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第十話 黄泉がえり

……というわけで、ここからは俺、三宅忍みやけ しのぶの視点でお送りするのぜ。


令和二年 八月十三日

中学三年生――。

中学入学と同時に始めた剣道。その集大成となる中体連は、都大会敗退という結果で幕を閉じた。それと同時に、俺の部活動生活も引退の時を迎えたのである。

正直なところ、寝食を忘れるほど剣道に打ち込んでいたわけではない。だから、負けたこと自体に特段の悔しさがあるわけでもなかった。ただ、同じ道着の匂いを共有し、共に汗を流してワイワイと過ごした仲間たちとの時間が失われてしまうことには、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

しかし、夏休み突入と同時に始まった夏期講習は、そんな情緒に浸る余裕すら私から奪い去っていった。それでも、お盆期間である十三日から十六日までの四日間だけは、講習も束の間の休息に入る。例年通り、羽を伸ばせる余暇が私の手元に舞い戻ってきたのだ。

そんな解放感に背中を押され、昨晩は久しぶりに深夜までネットゲームに没頭してしまった。結局、心地よい疲労と共に深い眠りに落ちたのは、東の空が白み始めた頃だった。


せっかくの休日である。

思う存分惰眠を貪り、太陽が中天に昇るまで枕に顔を埋めていたい――。

そんな、全中学生が抱くであろうささやかな欲望は、午前八時、勢いよく開け放たれた部屋のドアの音によって無残に蹴散らされた。


「忍、起きなさい! さっさとお墓参りに行くわよ!」


母親の無慈悲な宣告と共に、私の体に掛かっていたタオルケットは無造作にむしり取られたのである。

毎年八月十三日は、同じ地区内にある墓地へ家族揃ってお参りに行くのが三宅家の恒例行事となっている。私は未だ重い瞼を必死にこじ開け、手早く身支度を整えた。玄関へ向かうと、すでに母さんが準備していた供物や手桶が鎮座している。それらを両手に抱え、両親と共に初秋の気配すら感じさせない猛暑の中へと踏み出した。

墓地へと続く道中、すでに一仕事を終えたのであろう近所の顔見知りたちと、「おはようございます」「暑いですね」といった、この時期特有の挨拶を交わす。墓地に近づくにつれ、風に乗って流れてくる線香の香りが一段と濃くなり、盆休み独特の厳かな、それでいてどこか浮き足立ったような空気が肌を撫でた。


墓地に到着すると、まずは墓石を洗い、周囲の雑草を抜く。綺麗になった墓石に花を供え、線香に火を灯す。揺らめく煙の中に先祖の姿を重ねるようにして静かに手を合わせると、先ほどまでの眠気も、受験生としての焦りも、少しだけ凪いでいくような気がした。


「よし、終わったわね。それじゃ帰りましょう」


母さんの号令で、俺たちは再び歩き出した。

帰り道、アスファルトから立ち上る陽炎が、帰宅を急ぐ俺たちの足を重くさせる。頭上で降り注ぐセミの声が、うだるような暑さをいっそう強調していた。

そんな中、ふとした思考が脳裏をよぎり、俺の足を止めた。


「あっ、俺、ちょっと用事思い出したから先帰ってて」


両親にそう告げると、返事も待たずに少し駆け足で歩を進めた。道すがらにある生花店に飛び込み、瑞々しい供花の束を買い求めて再び歩き始める。

俺が向かっているのは、先ほど家族と訪れた場所とは別の、街外れにある静かな墓地だ。

そこには、他でもない彩乃が眠っている。

中学二年の冬、あまりにも唐突に、そして儚く逝ってしまった彼女。墓地へ続く緩やかな坂道を登りながら、俺は彩乃の屈託のない笑顔を思い出していた。もし彼女が生きていれば、今頃は俺たちと一緒に受験勉強に追われながらも、くだらない冗談を言って笑い合っていたのだろうか。

