276話
意図の読めない笑みを浮かべながらジェイドも同意する。
「それを言ったら私もだ。ロシュディ・チェカルディでもクルト・シェーネマンでも、その他の名のあるショコラティエでもなく、ただのいち学生であるジェイド・カスターニュ。目的は不明だ。だがそんなことはどうでもいい」
「あんたはそうでしょうね」
いや、自分もそうなんだけど。そう思ってたんだけど。どうやら思ってた以上に臆病な部分があることを、この時オードは認識した。
口ではカルトナージュを広めたい、自分を知ってもらいたいと言っておきながら、いざそのチャンスが巡ってくると尻込みしてしまう。実はひっそりと「いや、実力はあるんだけどチャンスがなかったのよね」なんて言い訳しながら、余生を過ごすことを夢見ていたのかもしれない。そうすれば失敗せずに済むから。
もちろん、誘った側のジェイドとしても、両手を広げて歓迎している話ではない。なにか裏がある。でなければ自分に声がかかるはずなんてないのだから。だが。それでも。
「アメリカの心理学者、アブラハム・マズローは言った。『どんな時も選択肢は二つある。成長に向かって一歩前進するか、安寧のために一歩後退するか』。どっちも間違いじゃないし、オードの気持ちもわかる。急すぎたね。いい返事を期待してるよ」
それだけ残して街に消えていく。その足取りは重く、まるで流れの早い水の中を歩いているような。抵抗感のある粘り気。精神的なもの。
目を細めてその背中を追うオード。オカルト的なものは信じないけど。変なオーラが見える。かもしれしない。
「……なんかあいつ、焦ってない?」
そんな予感がする。いや、あいつに関わるといつも良い予感なんてないんだけど。今回はそう、なにかのターニングポイント。そんな。喜べない未来の。




