「あなたさえいなければ」で始まり、「私は独りで泣くのです」で終わる物語
――おかあさんかまって
いくら呼んでも
――さみしい
ないてみても
おかあさんはボクを見てくれない。
あの日、家に帰ってきたおかあさんは、変な生き物を大事に抱っこしていて。
その時から、おかあさんとおとうさんの一番は、ボクじゃなくなった。
――おかあさんっ、おかあさんっ
「あー」
「はいはい、今いくからね」
私とアイツが同時に呼ぶと。
「どうしたのかなー?」
真っ先におかあさんが向かうのは、アイツの所。
――おかあさん、おかあさんっ
ちらりと私を振り返ったおかあさんは、少しやつれた困り顔。
「待っててね」
「後でいくから」
――ウソつき、ウソつきっ
目の前で無情に閉められたドア。 奥から聞こえるアイツの泣き声と、それをあやすおかあさんの声。
きっちりと整えられたベッドに乗り上がりタオルやマットに当たり散らして、それでも足りずに泣いて泣いて暴れてえずいて外が暗くなっても――おかあさんは来てくれない。
***
「ただいま……調子はどう?」
足音を潜めて居間に入ると、草臥れきった妻が項垂れていた。
「……お帰りなさい。 ごめんねなんにも出来てなくて」
「仕様がないよ。 ボクが仕事を休めれば良かったんだけど、どうしても抜けられなくて」
項垂れる妻の腕には眠る娘。
閉めきられたドアの向こうからは、ガリガリばたばたと不穏な音が届く。
ボクはスーパーの袋をテーブルに置くと、腕まくりしながら洗面所に向かった。
案の定、トイレの砂は滅茶滅茶に飛び散り辺りの床から強い尿臭が漂っている。
妻が妊娠して喜んだのも束の間、それまで我が子のように可愛がっていた猫の扱いに頭を抱えることになった。
出産後家に来て育児の手伝いをしてくれる予定だった義母は、家に入った途端猫アレルギーを発症し、逗留を断念した。
義母の助力が当てにならず産後すぐから育児をすることになった上に、猫の世話も欠かせない。
しかもその猫は、赤ん坊が来てから問題行動を起こすようになってしまった。
少しでも目を離すとこっちを見てと言わんばかりに鳴き声を上げ、家具や壁に爪を立てる。
餌を食い散らかし、あらゆる所におしっこを引っかけ、果てはベビーベッドに乗り上がって寝具をビリビリに引き裂く。
赤ん坊にお母さんを盗られたと思っているんだろうね――電話の向こうで義母さんが溜め息を吐く。
結婚前から妻が飼っていた猫だった。 気性が激しく人見知りが酷くて、僕に触れるのを許すまでには結構な時間が掛かった。 一旦懐くと何処までも甘えてくる、可愛い子でもあったが……けれど。
『……離すしかないでしょうね』
『このまま放っておいたら、孫にまで掛かっていきそうだものね……』
二人揃って溜め息。 義実家に猫を預けられたら一番だが、猫アレルギーでは難しい。
独立している義妹の家はペット不可のアパート。 こちらも頼ることはできない。
残る預け先は――。
***
朝からずっとおかあさんの膝に抱っこされていた。 憎いアイツはどこかに連れていかれて、ここにはいない。
今日は特別だよとマタタビまで貰えて大満足。 嬉しくてゴロゴロ鳴る喉を、おかあさんの優しい指が優しくくすぐる。 何度も、何度も――
喉を鳴らしているうちに、狭いキャリーに入れられた。 車に乗って、久々のお出かけ。 途中ではっと我に返って辺りを見回す。
ねぇ、おかあさんはどこ? 一緒じゃないの?
狭いキャリーの中をぐるぐる回って、何度も何度もおかあさんを呼ぶ。
キャリーの壁にガリガリと爪をたて、用意されたご飯を全部蹴散らして、声が枯れるまで鳴いて鳴いて鳴き疲れた頃。
「着いたよ」
優しいおとうさんの声と顔を上げると、キャリーの窓から知らない顔がこっちを覗きこんでいた。
「高そうな顔してるな。 何て種類だって?」
「この子がそんなに暴れん坊なの? 大人しく見えるけどねぇ」
「車の中ではずっと大騒ぎしていたんだ。 今は疲れて大人しくなってるけど」
「活発な子なら、外に出しても大丈夫だな」
「家には沢山仲間がいるから、鼠取り教えて貰えるよぉ」
「それは……子供がもう少し大きくなったら、また帰ってきて欲しいんだけど」
「そんなこと言って、二人目三人目ができる度にころころ家を移されたら、猫の方が可哀想じゃないかねぇ」
「……」
――何を言ってるんだろう?
――この人たちはだれ?
ボクの声に、大人たちの顔が向く。
おとうさんはキャリー越しに手を這わしながら、この人たちは僕の両親だよと教えてくれた。 今日からお前はここの子になるのだと。
――なんで?
――嫌だよ家に帰りたいよっ!
――おかあさんは?
――おかあさんはどこ?
鳴き始めたボクを、リョウシンたちは目を細めて見つめていた。
***
『うん、無事に引き取って貰った』
『大丈夫。 僕の実家は敷地は広いし仲間の猫もいるから、きっと寂しくはないよ』
『今度里帰りしたら、また会えるよ……だから』
泣かないで、と続く電話越しの声がますます涙腺を刺激する。
通話の切れたスマホを片手に、ぼんやりと奥の部屋に足を運んだ。 爪跡の残るタンスやカーテンにさ迷わせた目線が、傷だらけのベビーベッドに止まる。
大好きな猫だった。 ペットショップで一目惚れして、お小遣いをはたいてお迎えした。
それからずっと一緒に暮らして、これからもずっと一緒にいられると思っていたのに。
ベビーベッドで眠る坊やを見おろす。 あの子は明らかに、この坊やに嫉妬していた。
家具やカーテンをズタズタにしたのも所構わず粗相するようになったのも、ただ私の関心を惹きたくて。
いつしかあの子の攻撃は、坊やの身近に移っていった。 少し目を離した隙に坊やの体に足を掛けようとしていたのを見た時、『もうダメだ』と観念した。
夫の実家は農家だ。 広い敷地に、ネズミ取りだと言って数匹の猫を飼っている。 私の廻りにいるペットとの接し方と扱いは違うけれど、可愛がってくれるだろう。
可愛がってはくれるだろう、けれど。
ポロポロ止まらぬ涙の中、坊やがふわりと目を覚ました。 泣く寸前に力の籠った体を、ベッドからそっと掬い上げる。
よしよしと声を掛けながら坊やの体を揺すると、ふにゃふにゃと口が動く。
迸った高い泣き声は、まだ仔猫だった頃のあの子に似ているような気がした。