彩乃がいないこの夏は、どこか色が欠けているような、そんな虚しさが常に付きまとっている。

せめてお盆の間くらいは、独りきりであいつの話を聞いてやりたい。そんな感傷に浸りながら墓地の入り口へと差し掛かった、その時だった。


「あら、忍君?」


鈴の鳴るような澄んだ声に呼び止められ、俺は顔を上げた。


そこに立っていたのは、知念瑠奈さんだった。彼女は清楚な夏の装いに身を包み、手には小ぶりの紙袋を提げている。


「あ、瑠奈さん。お久しぶりです。

お盆、実家には帰らなかったんですね」

「うーん。夏休みは夏期講習があるからね」


瑠奈はそう言って苦笑いを浮かべた。


「さすが超進学校ですね。

……といっても、俺も昨日まで夏期講習だったんですけどね」

「そっか、忍君は受験生だもんね」


瑠奈と忍はそう言って微笑み合う。


「まぁ、私の地元(石垣島)はお盆を旧暦の七月十三日から十五日に行うから、今年は八月三十一日からなのよ。だからこの時期のお盆ってピンとこなくて」

「へぇ……。こっちとは随分と時期が違うんですね」

「うん。でも一応家族とも会いたかったから、先週末から昨日まで帰ってたんだけどね」


俺と瑠奈さんは並んで歩きながら、そんな雑談を交わした。


「ところで、瑠奈さんはこれからどこへ行くんですか?」


俺がそう問いかけると、彼女は手元の紙袋を少し持ち上げて見せた。


「ああ、これから空さんの家にお土産を届けに行こうと思っていたところよ」


瑠奈さんは穏やかな微笑みを浮かべていたが、俺が抱えている花束に視線を移すと、その表情をふわりと和らげた。


「忍君は、これから彼女のところへ行くのかな?」


その言葉に、俺は照れ隠しに少しだけ視線を逸らし、「うん」と短く答えた。すると瑠奈さんは、どこか申し訳なさそうな色を瞳に浮かべて口を開いた。


「もしお邪魔でなければ……私も、一緒にお参りさせてもらってもいいかしら」


俺は本来、彩乃の墓前で一人静かに対話しようと思っていた。だから一瞬、返答に迷いが生じてしまう。けれど、あの桜の下で彩乃の想いを受け取ったという瑠奈さんにとって、彩乃は決して見ず知らずの他人ではないのかもしれない。そんな思い至った俺は、彼女の申し出を快く了承した。


そうして俺たちは並んで歩き、彩乃が眠る仙水家の墓前へと辿り着いた。

俺は墓前に屈み込み、手向けの花を供え、蝋燭と線香に火を灯すと、静かに目を閉じて手を合わせた。背後では瑠奈さんも同じように祈りを捧げていたはずだったが、しばらくして、俺の耳に「ふぇっ?」という場にそぐわない素っ頓狂な声が届いた。

驚いて振り返ると、そこには目を丸くして硬直している瑠奈さんの姿があった。


「……瑠奈さん?」


問いかけても彼女は固まったままで、時折小さく頷いたり首を振ったりと、不可解な挙動を繰り返している。俺は立ち上がり、心配になって彼女の肩に手を伸ばそうとした。その瞬間、瑠奈さんはハッとしたように、目の前の俺を真っ直ぐに見据えた。


「忍……君……」


その尋常ではない様子にたじろいでいると、再び俺の名前を呼ぶ声がした。


「忍君。彼女と……彩乃さんとお話ししたい?」

「……はい?」


今度は私の口から、間抜けな声が漏れた。


「空さんの家でお花見をした日の帰り、忍君に送ってもらったわよね」


公園での会話を思い出しながら、俺は黙って頷いた。


「あの時、忍君の隣にいた彩乃さんの気配が消えてしまったんだけど……今、またその気配がはっきりと現れたの」


そう言って、瑠奈さんは私の左側を指差した。俺は喉を鳴らして、彼女が指し示す何もない空間に視線を向ける。瑠奈さんは静かに言葉を続けた。


「彩乃さんの心が、また私の中に流れ込んできているわ。彼女、忍君に会えたことを心から喜んでる」


その言葉に、胸の奥が熱く焼けるような感覚を覚えた。だが、瑠奈さんの口から出た次の言葉は、さらに理解を超えたものだった。


「それでね、今の私のバイオリズムと彩乃さんの波長なら、私の中に入ることができそうなの」

「えっ……それって、どういう……?」


意味が分からない。私は一体どんな顔をして彼女を見ていただろうか。墓参りの人々が行き交う喧騒の中、真剣な眼差しで語りかける瑠奈さんの前で、私は長いこと呆けた面を晒していたに違いない。


