第2話 拓巳は花火の下で
「もうこんな時間か」
壁の時計をチラリと確認し、俺は本日何度目か分からない大きなため息と伸びをした。針が示すのは随分と遅い時間だ。
春に新社会人として入社し約半年。仕事を覚え、一人で一連の流れをやるようになってからは、思うように事が進まず、ほぼ毎日この時間まで残業だった。
(とりあえず今日分は終わったから、帰るか)
広げていた資料をまとめて立ち上がる。部屋を見渡しても俺以外には誰もいなかった。いつもなら同じ時間まで残っている同期たちも、今日は先に帰ってしまっている。
俺は飲みかけの温くなった珈琲を飲み干した。よく飲む自販機のものだ。投げるように缶を捨てると傍でゴミ箱がガランと鈍い音を立てる。
昔はこの苦みが美味しくて好きで飲んでいたはずなのに。今では味わいの欠片も感じられなくなってしまった。それが悲しい。デスク脇に置いてあったジャケットを羽織ると、鞄を抱え部屋を後にする。
(毎日残業して。家に帰っても飯食って寝るだけの生活で。何のために働いているんだ)
今日は華の金曜日だというのに。週末の予定も期待のカケラもなく、どこか疲れの取れない身体を動かすだけの日々。どうせ家に帰っても一人だし。そう、俺は一人なのだ。
母さんは中学の頃、そして父さんは去年の冬にそれぞれ他界した。祖父母も俺が生まれる前に全員他界。親戚とも疎遠で一人っ子で生まれ育った俺には身内がいないに等しかった。
成人していたのもあってか、父さんの死後も実家に一人で暮らす生活をしていて。ついでに言うと、家族以外に働き甲斐を見出せるような親密な関係の人もいなかった。
親孝行の為にと大学まで行って、なんとか大きめの会社へ就職して。なのに待っていたのはこんなにも虚無感の強い生活で。残業も続いていくと次第に頑張る気持ちも削られていった。もう少し楽な仕事にでも変えられないものか……と最近は毎日考えている。
エレベーターを降りて、出口へ向かう。
少しずつ周りの音が大きくなっていく。
扉が開いて外へと出ると、いつもなら当に暗いはずの外が明るく、一気に賑やかな音に囲まれた。
太鼓に笛の音。赤い提灯が並び、その下を大勢の人が歩いていた。
「うわ……凄い人の数」
あまりの人の多さにその場で立ち尽くした。そうだ、今日から三日間、地元の夏祭りだ。何日か前に、告知のポスターを見たような気がするが……仕事ですっかり忘れていた。メインの会場となっているこの大通り。会社の前には溢れんばかりの人、人、人だ。
ただでさえ暑苦しい夏の夜なのに。今日は更に人の群れで暑い気がする。あー、この中を通って帰るのか。そう思うとため息が出る。だがここを通らない限りは家に辿り着かない。そう思い俺は人混みの中へと足を踏み入れた。
*
賑やかな人の群れが、また更に賑やかとなる。わっ、と周りの人たちが声を上げて空を見上げる。ドーン!と轟音が街中に響いた。俺も同じように空を見上げれば、赤い大きな花と白い花が交互に咲いていた。火の花が咲いては散り、また咲いていく。
夜空に高く上がり花を咲かせる火は、とても綺麗だと思う。綺麗なものは単純に好きだ。このまま見ていたい。立ち止まって見ようか、少しだけ考えた。だがその途端、視界が揺らいだ気がした。
ああ、思っていたよりも疲れているんだ。もう少し早く仕事が終わっていたら、祭りを楽しむ余裕もあったのかもしれない。だが今日は体調ばかりか気持ち的にもどこか調子が悪そうだ。倒れる前に、早く家に帰って休みたい。こういう時は眠るに限る。俺は人の波を掻き分けて家路へと向かった。
いつもとは違う道を選ぶ。
大通りを抜けて何度か角を曲がる。少し遠回りにはなるが、祭りの人で混み合う中を歩くよりはマシかもしれない。街灯がポツリポツリと立つこの道は、薄暗いが他の道に比べれば人通りが少なく、歩きやすい道だった。俺は歩幅をやや狭めてゆっくりと歩きはじめた。
