毒刃(どくじん)
霧雨が降りしきる明け方。
暗く、湿り気を帯び、鼻をつく焦げ臭い匂いが充満した部屋で目を覚ました。
その匂いはあまりにも鼻持ちならず、肺の奥深くまで染み込み、吐き出す息さえも汚していくようだった。
視線を巡らせ、天井を仰ぐ。どこか見覚えがあるようで、しかしまったく知らないこの部屋で、天井に沿うようにして身を起こす。
――そして、息が止まった。
両脇には、冷たくなりきった、名前も顔も知らない男女が並んで横たわっていた。
一瞬で頭の中が真っ白になる。
なぜここにいるのか、何があったのか――何ひとつ思い出せない。
ただ、自分の手に彼らのぬるりとした、生臭い液体が付着していることだけがわかった。
そして、唯一胸に突き刺さる事実。
――俺は二人を殺し、共に横たわっていた殺人者なのだ。
我を忘れて玄関の扉を蹴破り、外へ飛び出す。見知らぬ道へ向かって走った。
目の前の景色は揺れ、形すら判別できない。荒い呼吸が喉を削り、心臓の鼓動が全身を叩きつける。
冷たい初春の空気は、肺の中で温もりを得る間もなく吐き出される。
額を伝う汗が目元を濡らし、視界はますます霞む。
どこからともなく響くサイレンの音が、駆ける馬に鞭を打つように、俺の脚をさらに急がせた。
精神は崩れかけ、走る身体が肉片となって剥がれ落ちる幻覚さえ見える。
――どれほど走ったのだろう。
整備された舗道の果て、その先は土道と山へと続く境界線。
ここを越えれば、法の手は届かず、裁き(さばき)を逃れられるのではないか。
それとも、今すぐ自首し、罪を悔いれば死刑だけは免れられるのだろうか。
境界を跨ごうと足を上げたが、ためらいが生まれた。
踏み出そうとすればするほど、そのためらいは大きくなり、心と体が絡み合って動けない。
思考が渦を巻き、鋭い頭痛がこめかみを貫く。
境界の上で右往左往していたその時――
足元の泥に足を取られ、俺は倒れ込んだ。
気がつけば……すでに、その境界を越えていた。
脳を締め付けていた痛みは嘘のように消え失せた。
心とは裏腹に、内側の何かが決断を下したのだ。
四つん這いになり、山へと這い進む。
爪が土を抉り、不気味な音を立てる。呼吸は荒く、口を開き舌を垂らして空気を貪る。
もともとあった耳は消え、代わりに頭の上へ新たな耳がゆっくりと現れる。
全身に毛が異様な速さで生え広がり、体を覆い尽くす。
出るはずのなかった尾が現れ、地面を擦った。
変身が終わると、すべてが鮮明に見え始める。
溜まり水に映った自分の姿は、奇妙で、しかしどこか懐かしい獣の姿。
まるで芋虫が蛹から蝶へと変わるように、俺もまた人肉の殻を脱ぎ捨て、完全な獣へと成り果てたのだ。
四肢で山道を駆け上がり、闇の中へと消えていく。
雨が上がり、黒雲に隠れていた月明かりが、背を照らしていた。