71話
パリ一五区にあるポルト・ドゥ・ベルサイユ駅から、徒歩で一〇分ほどの場所に、その男性のアパートは存在する。ピアノ可の防音を備えた、約四五平米の2K。防音といっても、しっかりしたものではないので、深夜は禁止だったり、大家の許可が必要なところも多い。
「お二人とも、よろしくお願いいたします」
その男性、ディディエ・サンティニはとても慇懃に挨拶をした。ピアノが置いてある部屋は、共鳴雑音を最小限に抑えるよう、かなりシンプル。壁際に机とイスが二脚あるのみ。温度や湿度も一定に保たれており、さすがプロというところ。
「どーぞよろしく」
「よろしくお願いいたします。急な増員を認めていただき、ありがとうございます」
まだ完全にエンジンがかかりきらないのか、サロメはかなりテンションが低い。必要最低限の省エネモードで動くが、気持ちが逸るジェイドは、そのぶん機敏に動く。
パリッとした糊のきいたシャツに、スラックスのディディエを一瞥し、「オペラ歌手って家でもキッチリした服着てんのね」と、サロメは内心で感心する。寮とはいえ、自分は来客があってもパジャマ。
「いえいえ。では早速ですが、こちらになります」
そう、ディディエが紹介したのは、プレイエルのフォルテピアノ。現在の八八鍵盤と違い、八二と六つ少ない。たまたま売りに出されたのを見つけ、迷うことなく購入したとのこと。
最初にサロメとジェイドが抱いた感想は『木』。現代ピアノは鋳物などの金属質な印象を受けるゴツさがあるが、このピアノは風が吹けば飛んでいきそうなほどに『木』。弦を打つハンマーも、羊毛ではなく鹿の皮。譜面台も、折れるのではと心配になるくらいに華奢だ。
サロメはともかく、ジェイドには本当にピアノなのか、と目を疑うほどに違和感を覚えた。もちろん形は似ているのだから、ピアノかと問われればピアノなのだが、そう錯覚してしまうほどに受ける印象が違う。
鍵盤を押すとハンマーが弦を打ち、音が鳴る。この機構をアクションというが、現在のピアノのように、ハンマーが一度完全に戻らずとも、再度打てる『ダブルエスケープメントアクション』ではなく、戻らないと打てない『シングルエスケープメントアクション』。外見もだが、中身もかなり異なる。
顎に手を置き、じっくりと鑑査したサロメは、見学だけと言っていたジェイドを促す。
「あんた、ピアノ弾ける?」
問われ、ジェイドはピクっと反応する。私? なにもしなくていいって言ってなかったっけ?
「メヌエットくらいなら……でも上手くないよ」
なんせ、習ったわけでもなく、遊びで小さい頃に練習した程度。簡単な曲ではあるが、それをさらに初心者向けに簡単にしたほどの難易度。プロの前で弾くのは気が引ける。ピアノの、ではないとはいえ。




