八、駆け落ち
ふさふさの狐耳と尻尾。
黄金の長い髪。
若草色の狩衣。顔は狐面で隠されているものの、涼やかで流麗な立ち姿。
「その姫君は私が頂く。下がれ」
狐面の青年が指差すと、狐火が闇夜に燃え盛った。淡い火花を散らし、屋敷に燃え移る。驚き慌てふためく人間たちの隙をつき、跳躍した狐面の青年は目を丸くしている結姫を抱え上げた。
「だれか、あやかしが!」
「姫を返せ!」
飛んでくる怒声も弓矢も、華麗に薙ぎ払い、青年は空高く舞う。闇夜に煌めく金色の髪。市中を抜けて、幽世の入り口へ。あの古い橋の境へ。横抱きにされ、惚けていた結姫が我に返ったように青年の狩衣を掴んだ。
「わ、わ、ま、待って。お屋敷に火が! 父上が!」
「大丈夫、あれは幻術。そのうち消えてなくなります」
静かに落ちた声に、結姫は目を瞬いた。
「そなたは……お狐さん? もしや、一縷くんに頼まれて私と駆け落ちしに来てくれたのか?」
狐面をつけた青年──、一縷はこくりと、頷いた。声も姿も変えているためか、結姫は気がついていないようだ。
「はい。お労しい身の上と聞き、参上仕りました。私と共に逃げていただけますか?」
「なんと、うれしいことじゃ。一縷くんはまこと忠臣であったな。お面をつけてても分かる。そなた、美男子じゃろ?」
ふふ、と頬を染めて、結姫は一縷の胸元にすり寄った。同じ告白。同じ台詞。なのに、こうも反応の違う結姫に、じくりと胸が痛んだ。しっかりと抱きしめたまま、幽世と現世の境。結姫と初めて出会った橋の前に立つ──寸前で足を止めた。
(このまま、一生正体を明かさず。一生狐面をつけていれば、結姫と一緒にいられる。結姫を幸せにできる)
でも、どうしてか、足が進まなかった。一縷が人間であったこと。結姫にだけには、覚えていてほしかった。唇を噛みしめて振り払うように、その身を抱きしめる。現世では天狐から授かった妖術は長くは持たない。幻術だと気づいた追手がすぐに追いつくだろう。今の仮の姿も、もうじき解ける。橘の実さえ口につけてしまえば、その心配もなくなるが──逡巡する一縷の胸中を知ってか知らずか、結姫が思い出したように顔を上げた。
「お狐さん、攫ってくれてありがとう。実は折り入って頼みがあるのじゃ。そなた──私を、食ってくれないか?」
「……え?」
思いもよらぬことを言われ、一縷は思わず素の声を出した。結姫は小首を傾げ。
「ん? 狐は人間を食わんのか? 高貴な血筋の人間は好物だと聞いたんじゃが。だったら人食い鬼にでも引き渡してくれてもよい。どうせ食われるのなら美男子がいいと思ったんじゃが残念じゃのう」
「い、いえ、そうではなく、」
慌てて一縷は反論し、結姫の身体を地に降ろした。その細い肩を掴む。
「姫君はあやかしの婿を探しておいでだと聞きました。なにゆえ食ってほしいなどとおっしゃるのです?」
「すまぬ。嘘なのじゃそれは。私には想う人がある。そんな状態でそなたと駆け落ちするのも忍びない。だから、お詫びもかねて食ってほしいんじゃ」
想う人? と一縷が尋ねると、結姫は顔を伏せた。
「実は私は従者が……一縷くんが好きなのじゃ。彼だけが私を価値ある姫のように扱ってくれた。ほかの使用人も、父上も私のことは余りモノの、残りモノにしか扱っていなかったというのに、姫としても友ともしても忠臣としても、ただ、一緒にいてくれた。すごくうれしかった」
結姫は髪に結わいた赤い髪紐をそっとさする。驚きと困惑、そして言い表せぬ喜び。狐面の下で一縷は言葉につまる。
「では、なぜ? わた──あの者は姫君と一緒に逃げようとしたと、聞きました」
かろうじて一縷が取り繕うと結姫は泣きそうな顔をした。
「本当にすごくみっともない話なんじゃ。迷惑かけついでに聞いてくれるか?」
