240話
キッチンで立ったまま。淹れたてのコーヒーをジェイドは楽しむ。
「ありがとう。いただくよ」
この今の雰囲気だけでも、たまにはハンドドリップでやってみようか、と思考が変換される気がする。なんだか不思議な感じだ。
ケトルのお湯にまだ余裕はある。ほんの少しだけユリアーネは持ち上げて残量を確認。
「もし濃いと感じたらお湯を足す、いわゆるバイパスがオススメです。コーヒーは鮮度が命ですが、濃度も命ですから」
二つ、と言わずにコーヒーにはいくつも命がある。先のように注ぐ回数でも味は変わる。蒸らす時間でも変わる。温度でも変わる。使うフィルターでも、豆の量でも当然。むしろ、全く同じコーヒーなど、二度と作ることなどできない。一期一会のようなもの。
お湯を足すことをバイパスと言うのか、とまた知識の増えたジェイド。今までは『追加』とか呼んでいたかもしれない。
「……うん、スッキリとしつつも酸味もあり、甘すぎない。とても美味しいよ」
豆がいい、とかそんな理由だけではない。しっかりと丁寧に淹れるとコーヒーはそのぶん応えてくれる。今まで飲んだ中で一番と言っていいかもしれないほどに美味。もうちょっと店で淹れる時もマニュアルすぎないほうがいいのかもしれない。
そして無数にあるコーヒーの淹れ方の中でも、今回ユリアーネがこの方法を選んだ理由。
「より後味が広がるのがこちらです。きっと、今のジェイドさんには軽いほうがより美味しく感じられると思いまして」
重く詰め込みすぎた脳と心。臓器と感情は密接にリンクしている、いわゆる『五志』と呼ばれるもの。気の乱れは舌も乱す。それを一度、香りと味でリセット。コーヒーという媒体を使った際の解答が、リムコーヒーのライトボディ。
……そこまで考えて。その引き出しの多さと、相手を読み解く目。素直にジェイドは「はっはっは」笑声を起こして感服する。
「……いやー、負けだよ。本気でパリに残らないかい? 店長には私から掛け合おう」
と白旗を上げつつもうひと口。まさに文字通り五臓六腑に染み渡る。フィルターコーヒーでもこんなにも味が違うのか、という感想が吐息と共に漏れる。
いつの間にか勝敗が関わっていたことに戸惑うユリアーネだが、なんだかアニーに近い雰囲気を感じて穏やかになる。
「……勝ち負けの基準がわかりません……それと、そう言っていただけるのはありがたいですが、私もアニーさんも〈ヴァルト〉を辞めるわけにはいきませんから」
「というと?」
割と本気で店に来てくれたらジェイドとしては嬉しいところ。ワンディも喜ぶのは目に見えている。モンフェルナに編入してくれたらなぁ。




