第1部(全部で3部構成です)
第1部
第1章 マモル
五月なのにどんよりとくもった空。いまにも雨が落ちてきそうだ。
外で遊ぶのが大好きな少年マモルも、この天気では気分がのらず家にこもっている。妹のルミとお母さんと三人で一階の食堂にいた。マモルはため息をつきながらテーブルに今日の宿題をひろげている。
「ねえねえ、マモルおにいちゃん。おにいちゃんてシュクダイ好きなんだねえ」
「ルミ! なにいってんだい。ぼく、宿題なんて好きじゃないよ」
「だって毎日やってるもん」
「あのね、新しい先生がね、毎日宿題だすからやってんの。わかる?」
「うん、ルミわかるよ。センセイもシュクダイ好きなんだねえ」
「うう……」
マモルは頭をかいた。まだ幼稚園にも行ってない妹のルミちゃんにどう説明すれば小学五年生のこのつらさがわかってもらえるのか。となりのクラスなんかほとんど宿題はでないというのに、ああ。
「ルミ、おにいちゃんのお勉強のじゃまをしてはだめよ」
お母さんが助けてくれた。
「それにしてもマモル、勉強部屋よりこの食卓のほうが宿題やりやすいの? 最近ここで宿題やること多いよね」
「そりゃあ、お母さんが物知りだから。きょうもむつかしいとこ多くてさ」
「あらあら。おほめにあずかって光栄だけど、四年生まではお母さんなんかにきかずに友だちとやってたじゃない?」
「だからあ、友だちはみんな別のクラスになっちゃったの。新しいクラスじゃまだあんまし友だちできてないし・・・」
お皿洗いの手をとめて、お母さんは食卓のいすにすわった。
「ごめんごめんマモル。そうだったわね。さあ、いいわよ。なんでもきいてちょうだい。あ、ルミはおやつ食べましょうね」
「うん、ルミおやつする。おにいちゃんはシュクダイ。ねえ、たのしいね」
「ちぇ、たのしい宿題か。あーあ、ルミはいいなあ」
ルミにおやつをあげながらお母さんがきいた。
「きょうはなんの宿題? また算数?」
「きょうはね、理科と社会のミックス。サバクの問題」
「サバクって、アフリカとかにある、あの砂漠のこと?」
「そうそう。ではここで問題です。問題その一『サバクでは昼と夜の温度差がとてもはげしいですが、それは何度くらいでしょう?』つづけて二番です。『バクでも氷がつくれますか? つくれるならばその方法は?』以上です」
「ええ? そんなのむずかしすぎるわ」
「でしょでしょう? こんなのどうやって調べるの? あー、ネットで調べるのはダメだって」
「なんでダメなの? ああ、お父さんにきいてみないとね」
「え? お父さん、きょうは早く帰ってくるの?」
「あ、ごめん、きょうは残業って言ってたわ。きょうも遅くなるわね」
マモルはふうっとため息をついた。
いつごろからだったろうか、マモルのお父さんは銀行の仕事が忙しくなったとかでちかごろでは遅く帰るのあたりまえみたいになっていた。
「あら、雨の音?」
ポツン、ポツンと雨つぶが食堂の窓ガラスにうちつけている。
「やっぱり雨だわ。洗たくもの入れなくちゃ! ルミ、おにいちゃんとまっててね。きょうは降らないって予報で言ってたのに。まさかもう梅雨入りしたんじゃないでしょうね」
「ぼく手伝うよ」
「マモルはルミをみてて」
「うん、わかった」
マモルは妹のルミをつれて二階のこども部屋に行った。ルミとマモルの部屋だ。本棚からマモルは百科事典をとりだして砂漠のページをさがした。でも砂漠の昼夜の温度差は数十度くらいと書いてあるだけではっきりしない。しかも氷の作り方なんてどこにも書いてなかった。
(ああもう、前のクラスならすぐに電話できちゃう友だちがたくさんいたのになあ。今のクラスはまだ仲良しもいないし、毎日宿題ばっかだし、今のクラスこそサバクだよ)
心の中でこうぼやきつつ、しかたなくルミの遊び相手になってやった。そのうちお母さんがやってきてルミをお風呂に入れて、次にマモルがお風呂に入り、三人で夕食を食べた。お父さんはまだ帰ってこない。いよいよマモルはたったひとりで砂漠の宿題に立ち向かわなくてはならなかった。
九重守、五年生になったばかりの小学生。勉強よりは運動が好きだけど特に体育ができるわけでもない。ピアノがひけるとか泳ぐのがめちゃはやいとか特技があって目立つわけでもない男の子・・・のはずだった。この雨の夜に、あの夢を見るまでは。
第2章 サバクのヘンな男の子
お父さんが帰るまでがんばって起きていようと一度は思ったマモルだったが、そのうちになんだかバカらしくなってきてまったくいいかげんな答えを宿題に書きなぐってからさっさとふとんに入ってしまった。となりのふとんでは妹のルミがとっくに楽しそうに寝ている。
お父さんいつ帰ってくるのかな、と思いつつ目をつむると下の階から台所の水の音がかすかに聞こえてくる。お母さんお皿あらいかな、それとも何かあしたのしたくでもしているのかな、いや、それともこれって雨の音なのかな・・・マモルはいつしか寝息をたてていた。
しかし、どういうわけかマモルは眠った気がしなかった。いや、それどころか走っていた!
「なんだ、ここは? 砂だらけじゃないか」
いけどもいけども砂しかない、でもやたらと広い場所をマモルは走っていた。
それにどうしてこんなに暑いのか。
「水、水はどこだ! こんだけ走ったのになんにもない」
ほんとにオアシスなんてものがサバクにあるのだろうか。もうあんまり暑すぎて体もからからにかわきすぎて汗の一滴も出てきやしない。足にも力が入らなくなってきた。
「もう、だめだ・・・」
そう思ったとき、はるか向こうに緑色の何かが見えた。よく見るとオアシスだった。最後の力を出しきってオアシスの緑の木にたどりつくと、そこには泉があった。水はいかにも澄んでいて、それはもうこのうえなくおいしそうだった。
「やった!」
マモルは泉に顔をつっこんでガブガブ水を飲みだした。
「へえ、よく飲むなあ。まるでカバみたいだ」
頭の上でふいに声がした。びっくりしたマモルは泉から顔をあげた。すると目の前には男の子が立っていて、マモルのことをジィっと見つめている。
「きみ、だれ?」
「ユー君だよ。おじさんこそ、だれ?」
おじさん? おじさんってだれだ? まさかぼくがおじさん?
「あっ!」
鏡のように澄んだ泉にうつった自分の姿を見てマモルはおどろいた。
「これ、ぼくなのか?」
自分の手足を動かすと泉の中の姿もそのとおりに手足を動かすのでこれはたしかに自分にちがいない。でも、なんて手足が長いんだ。これではまるでおとなじゃないか。それにこの顔! どう見てもおとなの若者の顔つきじゃないか。二十歳くらいか? いや、二十五歳くらいか? おまけにこの服はなんだ、半そでのサファリ服っていうやつだっけ、アクション映画でよく見るあの服だな。
ん? そりゃそうか、いまぼくはサバクの冒険をしているんだからあたりまえの服装か。
「そうだよ、そういえばそうだった」
マモルはやっと思い出した。 きょうは待ちに待ったサバク大探検の出発日だったじゃないか。長いあいだ計画してきて何十人もの探検隊をやっとそろえて、いざ出発というときになっていきなりもうれつな砂嵐におそわれて仲間とはぐれてしまい途方にくれていたところだった。じっとしていても助けが来なかったので歩き始めたはよかったが、水もなんにもなくていきだおれになる寸前まできていたんだった。
だけど、この男の子はいったいなんだ? やはり何かのアクシデントで家族とはなればなれになった迷子だろうか。それならばこの子を助けあげなければ。
「ねえ、きみも飲んでみないかい? この水はだいじょうぶだし、それにとってもおいしいんだ」
マモルは声をかけてみた。
「時間がない。ああ、時間がないんだ! 水がなんだっていうんだ。時間がないんだぞ!」
男の子ははきすてるようにこう言いながら、怒ったように泉のほとりをせわしなく行ったり来たりし始めた。
グレーの半ズボンに青いシャツ、そこに真っ赤な蝶ネクタイというしゃれた服装をした男の子はとってもイライラしているようだった。
「きみ、どうしたんだい。ユー君だっけ? この水は安全だからさ、飲んでごらんったら」
「水なんかより時間だって言ってるだろ。耳がないのか、おじさん」
「おじさんはないだろ。これでもまだ二十代だぜ。せめて、おにいさんと呼んでほしいな」
「ふん、じゃあ、おにいさん。水のむ時間なんてないんだよ、急ぐんだからな!」
「急ぐって、どうして?」
「どうしてだと? きまっとる! 時は金なり。タイム イズ マネーじゃないか! 常識じゃろ! ああ、早く、早くやらなきゃ!」
「だから、早くやるって、いったい何をやるのさ?」
「何でもいい! 何でもいいからとにかくかたっぱしからさっさと手早くかたづけるんじゃあ! ほれほれほれ!」
つめをかみながら熱い砂の上をグルグル歩きまわるユー君の姿をマモル青年はあっけにとられながら見つめた。
「へえ、きみは子どもなのにずいぶんと忙しそうなんだねえ」
「子どもだろうとおとなだろうと一日は二十四時間しかないじゃろが! ああ暑い、ああ忙しい」
ユー君はますますせっかちに歩きだした。
「それはちがうよ。だって、子どもたちは特別な時計を持っているんだもの」
ユー君はピタリと立ちどまった。
「なんじゃと? 今なんと申された?」
「申されたって、ユー君はさ、やけにおとなじみた話しかたをするんだねえ」
「そんなことは聞いとらん! あんた今いったじゃろう、子どもの時計って。それはなんじゃ?」
マモルは答えにつまった。たしかに自分でたった今しゃべった言葉なのに、なぜかマモル青年はその説明がすぐには思いつかなかった。
「どういう意味なんだ、子どもの時計って。答えるんじゃ! さあ早く!
時間がないんじゃから!」
問いつめられてマモル青年にはサバクの砂が急に熱くて熱くてたまらなくなった。気がつくと泉もオアシスも消えている。熱風がうずを巻きマモル青年は苦しくなりハアハアと息をきらした。目の前ではあの男の子がますますおとなびた口調でわめきたてているが、それもだんだんと遠くに聞こえてくるようだった。なんだこの子は? いや、ほんとに子どもなのか?
だが、ともかく答えなくてはいけない。だって自分で話したことなんだから。
けれども『子どもの特別な時計』とは何なのか? 子どもだけの時計だって? それはなんだ? そもそもなぜ子どもの?
