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第十一話 謎の一線

令和二年九月二十五日 金曜日

鈍色にびいろに沈んだ空から降り注ぐ雨粒は、校庭の片隅で夏の終わりを惜しむように咲く彼岸花を叩き、その鋭い花弁を滴るような深紅へと染め上げていた。

降り止まぬ雨の響きは、重い湿気を孕んだ空気とともに窓の隙間から這い入り、教壇に立つ水城先生の声を、遠く霞むノイズの向こう側へと溶かしていく。

窓の外に広がる煙った景色を、空はただ目的もなく眺めていた。そんな時、制服のポケットに潜ませたスマホが、静かに主張するように震えた。

普段であれば、マナーモード特有の硬い振動音が隣の席まで届いてしまうところだが、今は世界を包み込む柔らかな雨のノイズがそれを遮ってくれている。制服の布地から伝わる微かな震えだけが、この静止した時間の中で空に届いた唯一の報せだった。

 水城が執る理科の授業が終わり、雨音をもかき消すほどの喧騒に包まれる授業間の中休み、空はポケットからスマホを滑り込ませ、画面を点灯させた。通知領域に表示されていたのは、姉の海からのメッセージ。


(こんな時間に送ってくるなんて珍しいな……)


微かな違和感を覚えながらトーク画面を開くと、そこには予想外の内容が連ねられていた。


『ケホケホ……。

朝ごはんの時、空が私のこと顔が赤いって言ったでしょ。あの後学校に行ってから咳が止まらなくなっちゃって。保健室で熱を測ったら39度もあって、早退して病院に行ったらインフルエンザのB型だったみたい――

ケホケホ……。

というわけで、帰りにみんなの分のお弁当とスポドリを買ってきてちょうだい。あと、蜜柑ちゃんにうつすと悪いから、しばらく空の部屋に泊めてあげてね。よろしく――。

ケホケホ……』

「……」


空は数行に一度挿入される擬音を眺め、深く長い息を吐いた。


「『ケホケホ』って、わざわざ文字で打つことかよ……」


思わず独り言が漏れる。脱力感に襲われながら返信を打とうとしていると、蜜柑が周囲の目を遮るようにして近づいてきた。


「空くん、授業中にスマホなんて弄ってると先生に没収されちゃうよ?」


蜜柑の心配そうな囁きに、空は苦笑いでスマホの画面を彼女の方へと向けた。


「いや、今さっき海姉から連絡があってさ」


画面を覗き込んだ蜜柑は、一瞬で眉を下げた。


「うわぁ、39度……。インフルエンザなんて辛そうだね。こんなに咳してるし……」

「いやいや。こんな長い文章を打つ余裕があるんだから、案外ピンピンしてるんじゃねぇの?」


空の皮肉めいた返しに、蜜柑は困ったように笑った。


「……じゃあ、放課後一緒にスーパーに行こうよ。海さんの看病に必要なもの、私が一緒に選ぶから」


放課後、降り続く雨は霧雨へと変わり、街を白く煙らせていた。一本の傘に身を寄せ合った二人は、学校近くの大型スーパーへと足を向けた。

自動ドアをくぐると、外の湿った空気とは対照的な、冷えた冷気と明るい照明が二人を迎える。空はまず飲料コーナーへ向かい、海がリクエストしていたスポーツドリンクのペットボトルを数本カゴに放り込んだ。


「あとは、ビタミンゼリーかな。食欲なくてもこれなら食べられるし」

「そうだね。あ、空くん、あっちのドラッグストアコーナーで冷却シートと、あと部屋を消毒するためのスプレーも買っておこうよ」


蜜柑は慣れた手つきで、看病に必要な品々を次々とピックアップしていく。その姿は、空が知るよりは、どこか家庭的な芯の強さを感じさせた。


「弁当、海姉の分は消化に良いものにしないとな」

「私、少し柔らかめのおうどんでも作ろうか? 材料、買っていくね」


空は蜜柑の横顔を見て、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。レジで会計を済ませると、荷物は二つの大きな袋に膨れ上がった。重い方を空が持ち、蜜柑が傘を差して、二人は再び雨の街へと踏み出した。


