもだ。女の子が来る部屋に、そんな証拠品を転がしとくなよ。ちゃんと始末しとけ」
忍はそれを手のひらで握りつぶすと、ゴミ箱の奥へと正確に放り投げた。
「それにしても里絵さんって、陸先輩の彼女だろ? そんなもん渡されるなんて、相当気まずくなかったか?」
「ああ……死ぬほどな」
気まずい沈黙を破るように、階下から楽しげな女子たちの笑い声が微かに響いてくる。空はゴミ箱を横目に、「もし、今のやり取りを瑠奈さんや蜜柑に聞かれていたら……」と想像して背筋が凍る思いだった。
「でもさ、空」
忍が少しだけ真面目な顔をして付け加えた。
「お前がそんな風に『準備』をさせられてるってことは、周りからはもう、お前たちをそういう関係だと認めてるってことなんだろうな」
その言葉に、空は窓の外で静かに降り積もる雪を見つめた。
「俺たち、まだ中学生なんだけどな」
「だからこそ、だろ。責任持てってことだよ」
忍の言葉が、冬の冷えた空気に溶けていく。
やがて、廊下からパタパタと足音が近づき、石鹸の柔らかな香りと共に、少し上気した顔の蜜柑と瑠奈が部屋に戻ってきた。
「お待たせ! お風呂、空いたよ」
蜜柑の屈託のない笑顔に、空は先ほどの秘密の会話を隠すように、慌てて「ああ、サンキュ」と立ち上がった。
その後、忍は空から借りた着替えを手に、入れ替わりで浴室へと向かった。空はいつものルーチン通り、十分ほどで手早く烏の行水のごとく済ませて脱衣所を出る。自室へ戻るついでにキッチンへ寄り、冷蔵庫からよく冷えたペットボトルのお茶を掴んで二階へと階段を上がった。
部屋のドアを開けると、そこでは瑠奈がドライヤーで髪を乾かしながら、蜜柑と何やら熱心に話し込んでいた。
「なんだか盛り上がってるね」
空が柔らかく声をかけると、蜜柑が不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 忍くんは一緒じゃないの?」
「ああ、あいつはまだ湯船に浸かってるよ。俺はシャワーだけで済ませてすぐ出てきたから。……それより、さっきは何の話をしてたんだ?」
空がペットボトルをテーブルに置きながら問いかけると、蜜柑は少し困ったような、同情を含んだ視線を瑠奈へと向けた。
「うん。瑠奈ちゃんね、休日とかに街に出ると、知らない男の人に次々と声をかけられちゃうらしくて。すごく困ってるんだって」
「ああ……。瑠奈さんなら、ナンパを捌くだけでも一苦労だろうな。海姉も前に同じようなことをぼやいてたよ」
空の言葉に、瑠奈は「はぁ……」と、胸の奥に溜まった澱を吐き出すような深い溜息をついた。
「それで、海さんはどうやって対策しているのかしら?」
切実な眼差しで尋ねる瑠奈に、空はかつての姉の猛者っぷりを思い出しながら、中空を見上げて答える。
「海姉の場合は、完全に無視するか、氷点下の塩対応で凍りつかせてるな。相手が怯むくらいの圧があるから」
瑠奈はそれを聞いて、「うーん……」と眉を寄せて考え込んでしまった。
「私にそんな毅然とした対応ができるかしら。もし無視して逆ギレされたりしたら、怖くて何も出来なくなっちゃいそう……」
不安を隠せない様子で、再び大きな溜息がこぼれる。
「瑠奈ちゃん、それが嫌で最近は極力街に出ないようにしてるんだって。洋服とかも全部ネットで済ませちゃってるらしいよ」
「なるほどな。気軽に出かけられないとなると、さすがに気が滅入ってきそうだ。……それならさ、どうしても街に行きたい時は、誰か男を連れて行けばいいんじゃないか? 虫除け代わりにさ」
「男の人と言っても、そんな都合よく……」
瑠奈が「ガード役」に相応しい相手を頭の中で探していた、その時。部屋のドアがガチャリと音を立てて開いた。
「「「あっ!!」」」
三人の視線が、湯上がりの火照った肌に無造作にタオルを当てた「絶好の候補者」に釘付けになった。