ビクっと身ぶるいしてマモルは目をさました。
あたりを見るとまだ暗い。サバクもオアシスもない。ただ自分のおでこに何か温かくやわらかいものがのっかっている。なあんだ、妹のルミの手じゃないか。よく見ればそこは自分の部屋だった。マモルはルミの手をふとんの中にもどしてやった。ルミは寝がえりをうっておだやかな寝息をたてている。
「ふう。あの男の子、ほんとヘンな子だったなあ。なんでこんな夢みたんだろう。あ、そうか、サバクの宿題のせいだな。ったく、やんなっちゃう」
いま何時だろう。廊下のむこうのほうから話し声が聞こえてくる。
「ああ、お父さん帰ってきたんだな。サバクの宿題・・・きかなく・・・ちゃ・・・」
マモルの目はまたゆっくりと閉じていった。
第3章 夢博物館
「おはようマモル、おはようルミ。じゃあいってくるよ」
お父さんが言った。朝の光がさしこむ玄関先でスーツ姿のお父さんがあわただしく革ぐつをはいている。雨はすっかりあがっていた。
起きたばかりのマモルは二階からおりながら言う。
「あれえ、お父さん、もう会社へ行くの? 朝ごはんは?」
「うん、ちょっと忙しくてね。さきに朝食すませたんだ。ごめんな」
忙しい! この言葉でマモルはついさっき見たばかりの夢のことを思い出した。
「そうだ。お父さん、お父さん!」
マモルが強く呼びかけたので、ちょっぴりおどろいた様子でお父さんはふりかえった。
「なんだい、マモル?」
「あのさ、子どもの時計ってさ、おとなの時計とちがうの?」
「え?」
「子どもは特別な時計をもってるの? お父さんたちの時計とはちがうの?」
こうききながら、言ってるマモル本人が、やっぱこれって変な質問だよな、きいちゃってなんだかはずかしいや、と思ってしまい口をつぐんだ。
ところがどうしたわけか、お父さんは半分ひらきかけていたドアを閉め、だまって考えこんでしまった。
お母さんがやってきた。
「あなた、どうしたの。きょうは急ぐんでしょ?」
「あ、そうだそうだ。うん、マモル、なかなかおもしろい質問だけど、答えるのは今夜でいいかい? 時間がなくて、ほんとすまんな。じゃ」
時間がない! これも夢の中で聞いた言葉だ。マモルはまたしてもお父さんに何か話しかけたくなった。でもお父さんはもうかけ足で外へとび出していったあとだった。
「マモル、今のは何の話?」
腕組みしたお母さんがきいた。
「それも宿題なのかしら?」
「え、ちがうけど・・・」
「砂漠の問題はちゃんときいたの?」
マモルはハッとして急に目がさめた気がした。
「いっけねえ、聞き忘れた! おれのバカバカバカ!」
両手で自分の頭をピシャピシャたたきながら、「おれなんて言うんじゃないの」
というお母さんの言葉きいたときには夢の話などすっかりどこかへ行ってしまっていた。
学校へついたころにはみごとなくらいの晴天で、こんなときには前のクラスの友だちともいっぱい遊べるので、夢の話などマモルは一回も思い出さなかった。
次の日も、またその次の日もいい天気で、校庭で思いっきり遊びまくったマモルの頭の中には夢のことはまったく残っていなかった。
おまけにお父さんは毎日毎日かえりが遅くてマモルのほうが早く寝てしまうので、結局マモルはお父さんと玄関先で別れてからというもの一度も話すことができずじまいだった。
ついに夢の話はそれっきりになってしまった。
だが三日目の夜に雨が降った。連日の遊び疲れが出たのか、それともめずらしくこの日は宿題が出なくてホッとしたせいか、マモルはいつもより早くふとんにもぐりこんだ。
夜の風が吹きつける。雨戸の当たる雨の音がいつにもまして強く大きく響く。
そんな夜の音を聞きながらウトウトしかけていたマモルは急にドキッとして目の前を見あげた。
これはなんだ。いつの間にこんなものが出てきたんだ。このばかでっかい石の彫刻はなんなんだ。なんだってぼくはこんなおそろしいものの足もとに立ってるんだ。
「悪魔か、こいつは? うわ、一体じゃない。まわりはこいつだらけじゃないか。ほんとに彫刻だろうな、動きだしたりしないだろうな」
落ちつけ落ちつけと自分に言いきかせながらもう一度その彫刻を見てみると、それは悪魔ではなくて、どうやら天使の像らしいことがわかってきた。マモルにはだんだんとその天使像の正体がわかってきた。
「大きく広げたみごとな翼、手にかかげたたいまつ、そうかなるほど。これは天国を守る四大天使たちの像だな。こいつはだれだろう、天使ガブリエルかな?それでとなりがラファエルだろうか」
あれ? とマモルは思った。こんな聞いたこともない天使たちの名前をどうしてぼくは知っているんだろう?
「どうしてだって? 知っているのは当然だろう。だってぼくはもういいおとなで探検家なんだから。それも世界をまたにかけるベテラン冒険家だ。そんなぼくがこれくらいの知識を持っているのは当然すぎる話じゃないか」
そう思い出してマモルはすっかり納得した。
「うう、それにしても風がきついな。おまけにこの風の冷たさ!」
吹きつける冬の夜風にトレンチコートのえりを立てたマモル青年は、そのコートの下にしゃれた夜会服を着こんでいることを思い出した。
「急がないと舞踏会に遅れてしまうぞ。そんなことになったら今夜の会をしきる、あの太った公爵夫人がお怒りだ。なにしろぼくの極地探検の成功を祝ってくれる盛大な夜会なんだから」
舞踏会への招待を思い出したマモル青年は足早に歩きだす。しかし、その足はすぐに止まってしまった。
「いや、おかしい。公爵夫人の邸宅には何度も行っているのにこんな場所はおぼえがない。ここはいったいどこなんだ?」
すると後ろのほうから声が近づいてくる。
「おにいさん、まって、おにいさーん!」
どこかで聞いたような声だ。ふりかえると夜の闇の中、ほんのり明るい街灯に照らされた男の子がひとり走ってくる。暖かそうなハーフコートを着こんでえり巻きまでしているのにその子はなぜか半ズボンだ。だがその半ズボンには見おぼえがある。
どこで会ったんだっけ? とマモル青年が考えると同時に男の子はきいた。
「なあ、おにいさんや、例の子どもの時計はどうなった? まだ答えを聞いとらんよ。もしもそんな特別製の時計がほんとにあるならば確かめねばならん。なにしろわしのコレクションにそんなのはないんじゃから」
その愛らしい姿とはうらはらのやけにおとなびた口調が、マモル青年にあのサバクの記憶を呼び起こした。
「そうか。きみ、たしかユー君といったね? そうだろ?」
「そんなわかりきったことに時間をつかうんじゃない。時間がないと何度いえばわかるんじゃ!」
この前と同じでユー君はやけにせかせかとせわしない。
「ねえユー君。もし何かむずかしい疑問にでくわしたら、そのとききみはどうすればいいと思う?」
「ふん!」
ユー君は鼻をならしてみせた。
「本を調べるとか、人にきくとか、ネットをあさるとか、まあそんなとこじゃろう。言っとくがな、大図書館にはとっくに行ってみたぞ。わざわざ足をはこんでな。時間がないというのに、まったく!」
ますますイラつくユー君にマモル青年はやさしく語りかける。
「えらいぞユー君、よくひとりでがんばったね。でもそこまでやってもわからないときはどうしようか? ネットもだめ、本もだめ、図書館や学校の先生も
だめだったら?」
ユー君は顔をしかめた。
「なんかようわからんが、どうにも金のかかりそうな話になってきおったな。金だけじゃない、時間もうんとこさかかりそうじゃないか、え?」
不機嫌そうなユー君の前でマモル青年は両手をパっと広げてみせた。おどろいたユー君はビクリとして一歩うしろへさがった。しかしマモルの顔はキラキラと輝いていた。
「ミュージアムだ!」
わけわからんという顔でユー君はマモル青年をみつめた。
「ミュージアムだよ、ミュージアム! そこへ行ってみるのさ!」
「な、なんじゃい、それは?」
「ミュージアムはね、博物館とか美術館とか呼ばれる場所のことだよ」
「そ、そんなことくらい知っとる! それがなんだというんじゃ。図書館でいいではないか。それに図書館ならタダだがそんなとこへ行ったら金もけっこうかかるではないか!」
「とんでもない! ユー君、世の中にね、こんなに安あがりで役に立つところはほんとに珍しいくらいなんだよ。それに無料の有名ミュージアムだってたくさんあるし」
「ほお? そんなら行ってみてもいいか。で、どこにあるんじゃ、それは? さっそく連れていかんか。!」
自分で言ったはいいが、急にミュージアムに連れていけと言われてマモルはこまった。
「ほれほれほれ、はよせんかい! 時間がないんじゃ!」
そもそも自分は道に迷っていたのだし、どこかに道の案内板でもないかとマモル青年はキョロキョロとあたりを見まわした。
すると目の前の壁になにやらそれらしいものがかかっているではないか。
「えーと、あ! 夢博物館!」
気がつくとふたりは立派な大理石づくりの宮殿のように大きい建物の前に立っていた。
「え? いまなんて言った? 夢がどうとか」
「夢博物館だってさ、ユー君! どうやらここは何かのミュージアムだよ。そうか、それでこんなでかい天使像なんかが並んでいるんだ」
「なにをぶつぶつ言うとる? ミュージアムとやらはどうなった!」
イラつくユー君の手をサッと握ると、マモル青年はその力強い腕で男の子を大理石の階段へひっぱりあげた。
「な、なんじゃ、いきなり! はなせ、こら!」
「ここがミュージアムだよ、ユー君。さあ入ってみようよ!」
「頭おかしいのか! 時計の博物館とは書いてなかっただろ! 目的は時計なんだぞ!」
「いいんだよ。ミュージアムはね、どんなものでも思わぬことが見つかるすてきな場所なんだから」
「めちゃくちゃじゃ!」
十歳くらいの腕力では鍛えあげた探検家の腕力にはとても抵抗できない。ユー君もあきらめて階段をのぼっていった。
そのひんやりとした大理石の階段は一段の幅が何十メートルもあるような大階段で、その途中にはかがり火のスタンドがいくつも立ち並んでいる。ユー君とマモルたちは四方八方にふたりの影を投げかけながら進んでいく。
階段をのぼり終えるといよいよ入り口だったが、まだかがり火の列は続いていて、その列に沿って奇怪なけものや怪物のような背の高い石像がいくつも立ち並んでいる。それらの像たちは下からかがり火に照らされてゆらゆらとその表情を変えながらふたりを見おろしているかのようだった。
「こ、ここはお化け屋敷なのか!」
ユー君は怒っているように見えたが、ほんとは怖がっていた。ユー君をなだめようとマモル青年はやさしく話しかける。
「これはみな古代エジプトの神殿を守る神々の像だよ。古代からの人間の知恵のシンボルとして入り口に置いてあるんだよ、きっと」
またもや自分でも聞いたことがないはずの知識がすらすらと口をついて出てくる。どうしてこんなことができるんだろう。どうして? きまってる。それはぼくが経験豊かなおとなだからだ。マモルにはこうした状況がごく自然なことのように感じられてきた。それにいまは守ってあげるべきおさない男の子を連れているのだ、自分がしっかりしなくては、とマモル青年は思った。
「ユー君、初めて来たミュージアムの歩き方はね、まず案内パンフレットをゲットすることがスタートなんだ。えーと、パンフはどこかな・・・」
どこか闇の上のほうからひらひらと何かが落ちてきてマモル青年のたくましく幅の広い肩の上でとまった。
「ユー君、案内パンフレットだよ!」
そこには次のように書いてあった。
ご案内
夢博物館へようこそ!