「蜜柑。しばらく俺の部屋で寝ることになるけど、俺が床に布団を敷くから、蜜柑は俺のベッドを使っていいよ」

「ううん。空君のベッド、大きいし……一緒に寝られるんじゃないかな?」

「えっ!?」


蜜柑のあまりに無防備な提案に、空は思わず目を丸くした。蜜柑は少し頬を赤らめながらも、言葉を続ける。


「石垣島に行った時も、一緒のお布団で寝たんだから……大丈夫だよ」

「そ、そうか……?」


確かに、押し入れに眠っている予備の布団を引っ張り出してそのまま使うのは、湿気も気になるしあまり気持ちの良いものではない。蜜柑の提案は正直ありがたいのだが、あの時の大きなダブルベッドとは違い、空の部屋にあるのはセミダブルだ。二人で並べば、嫌でも肩が触れ合う距離になる。そんな密着状態で果たして無事に眠りにつけるのか。空は言い知れぬ不安と緊張を抱えながら、家路を急いだ。

家に到着し、二人は控えめな声で「ただいま」と言ってみたが、返ってくる応答はない。リビングもキッチンも照明が落ちており、静まり返っている。

空がスマホを取り出し、家族のグループラインを確認してみると、紗季たちは仕事で金沢、陸は里絵のアパートに泊まるというメッセージが残されていた。

空は小さくため息をつくと、その画面を蜜柑に見せた。


「お母さんたちも陸兄も、今日は泊まりだって。こんなにたくさん弁当、買ってくる必要なかったな……」


脱力する空に対し、蜜柑は困ったように苦笑いを浮かべる。


「お弁当を買う前に、ラインを確認すればよかったね。でも明日の朝ごはんにすればいいじゃない」

「うぅ……朝からロースカツ弁当は、さすがに重くないか?」


そんなことを言いながら二階の自室に入ると、二人はカバンを置き、空は制服の上着をハンガーに掛けた。普段ならすぐに部屋着に着替えるところだが、蜜柑の手前もあり、まずは海の様子を見に行くことにした。


コンコン――。

海の部屋のドアを軽くノックするが、反応はない。


「寝てるのかな……」

「そうかもね。じゃあ、私、着替えだけ取ってくるね」


蜜柑は音を立てないようそっとドアを開け、常夜灯の薄明かりの中で手早く部屋着や下着を揃えて戻ってきた。


「海さん、ぐっすり寝てたよ。夕飯はもう少し後の方がいいかもしれないね」


二人は空の部屋に戻ると、互いに背を向け合いながら部屋着への着替えを済ませ、夕飯の準備のためにキッチンへと降りた。ヤカンをコンロにかけ、うどん用の小鍋にも火を灯す。


「二人きりで夕飯なんて、なんだか久しぶりだな」

「うん。いつも賑やかな分、ちょっとだけ寂しく感じるね」


蜜柑は少しだけ寂しげに眉を寄せ、小さな笑みを浮かべた。


「それにしても、今朝まで蜜柑は海姉と同じ部屋で寝ていたのに大丈夫なのか?」


空の問いに、蜜柑はスーパーの袋から手際よく食材や弁当を取り出しながら「うん」と短く頷いた。すぐに使ううどんの材料と自分たちの夕食だけをテーブルに残し、残りを手際よく冷蔵庫に収めると、シュンシュンと景気よく汽笛を鳴らし始めたヤカンの火を止める。


「私、今まで大きな風邪とかインフルエンザには一度も罹ったことがないし、今のところ体調も全然平気だから」


蜜柑は急須に茶葉を躍らせると、沸きたてのお湯を静かに注いだ。その隣、小鍋で沸騰したお湯には出汁と醤油、そして体を温めるための生姜をたっぷりと溶かし込み、琥珀色のスープを仕立てていく。まな板の上には、薬味の刻みネギと溶き卵が、出番を待つように準備されていた。

海のうどんの下拵えを完璧に済ませると、空が用意してくれたインスタントの味噌汁にもお湯を注ぎ、蜜柑は空の正面の席に腰を下ろした。

いつもなら海が作る出来立ての温かな料理が並ぶ食卓だ。それだけに、少し衣が萎れてしまったヒレカツを目の前にすると、どうしても微かな侘しさが胸をかすめてしまう。

……とは言っても、最愛の彼女と向かい合って摂る食事が、味気ないはずもない。穏やかに談笑しながら箸を進めていると、廊下から微かな足音が聞こえ、マスクをつけたパジャマ姿の海が、足元をふらつかせながらキッチンへと現れた。


