70話
「だって伝えようとしたら、サロメちゃん寝たフリしちゃうし……でも、いけるでしょ?」
性格はこうだとしても、ロジェはサロメの実力を完全に信用している。この店でその調律ができるのは、彼女かレダのみ。で、レダはいつものようにいない。消去法で決まる。
ゆっくりとうなだれながら、サロメはジェイドを恨む。
「……はぁ、あんたのせいだからね」
テーブルに資料を置き、最初のようにソファーに寝転がった。
不思議な空気を悟ったジェイドは、部外者だがいいのかなという気後れはありつつも、その資料を読んでみる。わからない単語が続くが、気になるものが。
「……これ? フォルテピアノ? なんだい、それは? ベートーヴェンの曲のこと?」
手持ち無沙汰になったロジェが、その解説を買って出る。
「別名、ハンマークラヴィーア。モーツァルトやベートーヴェンの時代に使われだした、昔のピアノってところかな。今のと違って、この音がまたいい味を出して——」
「あーもう。なかなかないわよ。しかも、相手はプロの音楽家。オペラ歌手。いやはや、とんでもないもの引いちゃったわ」
やっぱ帰ろうかな、と全てを投げ出そうとするサロメだが、約束してしまった手前、仕方なしにやる気を絞り出す。なかなかその雫は落ちてこないが。
「歌手? 歌手なのにピアノ?」
色々と情報が明かされると、さらに気になることが増えるジェイドは、なにかを充電しているかのように唸るサロメではなく、やはり店長だったロジェに聞き返す。
「結構多いんだよ、歌手の人はなにかしら楽器をやっていることが。もちろん、それ一本て人もいるけど」
実際、プロの音楽家は、本職の楽器などとプラスしてピアノ、という人は多い。それだけ親しまれている楽器ということもあるが、小さい頃に習うピアノから、音楽の道に進み出す人が多いからだ。
「よかったじゃないの。ジェイド、だっけ? ついてきて。じゃ、店長行ってくるわ。ごちそうさま」
一気にエスプレッソを飲み干し、サロメは立ち上がる。制服が若干シワになってしまったが、気にしない。
「え、一緒に行くの? 大丈夫?」
いつもだれかと一緒に行くことを嫌う彼女が、全くの素人を連れていくということに、ロジェは違和感を感じる。ジェイドを見ると、頷いて首肯する。
「すみません、突然お邪魔して。ご迷惑はかけませんので、ぜひ同行させてください」
労働の契約をしているわけではないので、お金を出すことはできないが、問題はないらしい。ロジェも同意する。
「ま、まぁ本人がいいならいいけど……」
それを聞き、とりあえずの許可に安堵しつつ、ジェイドも支度を開始する。とは言っても、特に持っていくものはないが。
「ありがとうございます。ごちそうさまでした。あ、あとこれ。みなさんで」
と、カバンから店で新しくこの秋発売した、三〇個入りのアソートタイプのショコラを手渡した。
「あらら。ご丁寧にどうもありがとう」
受け取り、ロジェはカップと一緒に台所へ。
それを見送り、やっと動けるだけの気力が回復したサロメは、自分用の道具入りキャリーケースをジェイドに預ける。
「はい、じゃ荷物持って。よろしくー」
フランスの老舗ブランド、デルセーのシャトレエアー。白を基調としたカラーと、機能性を重視したハードタイプのキャリー。それをガラガラと転がしながら、スタスタと前を歩くサロメにジェイドはついていく。
(さて、本人は否定しているけど、世界最高の才能と呼ばれるものが、どれほどのものか。ま、ピアノのことはよくわかんないけど)
胸が高鳴る。なにも収穫がなかったとしても。行動そのものに意味がある。そんな予感が。