花火はまだ始まったばかりだ。テンポよく勢いよく打ち上げられていて、何度も地面の俺の影を深く、くっきりと浮かび上がらせている。今日はゆっくり寝て、明日の夜は花火を見ようか。そんな事を思いながら歩いていると。四方八方から歓声が上がった。大きな花火が打ち上がったのだろう。ぱっと周りが明るくなった。今までの中ではとびきりの明るさだ。
一体どれだけ大きな花火なのかと振り返ろうとした。がその時、俺は自分の足元にぶわりと広がる黒い大きな影に気が付いた。
「え、何」
ドーン! と音が夜空に響き渡る。続けて色とりどりの花が夜空を彩っていく。
赤い花と、白い花だ。
思えばこれが、俺がこの世界で最後に見た景色だった。足元には地面いっぱいに何かが浮かび上がる。大きな、黒い、太い線で書かれた円の模様をした、影。
両足がずぶりと沈んでいき、それから身体が落ちた。急に崩れた足場にバランスを保てなくなった俺は、咄嗟に地面に手を着こうとする。
だが伸ばした手は何も捕らえず、そのまま身体は前のめりに倒れた。なんなんだ、この感覚は。どんどん下へ下へと落ちていくじゃないか。気付いた時には、周り全てが真っ暗な世界となっていて。初めて経験する感覚に、声すら出せない。いくら目を凝らしても、そこは右も左も真っ暗な世界だった。
頭によぎったのは「死」だった。これはもしかして、死ぬって事なんじゃないか、と。死ぬのか俺。それとももう死んだ後なのか。
それならそれでもいいか。もしも死後の世界とやらがあるのなら、そこでまた母さんと父さんに会えるかもしれないから。だったらそっちに行くのも悪くない。そう思うと怖いものは殆ど無かった。
だが暫くしても落ち続ける身体に、途切れない意識。俺は試しにもがいてみる。変わりなく一向に空を振る腕。これ、このまま続くのか? 一瞬そんな不安が頭に過る。だがそれすらもどうでも良くなる。ああ、疲れた。とにかく今の俺は疲れていた。身体の力を完全に抜くと、落下していく感覚に身体を預けた。それからしばらくして、僅かに先が明るくなったことに気が付いた。
終わりが近いのか。その先は一体何が待ち受けているのだろう。吸い込まれるように落ちていく身体。もうどうにでもなれと、俺はそっと眼を瞑った。
そこには大切な思い出のワンシーンが鮮明に浮かぶ。母さんと父さんと三人並んでいて。見上げた先には、大きな打ち上げ花火が咲いていた。
*
「もう一度、名前を教えてくれるかい」
「タクミ・ヒムラです。これからよろしく」
教室では一時間目のいわゆるホームルームが終わり、休み時間となっていた。複数のクラスメイトと入れ替わるように挨拶をして。その列が完全になくなったところで、お疲れ様と声が掛けられた。声の主は朝一番で話をしていた二人だ。タイミングを見計らって俺のところにきてくれたようだ。
すぐさま内容は朝の続き、この世界に来た時の話となる。
「それで気がついたら城の前にいたの? よく不審者扱いされなかったねぇ」
「あの時は、ちょうど令嬢たちに囲まれていて少々困っていたのだ。だがちょうどそこにタクミが落ちてきて。一国の王子として責任もって保護しなければならない。それでタクミを連れて場を離れたのさ」
「それ、聞こえは良いけどさぁ。タクミを利用して逃げたって言っているようなものだよ」
二人はさっきからずっとコソコソと話をしている。やりとりからして本当に仲が良いのだろう。
「俺が不審者じゃないと判断されたのは、特別な魔法陣が出ていたから、だって」
「あー、それもしかして『異世界の扉』?」