「あ……ごめん。食事中だった?」


海は虚ろな瞳で二人に視線を向けると、コップに水道水を注ぎ、数種類の錠剤を口に放り込んで一気に流し込んだ。


「あ、海さん! 温かいうどんを作ったんですけど、食べられそうですか?」


蜜柑が慌てて声をかけると、海は申し訳なさそうに眉を下げた。


「ありがとう……。せっかく作ってもらったのにごめんね、明日の朝いただくわ。それと、悪いけど蜜柑ちゃん……しばらく、空の部屋で過ごしてね」


それだけ言うと、海は冷蔵庫からスポーツドリンクのボトルを掴み、「おやすみ……」と力なく呟きながら、幽霊のような足取りで自室へと消えていった。


「海姉、相当しんどそうだったな……」

「うん。早く良くなるといいんだけど……」


残された二人は、どこか落ち着かない気持ちのまま弁当を平らげた。その後、片付けを終えて空の部屋へと戻ると、隣り合って机に向かい、中間テストに向けての勉強に取り掛かるのだった。


問題集の解答を絶え間なくノートへ書き走らせる空に対し、蜜柑の手元のシャープペンは一向に進む気配がない。数学のテキストと模範解答を何度も往復してはいるものの、やはり普段とは違う空の部屋という環境が災いしているのか、集中力が霧散してしまっているようだ。


「空くんはさ、これからも小説のお仕事、続けていくんでしょ?」


取り掛かっていた難問を諦めたように、蜜柑はテキストから顔を上げて頬杖をつき、空に問いかけた。


「そうだな。この仕事は好きだし、まだ書きたい話もいっぱいある。辞めるつもりはないよ」


空はノートに視線を落としたまま、淀みなく答えた。


「じゃあ、高校を卒業したら、そのまま作家業に専念するの?」


そう聞かれ、空はペンを置いてゆっくりと天井を見上げた。


「いや、一応大学には行くつもりだよ。今のところ不自由しない程度には稼げているけど、本当の売れっ子には程遠いからね。将来なんてどう転ぶかわからないし、ちゃんと知識を蓄えて、手に職を付けておきたいと思ってるんだ」

「……そっか。ちゃんと考えてるんだね」


蜜柑は感心したように、隣に座る空の横顔を見つめた。


「海姉は投資で稼いで配信者としても成功してるから、将来への迷いなんてないんだろうけどさ。陸兄だってトップ選手ってわけじゃないし、みんなそれぞれ自分の足元を見つめてるんだと思うよ」

「確かに、海さんはいつも真っ直ぐ前だけを見ている感じがするね」


蜜柑はそう言って、小さく、けれど深い溜息を漏らした。


「そういう蜜柑はどうなんだ? 将来、やりたいこととか」


空が覗き込むように尋ねると、蜜柑は「うーん……」と考える仕草を見せた後、静かに口を開いた。


「私、空くんみたいに勉強ができるわけじゃないし、これといった特技もないから……なんだか将来を想像しようとしても、真っ白になっちゃうんだよね」


空は否定することなく、蜜柑の言葉を黙って受け止める。


「じゃあ、好きなこととか、やっていて楽しいことは?」

「それなら……部活で小説を書くのは楽しいかな。中学入る前は一人でいる時間が長かったから、その分、色んな想像を膨らませていたの。それを文章にするのって、なんだかワクワクするんだよね」


空の口元が、自然と柔らかな曲線を描いた。


「だったらさ、蜜柑もコンテストに応募してみたり、小説の専門的な勉強をしてみるのもいいんじゃないか。高校でも文芸部が盛んなところは結構あるし……」


空の提案に、蜜柑はパッと顔を上げ、自身の可能性を巡らせるように目を輝かせた。


「確かに、それもありかも……!」

「まあ、文芸部の名門校ってのはそれなりに偏差値も高いから、勉強も相当頑張らないといけないけどな」


空が意地悪く付け加えると、蜜柑は途端に、うへぇ、と渋い表情を浮かべるのだった。

それから二人は三時間ほど机に向かい、ふと時計を仰ぎ見ると、針は二十二時半を指していた。空がパタパタとノートや参考書を閉じ、筆記用具をペンケースへ片付け始めると、蜜柑はさも大仕事を成し遂げたかのように大きく伸びをした。