「……つまり、彩乃さんが私の体に乗り移って、忍君と直接会話ができるってこと」


驚きのあまり、言葉が喉に張り付いて出てこなかった。


「そんなこと、本当に……」

「あの日会った時から、彩乃さんとは波長が合いやすいと感じていたけれど、ここまで完璧に重なることは滅多にないわ。今後もそう何度もあることじゃないでしょうね。ただ、勝手に入れ替わるわけではないから……まずは彩乃さんのご両親にもお話ししてからでないといけないけれど」


瑠奈さんはそう言って、愛おしそうに私の隣の「虚空」を見つめていた。

その後、私は瑠奈さんに促されるまま、困惑と期待が入り混じった足取りで彩乃の実家を訪ねることとなった。


仙水家の玄関の呼び鈴を鳴らすと、彩乃のお母さんが穏やかな表情で出迎えてくれた。

あの告別式の際、人目も憚らずに泣き崩れていた俺の姿を覚えていてくれたのだろう。「お線香をあげさせてほしい」と伝えると、すぐさま快く仏間へと案内された。

まだ微かに線香の匂いが漂う静謐な仏間で、蝋燭に火を灯し、線香を立てる。俺と瑠奈さんは、遺影の中の彩乃に語りかけるようにして、静かに手を合わせた。

お参りを済ませると、お母さんに促されて茶の間へと移動し、淹れたての冷たいお茶をご馳走になった。


一息ついたところで、俺は改めてお母さんに深くお礼を言い、真剣な面持ちで隣に座る彼女を紹介した。


「こちら、私の友人の知念瑠奈さんです」


そう伝えると、彩乃のお母さんは少し不思議そうな顔を浮かべた。


「知念さん……? もしかして、沖縄の方かしら」


問いかけに、瑠奈さんは静かに頷いて挨拶を返した。


「はい。今年の春、東京の高校へ進学するために石垣島から参りました。私の家系は代々ユタを家業としていまして……」


瑠奈さんは自分の素性を明かしつつ、これまでに彩乃の心に触れてきた経緯を丁寧に語った。最初こそ半信半疑の様子で瑠奈さんを見つめていたお母さんだったが、彼女の口から語られる彩乃特有の仕草や会話の内容を聞くうちに、次第にその頑なだった心を解いていった。そしてついに、瑠奈さんの身体を依代よりしろにすることへの承諾を得ることができた。


「それじゃ、始めましょうか……」


瑠奈さんは緊張の面持ちでそう言ったが、「あっ!」と何かを思い出したように声を上げると、俺の耳元に顔を寄せ、囁くように釘を刺した。


「忍君、彩乃さんにしばらく身体を貸してあげるけど、エッチなことは絶対にしないでね」

「なっ……!!!」


俺は思わず裏返った声を上げた。


「私、そういう経験ないんだから。約束だよ」


瑠奈さんは少し視線を泳がせ、頬を林檎のように赤くしながらも、すぐに真剣な表情に戻って静かに目を閉じた。


「彩乃さん……いいわよ」


瑠奈さんがそう呟いた瞬間、その身体は力なく畳の上へと倒れ込んだ。目の前の出来事に驚いた俺と彩乃のお母さんは、慌てて彼女の元へ駆け寄り抱き起こした。

やがて、瑠奈の瞼がゆっくりと持ち上がる。


「お母さん……? 忍……くん?」


深い眠りから覚めたような足取りで自ら上体を起こすと、彼女は実体を確かめるように自分の身体をペタペタと触り始めた。


「えっ、本当に……?」


顔を上げた彼女は、俺とお母さんの顔を交互に見比べた。


「わあ、瑠奈さんすごーい!」


目の前で起きた奇跡に、俺とお母さんは顔を見合わせたまま、ただ目を丸くして言葉を失っていた。静止した時間が過ぎ、ようやく我に返った俺は、確信を得るための問いを投げかけた。


「……本当に、彩乃なのか?」


彼女は俺の瞳をじっと見つめ、「うん」と短く答えた。


「じゃあ、彩乃と初めて二人で出かけた喫茶店で食べたものは?」

「ミルフィーユだよ。ラズベリーがいっぱい乗った……」


そう答えると同時に、彼女は瞳いっぱいに涙を溜めて、俺の胸の中へと飛び込んできた。俺は言葉にならない感情を抱えながら、そっと彼女の背に腕を回して抱きしめた。

しばらくして、ここが彩乃の実家でお母さんの目の前であることを思い出し、俺は名残惜しさを堪えて身体を離した。

彩乃はお母さんの方へ向き直ったが、お母さんは目の前の光景を未だ信じきれない様子で呆然としていた。彩乃は少し考える素振りを見せた後、何かを思いついたように居住まいを正した。


