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76話
しかし、当のサロメは難しい表情をする。
「残念ながら、ショパンやリストの時代に、どの音律が使われていたかはわかっていない。ロマン派はウェル・テンペラメントだって主張する学者もいるけどね」
私はどれでもいいけど、と投げやりに任せる。調律したあとのことは知らない。
正直、ピアニストではないためどこまで感じ取れるかはわからないが、サロメに任せておけばなんとかなる、とディディエは信頼した。
「では、それでお願いいたします。コーヒーは淹れますか?」
時間がかかると踏んで、少し休憩を提案する。調律には時間がかかる。そのまま一気に、というわけにもいかないだろう。
サロメはキャリーケースの道具を漁りつつ、返答する。
「ありがたいけど、いや、いい。集中してると忘れるから」
整調や整音は最低限でいいか。ある程度は前の調律師がやっている。ピアノの音にのみ、反応する体に変化する。体と音の境目が曖昧になる感覚。
「サロ——」
誰かに名前を呼ばれた気がした。だけど、今はもう。聞こえない。