「ふぁ~……久しぶりにいっぱい勉強した気がする」


蜜柑のそんな言葉を耳にした空は、呆れたようにため息をついた。


「一応俺たち、受験生だぜ。担任からも耳タコなくらい、『学年プラス一時間は最低ラインだ』って言われてるだろ」


空がそう嗜めると、蜜柑は露骨に嫌そうな顔を浮かべた。


「本当にみんな、そんなにやってるのかなぁ。あと一時間も勉強したら、私、倒れちゃうよ」

「倒れねぇよ……」


蜜柑の弱音に被せるように、空が即座にツッコミを入れる。


「……というかさ、水泳部だった頃は今よりもっと時間が取りにくかっただろ? あの時はどうしてたんだよ」

「うーん、正直に言うと、ほとんど勉強なんてしてなかったよ。運動部の人って、大体みんなそんな感じじゃないかな? 忍くんだってそうだと思うよ」


蜜柑にそう言われ、空は親友の普段の行動を頭に思い浮かべる。


「まあ……確かに、シンくんは全然やってなさそうだな」

「……でしょ?」


誇らしげに(?)胸を張る蜜柑の反応に、空は呆れつつも、つい苦笑いを漏らしてしまった。


「でもまあ、勉強しないで今の成績を維持できてるなら、これから本気でやればそれなりの高校だって狙えるんじゃないのか」


空はそう言って椅子から立ち上がると、窓を開け、窓枠から上半身を乗り出して夜の住宅街へと視線を投げた。室内にこもった生ぬるい空気とは対照的に、ひんやりとした夜気が心地よく肌を撫でる。


「『暑さ寒さも彼岸まで』なんて言うけど、この時期になると夜は結構涼しいもんだな」


大きく深呼吸しながら空がそう呟くと、蜜柑はどこか寂しげな表情を浮かべた。


「お彼岸かぁ……。お盆の時みたいに、また彩乃ちゃんとお話しできたりしないのかな」


蜜柑の小さな呟きに、空は力なく、けれど優しく微笑んだ。


「瑠奈さんは『よっぽど条件が揃わないとそんなことはできない』って言ってたからな……」

「でもなんだか、そう考えると織姫と彦星みたいでロマンチックだね」


蜜柑の言葉に誘われるように、空は夜空を見上げ、無意識に夏の大三角を探してしまった。

……そんな時、背後から「ふぁ~……」という気の抜けた声が聞こえてきた。振り返ると、右手を口に当てて大きなあくびを漏らしている蜜柑の姿があった。


「あ、ごめんね。いつもは寝てる時間だから、なんだか急に眠くなっちゃって」

「そうなの? 海姉はいつも遅くまで起きてるし、部屋が一緒の蜜柑も寝るのが遅いのかと思ってたよ」

「昔から十時には寝る習慣だったから、なかなか抜けなくて。海さんは『電気消していいよ』って言ってくれるんだけど、私、明るくても普通に眠れちゃうから……」


そんな蜜柑のマイペースさに感心しつつも、「やっぱりそれだけ早く寝ていれば、勉強する時間なんてないわけだ」と、空の口元には思わず苦笑が浮かんだ。


「とりあえず、お風呂入ってきたら? もう十一時だし……」


空が促すと、蜜柑は椅子から立ち上がり、ベッドの上に用意していた着替えとパジャマを手に取った。


「せっかくだし、空くんも一緒に入る?」


蜜柑は頬を朱に染め、悪戯っぽい微笑を浮かべながら上目遣いで空を見つめた。


「……ああ、そうだな」

「えっ!!!!!」


空の思いがけない返答に、今度は蜜柑の方が顔を真っ赤にし、素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。その狼狽ぶりに、空はふっと口元を緩める。


「自分から振っておいて、何をそんなに驚いてるんだよ。冗談だって……」


空の言葉に、蜜柑は安堵のため息を漏らした。しかし、彼女は視線を泳がせながら、なおも赤らんだ顔でぽつりと呟いた。


「でも……空くんが良いなら、私はいいよ」

「!!!」


絶句して固まる空を横目に、蜜柑はどこか満足げな表情を残して部屋を後にした。


三十分後――。

頭にバスタオルを巻いた姿で、蜜柑が部屋に戻ってきた。タオルを解くと、湿り気を帯びた髪を丁寧に拭き始める。


「空くんも、早く入っておいでよ」

「あ、ああ……」


入れ替わるように、空も自室を後にした。

石垣島のあの夜から十か月。二人の関係は、もどかしいほどに進展していない。時折、蜜柑から勇気を出したアプローチがあっても、空はあと一歩を踏み出そうとはしなかった。

髪を乾かしながら、蜜柑は空のベッドをじっと見つめた。すると、昨秋のあの光景が、鮮明なフラッシュバックとなって脳裏をかすめた。


自分を慰めていた、空のあの姿――。


思い出しただけで胸の奥が熱くなり、落ち着かない情動がせり上がってくる。


(空くんだって……したくないわけじゃないんだよね)


