242話
「私はあまりお役には立てなかったかもしれませんが、素敵なショコラを作れることを期待しています。では、アニーさんのところに戻りますので私はこれで」
そう残してユリアーネは去っていった。本来は進捗状況だけを軽く話す程度だけの予定だった。が、すっかりリラックスしてしまった。心地よい時間。
閉められたドアの音。いつもよりジェイドの耳に残る。ひとり、になってしまった。元からひとり部屋。いつも通りのはず。なのに。
「……」
部屋が広く感じる。下の使っていない二段ベッドと。壁に沿って机と。いつも通り。いつも通りの静かな三五平米。
「……コーヒー、って奥が深いんだね」
キッチンでシンクにカップを片付ける。お近づきの記念に、と置いていってくれたリムコーヒーの豆。はたして、同じように淹れることができるのだろうか。難しいことはなにもやっていなかったように思えるけど。
「卒業したら、ベルリンに行ってカフェをやるってのも悪くない。あの二人となら毎日楽しそうだ」
誘われてしまった。フランス語よりドイツ語のほうが話しやすいし。北欧のテーブルウェアも見てみたい。アニーの紅茶も。ユリアーネのコーヒーも。ビロルさんという方の作る料理も。どれも魅力的だ。
「私は、この先どう生きていけばいいのだろう?」
ショコラティエールとして。フランスにいる理由ってなんだ? 〈ヴァルト〉に行ったとしても、ショコラの勉強はできるし、クルト・シェーネマンに師事することができるかもしれない。いや、ウチのオーナーもすごい人だけど。
でももし、将来を見据えたとして、私の欲しいものはそこで全て手に入るのか?
「……」
そうじゃないだろう。
私にとっては。
オード・シュヴァリエの作り出すカルトナージュにショコラを詰めることこそが。
「……」
『愛』ってなんだろう? 『愛』ってなんだ? それが『愛』だなんて、誰が決めることなんだ?
形のないもの。死ぬ時に人は二一グラム、体重が減ると映画でやっていた。魂の重さ。なら『愛』の重さは? 重い『愛』ってなんなんだ?
目を閉じると浮かぶのは映画のラスト。ガレージを閉めるジャック。音楽はオクターブの一二音、その繰り返し。どんな曲も。悲しみを乗り越えることなく歌うアリー。
《胸の炎も燃やしたくない》
《あなた以外に》
アイル・ネヴァー・ラヴ・アゲイン。そして、全編を通して初めてアリーの目線が我々に向けられる。
乗り越えなくていい悲しみがあるのであれば。向き合わなくていい『愛』や、全てを受け入れられない『愛』もあって。誰からも祝福されない本物の『愛』も、祝福される偽りの『愛』も。
でもそれは、正しいとか間違っているとかというわけでもなくて。お互いでも違う形の『愛』が存在して。棘棘しいものもあれば、苦いものも、ブヨブヨと柔らかいものも、金属音のものも、バラの香りのするものもあるかもしれない。
『愛』は、愛でしかない。
アイル・ネヴァー・ラヴ・アゲイン。この曲は本当はジャック視点の歌詞。だが、アリーはあえて、ジャックの作詞した歌詞とは変えて歌っている。
《新しい日々が始まっても》
乗り越えないまま、生き続けることを決めたアリー。
そんな愛が、あってもいい。