彼の言う通り、どうやら俺はその異世界の扉と呼ばれる魔法陣を通って、日本からこの世界に強制的に飛ばされたらしい。降り立った先は、魔法が存在する小さな島国「ジラーフラ」だった。それもなんと正真正銘この国の王子の目の前に飛ばされたのだ。
一国の王子の前に突如現れた、得体の知れぬ人間。不審者扱いされる可能性も大いにあったのだが、こうして今俺がここにいるのはちゃんとした経緯がある。
俺と共にあった魔法陣は、過去にもこの世界で何度か確認されていたもので。異世界から人が送られてきたという記録もあり、今回の事も非常に珍しくはあるものの、前代未聞の出来事ではなかったらしい。
運良くこの国の王子様の前に落ちた俺は。色々な理由が合わさって、無事にこの国に迎えられた。それから更に話が進むうちにこの王宮学園に入学となったのだ。
王宮学園とは、王都王宮の敷地内に建てられた、王立の高校のことだ。日本じゃもう社会人をしていたのに、また学生に戻るだって? それは最初、俺も思った事だけど。
「タクミの世界には、魔法が無いそうだ」
「えー本当に?それは凄い世界だねぇ」
魔法陣から異世界人が現れてしまう世界。この世界が魔法の存在する世界で、誰もが魔法を使える世界で。そして俺も例外なく、その魔法が使える人間になってしまったということ。今の俺は、魔法について何も知らないということ。それは俺がこの世界で生き抜く為には非常にマズい状態であることを示していた。
相変わらずコソコソと話し続ける二人に、俺も背を丸めて会話に加わる。小声で話しているのは、俺が別の世界から来た人間だという事実を、クラスメイトに話していないからだ。ガルベラから話すのは控えるようにと指示をされている。
「魔法だけでなく他にも色々と知る必要があるだろう。歳は離れているが、ここで一年間だけでも我々と共に学生をしながら、この国のことを覚えていくのはどうかと提案してみた。それで入学することになったのだ」
そう説明する、金髪に凛々しい宝石のような瑠璃色の眼を持つ彼が、この国の第三王子、ガルベラ・グランディーン。身に纏う服は装飾が沢山施されており、まさに本物の王子様。言葉遣いはやや硬いが纏う雰囲気は柔らかく、話しやすい、俺のこの世界で初めての友人だ。
「あれ?てっきり同い年かと思ってた。タクミって何歳なの?」
「今年、二十三歳」
「失礼しました。よろしくお願いします、タクミ様」
それまで崩していた姿勢を青年が正す。
「いや、敬語も様付けもしなくていいです、ナタム君」
「本当?そしたらタクミも敬語なしねぇ。僕のことはそのままナタムって呼んでねぇ」
俺が訂正をすると再び姿勢を崩し、ニコニコと笑った。青色の髪を耳の下辺りで揃えた王子の親友、ナタムだ。ちなみに平民出身で苗字は無いのだという。ナタムと顔を合わせるのは今日が初めてだったが、俺も彼もお互いの事をガルベラから聞いていたためか、すぐに打ち解けることができた。こうして今話をしていても、これから更に仲良くなれるんじゃないかと感じる。
それにしても横文字の名前ばかりだな、ちゃんと覚えられるのか。クラスメイトからも自己紹介をされたが、既に記憶が曖昧だ。これから色々な人たちに会って、名前を覚えていかなきゃいけないのに大丈夫だろうか、と少し不安に思う。
だが、学校が始まり安心できたものもある。この世界に来てまだ数日しか経っていないけれど、ガルベラにナタムという二人も仲間ができたのは、紛れもない安心要素だった。おかげで学園生活もいいスタートをきれそうだ。異世界から来たとはいえ、ざっくりと言えば俺は転校生のような者で……転校初日から仲間が出来るのは、心強くて安心できるし、何より嬉しい。
「これからよろしく」
二人に向かって挨拶をすれば、シンクロしたようなとびきりの笑顔を同時に返され、俺はこの世界に来てから、おそらく初めて声を上げて笑った。