蜜柑は意を決したように、着ていたパジャマを脱ぎ捨て、ベッド脇の目立たない場所へ丁寧に畳んで置いた。下着姿のまま空のベッドへと潜り込み、シーツの感触を肌に感じながら静かに目を閉じる。


(空くんの匂い……)


掛け布団に顔を埋め、彼の残香に包まれる。

そうして微かな高揚感に浸っていると、ガチャリとドアが開く音がした。短パンとTシャツに着替えた空が、静かに入室してくる。


「……蜜柑?」


ベッドに横たわる姿を見て、空は小声で呼びかけたが、返答はない。


(もう寝たのか……)


時計の針は間もなく零時。普段十時に眠りにつく蜜柑にとっては、限界だったのだろう。空はそう結論づけると、部屋の明かりを落とし、暗がりに沈んだベッドへと音を立てずに潜り込んだ。


――その瞬間。

腕や足に、遮るもののない柔らかい肌の感触が直接伝わり、空の身体がビクリと跳ねた。だが、セミダブルという限られた空間では、身を引く場所などどこにもない。恐る恐る体勢を整えようとすると、再びその生々しい温もりが全身を貫いた。


「空くん……」


耳元で、吐息のような蜜柑の囁きが響く。

次の瞬間、彼女のしなやかな腕が、逃がさないと言わんばかりに空の身体を強く抱き寄せた。

予期せぬ熱量に一瞬だけ思考が停止したが、すぐそばにある蜜柑の柔らかな髪の香りが鼻腔をくすぐり、空の理性を塗りつぶしていく。空もまた、吸い寄せられるように彼女の細い腰に腕を回し、壊れ物を扱うような手つきでその身体を抱きしめ返した。

セミダブルの狭い世界で、二人の心臓の鼓動が重なり、どちらのものか分からないほど激しく共鳴する。

どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

蜜柑がゆっくりと顔を持ち上げると、潤んだ瞳が暗がりの中で星のように微かな光を反射していた。彼女は熱を帯びた視線で空の瞳をじっと見つめ、覚悟を決めたように静かに瞼を下ろす。

吸い寄せられるように、二人の唇が重なった。

それが合図だった。初めて触れ合う唇の柔らかさに、脳裏が真っ白な光で満たされる。最初は羽が触れるような慎重な重なりだったが、互いの体温を確かめ合ううちに、それは飢えたような深い渇望へと変わっていった。

蜜柑の舌先が、迷いながらも空の唇を割り、内側へと滑り込む。空もそれに応えるように彼女の背中を引き寄せ、さらに深く、喉の奥まで互いの存在を確かめ合った。

鼻腔を抜ける互いの吐息が混ざり合い、熱い粘膜が絡み合うたびに、甘い痺れが指先まで駆け抜けていく。

静寂の中、濡れた音が密やかに響く。

それは単なる接触を超えた、魂を分け合うような情熱的な、けれどどこまでもロマンチックな、二人だけの夜の始まりだった。

……だが、そこから先へと踏み出すはずの熱情は、十分が経過してもその形を変えることはなかった。空の胸の奥底に澱のように残る「自分たちはまだ中学生だ」という痛切なまでの理性が、決定的な一線を越えさせることを拒んでいた。

しかし、一度火がついた互いの情動に、もはやブレーキなど効くはずもなかった。

蜜柑は最初、溢れ出す熱を逃がすように太ももを固く閉じ、身を捩らせていた。けれど、ついに耐えきれなくなった彼女は、震える右手を自らのショーツの中へと滑り込ませる。左手は、欲求を象徴するように尖った胸の先を自ら弄り始めた。