この博物館では夢を展示しております。
遠い昔から現在にいたるまで
世界中で見られた夢という夢すべてが
この博物館ではご覧いただけます。
それではどうぞ ゆっくりご覧ください。
「ん? どうした、もっと先を読んでくれ」
パンフレットにはこれだけしか書いてなかった。
「なんじゃ、それだけかい! なんの役にもたたん!」
「うん……」
マモル青年は言葉につまった。正直言って、もう少し何か書いてほしかった。せめて各階フロアに何があるとか・・・
「いや、ユー君、きっと各階それぞれの展示室の前にくわしいパンフが置いてあるタイプのミュージアムなんだよ、たぶん」
「各階っていったって、いったいどこに階段やエレベーターがある? その地図もないんじゃ、こんなただっぴろいフロアのどこに階段があるのかもわからんじゃないか! まったく時間のむだじゃ、腹がたつ!」
「しっ、静かに。ミュージアムでは静かに見るというのがエチケットなんだよ」
「静かにというが他に誰がおるというんじゃ! わしらだけじゃないか! だいたいだね、夢の展示だっけ? 夢? はっ! そんなもの、どうやって集めるというんじゃ? 自分の夢ならまだしも、他人の夢も見せますよう、なんてうそにきまっとる!」
「まあ、そう言わずに。ためしに近くの部屋に入ってみようよ。せっかく来たのに何も見ないなんて、それこそ時間のむだじゃない?」
「う……ま、まあしかたないな。ひと部屋くらいつきあってやるわい」
ユー君がそう言ったとたん、まわりのかがり火がいっせいにその色を変えた。しかもそれぞれのかがり火がみな別々の色に燃えあがったのだ。
「うひー、なにごとじゃあ!」
「ああ、なんてきれいなんだ。見て見てユー君。黄色や赤色の火はすごく陽気じゃないか。あっちの緑やオレンヂの炎はとってもさわやかだね。あれ、ほら、あの奥の方、よく見ると紫や、えーと、銀色! 銀色の火が燃えているよ! こんな色の炎なんて初めて見るよ」
さらによく目をこらしてみると、ひとつの色のかがり火の背後に同じ色をしたドアがあるようだった。マモル青年はオレンヂ色の炎が気になったのでそちらへ行ってみた。ユー君は迷っているようだったあが、後ろをふりかえっても玄関の君悪い巨大神像しか見えないので、しかたなくあとをついて行った。
ドアはそれほど大きくはなかったが、やさしく迎え入れてくれるような、そんな感じがした。
「さあ、入ろうか」
ふたりは部屋へ入った。
「うわっ、まぶしい!」
かがり火だけがともる暗い廊下とはちがって、部屋の中は真昼のように明るい電灯で照らされていた。
「なあんだ、ふつうの絵の展示室ではないか」
ひょうしぬけしたようにユー君が言った。
「大きいのやらそうでもないのやらが壁いっぱいにかかっておるわい。それにしてもどこまであるんじゃ、この部屋は?」
その部屋が変わっているのは、奥の方がどこまでもどこまでも廊下のように続いていて、どこでそれが終わりになるのか見えないほど伸びていることだった。天井も高くて大きい絵もたくさん壁にかかっているが、とにかく部屋がどこまでも続いているにふたりはおどろいた。
「どこまで見れば終わりになるんじゃ? そんな時間はないというのに!」
「全部みなくてもいいじゃないか。まずは最初のを見てみようよ。ほら、こんなに大きいよ」
部屋の入口ちかくの最初の絵はとにかく大きかった。その絵の中では何人もの人たちが、おとなもこどもも女も男も牛も馬も犬までもが横向きになって楽しげに宙に浮いている。たいていはふたりで手をつないで浮いていて、みんなニコニコと幸せそうに絵の中を飛んでいる。家や草原もなんだかフワフワとして見えるし動物たちも楽しそうな表情でいる。そんな光景が何メートルも続くのだった。
色彩も明るいような暗いような昼のような夜のような、いかにも夢に見そうな、そんな色合い。マモルはひと目でこの絵を好きなり、見れば見るほどこの絵にひかれていった。そのうちなんとも言えないフワフワとした幸せな気持ちになっていき、こう思ってしまった。
「いいなあ、ここ。ぼくもこんな風景にまじってみたいなあ」
すると絵の中から風が吹いてきた。
え? と思ったマモルがもう一度その絵をよく見てみると・・・なんと! 絵の中の木々が、まるでアニメのようにユラユラと実際に風にゆれている。それどころか今度は楽しげに浮遊する恋人たちの笑いさざめくその声までがマモルの耳に届いてきた。
「どういうことだ?」
絵の中の春は生き生きと動いている。楽しい音楽がやさしく響いている。世界は喜びに満ちあふれている。そしてついには、その幸福な春の空を舞う人々がほほえみながらマモルに手をさしのべてきた。絵の境界などここにはもうなかった。
マモルはただただうっとりとして人々にこたえるように手をさしのべた。こうしてマモルは自分の体が目の前にある淡くあたたかい春の光の中へと溶けこんでいくのを肌で感じていた。心で感じていた。
まさにそのときだった。
「ぎゃああああーーーー!」
鋭い悲鳴がマモルの甘美な想いを切り裂いた。このときマモル青年ははじめて気がついた。ユー君がいない!
「ユー君、どこだ!」
あれはユー君の悲鳴か? ばか、そうに決まってる! しかも悲鳴は外から聞こえてきたぞ。ユー君ひとりで部屋の外へ出たのか? なんてうかつだったんだ!
マモル青年は自分に怒りを感じながら展示室から飛び出した。
「いやだー、もういやだよー!」
ユー君の悲鳴はどちらからだ? こっちか! ここだと思う場所まで走ったマモル青年はゾッとして立ち止まった。
そこには真っ黒なかがり火が燃えていた。
それはあらゆる邪悪さを体現したかのような呪われた黒色だった。そもそも炎が黒く燃えることができるなど、これまでマモルは考えたこともなかったが、目の前のかがり火はほんとうに真っ黒に燃えさかっているのだ。それも地獄の底のようにものすごく熱い。いや、冷たい、寒い。え、どちらなんだ? 手にかざそうとすると熱いのに、それと同時に近づくほど心にはふるえあがる冷気をふきつけてくる。なんといういやな炎だ。
「おにいさあああん、どこおーーー、どこなのおおお」
マモルはハッとした。今はそれどころじゃない、ユー君があぶないんだ。
よく見ればそこには黒いドアがあった。あまりにも黒くて、周囲の黒い壁の中にかくれて見過ごすところだった。どこまでもあくどい仕掛けだ。
「あれ、あかない? ちくしょう、ユー君、そこにいるのかあ!」
ドンドンドンドンとたたいているのにドアはあかない。
「これであきらめると思ったら大間違いだぞ!」
マモル青年は後ろにさがると思いっきりダッシュしてドアに体当たりした。ゴロゴロゴロと中にころげこんだマモル青年が顔をあげると、そこは何も見えない真っ暗闇の中だった。「うう、何も見えない。おちつけマモル、感覚をとぎすますんだ」
マモル青年は目をあけたまま、しかし視覚以外のすべての感覚もフルに活動させた。すると目には見えないが、その闇の中でたしかに何かがうごめいているがうっすらとだが感じられた。ユー君か? いや、ちがう! ひとつじゃない、いくつもいるぞ。うわ、いったいいくついるんだ! その感覚の気味悪さにマモル青年は思わず吐きそうになった。マモル青年の顔じゅうに、いやらしく不快で下水のにおいがするどす黒い邪悪な何かがドロドロとまとわりついてくる。
「げっ」
マモル青年はたまらずその場にひざをついてしまった。
と、そのときマモルのひざ先にぶつかるものがあった。
「え? あたたかい」
それは邪悪さとは縁どおい、どこかなつかしいぬくもりを持っていた。
もしやと思い、マモル青年は真っ暗闇の中で手をのばしてみた。そこには小さな男の子くらいの何かがしゃがみこんでいるようだった。
「ユー君か! う、う、たまらん!」
どす黒い何かはついにマモル青年の耳や鼻や口をねらってずるずるずると入りこんできた。マモル青年の顔は激しい頭痛にゆがんだ。そのすきにその黒い何かはマモル青年の指という指すべてにヌルヌルとからみついてくる。このままでは動けなくなってしまう。危機を感じたマモル青年はユー君の片腕を思いっきりつかんで無我夢中に走り出し、ジャンプした。
どのくらい時間がたったのか、気がつけばマモル青年はこの黒い部屋の外にいた。かたわらを見ればユー君もいた。脱出成功だ!
「やったぞユー君! もうだいじょうぶだよ。さあ、顔をあげて」
そう言ったとたん、入り口のかがり火が怒ったように猛烈に黒い炎をふきあげた。すると暴風のような音とも声ともつかぬものが吠えてドアが開き、シュッという蛇のような音とともに何かがそこから飛び出してきてユー君の足首をつかんだ。それは黒ずんでガリガリにやせたこけた手だった。そいつはユー君をずるずると部屋に引きずりこんでいく。
「いやだあああ、いやだよおおお!」
すかさずマモル青年がユー君をひっぱろうとしたが、シュシュシュッと黒い骨のような腕が何本も飛び出てきて今度はマモル青年の全身をつかんだ。助けるどころかマモルもピンチにおちいった。ずるずるずるとマモル青年が部屋に引きずられてゆくそのようすを恐怖にみちた目でみつめるユー君は、もう声も出せずにいた。
「その展示室を見るのは後まわしにしたほうがいいですよ」
誰かの声がした。
「できれば見ないほうがいいです」
その声はおだやかながらも威厳があった。するとまるでその声におびえたかのように黒い手たちはふたりを放してサッと闇の部屋にひっこんでしまった。
自由になったユー君は尻もちをついたまましばらくポカンとしていたが、やがてマモル青年のたくましい胸に抱きついてワンワンと大泣きしだした。マモル青年はぎゅっとユー君を抱きしめた。ユー君は大粒の涙をボロボロボロボロとこぼしながら泣いている。
「あいつらはもう出てきませんからご安心を」
ハッとしてマモル青年が声の主を見ると、意外にもその人は少年のように小柄だった。いや、どうもほんとうに少年らしい。
しかし服装はいかついものだった。警察官のようなレスキュー隊員のような制服制帽を身につけていて、そのうえその人の頭上には雪のように真っ白なかがり火が燃えているのだ。
「さあ、こちらへ。ここなら安全ですから」
その人は手招きしている。
「ユー君、行ってみようか。さあ、もう怖くないよ」
いつしか泣きやんだユー君はすっかりおとなしくなってしまい、マモル青年の問いかけににもただ手をギュッと握り返すだけだった。
「わたしはこの博物館の案内人です。本日はようこそいらっしゃいました」
案内人と名乗るその人は大きな帽子をとって礼儀正しくあいさつした。態度は洗練されていて話しぶりも落ち着いているものの、マモル青年にはやはりどうしてもユー君と同じ年齢くらいの少年に思われてしかたなかった。
「あの黒いともしびの部屋は悪夢のコレクションです。案内人なしで入るにはちょっと危険な場所ですよ。とくにあなたがたのような初心者では」
マモル青年はちょっとカチンときた。百戦錬磨のこの自分が、明らかに自分より年下の少年に初心者呼ばわりされるとはブジョクだ、と感じた。なにしろマモル青年は人々がおそれ敬う熱血冒険者なのだ。だからちょっと言い返したくなってしまい、こう反論してみた。
「でもねえ、しょせんは夢。つまりはマボロシなんでしょう? たしかに気味悪いといえばそうだけど、危険と言うのはちょっとおおげさなのでは?」
この自分こそが危険を乗り切る専門家なのだと強がってみせたのだ。しかし小さな案内人はあくまで冷静だった。その人はいきがるマモル青年をチラリと見あげてからこう言った。
