108話
「ルイーズ=マリー・ド・フランス。別名、マダムルイーズだ」
「え、マリー・アントワネットじゃないの?」
マスターの仰天の答えに、静かな店内でギャスパーは一際大きな声を出してしまった。多少の気まずさを感じる。
ソファーに深く腰掛け、マスターは悪どい笑みをギャスパーに向けた。
「その反応だと、『角砂糖にショコラを染み込ませたものを、なぜマリーと名付けるか』『そこから読み取れる想い』とかが本当の聞き方だったんじゃないかな」
全てお見通し。鋭い刃物を突きつけられたような、生きた心地がしないギャスパーは、上擦った声で降参する。
「う、ま、まぁね。詳しく説明もらっていい?」
このじいさんに嘘をつくのはやめておこう、と肝に銘ずる。
テーブルに備え付けの角砂糖をひとつ取り出したマスターは、手のひらに乗せた。
「本当は、グランド・シャルトルーズっていう修道院で飲まれている方法なんだけど、スプーンに砂糖と酒を浸して飲む、っていう風にされててね」
そこにコーヒーを一滴垂らす。じわっと染み込み、その部分の色が変わる。
「酒? ショコラじゃなくて?」
さらにギャスパーはわからなくなってきた。伝え方が遠回りすぎて、スッと入ってこない。
首肯したマスターが携帯を操作する。先ほどの教え子とのメッセージを下にスクロール。詳しい説明も書いてくれていた。
「そう。『植物の霊薬』という意味なんだけど、修道院の三人だけが、代々受け継がれて製造法を伝授される酒。それが——」
そして、画面を戸惑うギャスパーに見せる。
「『エリキシル・ヴェジタル』」
そこには、同じ単語が書かれていた。つまりこのメッセージ主は、たったあれだけの情報で、ここまでたどり着いたことになる。
ゾクっという衝撃が、ギャスパーに走る。
「……この子、一体何者……?」
いや、このじいさんもだけど。ドイツ人怖い。
「キミにあげたヴァイオリン。彼女のものだからね、本当は」
数日前、必要ないからとギャスパーに譲渡された、それまで行方がわからなくなっていた、とある高価なヴァイオリン。その元々の持ち主も彼女だと、マスターは教える。ポン、と人にそんなものをあげてしまうくらいには変わった少女。
「それはそれは。感謝しなくちゃいけないね」
非売品の香水でもあげようか、とギャスパーは画策する。全然価値が釣り合わないけど。でも他にあげられるものないし。
楽勝でした、とマスターは勝ち誇る。
「酒に関してドイツ人に勝とう、と思うのが間違い」
なんせ水より安い国。世界で三本の指に入るビール消費国。
完全に負けだが、認めるのが悔しいギャスパーは、負け惜しみを言い始める。
「別に勝とうとは思ってないけど。酒ってわかんなかったし。で、『女王』ってのは?」
早々に話題を切り替え、さらに真相の深くへ。まだ自分だけは解決できていないものがある。納得のいく答えを出してもらおう。
それに対する解答も、もちろんマスターは準備してある。
「実はエリキシル・ヴェジタルは、昔の木箱とは違ってきていてね。少しずつ変化していってるんだ。おそらく味も。人によって舌は違うからね。ただ、なにひとつ変わらず受け継がれてきているものがある」
「受け継がれているもの?」
まさか、ショコラの染み込んだ角砂糖にここまで意味があるとは、とギャスパーは少し疲れてきた。もっとシンプルに味わいたい。
コーヒーを飲み干し、マスターは最後の締めくくりのために喉を潤した。
「実はエリキシル・ヴェジタルにも別名があってね」
「別名?」
さっきから疑問ばっかりだな、とギャスパーは自分にダメ出しする。全然頭使ってない人みたいじゃん、と。
マスターは笑みを浮かべて、最後の疑問に答える。
「そう、それは——」