空は、求めるような蜜柑の唇を片時も離すまいと、彼女の頭を力強く支え続けた。同時に、自らの右手もまた、下着の中で限界まで膨張し、熱を帯びた一点を固く握り締める。

暗い部屋の中には、重なり合う二人の荒い吐息と、秘められた場所から漏れ聞こえる艶かしい湿った音だけが、絶え間なく響き渡っていた。

一線を越えないために、苦肉の策として行き着いたこの独善的な行為。

互いの目の前で自らを慰めるという、たとえ深い仲にある男女であっても羞恥に顔を覆ってしまうような倒錯した光景を、今の二人が冷静に客観視することなど到底不可能だった。


朝七時――。

サイドテーブルに置かれたスマホが、無機質なアラーム音を鳴らし始めた。

その音に導かれるように、二人はゆっくりと瞼を持ち上げる。

目の前わずか五センチの距離に、互いの呼吸を感じる顔があった。昨夜の激しい情事の名残か、二人は全裸のまま、深く絡み合うように抱き合っていた。体液にまみれた不快感から、身に付けていた衣類は無意識のうちにベッドの下へと放り出され、今はただ、互いの肌の温もりだけが直接伝わってくる。

二人はこの異常とも言える状況を確かめるべく、おそるおそる視線を体の方へと落とした。

蜜柑の柔らかな双丘が、空の胸板に無防備に押し当てられている。そのあまりに生々しい感触に気づいた瞬間、二人の顔は一気に沸騰したかのように赤く染まり、声も出せないまま、ただ互いの瞳を見つめ合うしかなかった。


「空くん、パジャマ着るから……ちょっとの間だけ、目をつぶってて」


蜜柑の震えるような声に促され、空は静かに瞼を閉じた。

直後、肌に伝わっていた温かで柔らかな感触がふっと離れ、ベッドのバネが小さく軋む。視界を閉ざした先で、蜜柑が床に散らばった衣類を慌ただしく拾い上げ、身に纏う気配だけが耳に届く。空は、今すぐにでも目を開けたいという衝動を必死に抑え込みながら、彼女が日常の姿に戻るのをじっと待った。


「……もう、いいよ」


その声を聞いて空が目を開けると、そこには少し乱れた髪でパジャマを着た蜜柑が立っていた。


「じゃあ、次は私が向こうを向いてるね」


蜜柑はそう言って、今度は空に背を向けた。空はその隙に布団から起き上がり、昨夜の熱を帯びたままの身体にTシャツを通し、下着を着けぬまま短パンを穿く。そして、手元に残った汚れの目立つ下着を、隠すように掌の中に丸め込んだ。

ふと、乱れた掛け布団を整えようと捲り上げた瞬間、空は「あっ……」と声を漏らして絶句した。

そこには、昨夜の激情が刻みつけた、隠しようのない生々しい痕跡が点々と広がっていたのだ。空の声に驚いて振り返った蜜柑は、彼の視線の先にある大きな染みを目にした瞬間、顔を林檎のように真っ赤に染め上げた。


「見ちゃダメ……っ!」


蜜柑は叫ぶように言うと、両手で空の目を力一杯覆い隠した。


「このシーツとタオルケット、私が今すぐ下に持って行って洗うから!」

「う、うん。わかった……任せるよ」


蜜柑の気迫に押され、空は素直に頷くしかなかった。だが、自分から溢れ出た体液がそこかしこに付着しているのを彼女に見られるのは、やはり耐えがたいほどに気恥ずかしい。空は居たたまれない気持ちでソワソワしながら、彼女が手際よくシーツを剥ぎ取る様子を見守るしかなかった。

蜜柑は洗濯機にそれらを放り込むと、普段より少し多めの洗剤を投入し、逃げるようにスタートボタンを押した。

その後、二人は交互にシャワーで昨夜の残り香を洗い流し、ようやくキッチンで朝食の準備に取り掛かった。蜜柑は、溜まっていた緊張を吐き出すように「ふぅ……」と大きな息をつく。


「ああ、もう……。朝からバタバタしちゃったね。今日がお休みで、本当に良かった」


蜜柑が照れ隠しのような苦笑いを浮かべると、空は沸き上がるヤカンの音を聞きながら、食器棚からコーヒーカップを取り出した。


「そうだな。もし平日だったら、今頃パニックになってたかもな……」


空が答えると、蜜柑は冷蔵庫の扉を開けた。そこには、昨日買い込んだロースカツ弁当が、まだ三つも静かに鎮座している。


「空くん、このお弁当、今食べる?」


蜜柑の問いに、空は少しだけ胃のあたりを押さえて難しい顔をした。


「……流石に今は、ちょっと重すぎるかな。お昼それをカツ丼にでもするよ。朝は普通に、トーストとかにしないか?」

「そうだね、賛成」


蜜柑はそう言うと、袋から厚切りの食パンを二枚取り出し、トースターへとセットしてタイマーのダイヤルを回した。チッチッチ……と、静かなキッチンにタイマーの刻む音だけが響く。