「いいえ、夢は無力な幻ではありません。現実よりも強い力を持つ夢だっていくらでもあるんです」「夢が? 現実より強い? それはいくらなんでも・・・」
「あなたが冒険する理由はなんですか?」
「え? 理由って、それはもちろん・・・」
「それがあなたの夢だからでしょう? 冒険をする、それがあなたの夢だから、それがあなたのやりたいことだからあなたは冒険をする。ちがいますか?」
「いや、まあ、それはそのとおりなんですが・・・」
「現実の世界は夢を追い求めて動いていくもの。つまり夢というものがあるからこそ現実世界は発展していくわけです」
「たしかに・・・」
「しかしですね、実は夢のほうも現実世界を必要としていることをご存じでしょうか?」
「どういうことでしょう?」
マモルはすっかり案内人の話に夢中になった。
「それはかんたんなことです。夢を見てくれる人間たち生き物がいなければ夢は生まれっこないからです。そうでしょう? 夢を見るあなたがいるから夢は生まれる」
「ああ、そうか・・・」
「夢と現実とはこの宇宙を支える二本の柱、それを知っていただくためにこの博物館では今までに見られた夢をすべて鑑賞していただくことが可能です。美しい夢はみんなの願いと祈りの結晶、悪夢もまた現実には起きてほしくないという願いと祈りの結晶、すべての夢にみんなの思いがこもっています。その夢をバネにしてそれが現実となるのかならないのか。それは現実世界に生きているあなたがたの仕事ですね。つまりです、あなたがたこそが夢と現実の架け橋なんです」
「架け橋?」
マモル青年とユー君はふたりしてそう言いながら顔を見合わせた。どうやらユー君も案内人の言葉に聞き入っているようだ。
「そうです! 思ってもみてください。あなたがたがこの博物館でたくさんの美しい夢すばらしい夢をたくさん見たとしましょう。そして現実世界に帰ったあなたがたがそれらの夢のひとつでも実現しようと努力してその結果その夢が実現したとしましょう。そうすれば全世界はきのうよりもっと輝くことになりはしないでしょうか!」
案内人の説明には熱がこもってきた。
「どうです? 夢の架け橋人になってみたいと思いませんか? もしよろしければ、わたしがおふたりをご案内いたしましょう!」
それまで楽しく話を聞いていたユー君がとたんに表情を硬くしてマモル青年を見あげた。知らない人間がついてくると聞いてユー君はまた恐怖心をいただいのだとマモルにはわかった。
「この人は心配なさそうだよ。それに案内なしだとさっきみたいなことになるかもしれないだろ? ぼくはね、今この博物館の夢をたくさん見たいと思ってる。どうだいユー君、ぼくにつきあってくれないかな。ぼくといっしょに見学してみないかい?」
ユー君はすこし笑みをうかべてこっくりとうなずいた。ふたりは案内人の手招きにしたがって歩き出した。
第4章 ユー君、ユー君になる
案内人もまた涙ぐんでいるように見える。その涙をぬぐうためかあんなに人がユー君から手をはなすと、ユー君は元気よくダッシュしてマモル青年に抱きついてきた。そしてはつらつとした声で言った。
「おにいさん! もっと夢のお部屋を見ようよ! ねえ、ぼくを連れてって、おにいさん!」
そのときになってやっとマモル青年は気がついた。いつの間にかユー君は自分のことを「わし」なんて言わずに「ぼく」と呼んでいることに。
それだけじゃない。あんなにおじさんくさい仕草をしていたユー君なのに、今はこんなにもこどもらしくはしゃいでいるじゃないか。見ているこっちまでが楽しい気分でいっぱいになる。やっとユー君はその見た目にふさわしい、こどもらしいユー君になったなあ、とマモル青年はうれしくなった。
しかし・・・とマモルは案内人に目をうつした。
案内人はふたたびユー君の手をとり、ユー君とふたりしてニコニコはしゃぎながら廊下を走って行ったり来たりしている。まるで幼稚園か小学校の場面のようだ。しかし、あの案内人こそさっきまで冷静でおとなびていて、この三人の中では一番しっかりものだったではないか。それがどうしてこんな一瞬でこどもみたいになっちまったなんだ?
どうにも納得がいかずマモル青年は頭をひねった。
「おにいさあん! ねえ、こっちこっち。早くう。ハハハ」
ユー君が呼んでいた。
「わあ、おにいさん! ねえ、こっちの夢を見て見て。すっごいよ、もうびっくりしちゃうよ! ねえねえ、早く早くうー」
ユー君は全身に喜びを爆発させていた。ユー君がどれほど素直にうれしがっているのかは、その笑顔と楽し気な声から十分に伝わってくる。その幸せはマモルの心に伝染し、マモルの胸も喜びにあふれてくる。
ユー君と案内人はもうだいぶ先まで行っていて、どこかの部屋のドアを半分開けてそこへ首をつっこんだりマモルのほうへふりかえったりしている。うれしさにはちきれんばかりのふたりのこどもが、それはもうちぎれんばかりの勢いで自分に手をふっている。
ああ、自分もはやくあそこへ加わりたい、いっしょに遊びたい! マモルの心はその思いでいっぱいになっている。さきほどまでの案内人への疑問などどこかへ吹き飛んでしまっていた。
マモルの足はもうがまんできずに動き出し、ふたりのこどもたちが待つ光り輝く廊下のかなたへとかけていった。
第5章 楽しい楽しい梅雨
「これじゃ洗たくものが全滅だわ。まるで乾きやしない」
これが最近の、マモルのお母さんの口ぐせだ。というのも六月になってからというもの二、三日おきに雨が降るからだ。
ところがマモルはお母さんと正反対のことをひそかに考えていた。梅雨に入って毎日のように雨が降るのが、マモルにはうれしくてしかたないのだ。だって雨の降る夜にはきまってあの楽しくすばらしい夢が見られるのだから!
マモルが見るすてきな夢。それはユー君とふたりで体験する数々の冒険と不思議なできごと。
夢の中で自分はいつもたくましい青年冒険家で、その相棒はといえばきまってあのユー君。マモルは二十歳代、ユー君は小学生の男の子。ふたりの息はぴったりで、たとえ試練だらけの七つの荒海を渡っても、過酷な惑星探査やブラックホールに挑戦しても、古代の神殿でとりおこなわる邪悪な秘密の儀式にもぐりこんで秘宝をちょうだいしても、大海賊どもと一戦まじえても、おそろしい夜の大都会の悪の組織を相手にしても、ふたりはけっしてくじけない。鉄のチームワークで危機をのりこえ、いつだって勝利を手にするのだ。もっともその勝利はいつも紙一重のものでヒヤヒヤするのもお約束だったのだが。
夢はいつも痛快で楽しいものばかりだった。たとえばこんな夢もあった。
ここはココノエマモル探偵事務所。いつものように所長のマモル青年はソファに深く身を沈ませて瞑想にふけっている。かたほうの足を胸まで深くおりまげて両手でそれをかかえるのがお決まりのポーズだ。こんなときには助手のユー君は「先生」のじゃまをしないようにおとなしく事件の資料を整理している。
と、そのとき、だしぬけに事務所のドアが開いた。
「ごめん! 急ぎなので失礼。マモル先生はおられるかな!」
大きなほえるようなその声にふたりはふりかえった。事件の依頼人だ。むずかしくて面白い事件ほど依頼人はこのようにあわてて入ってくるのでマモル探偵は期待に顔を輝かせた。が、その顔はすぐに驚きにかわった。だってその依頼人の顔ときたら、どう見ても恐竜だったから!
「これはご無礼。わたしの名はケラトプス。よければトリとお呼びください」
そう、その顔は有名な恐竜のトリケラトプスだった。ユー君はあっけにとられて口を大きくあけたままつっ立っている。ひとサイズの恐竜がきちんとタキシードに身をかためているのをユー君は初めて見たのだから。
「ああ、この大げさな服装ですかな? なにしろパーティー会場から飛び出してここへ来たもので」
礼服に身をかためたトリケラトプスは、いやミスター・ケラトプスは恥ずかしそうに身をかがめた。
「けっこう! 実にけっこうです! トリ・ケラトプスさん! しかしパーティーで殺人とは少々はですぎやしませんか?」
恐竜依頼人はとびあがって驚いた。
「なぜ殺人事件だとわかったんです! まだ何も言ってないのに! そうだ、落ち着いてる場合じゃなかった! 実はですね」
探偵は名探偵の名にふさわしく、いやもう何もかもわかっているのですよ、とでも言うように手をふって恐竜依頼人の言葉をさえぎった。
「殺人はみなの見ている大広間の大階段で、しかもあなたのすぐ隣りで行われた。しばらくあなたは気がつかず被害者の手があなたの背中にふれて初めて気がついた。動転したあなたは大声でその人の名を叫びながら何度も何度もその人の体を激しくゆさぶった。しかしその動作もすぐに強制的に止められた。かけつけた周囲の人々によって。むしろあなたは責められた。瀕死の状態にある人を動かすのは禁物なんですからね。取り残されてぼうぜんと階段の中ほどにしばらく放心状態でしゃがみこんでいたが、やがて犯人への怒りにかられて警察につっかかったが、すぐに警察にあいそをつかしてぼくの所へやってきた。ちがいますか?」
恐竜はその目を恐竜らしくいかつく見開いたまま次のように言った。
「おっしゃるとおりで・・・さては、あんたあそこにいたんだな!」
突然の怒りに我を忘れた恐竜は探偵に突進した。
「ウオオオオオーーー! ぐえっ! ???」
名探偵は武道も名人とみえて、軽く投げ飛ばされた依頼人は来客用のソファにすっぽりはまっていた。
ユー君がなだめるように恐竜に声をかける。
「先生は今日一日ずっとここでぼくと書類整理してました。下の階の管理人さんも証言してくれますよ。ねえ、先生! このお客さまの服装とその肩から背中にかけてついている血のような五すじの指の跡、いい服なのにひざのとこだけやけにしわくちゃになっていること、それが推理の根拠でしょう?」
名探偵はうれしそうにほほえむ。
「えらいえらい、ユー君もしっかり見るようになったのだねえ」
めずらしくほめられて調子にのったユー君は言った。
「でも大声で叫ぶとか被害者を激しくゆさぶったとかいうのは脚色ですよね」
片方の眉毛を大げさにあげてみせると名探偵は恐竜依頼人のかたわらに立った。
「ではこれを見てごらん。こちらのかたはバーバリーの店でもさらに高級なほうのタキシードを着ていらっしゃるが、それにしてはそでのカフスボタンが両腕ともちぎれてどこかへなくなっているのはおかしくないかい。よほど激しく腕を動かしたのさ。それに蝶ネクタイも曲がっているよ。ここから見るとよくわかるけれどネクタイのひもも切れそうになっている。トリケラトプスが大咆哮すればそりゃあネクタイくらい消し飛ぶってものじゃないかい?」
ここで依頼人は何かを言いかけたが名探偵がまたしても先に発言した。
「わかっています。ぼくはまだ一番たいせつなことを指摘していない。殺されたのは女性ですね? それもとびきり美しい貴婦人。ながいあいだあなたがひそかに慕っていたかた・・・」
恐竜依頼人はワッと顔をおおって泣き出した。
「犯人を・・・犯人をつかまえてください、先生、ううう・・・」
推理の根拠が何もないこのあてずっぽうが、依頼人の心をもっとも激しく打った。
結局この事件は大捕り物になった。
そもそも被害者の死因は刺されたり撃たれたりしたものではなく毒殺だった。しかも遅効性の毒が使われたたために事件当日の状況は複雑になり、犯人特定には時間がかったが動機のほうは単純だった。なんとこの恐竜依頼人に対する犯人の嫉妬が原因だった。そこで犯人は被害者がわざわざこの着飾った恐竜男にもたれかかるように死ぬ演出を狙ったのだ。
「そんな……ぼくなんかに奴がやきもちをやくなんて。奴はあんなに美男子じゃないか。それにくらべてぼくは・・・」
