80話
弾き終えたディディエだが、まだ鍵盤から指を離せずにいる。まるで終えることを惜しむように。まだ弾きたい。歌いたい。
「……いい曲ですね。優しく、温かい気持ちになれるし。なんて曲ですか?」
自分の語彙力では、拙い賞賛でしかできない、と悔いつつもとても気になる曲。まだ胸の中に残っている。皮膚から染み込んでいく音の波動を、ジェイドはじっくりと吸収する。
目を丸くしたサロメが、その発言をしたジェイドを見つめる。
「知らないの? ナット・キング・コールが歌詞をつけたんだけど、元々はインストゥルメンタルだった。その曲を作ったのは——」
「チャップリン。あの『喜劇王』チャップリンなんですよ」
途中をディディエが継いで、人物を紹介する。チャーリー・チャップリン。稀代のエンターテイナー。
意外な人物の名前が挙がり、ジェイドはつい、体が前に乗り出す。
「え、チャップリンて、あの? いや、あのヒゲでステッキ持ってる。作曲?」
コミカルな動きで笑いを誘う、パントマイムをしている映画スター。そんな人物像を持っていた。しかし、曲まで作っているというのは初耳だ。しかも、とてもいい曲だった。
サロメがさらに詳しく解説する。
「チャップリンは俳優や監督というイメージが強いけど、作曲家としても素晴らしい。というか、一九三一年の映画『街の灯』以降は、チャップリンの曲がかなりある」
実は『音』にとてつもなくこだわり抜いた人物。自身もピアノや弦楽器を多数、弾くことができたとされている。ゆえに、細部にまで手を抜かない。
「……すごい、しか出てこないけど、なんでそうなったんだろう。音楽院とか出ていた、とか?」
後世まで語り継がれている人物。白黒の声のない映画に出ていた、程度の知識しかジェイドは持っていない。映画スターが主演と監督をやる、というのは何人か聞いたことがあるが、音楽は初めて。ジェイドは俄然、興味を持つ。
さらにディディエがチャップリンという人物について、ジェイドに情報を提供。
「いえ、彼にはちゃんとした先生などはおらず、所属していた劇団の人達から教わった程度。そしていつか作曲家になりたいと考えていたのですが、俳優として才能を発揮し、名声や富を得た後も、その夢を捨てることができなかった」
そしてサロメもその流れに便乗する。
「当時は声付きの映画、トーキーが流行り出した頃なんだけど、無声映画のパントマイムだけで全てを伝える技術の衰退を恐れて、否定的だったらしい。代わりに、音楽を入れて緻密な心理描写などを表現しようとした。その結果が——」
「自らで作曲か。普通は……そうはならないけどね」
一朝一夕でできるものではないと思うし、ピアノやヴァイオリンが弾けるからできる、というものでもないだろう。改めて、チャップリンというスターの凄さをジェイドは肌で感じた。