「そういえば、海姉の様子はどうだった?」


着替えを取りに海の部屋へ寄った蜜柑に、空がコーヒーの香りを漂わせながら問いかけた。


「まだ眠ってたよ。でも、昨日の夜より顔の赤みが引いてたから、熱も下がってきてるんじゃないかな」


空はホッと胸を撫で下ろし、二つのカップに丁寧にコーヒーを注ぎ入れた。

どこか気恥ずかしさを孕んだ、けれど心地よい他愛のない会話をしながら朝食を進めていると、不意に階段を降りる足音が聞こえてきた。間もなくガチャリとドアが開き、パジャマ姿の海が力なく姿を現した。


「あっ、おはよう。海姉……」

「海さん、お身体の具合はどうですか?」


蜜柑の問いに、海は自分のおでこにそっと手を当て、熱を確かめるように目を細めた。


「うーん、熱はだいぶ引いたみたい。でも、まだ体がふわふわするから、朝ごはんを食べて薬を飲んだら、今日も大人しく寝てるわ」


海は自嘲気味に苦笑いを浮かべ、パジャマの襟元を少し引っ張ってみせた。


「それにしても、ものすごい汗かいちゃった。とりあえずシャワー浴びてくるね」

「じゃあ、海さん。シャワーの間に温かいうどんを作っておきますね」

「ふふっ、助かるわ。ありがとう、蜜柑ちゃん」


海がそのまま洗面所へ向かおうとした、その時だった。ピタリと彼女の足が止まり、怪訝そうに首を傾げた。


「ところで……さっきから洗濯機回してるの、空?」

「ん? ああ、そうだけど……」

「そんなに洗濯物、溜まってたっけ?」


海の鋭い指摘に、空と蜜柑の心臓がドクンと跳ねた。二人は示し合わせたように顔を見合わせ、一瞬で顔面を沸騰させる。


「あ、いや……ほら、今日は天気が良いし! シーツとかタオルケットとか、一気に洗っちゃおうかなって……」


空は泳ぐ視線を必死に固定しようと、あらぬ方向を向きながら答えた。そんな弟たちの様子を、海はニヤリと意味深な笑みを浮かべて見つめる。


「ふーん……。まあ、仲が良いのは結構だけどさ。二人ともまだ中学生なんだから、責任取れないことはしちゃダメだよ? 避妊だけはちゃんとね」

「「ち、違うっ!!」」


海の言葉が終わるより先に、二人の叫びが重なった。真っ赤を通り越して、耳の裏まで熱くした二人が、すがりつくような必死の形相で海を凝視する。


「海さん、違います! 私たち、昨日は……その、キスしかしてないです!」

「えっ!? だったらどうしてシーツなんて洗ってるの? てっきり私は、破瓜の……その、初めての出血で汚しちゃったのかとばかり……」

「海姉、生々しいって……!」


デリカシーのない海の直球に、蜜柑はついに耐えきれず、顔を覆って俯いてしまった。

しかし、海は納得がいかないようで「じゃあ、どうして?」と畳み掛けてくる。二人は逃げ場を失い、消え入るような声で昨夜の凄絶な「攻防」を白状する羽目になった。


「……つまり、一線を越えないために、お互いの目の前で、自分の手で……果てたってこと?」


二人が蚊の鳴くような声で頷くと、海は数秒の間絶句した。そして、信じられないものを見るような目で二人を見つめ、驚愕の声を上げた。


「……ちょっと、それって普通にエッチしちゃうより、よっぽど精神的なハードル高くない!? 羞恥心の壁、ぶち抜きすぎでしょ!」

「「うわあああぁぁぁ!!!」」


トドメの一撃を食らった空と蜜柑は、今度こそ脳が溶けてしまいそうなほどの羞恥に襲われ、キッチンで悶絶するように身をよじった。

朝の清々しいはずの空気は、姉の容赦ないツッコミによって、二度と忘れられない「地獄のような恥ずかしさ」へと塗り替えられてしまったのだった。

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