依頼人は自分の容姿にまったく自信がなかったので犯人が自白したこの犯行動機には本気で驚いていた。犯人もまた被害者に思いを寄せていたが、告白を拒絶されたときにどうやらこの恐竜男の名前が出たらしいのだ。そこで犯人は自分をこけにしたこのふたりに復讐しようと思ったらしい。
しかしこの事件のハイライトは動機ではなくて結末のド派手な逮捕劇だった。
犯人の男は世間でも有名な大富豪で事件の夜の舞踏会も自分が所有する古城ホテルで開いたものだった。
マモル名探偵は犯人のアリバイくずしのために犯人にもう一度同じ場所で同じくらいの規模の舞踏会を開かせることに成功した。マモル探偵の広い顔で引っ張り出してきた某美人女優を被害者にみたてて同じような舞台を作りあげ、犯人にも事件当日と全く同じ行動をさせて、警察関係者みなの前で犯人のアリバイをくずしてみせたのだ。名探偵のきびしすぎる犯行解説と非難に耐え切れず犯人は逃走をはかった。見せ場はここからだった。
もともと犯人は国外逃走を計画しており、名探偵の事件当日の再現というの見えすいた誘いの罠にのったのも、この機会を利用してあの憎き恐竜男も殺害して世間の鼻をあかしてからこれ見よがしに逃走してやろうというゆがんだ願望があったからだ。
そんなふうだからこの日もこの古城ホテルには大規模な逃走準備がなされていたわけである。おかげでさすがの名探偵もあやうく犯人を取り逃がすところだったぐらいだ。
この日探偵はいくつかミスをした。
一番大きなミスは犯人に裏をかかれて本物の毒を被害者役の例の美人女優に飲ませてしまったことだ。もちろんこれは大騒ぎになって、あの日と同じ場所に配置させられていた恐竜依頼人に事件当日とまったく同じことをさせるはめになった。死にかけた女優は恐竜男の胸に倒れ、恐竜は彼女を抱きながら大咆哮した。だが名探偵はこの先を見届けるわけにはいかなかった。この騒ぎを利用して犯人の男が逃亡を実行しようとしていたからである。
探偵の第二のミスは犯人の財力を甘く見たことだ。
古城ホテルの一部を改築して逃走用のヘリコプターやオートジャイロなどをかくしておくーーーまあ、これくらいはマモル探偵も予想してはいた。なにしろ相手は大富豪なのだから。それに備えてこちらも最新式の電子機器で相手を補足し、すばやくヘリコプターなどで捕える用意はしていた。古城ホテルのすぐ下を流れる川にも警備艇を数隻はりつかせていたし、道路も走行車両で封鎖するなど、警察の意気込みは大したものだった。殺された美人女優は国民的人気があったため、この事件の注目度は異様なほど高く警察もメンツがかかっていたからだ。
だから犯人が古城の塔をあっという間に変形させて、そこから大きな気球を空に放ったときも名探偵に驚きはなかった。夜の闇に溶け込むようにと気球は黒く塗られていたけれども、警察の赤外線探知機が犯人の体温を熱源として感知するのでその位置は丸見えも同然だったし、すかさず出動した五機の攻撃用ヘリコプターによって犯人はすぐに捕まると思われたからだ。
ところがこの警察ヘリはまたたく間にすべて炎上そして墜落してしまった。古城ホテルのいたるところから発射されたスティンガースタイルの携帯型地対空ミサイルのえじきになったのだ。と、同時に道路の警察走行車両も川の警備艇もほとんど同時に爆発炎上。地雷や機雷あるいはあらかじめ爆発物を仕掛けられていたのかもしれない。ともかくこれだけのことをやってのけるにはいったいどれほどの金がかかるのか・・・ここが名探偵の計算違いだった。下からあがる猛烈な炎にあおられて古城ホテルの姿はゆらゆらとゆれている。
その古城ホテルの高い場所からこの大敗北を見ていた探偵はかたわらの助手に言った。
「ユー君、まだだ! まだぼくらは負けてない!」
探偵は猛ダッシュした。その方向は犯人が黒気球をとばしたあの場所だ。ユー君は絶望した。
「先生! 今さら行っても遅いですよ! 奴は空の上でしょう?」
「あきらめるなユー君! あきらめたらそこでゲームセットなんだ!」
探偵が気球が飛び立った場所につくとそこにはまだ数人の黒づくめの者たちがいた。ひとりは大きい斧を持っていて、探偵に気づくとそれをふりかざして襲いかかってきた。探偵は自分からころんでその両足で相手の足をかにばさみにして倒し、その瞬間に斧と相手の意識を奪っていた。
「ユー君、煙幕!」
やっと追いついたユー君は小さなリュックからボールを取り出し、次から次へと四方八方へと投げまくった。あっという間にあたりは煙だらけで何も見えなくなった。
「間に合ったぞユー君! さあ!」
力強い腕にぐいと引っ張られるままにユー君は名探偵と並んで走った。
「ユー君、万能手袋をつけて!」
ユー君はすばやく指示に従う。
「よし、あったぞ。ユー君、リュックは捨てるんだ。これから綱のぼりだkらね」
ふたりは太くて黒いロープがコンクリートから突き出た場所にいた。ユー君があとで先生から聞いたところでは、これは気球をつなぎとめておくロープだった。気球が風に流されて味方のミサイルに撃墜されない用意とのことだった。脱出当日の風向きは予想不能だったし、警察ヘリや地上部隊が全て片づいたところで地上の部下がロープを切ってゆうゆうと逃げるつもりだったのだ。
「じゃあ、お先にどうぞ。ぼくが下からユー君を支えながら登るから安心して」
ユー君は迷わずロープをつかんで先に行った。自分へのゆるぎない信頼に胸を熱くしながら名探偵は斧を大きくふりかざした。
「行くぞ! 衝撃にそなえろ!」
ロープが断ち切られるとおそろしい勢いで気球は空へ舞い上がった。下では犯人の部下たちが発砲しているらしく、二度ほど銃弾のようなものがヒューと近くで音をたてて飛んでいったが名探偵はかまわず下から頭でユー君の小さい体をグイグイ押しながら登っていった。ふたりがつけている万能手袋はAI搭載のいわば小型ロボットみたいなもので体力筋力を大幅にサポートしてくれる。そのうえふたりは逮捕作戦開始前に万能シューズもはいているから、こんなおそろしい綱登りもなんとかこなせるのだ。それでも身を切る寒さの夜風は強く吹いていて、それはもうスリル満点。でも冒険はこの綱登りがほとんどすべてだった。 というのも犯人は探偵たちが迫っているなど考えもせず、熱気球の操作に夢中で何の抵抗もできないままふたりにつかまってしまったからだ。
「古城ホテルの戻るのですか、先生?」
「いや、いまごろは警察と犯人の一味が派手なドンパチパーティーをやっていいるころだろう? ユー君も知ってのとおり、ぼくは派手なパーティーが苦手なんだよね。もういっそのこと警察本部まで飛んで行って犯人をつきだしてしまおうよ」
気持ちよい勝利の夜風に酔いしれていたふたりはまったく気づいていなかったが、このとき古城ホテルでは名探偵の予想もつかないとんでもないことが起きていたのだ。
そのとんでもない出来事の結果はそれから何週間もたったころに手紙という形で名探偵のところへ舞いこんできた。
「先生、やけにきれいな手紙が来ましたよ?」
「ほお、きれいというかとても豪勢な感じだね。差出人は・・・おや、連名だね」
「レンメイって?」
「ふたりの人物が同時に差出人として名前を書いてあるってことさ。ひとりは女性か、そしてもうひとりは男だなあ。うん? トリ・ケラトプス!」
「恐竜依頼人!」
開けてみるとそれは結婚式への招待状だった。
「こりゃあ、まいったぞ。そうかそうか、女の人の名前もどこかで聞いたことがあると思ったんだ。彼女かあ」
「どういうことなの、先生?」
それはこういうことだった。あの恐竜依頼人は結婚する。そのお相手は逮捕劇があった夜に被害者の代役を頼んだ若い女優さんだ。名探偵のミスで本物の毒を飲まされた彼女だが、パニックにおちいったトリケラトプス氏の必死の看病がきっかけで恋が芽生えたというわけだった。
「じゃあ先生のミスがあのおふたりに幸福をもたらしたんですね? すごいや、名探偵は恋のキューピッドでもあるんだね、マモルおにいさん!」
助手に一本とられた名探偵は幸せそうにソファに身を沈めながら結婚式招待状に「出席します」と返事を書いた。
こんなぐあいにマモルの見る夢はいつも痛快だった。
ただ、夢をみたあとたったひとつだが気になる点があった。
「今日もユー君にあんなアドバイスしたけど、なんであんなしゃれた言葉やきのきいたアイデアが出せたのかな? 夢にしたってできすぎでしょ?」
自分が読んだことも聞いたこともない深い知恵や知識の数々、それはいったいどこから来るのか。夢の中なんだから何でもOKなの? それが夢というものだから? ほんとにそうなんだろうか・・・
「だけど」
だけどマモルにはやはりそれは小さなことだった。ユー君と活躍する、あんなにも楽しくドキドキワクワクする夢の楽しさにくらべたらとるにたらないことなんだ。そんなことより次の夢はどんなだろう。もっとすごい冒険が待っているのかな。早く次の夢が来ないかな。ああ、この先もずっとこの夢が続けばいいのに。梅雨がいつまでもいつまでも終わらなければいいのに。
マモルは大まじめに梅雨が終わらないことを心から願うのだった。
第6章 この世で最高においしいデザート
「ああ、よかった。今日は雲ひとつない晴天だわ。もう雨の心配なしにせんたく物が干せるわね。さすが七月!」
せんたく物を干し終えて一階へおりてきたお母さんの上機嫌な声を聞きながらマモルはぼうっと庭をながめていた。昨夜の雨の名残の水滴が木の葉っぱの上でコロコロと七色の光をころがしている。でもその葉っぱの緑が照り返す朝の光があまりにも力強くまぶしくて、マモルはつい目をそらして部屋の中へ顔を向けた。もう七月も中盤にはいっている。
「まあ! マモルったら目の下にそんなひどいクマなんかつくって。また長編の夢を見たの?」
お母さんのいうとおり、朝までたっぷり夢で冒険していたのだ。たしかに今年の梅雨はよく降った。ほんとによく雨を降らしてくれた。でもその梅雨も終わろうとしている。夏休みもすぐそこだ。どうしたんだろう? いつもなら夏休みがあんなに待ち遠しかったのに、今年はそうでもない感じだ。
「なあマモル、またユー君とふたりづれかい?」
お父さんだ。このごろお父さんはマモルが夢を見たときに必ずどんな夢だったかとたずねてくる。それも、今回はどんな探検だった? それとも探偵ものかい? どんな悪党をやっつけたんだい? とこんなふうに熱心にマモルの話を聞くのだ。
マモルも気づいていた。近ごろお父さんが家族みんなと朝ごはんを食べることが多くなったことを。いつもマモルや妹のルミが寝ているうちに会社へ出かけていたのに。
(この調子で夕ごはんも一緒に食べてほしいなあ)
残念ながらそれはまったくダメだった。お父さんの帰りは遅いままだったから。お父さんとは朝ごはんの時しか話せない。だからお父さんは詳しくぼくの話を聞きたがるんだな。だったらぼくもできるだけたくさん夢の話をしよう! マモルはそう考えるようになっていた。
「うん、きょうはね、ユー君とふたりして海で冒険したんだ」
「ほお、海賊退治の続きかな?」
「いや、それがね、なんか今日の夢はいつもとちがってるような、まあ、ほんのちょっぴりなんだけどそんな気がして・・・」
「ねえねえ、ルミもいっしょだった?」
だいたいこのへんで妹のこの質問がやってきて兄を困らせる。夢にルミは出てこないのだ。
「ごめんなルミ。また午後にさ、庭でいっしょになわとびしような?」
「うん! ルミなわとびだいすき!」
いつものマモルの逃げ口上にルミは満足そういすにすわりなおし、お母さんと話し始めた。