「じゃあ、瑠奈さんは絶対に知らないお母さんのことを言うね」


彼女はお母さんの名前や生年月日はもちろん、お父さんとの馴れ初めや子供の頃の思い出を次々と口にした。さらにお母さんの耳元に顔を寄せ、俺には聞こえない音量で何かを囁いた。


「どうしてそんなことまで……」


顔を真っ赤にして恥ずかしがるお母さんの様子を見て、彩乃はくすくすといたずらっぽく笑った。

それは生前、俺の前では決して見せなかった、女子中学生らしい無邪気な笑顔だった。元気だった頃はこんな風に笑っていたのだろうか――そんな感慨に耽っていると、二人はいつの間にか涙を流して抱き合っていた。

ひとしきり再会を喜んだ後、彩乃は突然真剣な表情になり、俺たちの顔をまっすぐに見つめた。


「お母さん、忍君。私、今は瑠奈さんの身体を借りてこうしているけど、十六日には帰らなくちゃいけないの」


その言葉に、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。お母さんの顔にも、深い寂しさが滲んでいる。


「それに、こうして瑠奈さんの身体に入れるのも、きっとこれが最初で最後だと思う」


その言葉の重みに、俺と彩乃のお母さんはただ黙って頷くしかなかった。


「私、前みたいにこの家で過ごしたい。忍君とも一緒にいたい。……私、この三日間だけは、ここにいてもいいかな?」


彩乃は祈るような眼差しで、お母さんの目をじっと見つめた。

お母さんは「ふふっ」と零すように微笑むと、慈愛に満ちた優しい笑顔を向けた。


「当たり前じゃない。ここはあなたの家なんだから、ずっといていいのよ……」


彩乃は心の底から安堵したように、表情をパッと輝かせた。そして、今度は期待を込めた視線が俺へと向けられる。


「忍君……忍君も、できる限りでいいから、私に会いに来てくれる?」

「当たり前だろ。毎日だって迎えに来るよ」


俺はそう答え、愛おしさを込めて彼女の頭をそっと撫でた。

視界に映る姿は間違いなく瑠奈さんのものだ。けれど、その繊細な仕草、独特の喋り方、肌に伝わる柔らかな空気感――それは紛れもなく、俺の愛した彩乃そのものだった。

しばらくの時間を過ごした後、俺たちは一度仙水家を辞し、空の家へと向かうことにした。早見の家にはお墓がないらしく、お盆といえど普段と変わりない日常を過ごしているはずだ。

