四、一縷の希望
幼いころ。
一縷は迷子になったことがある。
幽世と現世の境で、道に迷った。
暮れなずむ黄昏時。薪拾いの帰り道。古い橋の上で、うっかり転んだ。なにもない場所で、盛大に躓いた。首を傾げながら、次に顔をあげたときには現とは思えぬ豪華な御殿の中にいた。御簾が翻り、几帳が揺れる。風もないのにゆらゆらと──
どこぞ貴族の屋敷に迷い込んだのかと、慌てて外に出ようとしたが、一向に出口が分からず屋敷の中を彷徨い歩いた。そうこうしている内に夜の帳が落ち、狐火が灯される。鬼たちが酒を飲みかわし、天狗が踊り狂っていた。
幽玄に滲む桜。雨に濡れる紫陽花。たわわに実る稲穂。雪化粧の椿。
それらが同時に存在する豪華な庭園。不思議と恐ろしさは感じず、極楽浄土のような世界を、一縷は食い入るように見入っていた。
「おや? 迷い子だ。こちらへおいで。お菓子をやろう」
ふらりと、狐耳を生やした美しい男が声をかけてきた。甘ったるくて優しい声。頭を撫でられ、橘の実を一縷に差し出してきた。
「可愛いぼうや。我は子を亡くしたばかりで今とても寂しい。ここが気に入ったなら、我の吾子にならないかい? 食うモノも着るモノも困らない。イイところだろう?」
手渡された橘の実は、今まで食べたどんなお菓子や果実より旨そうに見えた。ごくりと、一縷は喉を鳴らす。一粒、口に運ぼうとした瞬間。
「──そなた、だれと話しておるのじゃ?」
甲高い、幼い女の子の声がした。一縷は驚いて、橘の実を地面に落としてしまった。その瞬間。波紋のように視界が波打ち、幽玄の世界が崩れた。
「つまらん、邪魔が入っては興ざめだ。吾子、気がふれたらまたおいで」
不貞腐れたような狐の声。ぐるり、と世界が反転し、
「そんなに身を乗り出しては川に落っこちてしまうぞ!」
その言葉で、一縷は今、古い橋の欄干に身を乗り出していることに気がついた。少女は、そんな一縷の袖を一生懸命引っ張っていたのだ。ごうごう流れる川。顔に水しぶきが跳ね、目を見開く。
「うわっ!!」
「──んぎゃっ!!」
一縷が驚いて、欄干から飛び引く。少女も勢いあまって、ずでんとひっくり返った。二人そろってころころと橋の上で転がる。
「あ、あれ、ここは? おれは、いったい……」
「痛いんじゃが~!」
「あ、ごめん。あなたは……」
差し出した手をぺしり、とはたかれる。身なりからして高貴な姫君に見えた。
「一人でぶつぶつ喋りながら、川面に飛び込もうとしていたぞ。危ないじゃろ!」
「……すみません。どうも、寝ぼけていた、ようです」
「ふーん、歩きながら寝ていたのか? 変なやつ。狐にでも化かされたのかのう?」
一縷は未だに眩暈を起している頭を押さえた。
肌を撫ぜる秋風も、雑草だらけの川辺も、烏の声も、いつもと同じ殺風景の光景。あの極楽浄土のような世界はやはり夢だったのかと、首を振った瞬間。ぞわりと背筋に悪寒が走った。木々の影に、水面の中に、黄昏の空に、低級霊や動物霊がたくさん浮かんでいた。
「うわああ!! お化け! お化けがいる!!」
「こ、今度はなんじゃあ!!」
目の前の少女にしがみつく。一縷は両方の目玉を懸命にこすった。何度、まばたきしてみても亡霊たちが消えることはなかった。
何の変哲もない現世。ただひとつ、幽世に見入ってしまった一縷の目だけは、このときから異形を捉えるようになる。
本気で怯えている一縷を見て、少女は首を傾げた。
「……お化け? そんなものおらんが」
「え、そこ、そこにいっぱい、男も女も、犬も猫も、浮かんでる!」
「ここには私しかおらん。気をしっかり持て」
「で、でも、確かにそこに!」
「あ~も~動じるな! そんなんだからあやかしに化かされるんじゃ!」