「何がいつもと違ったんだい、マモル」
マモルはびっくりした。自分でもあやふやな感じでそう言ったのに、お父さんはこんなにも真剣に聞いてくれていたから。そこでマモルは、どうして今日の夢に違和感をもったのかを自分でも真剣に考え始めた。するとすぐにその大きな原因に思いあたった。
「お父さん、夢博物館の話、おぼえてる?」
その夢は今からもうふた月くらい前のものだから、きっとお父さんも忘れているだろうなとマモルは思った。
「もちろんおぼえてるさ。悪夢の部屋が出てくるアレだよな」
お父さんははっきりおぼえていた。マモルはがぜん話すのに乗り気になる。
「そのときの博物館の案内人の子がいたでしょ、その子がね、夢に出てきたんだ、ほんとうに久しぶりにさ」
久しぶりというか、マモルはあの夢博物館の日以来その案内人の子どもを夢に見たことは一度もなかった。正直いってマモルもその子のことは忘れかけていたけれど、また夢に出てきてびっくりしたくらいだった。
「ほお。で、どんな夢だったの? また博物館だった?」
お父さんはこう聞いたが、博物館とはまったく関係なかった。それはこんな夢だった。
にわか雨があがり、よく晴れあがった昼さがり、空にはきれいな虹がかかっている。虹があんまり大きくきれいなものだからユー君はすてきなことを思いついた。
「ねえねえ、マモルおにいさん。ぼく一度でいいから虹の上をすべり台みたいにすべってみたいな。きっと気持ちいいよ。おにいさん、すべりたい!」
「それはいい考えだねえ。ようし、さっそくやってみるか、ユー君」
マモル青年とユー君は飛行場へ出かけていった。
「虹のてっぺんまでふたり、お願いしまあす」
ふたりを乗せた飛行機は、まるで弓矢のようにピューンと一直線に虹の上空にたどりついた。
「ようし、うまいぞ、ちょうど虹の真上だ。さあユー君、ここから虹にとびうつるよ」
「やったあ! いよいよだね」
ユー君はいそいそとパラシュートを背負い始めた。
「でもねユー君、よく聞いて。虹のレールはいっぱいあるけど、できるだけ真ん中のレールにとぶんだよ? はじっこのレールはスピードが出すぎてすぐに下におっこちゃうからあぶないんだ」
ユー君とマモル青年はそろって飛行機からジャンプした。
「ナイスダイビング! やるじゃないか、ユー君。とても初心者とは思えないよ」
ほめられて愉快になったユー君は自分がなんでもできる気になって、ふと危険なきまぐれをおこした。
「いっちょやったるか」
マモル青年に指示された真ん中ではなく、うんと虹のはじっこのレールに着地したのだ。
「それ!」
とすべりだしたはよかったが、ツルツルツルーンとすべりがよすぎて、あっという間にとんでもないスピードになっていった。
「うわうわうわあああ!」
ほんとは助けて、と叫びたいのにユー君ののどからはこんな音しか出てこない。ほとんど空中落下するようにすべってゆくユー君を見て、マモルはびっくりしたが、自分は真ん中のレールに降りてしまったあとなのでどうしようもなかった。
「前を見てユー君! あ、あぶなあああい!」
マモルがそう叫んだときにはもうユー君はザップーンと海に落ちていた。
「わ、わしは泳げないんじゃあー!」
ユー君は手足をばたつかせるが、顔がどんどん海に沈んでいく。
すると腕が伸びてきて、ユー君は船の上に助けあげられた。
「ああ、ありがとう、おにいさん。ぼくもう、だめかと……あれ? だれ?」
自分をのぞきこんでいたのはマモルおにいさんの顔じゃなかった。
「ユー君! だいじょうぶかあ!」
その声にユー君がふりかえると、海の中でマモルおにいさんが自分のほうへ泳いでくる姿が見えた。まもなく泳ぎつくと、マモル青年は船の上にいるユー君ではない誰かのほうを見あげた。
その人物はマモルに言った。
「あなたもどうぞあがってください」
マモルは自力で船へあがるとユー君の肩をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんなさい、おにいさん。ぼく・・・」
「いいんだよ、もう。それより今は」
マモル青年はそこで口を閉じて船を見まわし、船の人物を観察し始めた。
船はそう大きくない。というよりかなり小さかった。三人乗りのヨットというところだろうか。そしてこの謎の人物はといえば・・・
まず目につくのがやたらに大きい船員帽だ。それもただの船員帽ではない、どうやら船長がかぶる帽子のようだ。しかし、船員のかっこうをしているわりには色が白い。白すぎやしないか。まったく日に焼けてないじゃないか。いや、そんなことより、なぜこんなに小柄なのか。これではまるで小さな男の子じゃないか!
そのとき風が吹いて、その人の帽子を少し上に押し上げたおかげでマモルとユー君はやっとはっきりと顔を見ることができた。そしてふたりとも同時に同じことを考えてしまった。
(おいおい、この顔は知ってるぞ。えーと、どこで会ったんだっけ?)
妙な感覚だった。たしかに知っているのに、どこで会ったのかはふたりともどうしても思い出せないのだ。
そうだ、名前を聞いてみよう。
「助けていただいてありがとうございました。おかげでおぼれずにすみました。こちらはユー君、ぼくはマモルといいます。えー、あなたは?」
「わたしは水先案内人ともうします」
男の子はキッパリとこう答えると、ぷいと後ろを向いてヨットの帆の操作にとりかかってしまった。まるでとりつくしまがない。これでは名前を聞くことなどとうてい無理だ。
「あのう」
ユー君が不安げな声で話しだした。
「ここはどこでしょうか? 虹がまったく見えないんだけど虹はどこへいっちゃったのですか?」
水先案内人はふりかえり、こう答えた。
「虹を追う人の運命は『長旅』と定められていますよ」
「え?」
その答えがどういう意味かわからなくて、ユー君はこまったようにマモルおにいさんの顔を見た。
水先案内人が続ける。
「長旅の運命どおり、虹を追いかけたあなたがたはすでにもうかなり遠くまで来てしまいましたね。ここから陸地まではこのフネだと一昼夜かかりますよ。陸に帰りたいですか?」
ユー君はすごい勢いで何度もはげしくうなずいた。
「わかりました。やってみましょう」
そう言うなり水先案内人は胸ポケットから小さなウチワを取り出して、それを船の床にさしこんだ。するとウチワはみるみる大きく広がりみるみる高く背を伸ばしてそれはでっかい帆に育った。またたく間に小さなヨットはいくつもの帆を備えた外洋型のヨットに進化した。もっとも船自体の大きさはそのままだったが、外見はだいぶ立派だ。
海風を帆に受けてヨットは海面を音もなくすべりだした。
「実を言うとこのフネは本来ひとり乗りなのです。こうして三人いると速度もにぶい。だからサカナに追いつかれるかもしれないです。用心しないと」
そんなことを言いながら水先案内人はどこからか長い長い赤い布をズルズルと引きずりだしている。
「そこ、ちょっとどいてください。こいつを海に投げるんで」
水先案内人が赤い布を海に投げ込むと、それは流れにのって海中にのびていき、まるでヨットに赤いしっぽがはえたようになった。
「なにしてるの?」
相変わらず不安げな声でユー君がきいた。
「サカナが近よらないための用心です」
「あの、さっきからサカナサカナって、なんのこと?」
「ああ、フカやサメのことですよ」
ギャッと叫んでユー君は立ち上がった。そのひょうしにヨットが左右にぐらぐらっと大きくゆれる。ユー君はあぶなく海に落ちそうになった。それくらい小さい船だ。
「フネの中では立っちゃだめ!」
水先案内人のきびしい声がとぶ。
「帆を! 帆でなんとか!」
こうひとりで言いながら水先案内人はウチワの帆をあわてて操作する。なんとかヨットは水平をとりもどし、ユー君もマモル青年もホッとした。
しかし水先案内人の機嫌はよくないようだった。
「まずいな。あの箱はどこいった? あ、あの箱もない。さっきのあれで海に落ちたのか」
水先案内人のようすに不安を感じたマモル青年はすかさずきいた。
「箱って何の箱ですか?」
「食糧です」
ユー君はびっくりしてまた立ちそうになった。
「あわてないで! だいじょうぶ、水はまだ少しあるし平気でしょう。一日2リットルの水さえ飲めば何も食べなくったってひと月は生きられる」
「水はたくさんあるの?」
ユー君がふるえる声で言う。
「1リットルの水筒が、えーと、いち、にい、3個残ってますね。だからあわてないで! 小魚をつかまえてその生身を食べれば水分はとれますよ。そう心配しないで」
ユー君はますますふるえる声で泣くように言う。
「だってサメとか来たらどうするんです! こんな小さな船、だいじょうぶなのかな?」
大きな船長帽をかぶった水先案内人はおちついていた。
「さっき見たでしょう、赤い長い布。あれを流しておけばあいつら近づいてきませんよ。サカナは自分の体長よりも大きい相手をおそうことはないんです。しかし、もしそれでもやって来たら何か硬いものでサカナの鼻先を思いっきりなぐってください。彼らの急所は鼻先にあるんです。よく効きますよ。おふたりのヘルメットは十分使えます。
マモル青年とユー君は自分たちがまだパラシュート降下用のヘルメットをつけたままでいることに気がついた。
ハッとしてユー君がふりかえると太陽が水平線の下にかくれようとしているところだった。
やがて日は暮れ、あたりは真っ暗になった。ただ初夏満天の星だけがにぎやかに輝いている。
だが夜になっても水先案内人は休むことなく帆をあやつってヨットをぐんぐんと先へ進めていた。海を見ると例の赤い布は長々と海中に伸びて、ユー君を少しばかり安心させている。
「マモルおにいさん。すごい星空だねえ。あれは天の川でしょう? あ、あれはもしかして南十字星! ぼくたち赤道こえっちゃってるのかあ」
「ユー君、南十字星なんてよく知ってたねえ」
「へへへ」
「あ、でもちょっと雲が出てきたよ?」
そのときだ。水先案内人は急に帆の操作をやめてすわりこんでしまった。もちろん船は速度を落とし、やがて完全に止まってしまった。
これにはさすがのマモル青年も不安になった。
「どうしたのです? 何かトラブルですか?」
「雲が星をかくしてしまいました。星がないと方角がわからないのです」
そう言いながら水先案内人は錨を海に投げこんだ。
「でも羅針盤があるんでしょう? 方角ならそれで」
「コンパスですか? それはありますが、どうやら場所が悪いようで使い物になりません。おそらくこのあたりは沈没船が多いのでしょう。あるいは海底に強い磁力を持った岩でもあるのか、磁石がうまく働かないのです。それにちょうど夜じゃありませんか。すこし休みましょう。でたらめな方向へ進むと危険ですからね」
そう言い終えると水先案内人は船長帽をグイと鼻までおろしてゴロリと寝ころんでしまった。あまりにもそっけないその態度にマモル青年とユー君は何も言えず、ただふたりで顔を見合わせるだけだった。
星もない夜の海なんてぜんぜん楽しい場所じゃない。ふたりは会話をする気もおきず、かといって寝つけもせず、ただだまって朝が来るのを待った。
だが退屈な時間はそれほど長く続かなかった。最初に気づいたのはユー君だった。何かおかしい、音ともいえない音がする、見えないけど何かが海面を動いている? ユー君はマモル青年のひじを激しくひっぱった。
「ん? ユー君、どうし」
ユー君は指を立ててシッと合図した。すぐさまマモルは全神経を鋭くして海面をさぐる。すると・・・
(なんだ、あの黒い三角定規みたいなものは? 何かの突起? サメか! しかもでかいぞ!)