俺は彩乃を連れて、親友のもとへと足を向けた。


その道すがら、紫色の巾着を手に提げた蒼井と、その隣を歩く空に遭遇した。

空は片手を上げて足を止め、蒼井もまたその場で立ち止まって俺たちをじっと見ている。

俺たちが二人のもとまで歩み寄ると、空は俺と隣の彼女の顔を交互に見比べながら口を開いた。


「シンくんと瑠奈さんが一緒にいるなんて、珍しい組み合わせだな」


空がそう言うと、蒼井は小さくため息をつき、空の脇腹を指先で突いてからスッと視線を落とした。空はその視線を追うようにして、俺たちが繋いでいる手に目を留めた。


「へぇ……シンくんと瑠奈さん、いつの間にそんな関係になってたんだ?」


空はニヤニヤとした顔で俺の顔を覗き込んできた。


「うん。でも、忍君が前に進めたのなら、それは凄く良いことだと思うな」


蒼井もそう言って、祝福するように微笑んでいる。


「お前らなぁ……。

……というか、空。お前たちはどこへ行ってたんだよ。前にお前の家には墓がないって言ってなかったか?」


俺が話を逸らすように問いかけると、空は真面目な顔に戻り、隣の蒼井を見やってから答えた。


「ああ、蜜柑のお母さんのお墓参りに行ってたんだよ。去年は合宿で行けなかったから、今年は絶対に行こうと思ってたんだ。

……で、二人はこれからどこへ?」

「お前んちに行こうと思ってたんだよ。瑠奈さん、昨日まで実家に帰ってたらしくてな、空へのお土産を預かってきたんだ」


俺が紙袋を掲げて見せると、空と蒼井は「お土産?」と不思議そうに顔を見合わせ、首を傾げた。

そのまま俺たちは空の家に招かれ、リビングへと通された。そこでは海姉ちゃんが、ソファでスマホをいじりながらくつろいでいた。


「海先輩、ご無沙汰してます」


俺が挨拶すると、海姉ちゃんは顔を上げ、わざとらしく眉間にシワを寄せてこちらを見た。


「だからぁ~、海・姉・ちゃん、でしょ!!」

もはや様式美とも言えるこのやり取りに、俺は苦笑いする。だが、隣にいる彩乃は、その光景が懐かしくてたまらないといった様子で、愛おしそうに微笑んでいた。


「お久しぶりです、海さん」


その落ち着いた声音に、海姉ちゃんは不思議そうな表情を浮かべた。


「……ごめんなさい。私、あなたとお会いしたことあったかしら?」


海姉ちゃんの困惑した反応を、空や蒼井も固唾を呑んで見守っている。すると、彩乃は少しだけ苦笑いを浮かべて答えた。


「私、仙水彩乃です」

「彩乃ちゃん……!? 忍君の彼女の?」

「正式にお付き合いする前に死んじゃいましたけど……」


彩乃がさらりとそう告げると、海姉ちゃんと空たちは揃って目を見開き、驚愕のあまり彼女の身体を穴が開くほど見つめ始めた。


「本当に彩乃ちゃんなの……?」

「言われてみれば、さっきから瑠奈さんにしてはずいぶんとおとなしいな、って思ってたんだ」

「……というか、会った瞬間から色々とおかしいなって、違和感しかなかったもんね」


三人は、信じられない奇跡を前にして、ただただ圧倒されていた。そしてそれ以上の温かな祝福に満ちていた。


「そっか……彩乃ちゃんなんだね。おかえり」


海姉ちゃんはそう言うと、瑠奈の姿をした彩乃を力いっぱい抱きしめた。空も、蒼井も、最初は信じられないといった様子だったが、彩乃が口にする生前の些細な思い出話を聞くうちに、その瞳を潤ませて笑い合った。


「シンくん、この三日間は絶対に後悔の無いようにな」


空に肩を叩かれ、俺は力強く頷いた。

早見家を後にした俺たちは、再び仙水家へと戻った。そこには、あの日から止まっていた時間が、嘘のように動き出した光景があった。彩乃は瑠奈の身体を借りて、お母さんの手伝いをしながら台所に立ち、お父さんの晩酌に付き合って、とりとめのない家族の会話に花を咲かせた。


「おいしい……。お母さんのご飯、ずっと食べたかったんだ」


そう言って、彩乃は瑠奈の綺麗な瞳から大粒の涙を零して笑っていた。その夜、俺は彩乃に促されて仙水家に泊めてもらうことになった。彩乃の部屋――あの日からおばさんが大切に守ってきた、淡い桃色のカーテンが揺れる部屋で、俺たちは夜が更けるまで語り合った。


「忍君、明日からはね、私が行きたかったところ、全部一緒に行ってほしいな」


彩乃は少しだけ甘えたような声で言った。



翌朝、俺たちは早起きをして街へ繰り出した。

まず向かったのは、俺たちの中学校の校庭だ。夏休みで静まり返ったグラウンドの隅、大きな銀杏の木の下。


「ここでね、忍君が剣道の練習してるの見てたんだよ」


彩乃は懐かしそうに目を細めた。俺たちは校門の前で待ち合わせをして、あの頃できなかった「放課後デート」をなぞるように歩いた。地元の商店街でコロッケを買い食いし、駅前の本屋で互いの好きな作家を教え合う。