結姫は輝く満月を仰ぐ。月は后の象徴。それを羨むように眺めていた。
「私は内大臣家の末姫。上に姉が五人もおる。姉上たちは順番に、皇后、中宮、東宮妃、そのまた次の東宮候補の妻へと嫁いでいった。けれど、いつ何時。姉上たちの身に何が起こるかはわからぬ。病や怪我──出産で命を落とすかもしれぬ。私は姉上たちになにかあったときの、予備。供えの姫だったのじゃ」
「供え……」
結姫は、自嘲するように笑った。
「けれど、幸いなことに、姉上たちは皆お健やかじゃ。帝や東宮、夫たちにも愛されて。子もおる。地位も愛も手に入れて。まことめでたいことじゃ。私だけが、永遠に、出番がこないまま。私だけが不要になってしまった。今はもう姉上たちが生んだ姫のほうが位も高い。私は本当に出番のないまま使い捨ての道具のような輿入れになってしまった」
ぽろり、と結姫は涙をこぼした。いつも明るく暗いところの見せない結姫の涙は、初めて見た。
「だから、食ってくれないか、狐」
まっすぐに一縷の狐面を見つめ。
「私は后になるように育てられた。その心根を変えることができない。しょうもない矜持が捨てられない。落ちぶれることができない。一縷くんが好きでありながら、一縷くんとともに行くことができない。こんな見苦しい気持ち、彼にだけは知られたくない。私のくだらない矜持ごと、見栄ごと、私を攫って。私を食ってくれないか」
一縷は言葉をなくして結姫を見た。いつも明るく動じない結姫のどうしようもない、胸の内。弱さ。
「……できません、だって、」
自分を見てほしいなんて、確かに傲慢だった。一縷はなにも手放さず、結姫を手に入れようとしていたのだから。
「姫の矜持は、心の支えだったのでしょう?」
自分を選んでもらうということは、結姫に地位も肩書も拠り所すらも、捨てさせるということなのに。
「──いたぞ! この化け狐が!」
遠くから響く怒号。追っ手が追いついたのか。激しい足音。ひゅん、と闇夜を切り裂いて飛んできた矢が狐面に刺さった。面がひび割れて、顔をさらす。化けの皮がはがれる。結姫が息をのんだ気配がした。
一縷は迷いなく、胸元から橘の実を取り出して、飲み込んだ。幽世の木の実。口にすれば幽世の住人と同じになる。──つまり、あやかしとなる木の実。覚悟を決めて、飲み下した。
借り物だった妖術が、全身に馴染んでいく。狐火が周りを取り巻き、妖気が満ちる。まやかしではない狐耳がにょきりと生え、ふんわりと尻尾が揺れた。目も耳も闇夜の中で、よく見えて、よく聞こえる。もう、なにも怖くはない。
息をつかせず無数の矢が飛んでくる。結姫を背後でかばいながら、今度こそ本物の狐火で燃やし尽くした。幻術だと思っていた武者たちは刀や鎧、弓を灰にされて、腰を抜かした。
「無礼者! 誰に矢を射ている!」
一縷は、高らかに告げた。高慢に。気高く。威圧するように。
「我が名は一縷。天狐の子。幽世の皇子。結姫は──内大臣家の末姫は私がもらい受ける!」
「一縷くん……」
「余りモノだなんて、言わないでください姫。あなたは私にとって、唯一の姫君」
結姫に向き直り、その手を取って、跪いた。
「どうか、私と一緒に幽世へ。私の后になってはもらえませんか?」
結姫の見栄も、矜持も、身分も、肩書も、それも含めて。
「結姫が好きです」
結姫は大きく目を見開いたあと、花が咲くように微笑んだ。柔らかい手、温かい手。その両手で、一縷の頬を掴む。人間からあやかしへ様変わりした一縷の姿を、愛おしそうに撫でた。
「皇子様、皇子様じゃ。私の。私だけの」
結姫は、ぽろりと涙を流した。
「それが一縷くんだなんて──まるで夢のようだね」
その満月の夜。
内大臣の末姫は狐と駆け落ちをした。