232話
モンフェルナ学園寮。すでに夜も深まり、外に出るのも勇気がいる時間。
「さて……考えることが山積みだ」
唸るジェイド。コの字に設計され、上にも下にもたくさんの棚を設えたキッチン。背後の窓からは、せめてパリの夜景でも見えたら気晴らしになるのに。
やりたいことはたくさんある。やらなければならないこともたくさんある。だがどれから手をつけたらいいのかわからない。どんなふうに手をつけたらいいのかわからない。なにを表現したいのか。なにを表現するべきなのか。そんな時は。
「そんな時はどうするんですか?」
ひょいっと隣室から顔を出してきたユリアーネ。アルバイトも終わり、ショコラーデとコーヒーについて話したいと思い訪ねてみた。アニーは他の人に呼ばれてどこかへ。
顎に手を当てて思考の波に呑まれていたジェイドだったが、その可愛らしい仕草にほっこりする。それを無意識にやっているのだから恐れ入る。
「考えても出てこない時は、全く違うものを作る。ノエルも近いし、ブッシュドノエルなんかいいかもね」
他にはランニングしてみたり。腕立て伏せとか、誰かに電話してみるのもいいかもしれない。ショコラのことを一旦忘れて。そういえばサッカーでペナルティキックを蹴る時、逆側のゴールを見ると、今から蹴るほうのゴールが大きく見える、というおまじないをしている人もいた気がする。それに近い。
「ブッシュドノエル……ですか」
表情を変えずに脳内でユリアーネは形成する。薪の形をしたケーキ。想像すると涎が生まれる。
道具はある。難しくもない。凝り固まったジェイドの頭をリセットするには、ちょうどいい程度のやりごたえ。
「〈ヴァルト〉では出す予定はない? どちらかといえばシュトーレン?」
こちらは真っ白なドイツの伝統菓子。洋酒に漬け込んだフルーツだったり、砂糖でがっちりコーティングするので一週間以上は日持ちする、というより、そこからが食べ頃。
メニューの多くは自身も改良に関わっているユリアーネ。今頃店はどうなっているのだろう、と気になり出してきた。
「シュトーレンもそうですが、トルテやバニラキプフェルなどもすでにメニューにはありますね。なんだかんだでみなさん好きですから、季節のお祭り」
こちらもドイツ語圏ではメジャーなケーキと、三日月型のクッキー。クリスマスに近づくにつれて、少しずつシナモンの味わいのものが増えてくる。長年住むと、この香りで冬を感じるほど。
どれもこれもショコラを加えてより美味しくなる。ジェイドの頭の中はそればかり。
「お祭り、ねぇ……」
どこか頼りなさを感じる語尾。なんとなく焦りが生まれる。なんの?
窓から暗闇を見つめるユリアーネ。答えのない答えを探すよう。
「ジェイドさんは季節関係なく、人間の奥深くにあるものがテーマですからね」
「テーマ?」
なんだっけ? それ? 瞬きが格段に多くなるジェイド。小麦粉を開けようとした手が止まる。
ジトっと湿った目つきのままユリアーネは振り返る。
「『愛』ですよね。それをカルトナージュと組み合わせてひとつの作品にすると」
自分で言っていたのに。なんだかこの抜け具合。アニーに似ている気がする。
手を叩いてジェイドは思い出す。一瞬でレディー・ガガが開いた手の中から誕生。生肉を纏っていたやつ。
「……そういえばそうだったね。それで『愛』ってなんだと思う?」
これは宿題として出していたやつ。自分はお手上げ。
そしてそれはユリアーネも結局、しっくりとくる解答には至らず。
「……抽象的すぎてなんとも。好き、だったり。大事にしたいと想う気持ち」
きっとそういうものなのだろう。コーヒーで例えるなら、ロブスタ種を使うベトナムのヨーグルトコーヒーのような。苦味と酸味、甘味を同時に味わえる贅沢な一品。もし自分がそのテーマの注文を受けたら、これを出す予定。
模範的で実直な、一本の芯が通った清らかさ。それが『愛』なのであればジェイドにもそれだけよかったか。
「でもなんだろうね。全く頭に降りてこないというか、太古から存在しすぎているのかな。新鮮味が自分の中で湧いてこないんだ。それにね。そんなシンプルで深いものを、小麦粉やカカオで表せるのかな、って」
綺麗なものも。醜いものも。甘いものも、酸っぱいものも、痛いのもむず痒いのも嬉しいのも寝込んでしまいたくなるものも。全てひっくるめてなにかひとつに凝縮できたら。
ワードの中でユリアーネが気になった部分が。ちょっとだけ引っかかる。
「新鮮味……必要なんでしょうか」
ドイツもそうだが、フランスも完全な新作よりも、伝統的な味を守ることがどちらかといえば重視されている風潮がある。変わり映えはしないが、いつでも食べられるという安心感。そこにほんの少しだけアレンジ。
言いたいことはジェイドにもわからないことはない。その考えには賛同だから。しかし。
「ユリアーネはさ、美術館とか行く?」
突然話題変更。なんだか思いついちゃったので。
細めた目でユリアーネは訝しむ。
「いえ、あまり……有名な画家とか美術品なら、本で読んだことはある……程度でしょうか」
というか、なんの話? 美術館にショコラーデが展示されているのだろうか。