サメの背びれらしきものが右へ左へと海面をさまよっている。かなり大きい。少なくともこのヨットくらいはあるサカナだ。停止中だから頼りの赤い布も今はだらりと下へたれさがっているだろうし、いつおそってきてもふしぎはない。さあどうする、マモル! しっかりしろ、マモル! マモル青年は自分をはげます。だが、どうしたことだろう、いつもはとっさに名案がわき出てくるのに今はさっぱり何も出てこない。たしかに海でのこういう経験は初めてだが、それにしても何も考えつかないとは、いったいどうしちまったんだマモルの腰抜けめ! マモル青年は初めての無力感におそわれ、もうどうしていいっかわからなくなってしまった。
そのときだった、あの歌が聞こえてきたのは。
♪ イナイイナイ番地の レイン坊
きょうはどこまで 虹かけるぅ
♪ ダルマさんがころん団地の レイン坊
きょうも涙で 虹かけるぅ ♪
(レイン坊の歌の楽譜はいる・作曲済み・今は楽譜は省略)
それはやさしいような悲しいようなゆるやかなメロディ。聞いてるだけでなんだか泣きたくなるような、でもどこかなぐさめてくれるような歌だった。まるで子守唄のようだ。
マモルとユー君はさっと水先案内人をふりかえった。船長帽で顔をかくしたままの彼の口もとあたりからその歌は流れていた。水先案内人は何度も何度もくりかえし歌っている。が、そのうちに歌声が変なぐあいにかすれてきた。もしかしたら泣いているんじゃないかな、とマモル青年が思ったときユー君がまたひじをぐいとひっぱった。
「見て見て、どんどん遠くになってくよ」
小さな声でささやくユー君の言葉どおり、あの恐怖の黒い三角突起は遠ざかり、やがてどこかへと消えてしまった。これがサカナを見た最後となった。
いつの間にか歌うのをやめていた水先案内人はふたりに背を向けるようにゴロリと寝返りをうった。
「あのう・・・」
マモルとユー君はお礼を言いたかった。今の事で聞きたいこともたくさんあった。でも水先案内人からは何の返答もなく、それどころかわざとらしいイビキのような寝息も聞こえてくる始末。あの歌がサカナを追い払ったのか? 歌の途中で声がかすれたのは泣いていたからなのか? そもそもあの歌なんなのか? 歌の内容の意味は? どこの歌? いったい何のおまじない? せめてお礼くらい言いたいんですが・・・これらすべてはどうやら朝までおあずけのようだった。
そのあともサカナがまた来やしないかとふたりはぜんぜん眠れなかったが、ありがたいことに夜明けはやってきた。しかし天気はふたりの気分同様すっきりしないくもりの日だった。
そのうちに大きなあくびをして水先案内人が起きた。大きな船長帽をきちんとかぶりなおして水先案内人は空をみあげる。
「まだくもってるのか」
マモル青年は歌のことも質問したかったが、まずは当面問題になりそうなことをたずねた。
「太陽が出ていませんね。それどころかときおりポツポツと雨まで降ってますよ。これではやはり方角がわからんのでは?」
ユー君はユー君でもっとさしせまった不安があったので大声できいた。
「もし嵐が来たらどうなるんです? 船はだいじょうぶですよね?」
この問いに水先案内人は空を見上げたままで答えた。
「嵐が来たら絶望です。この小さなヨットではひとたまりもない」
ユー君は叫びたかったがなぜか声が出なかった。
「でも方角の件に関しては望みがあります。夜のうちは使えなかった手があるのです。そうです、これに望みをかけましょう」
水先案内人は急にニッコリほほえむと、ふところに手を入れて何かをごそごそさがした。ほどなくその手をゆっくり抜くと、その手には白くかわいらしい小鳥がそっとにぎられていた。
「さあ、やっと飛べるんだよ。それっ! おうちに帰れ、元気よく!」
放たれた小鳥はヨットの上で小さく一周ぐるりとまわると、今度は迷うことなくある方角をめざして一直線に飛び去った。するとどうだろう。その白い小鳥が飛んだあとには次々と色あざやかな虹の橋がかかっていくのだ。マモルとユー君は目をみはった。
「さあ、行きましょう!」
三人を乗せたヨットはふたたびウチワの帆をあげて勢いよくスタートした。白い小鳥がかけた七色の虹の真下をずんずんと進んでいく。小鳥の勢いも止まらず虹は伸び続け、ヨットのほうもすばらしいスピードで進んでいく。水先案内人が思いきって赤い布をスパッと切り捨てるとヨットは何倍もの速さで飛ぶように走った。興奮したマモルとユー君はのどがカラカラになり、水筒の水もついにはからっぽになってしまった。
「あ! あそこに何か見えないか? ああ、陸だ! 地面だ! 水先案内人さん、ありがとう! ユー君、陸だよ、助かったんだよ!」
「ありがとう、ありがとう、ありがとう!」
ユー君も感激してお礼を言い続けたので、ふたりののどはもう完全に干あがってしまい声も出なくなった。
「ほら、もう陸ですよ。海岸の先に丘があるでしょう? あそこにわたしの畑があるんですが、見えますか? あの緑のところ。あの畑のものは何でも自由に食べてください。のどの渇きもいえるでしょう」
ヨットが海岸に着くなり、マモル青年とユー君は全速力でかけだした。それほどのどが渇いていたのだ。
丘の畑に着くと、ああ、ありがたい、何か大きな実がなっている。マモル青年とユー君はそれを二、三個もぎとると、また大急ぎで海岸にもどってきて海水でそれを洗った。ほんとは真水で洗いたいけれどしょうがない、いただきます! と、そのまま一口ガブリとやった。
「うわわわわあああ、お・い・し・い! おにいさん、これ何?」
声をとりもどしたユー君は「おいしい」をそれから三十回もくりかえした。
「いやあ、ほんとおいしいねえ。何の実だろうねえ、この味は? うーんと、あっ、これはトマトだよユー君!」
そんなバカな、とユー君は思った。いくらマモルおにいさんの言うことでもこれはまちがっている。だって・・・
「トマトなわけないよ、おにいさん。だってこんなに甘いもの!」
「そうなんだけど。でもやっぱりトマトだなあ、これは」
よおく味わってみると、それはたしかにトマトの味がした。
「うそ、ぼくトマトなんてただ水っぽいだけで嫌いだったんだよ。でもトマトって甘くてすてきでおいしくて、ぼくこんなに大好きだったんだあ! おお、こんなにおいしいおいしい!」
ユー君は自分の言葉づかいがだんだん変になっているのにも気がつかないほど味に熱中していた。
とってきた実をすべて食べつくすとふたりとも急激に眠くなってきた。なにしろひと晩寝ずにヨットにゆられていたのだからそれは強烈な眠気だった。マモルがふと気づくと水先案内人がしゃがんでいて、今にも寝そうなユー君をながめていた。
「あの実はポモドーロです。太陽のリンゴ、日本語に訳すと太陽のリンゴって意味です」
マモルはもう眠くて眠くて水先案内人のことばがなかなか頭に入ってこなかった。
「この天気のよい島で育ったポモドーロはまさに太陽の金のリンゴ。あなたがたはそれを食べたのですから幸せに感じるのはとうぜんです!」
ユー君はもう寝息をたてていた。マモル青年のまぶたも今にも閉じそうだ。「あ、そうそう、あなたがたの国ではこの実をトマトって呼ぶんですね。ではよい夢を」
寝てしまう前にマモル青年はせめてひとこと水先案内人に助けてくれたお礼を言いたかったが、あまりに眠くてしゃべれない。そうこうしているうちに水先案内人は立ち上がって波打ち際のほうへ歩いていってしまった。そしてヨットを砂浜へひきあげる作業を始めた。そのとき彼の肩に白い小鳥がちょこんとのっかっているのが見えた。マモル青年は思った。
「そうだった、この虹はあの小鳥がかけたんだっけ」
するとその虹が何か光の粒のようなものを降らせ始めた。キラキラと楽し気におりてくるその光の粒であたり一面が幻想的な色彩を身にまとった。白い浜辺に青い海原、船長帽に船員服、小さいがたのもしいあのヨット、そして白い小鳥をやさしく見つめる男の子の愛らしい横顔・・・それらすべての上に光と色彩のシャワーが降り注ぐ。
「きれいだなあ・・・」
その光の粒がマモルの上に降りてきて、ただうっとりとマモルのまぶたは閉じていく。ここちよい眠り、平和な睡眠、あたたかい砂浜、夢のようにおいしかったあの、えーと何だっけ、ポモドーロだっけ、だからつまりあのトマトだよ、トマト・・・・・・・
「ねえ起きなさいったら! もういいかげん起きないと遅刻よ、マモルったら!」
マモルの耳にいきなりの大声が鳴り響いた。それはお母さんの声だった。
「早くいらっしゃいね、朝ごはんよ」
遠ざかるお母さんの声、砂浜かと思ったらふとんの中だった現在位置、おいしくたらふく食べたばかりと思ったのにほんとうは腹ペコの胃袋。そうか、夢見てたのか。マモルは少しがっかりした。
が、とつぜんいなずまのような鋭い光が頭を突き抜けた。
「あっ! わかったぞ! あれこそ夢博物館の案内人じゃないか! あの男の子だ! どうしてさっきは思い出せなかったんだろう? こんなにはっきりしてるじゃないか!」
水先案内人の正体がわかった。しかし何かまだモヤモヤする気持ちが残っていた。
「そうだ、あの歌だ。水先案内人の歌でサカナを追い払ったナゾがまだ残ってる。えと、あれどんな歌だっけ。おぼえてるかな?」
そう考えるなりマモルの口先からは例のメロディが出ていた。
♪ イナイイナイ番地の レイン坊
きょうはどこまで 虹かけるぅ ♪
「それは夢の中の歌かい?」
お父さんの声がした。
そうだ、今はお父さんに夢の話をしているところなんだっけ。
マモルが目の前を見ると朝ごはんが並んでいる。そうだ、朝ごはんを食べながら話してたんだよね。じゃあ朝ごはんを食べながらレイン坊の歌を歌ってた? やっとそう気づくとマモルはめちゃくちゃ照れくさくなった。
「せっかく歌まで出てきたのに、ごめんなマモル、父さん会社へ行かなくちゃ。また日曜日にでもその夢のことゆっくり教えておくれ。 その歌ももう一度きかせてほしい。きっとだよ?」
手をふりながらお父さんは食堂を出ていった。そのお父さんを玄関まで見送ったお母さんがもどってきたのでマモルはきいた。
「ねえ、お母さん。トマトある?」
「え、トマト? たしかあったけど、食べたいの? 言ってくれればごはんといっしょに出してあげたのに。今からじゃデザートになっちゃうわ。それに学校にも遅れそうだし」
「じゃ、ちょっと見るだけ!」
「見るだけ?」
お母さんはあきれたように言ったが、そのうちなんだかおかしく感じたらしく「フフ、変な子ね。はい、どうぞ」とトマトを一個そのままテーブルに置いてくれた。それは夢の中で感じたのと同じくらいおいしそうに見えた。
第7章 出会い
空港までの道のりはけっこうあると昨日の晩に言われていたのに、この一家ときたら次から次へと話しづめで、なんだかいつの間にか空港へ着いてたって感じだった。子どもたちだけでなくお父さんお母さんもそれはよくしゃべった。毎日いっしょに暮して話しているのに、旅に出るいうだけでいつもとはまるでちがう話題がどんどん出てくるのがふしぎだった。
こうして家族四人はさわがしく飛行機に乗りこんだ。
「ねえ、ぼく、窓際にすわっていい?」
「あ、ルミもルミも、まどがいい」
生まれて初めての飛行機だもの、やっぱり窓ぎわじゃなきゃ。マモルもルミもそう決めていたので、四人は前後二列に分かれてすわることにした。ルミはお母さんの横、マモルはお父さんの横だ。そしてこれこそお父さんがひそかに望んでいたことでもあった。席についてからお父さんはずっとマモルのことばかり見つめている。
そんなこととはつゆ知らず、マモルは初めての飛行機に夢中だった。楕円形の窓に顔を押しつけるようにして外をながめる。そこでは町では見たこともないタイヤを何十もつけた異常に長い車両や、地面から飛行機に乗るための特別なはしごを装備した車やらがアリのように忙しく動きまわっている。
「この機はまもなく離陸します」
とアナウンスがあったとたんに、それらの働く車たちはいっせいにどこかへ行ってしまった。
飛行機が動き出すのをマモルは肌で感じる。最初はゆっくりと動いていたが、ある地点に来るとピタリととまり、そのあとすぐに荒々しい音をたてて一気に加速した。新幹線より速いんじゃないかと思うそのスピードにのってマモルの体はフワリと浮き上がり、そのまま座席のうしろへぐぐぐーっと体が押しつけられた。もう一度、窓から外をのぞくとそこには白い雲がぐんぐんとこちらへ下がってきているのが見えた。ものすごい音はますますものすごくなって、飛行機はまるでさっきからずっと陸上をばく進しているみたいな感じがする。マモルは、ちょっとこわかった。
「わあ、おもしろーい!」
ルミが歓声をあげた。ルミはこの離陸の瞬間をたっぷりエンジョイしているみたいだ。少し恐怖感をおぼえたマモルはなんだか自分が情けないと思ってしまった。
「ただいま当機は水平飛行にうつりました。安全ベルトはおはずしになってもけっこうですが、急な気流の変化に備えそのままおつけになることをおすすめします。当機が札幌の千歳空港に到着いたします予定時刻は・・・」
機内アナウンスはまだまだ続いたけれど、何人かの乗客は席を立ってあちこと歩いていた。よし、ぼくも機内探検だ、そう決めたマモルは安全ベルトに手をかけた。ところがこいつが案外やっかいではずし方がよくわからない。もたもたしてるうちに、なんだか急にトイレに行きたくなってきた。
そのときだった。
「マモル」
お父さんが話しかけてきた。
「やっとゆっくりマモルの話がきけるな」
マモルは横のお父さんを見る。その顔つきはいつになくおだやかで、話す調子もどこかしらしみじみとしていたので、マモルはなんだかドギマギしてしまった。
「ぼくの話って?」
お父さんの顔はパっと輝いた。
「マモルの夢の話だよ! いつもユー君と冒険するあの特別な夢のお話さ。それにお父さんへの宿題も残っているだろう? ほら、マモルが聞いたじゃないか。子どもは特別な時計を持っているのかどうかって」
正直マモルはすっかり忘れていた。そういえばそんな質問したっけな。あれはたしか最初の夢を見たあとだっけ?