午後は、少し足を伸ばして水族館へ行った。青白い水槽の光に照らされた彩乃は、まるで幻のように美しかった。


「忍君、見て! クラゲがふわふわしてる」


繋いだ手から伝わってくる体温は、瑠奈さんのものかもしれない。けれど、その指先が俺の手をギュッと握り返す強さは、間違いなく彩乃の意思だった。

夕暮れ時、海辺の公園でアイスを食べた。


「忍君、私がいなくなってからずっと落ち込んでいたよね。でもまた元気になって本当に安心したよ」


彩乃は夕陽を見つめながら、静かに言った。俺は胸が締め付けられる思いだったが、泣かないと決めていた。この三日間は、彩乃を笑顔にするための時間なのだから。


十五日――

お盆の中日。街では小さな夏祭りが開かれていた。

俺たちは浴衣を着ることにした。瑠奈さんの荷物の中にあった紺色の浴衣を、彩乃のお母さんが手際よく着付けてくれた。


「忍君、似合ってる?」


少し照れながら現れた彩乃は、あまりに綺麗で、俺は言葉を失った。

祭りの喧騒の中、俺たちは屋台を巡った。金魚すくいに熱中し、彩乃が取った一匹の金魚を大事そうに見つめる。


「この子は、私がいなくなったらお母さんに頼もうかな。私の代わりに、この家にいてもらうの」


夜、河川敷の土手に座って、打ち上げ花火を見上げた。大きな花火が夜空に開くたび、その光が彩乃の横顔を鮮やかに照らす。


「ねえ、忍君。私、死んじゃったことは悲しいけど、後悔はしてないよ。忍君に出会えて、こうしてまた会いに来られた。こんなに幸せな女の子、他にいないもん」


俺は彼女の肩を抱き寄せた。


「彩乃、俺だって幸せだよ。お前を好きになって、本当に良かった」


花火の音が鼓膜を震わせる。俺たちは、消えていく火花を惜しむように、何度も何度も口づけを交わした。瑠奈さんとの約束――「エッチなことはしない」を守りながら、それでも魂の深いところで繋がっていることを確かめ合うように。



十六日

そして、十六日の朝がやってきた。

瑠奈さんのバイオリズムが元に戻り、彩乃の魂が離れる刻限が近づいている。

俺たちは最後にもう一度、出会いの場所であるあの墓地へと向かった。早見家の面々、空、蒼井、そして海姉ちゃんも、別れを惜しむために集まってくれた。


「彩乃ちゃん、またね。いつでも遊びに来ていいんだからね」


空が少し鼻声を隠しながら言うと、彩乃は一人一人と握手をし、最後に俺の前に立った。

瑠奈の身体に、微かな震えが走り始める。境界が揺らぎ始めているのだ。


「忍君。……もう、行かなきゃ」


彩乃の両親も、涙を堪えて娘を見つめている。


「お父さん、お母さん。産んでくれてありがとう。大好きだよ」


その言葉に、お母さんはついに耐えきれず泣き崩れた。彩乃は俺の胸に顔を埋めた。


「忍君、最後に一つだけ、わがまま言ってもいい?」

「ああ、なんだって聞くよ」

「……私のこと、ずっと覚えててなんて言わない。忍君には、誰よりも幸せになってほしい。でもね、時々でいいから、風が吹いた時や、桜が咲いた時に、『彩乃も見てるかな』って、一瞬だけ思い出してくれたら、それでいいの」


俺は彩乃の両腕を掴み、真っ直ぐにその目を見た。


「忘れるわけないだろ。俺の心には、ずっとお前が住んでるんだ。……彩乃、愛してる。今までも、これからもずっとだ」


彩乃は、今日一番の、最高に輝く笑顔を見せた。


「うん、私も。……大好きだよ、忍君」


瑠奈の身体から、まばゆい光が溢れ出した。風が吹き抜け、周囲の木々がざわめく。俺の手から、柔らかな感触がふっと消えた。ドサリ、と倒れ込む瑠奈の身体を、俺は慌てて抱き止めた。


「……う、ううん……」


数秒の後、瑠奈さんがゆっくりと目を覚ました。その瞳は、いつもの、少しお節介で元気な瑠奈さんのものに戻っていた。


「忍……君? 私……あ、そっか。終わったんだね」


瑠奈さんは周囲の様子を見て、すべてを察したように優しく微笑んだ。そして、自分の胸に手を当てて呟いた。


「……あったかい。彩乃さんの気持ち、まだここに残ってるよ。忍君に、ありがとうって言ってる」


墓地には、夏の終わりの蝉しぐれだけが響いていた。

彩乃はもう、目には見えない。けれど、俺の左胸の奥には、彼女と共に過ごした三日間の熱が、消えない灯火のように宿っていた。


「行こう、シンくん」


空が横に来て、俺の肩を叩いた。


「ああ」


俺は最後に一度だけ、彩乃が眠る墓石を振り返った。そこには、俺たちが供えた花が、夏の陽射しを受けて凛と咲き誇っていた。


後悔はない。


精一杯愛し、精一杯伝えた。

俺は前を向いて歩き出す。彩乃という光を、一生、この胸に抱きしめながら。

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