青ざめた一縷を、少女は一喝した。
躊躇なく、一縷の頬に両手を添える。小さく、柔らかく、血潮の通った温かい手。
生きている人間の温度。一縷を幽世から引き戻した手。
「どうしても怖いのなら、私だけを見ておればよい!」
ぼやけていた焦点が少女に合った。
美しい重ねも、丸い頬も、大きな瞳も、一縷の眼球に焼け付く。
亡霊たちがふらふらと通り過ぎていく。げっそりとやせこけた者。傷だらけの者。腐食した者。見るも無残な死に際の人間や動物が恐ろしく、震えが止まらなかったが、その声とその手に、ほんの少し落ち着きを取り戻す。
少女はその小さな身体で一縷を抱き留めていたが、「結姫様!」と遠くで叫ぶ声に、びくん、と身体を跳ね上げさせた。
「しまった! そなたが川面に飛び込もうとするから、牛車から飛びだしてしまったのじゃった! すまぬが、私はもういかねば」
「ま、待ってください。もう少しだけ、お願いです、ここに。こんな恐ろしいところに一人で置いていかないでください!」
自分より年下の少女に。しかも、縁もゆかりもない高貴な姫君に縋り泣いていたかと思うと。思い出すだけでも情けないが、その時の一縷は必死だった。ぬくもりのある、生きた人間である存在は、目の前の少女しか実感できなかったから。少女は困り果てていたが、両方のこめかみの髪を結わいている赤い髪紐のひとつを解くと、一縷の手首に巻き付けた。
「ええい、わがまま言うな。これをやるから! そなたもちゃんと家に帰るのだぞ! 怒られちゃうからな!」
そうして、少女は駆け出していった。急激に体温が冷え込む心地がした。けれど、左手首に巻き付いた赤い飾り紐。まだそこに少女の温かいぬくもりが残っているようで、なんとか気持ちを奮い立たせた。日常の中の非日常。生者の中の亡霊。それを見続けても気がふれないでいられた理由。
そのときから、何の変哲もない赤い糸が、一縷の頼みの綱になった。
そのあとは散々だった。
亡霊たちは一縷に危害を加えるようなことはなかったものの、妙なことを口走るようになった一縷を両親は不気味がった。理解できないものに怯え、見えないものに悲鳴をあげる日々。ある程度は妙な視界との折り合いはつくようになったが両親とは不仲になり、一縷はまともに働くことをあきらめて、物盗りをして一人で生きるようになる。霊感は使いようによれば気配察したり、勘を鋭くさせることもできた。霊や鬼がたくさん集まる場所は幽世へと通じると気づいて、追手から逃れるために飛び込んだことすらある。天狐に再会したのもそのときだ。幽世に行くたびに護身の妖術を授けてくれた。そのたびに、霊感は強まったものの、もう一縷は現世で人並みに生きることは半ば諦めていた。幽世のあやかしたちは見慣れてしまえば、怖くも恐ろしくもない。むしろ一縷を面白がって、可愛がってくれた。そのうち、この世界の一員になるのも悪くないとすら、思い始めた。そんな折、再び少女と再会する。
「なんじゃ、そなた。家に帰りそびれたのか。仕方ないのう」
ふらふらと、導かれるように物盗りに入った寂しい宇治の屋敷に、彼女はいた。一縷の顔を見た途端、動じることもなく、気安く声をかけてきた。
生きた人間の声を、久々に聞いた気がした。
その髪には赤い髪紐が片方だけ結ばれていた。必ず会えるのではないかと、ひそかに願っていた。一縷のただひとつの現世での未練。
「そなたと縁を結んでしまったのは私だしな。私の従者になるなら面倒見てやる。その霊感も面白い」
人間としての生活を諦めていた一縷に再び人間としての生活を与えてくれた。
頼みの綱。拠り所。
内大臣家の末姫。お転婆で、変わっていて、度胸があって、矜持が高くて──温かい。
結姫の存在そのものが、一縷の希望に思えた。