「マモル。このごろお父さんさ、もう三年くらい前からかなあ、夕食のとき家にいないことが多かっただろう? 休みの日だってゴルフだ会社のつきあいだとかいって家にいないことも多かった」
何の話だろうとマモルは思った。
「でもな、お父さん、このことに気づいたのさ、つい最近なんだよ。もっと正確に言うとね、マモルからあの夢の話を聞いたときからなんだ」
ふうっとため息をつくとお父さんは自分の手を見ながら話しだした。
「お父さんは自分でも気がつかないまま、だんだんと家より会社にいることのほうが多くなっていたんだね。お父さんだってほんとはマモルやルミやお母さんともっといっしょにいたいのに、心ではそう思っているはずなのに、気がつくと仕事ばかりしていてさ。でもな、マモルが子どもの時計の話をしてくれたときお父さんは気づいたのさ。お父さんの時計はどこか狂っちまったんじゃないかってね」
マモルはやっと思い出せた。子どもの時計の質問をしたときのお父さんの真剣な表情を。
「お父さんだって子どものころは特別な時計を持っていたはずなんだ。それなのにいったいどこでどうおかしくなってしまったんだろうってね」
お父さんはまたマモルの顔を見た。
「それからお父さんはちょっと努力したんだ。仕事を早く終わらせてほんの少しでも長く家にいられるようにやってみたんだ。この夏はようやく休暇もとれた。いつも途中で中断しちまったマモルの夢の話もじっくり聞ける。だからきょうは、いやきょうだけじゃない、この休みのうちはたくさんあの夢たちの話をしてもらいたいんだよ。さあ、マモル」
お父さんに面とむかってこんなことを言われてマモルは照れくさかったが、同時にとってもうれしいと感じていた。お父さんがこんなにもぼくの夢の話に興味をもっていてくれたなんて!
マモルがそう感じた瞬間、安全ベルトがカチャっとはずれた。さっきまであんなに固くがんこだったのに。
「ん、どうした? ああ、トイレに行きたいのか。こりゃすまなかった。お父さんベラベラしゃべっちゃって。早く行っておいで」
「あ、うん」
「トイレはあっちだよ。家のトイレとちがうからゆっくりためしながらやるんだよ」
「うん、わかった」
マモルはお母さんとルミをちらりと見た。ルミは夢中になって窓から外をのぞいている。ほんとにキモのすわった妹だなと思いながらマモルはトイレをさがした。
飛行機の真ん中あたりだろうか、「洗面所」と書いてあるドアがいくつかかたまってあった。ところが四つあるそのすべてのドアには「使用中」の赤いサインが出ている。全部だめだとわかると、マモルは急にトイレに行きたくなってしまい、その場でモジモジしはじめた。
「どうしたの坊や、急ぐの?」
キャビンアテンダントのお姉さんだった。
「じゃあ、こちらへいらっしゃい。ついてきてね」
お姉さんはマモルを飛行機のさらに前のほうへと連れていった。
しばらく行くと青くて重いカーテンが通路をさえぎっていたが、お姉さんはマモルの手をひいたままそれをくぐり抜けていく。カーテンの向こうはまた客室だったが、その席はどれもマモルたちの席の二倍も広くて大きくどっしりしていておまけにフカフカだった。
「ここはファーストクラスっていう特別室だけどトイレは使ったいいのよ。ここが一つ空いてるわ。ではごゆっくりどうぞ、お客さま」
お客さまなんて言われちゃってマモルはすっかり落ち着いた気分になれた。教えられたとおりにドアの真ん中を手で押し開けて中に入る。ドアを閉めたらカチャっとカギをかける。すると自動的に室内の照明がパっとついた。
思ったよりも室内はせまかったが、何種類もの洗顔用品みたいなもとか鏡とかコンセントとかマモルが見たことのないもろもろが壁一面にぎっしりとつまっている。
「わあ、なんか宇宙船みたい」
マモルはすっかり楽しくなってしまい、新式のトイレの使い方なんかを読んでるうちに思わず鼻歌が出てきてしまった。
♪ ルルル、イナイイナイ番地の レイン坊おおおーう
きょうは どおおこまでええ、虹かっけええるうう ♪
用をすませたあとも調子にのったマモルはけっこう長く部屋中の設備をいろいろためしていた。おそらくその間じゅうずっとこの鼻歌を歌っていたのだろう。ようやく好奇心もおさまったのでマモルはカギに手をかけた。
そのときだった。
「おにいさん?」
ドアの外から声がした。それもおとなの声だった。少しかすれているような、でも低くてしっかりとした男の人の声。まさか自分にそう言っているわけがないとマモルは思ったが、それでも声は自分に向けられているような気がしてならない。そんなことありえない、おとなの人がなんだってぼくなんかに、おにいさんなんて呼ぶのさ。そうマモルは自分に言いきかせようとしたが、胸はしだいにドキドキが高なっていく。
「お、おにいさん! ねえ、おにいさんなの? 中にいるの?」
声はさっきよりも大きくなった。
マモルはドアを開けようと手をのばしたが、その手はかすかにふるえている。
ドアはマモルのいる内側に開く。すると外にはだれか立っていたが、あんまりドアの近くに体をすりつけるように立っていたので、マモルの顔はその人のおなかに軽くぶつかってしまった。
マモルはあわてて上を向き、その人の顔を見た。
「え?」
おじいさんの顔だった。丸い銀ぶちのメガネをかけた、マモルのまったく知らないおじいさん。
そのやせて背が高くてりっぱなスーツを着たおじいさんは目をまん丸に見開いて、食い入るようにマモルの顔をみつめている。その顔は怒って今にもマモルを叱りつけそうでもあり、マモルは思わず逃げようとした。
おじいさんは大声で言った。
「ま、待ちたまえ、きみ! たのむ、お願いじゃ、待ってくれ! どうか」
おじいさんの声はとても真剣だった。かと言って怒ってるふうではなかった。それどころか何かにすがるような、心からお願いするような、そんな感じだったのでマモルは足を止め、ふりかえった。
片手をマモルのほうに伸ばしているその人はやっぱり会ったこともない知らないおじいさんだった。おじいさんもマモルのことを知らないのだろうか、マモルのことを頭のてっぺんからつま先まで何度も何度も見返している。ただ、目と口を大きくあけたままの心の底から驚いているようなその表情がマモルの心をなぜか強くひきつけて、なんだかその場所から立ち去りがたい妙な気持ちにさせていた。
するとおじいさんはおもむろに口を閉じ、目も静かにつむって、かけていた銀ぶちのメガネをとると、とてもおちついた顔になった。そして歌いだしたのだ。あの歌を。
♪ イナイイナイ番地の レイン坊
きょうはどこまで 虹かけるう ♪
マモルはとびあがるほどびっくりした。体がみるみる熱くなる。
(なんだってこのおじいさんが知っているんだ。これはあの夢の歌だぞ!)
マモルのおどろきにも気づかず、おじいさんは目を閉じたまま歌い続ける。
♪ ダルマさんがころん団地の レイン坊
自分の涙で 虹かけるう ♪
マモルは吸い寄せられるようにこれ以上ないほどおじいさんに近づいた。
そしてこのおじいさんの姿をまじまじとみつめた。
白い髪の頭、広いおでこ、ちょっと見たこともないほど立派な長い耳たぶ、大きくて先のとがった鼻、きれいに手入れされた白いヒゲ、うすいくちびる、細目だけどがんじょうそうなあご、そのあごを引き立てるえんじ色の蝶ネクタイとすらりとした三つ揃えのスーツ……やっぱりぼくの知らない人だ、そうマモルは思った。マモルがそう思ったちょうどその時、おじいさんは閉じていた目を静かにあけた。とたんにマモルはその目にひきこまれた。
マモルはその目を知っていた!
その目の中には海の青があった、入道雲の白があった、風の緑があった、そしてなにより冒険へのあこがれがあった。あのすばらしい夢の中の冒険でマモルが出会ったすべての心おどる情景がその目にはうつっていたのだ。マモルは見た。その目だけをみつめた。そういう目を持つ人を、マモルはひとりしか知らなかった。
「ユー君・・・」
マモルはつぶやいた。
「ユー君、ねえ、ユー君なの?」
食い入るようにマモルが見ていたその目に涙があふれだした。その目の持ち主は、心の奥底からしぼりだすような声でマモルにうったえかけてくる。
「ああ、おにいさん・・・ほんとにマモルおにいさんなんだね!」
老人と子どもはお互いの目をみつめあい、じっとその場に立ちつくしていた。
(第一部 おわり)