79話
「たしかに、ピアノとはまた違った良さがあるね。なんだろう、面白い」
ジェイドも同じ感想を持つ。聴き慣れている、というほどでもないが、ピアノとは違うベクトルの弦楽器。こういう世界もあるのか、と認識が広がる。
「ねぇ、オペラ歌手なんでしょ? なんか弾き語りとかないの?」
唐突にサロメが無茶な要求をする。プロの歌手にタダで歌えと。言うだけはタダ、の精神。
さすがに失礼だ、と場を諌めようとするジェイドが間に入る。
「いやいや、プロの歌手だよ。そんな安いもんじゃ——」
「オペラだったらお金を取りますけど、そうじゃないならただの歌の公開練習です。ピアノが調律されたら、ぜひ弾き語りしたかった曲があるんです」
と、ディディエはサービスを申し出る。ピアノが本来の力を出せるようになり、少し舞い上がっている。抑えるよりも、発散したい。
ふふん、とサロメは自らの行動を自慢する。言うだけ言ってみるもんだ。
「だってさ。本当に貴重なとこに出くわしたね、ジェイドは」
「いいんですか? プロなんですし、練習でもお金を取るべきでは」
たった二人の観客のために、わざわざ歌ってくれるなんて、とてもじゃないがジェイドは信じられない。というか、もったいない。
だが、当のディディエは全く気にしていない。なんなら、持ち運べるなら外で路上ライブしたいくらいだ。
「いやいや、ただ、思うままに弾いて歌うだけです。他意はないです」
あくまで練習、という魂胆。それに感謝もある。
ポンポン、と空いたイスを指先で叩き、サロメは立ったままのジェイド座るよう指示する。
「いいって本人が言ってんだからいいの。じゃ、聴きましょうかね」
「……いいのかねぇ……」
なんとなく納得はいかないジェイドだが、せっかくの機会なので、特等席で聴かせていただくことに。
ただの練習とはいえ、ディディエは歌に関して手は抜かない。誠心誠意、心と敬意を作詞家や作曲家に込めて。
「では」
気を入れ直して、一音一音丁寧に。シンプルかつ、優しく、それでいて少しもの悲しいピアノの旋律。そして、泣きながらも強い意志を感じる。そんな美しい歌詞、そして本物の声。
暗闇に小さな火が灯る。そんな印象をジェイドは受けた。耳だけでなく、全身で音を受け止めるような。じんわりと体の中を波打つ、ささやかな幸せ。
歌、そしてピアノで三分弱。短い時間ではあったが、サロメとジェイドの二人はなんとも言えない充足感を感じ、拍手で讃えた。
「……いいピアノです。より深く、この曲に潜ることができる」