「……な、なんだよ」
状況が飲み込めず、目を丸くして固まる忍。空は苦笑いしながら、助け船を出すように事情を説明した。
「いや、悪い。瑠奈さんがさ、街へ出るとナンパがしつこくて困ってるって言うから、シンくんが横にいれば男除けになるんじゃないかって話してたんだ」
「ああ、そういうことか。……そんなことなら、俺で良ければいつでも協力するよ」
忍が事もなげに請け負って瑠奈へと視線を向けると、空は二人を値踏みするように交互に見比べ始めた。
「どうしたの、空くん?」
不可解な動きを見せる空に、蜜柑が不思議そうに首を傾げる。
「いや、シンくんと瑠奈さんが並んで、ちゃんと恋人同士に見えるのかなって思ってさ」
「うーん、どうだろ。瑠奈ちゃん、ちょっと忍くんの隣に並んでみてくれる?」
蜜柑に促され、瑠奈は少し照れくさそうに忍の左側に立った。
「もっと近寄って……そうだ、手を繋いでみたらどうかな。あ、『恋人繋ぎ』で!」
蜜柑の無邪気なプロデュースに、二人は顔を真っ赤にしながらも、おずおずと手を重ねて指を絡ませた。忍は思わず視線を泳がせ、耳の裏まで林檎のように染めている。
「うん、なかなかお似合いじゃない?」
「確かに。ただ横に立ってるだけだと姉弟っぽかったけど、こうして繋いでると一気にカップル感が出るな」
空の感心したような言葉に、瑠奈も耐えきれず顔を伏せた。
「も、もう戻ってもいいかしら……?」
瑠奈は頬を林檎のように膨らませながら、逃げるように蜜柑の隣へと戻り、ちょこんと腰を下ろした。
「でもまあ、これなら変な男も手出しはしてこないだろうね」
空が太鼓判を押すと、瑠奈は上目遣いで忍を見上げた。
「じゃあ忍くん……今度どうしても街に行きたい時、お願いしてもいいかしら」
「ああ、いいよ。彩乃の件では瑠奈さんに散々お世話になったし、それくらいのお礼なら喜んで引き受けるよ」
忍が優しく微笑む傍らで、蜜柑が小さくあくびを漏らすのが見えた。ふと壁の時計に目をやると、針はすでに二十二時半を回っている。空としては、この四人でいつまでも語り合いたい気分だったが、限界の近そうな蜜柑を放っておくわけにもいかず、皆に声をかけた。
「明日も朝から勉強会だし、続きは布団に入ってからにしようか」
その提案に三人は頷き、それぞれの寝床へと向かった。
ベッドの下に隙間なく並べられた二組の布団。瑠奈がベッドに一番近い側に潜り込み、残った布団には忍が横たわった。そして蜜柑は、当たり前のように空のベッドへと潜り込む。部屋の明かりを消した空も、何のためらいもなく蜜柑の待つ自分のベッドへと体を滑り込ませた。
暗闇の中、すぐ目と鼻の先で「当然のこと」として同じ毛布に収まる二人の姿を見て、忍と瑠奈の心臓の鼓動は、期せずして激しく跳ね上がっていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりが、部屋を淡く照らしている。
布団の中で身動き一つできずにいる忍と瑠奈の耳に、ベッドの上から「ふふっ、空くんあったかい……」という蜜柑の幸せそうな囁きと、それに応える空の穏やかな吐息が聞こえてくる。
「……あいつら、本当に無自覚だよな」
忍が天井を見つめたまま消え入るような声で零すと、隣の布団から瑠奈の小さな笑い声が返ってきた。
「でも、あんなに自然に隣にいられるなんて、少し羨ましい気もするわね」
二人の間に、昼間の喧騒とは違う、しっとりとした親密な空気が流れ始める。明日になればまた、受験勉強に追われる現実が待っている。けれど、この夜だけは、受験生という肩書きを脱ぎ捨てた一人の少年と少女として、雪の降る静かな街の音に耳を澄ませていた。
やがて蜜柑の規則正しい寝息が聞こえ始め、空も深い眠りへと落ちていく。忍は隣で静かに目を閉じる瑠奈の気配を感じながら、瑠奈と歩くまだ見ぬ春の放課後に思いを馳せるのだった。




