第13.5話 勉強会
授業が終わり寮へと一度戻った俺は、鏡を見て身なりを整えた。学校終わりの制服姿なのだから、これといって変なところはないはずなのだが、一応だ。
鞄にノートと筆記用具が入っているのを確認すると、再び靴を履いて外に出る。
部屋の鍵は、もう持たない。魔法で戸締りができるようになったからだ。扉の鍵穴へと手のひらをかざすと、ガチャリと施錠の音がした。
俺の魔法か……俺は魔法の事を考えようとして、でもやめた。今はマイナス思考にはなりたくない。これから会う人の為にも、あまりテンションの低い状態ではいたくないからだ。
目指す場所は図書館。もうあれから何度も勉強のお世話になっている場所だ。
会う人というのは、庭師のロゼリスだった。
先日、植物園であった事件をきっかけに彼女と約束した勉強会。今日はその勉強会の日だ。
出会った頃と比べると心の壁が無くなってきた彼女を、あまり心配させるわけにはいかない。
その為にも明るい気持ちでいたかった
待ち合わせまではまだ時間があった。
仕事のある彼女に合わせての時間だからだ。
俺は図書館に到着すると、入り口からすぐ見える場所へと座る。適当に選んだ児童書を開くと、いつものように本を読みはじめた。
*
肩をトントンと軽く突かれた。本当に軽くだ。
どうやら足音には気付かなかったようだ。そのくらい俺は文字を読むのに必死になっていたらしい。
顔を上げて振り向くとお馴染みの深緑色のワンピースに身を包んだロゼリスが立っていた。
いつもは俺より背の低い彼女を俺が見上げていて、彼女が俺を見下ろしていて、ちょっと新鮮な感じだ。
「‥*※.タクミくん、…・***・・*た?」
「あ、ごめんごめん」
急いで机に置いていたペンダントを掴んだ。
いけね。ペンダントを持っていないと、この国の言葉が分からないんだった。
「聞こえてなかったのね。長い時間待たせちゃったかしら?」
「さっき来たところ。待ってないよ」
ロゼリスは植物園の件で俺がペンダント無しにはこの国の言葉が分からない事を知っている。
それを踏まえたうえで、彼女は再び言葉を言い直してくれた。
「ねえ、外でお勉強してもいい? 館内だと静かにしないといけないから……」
「おう、行こうぜ」
なんだか。距離が縮まった自然な会話に思わず笑みが浮かんだ。
だが同時に小さな声が耳元で囁かれて、彼女の顔が妙に近くて少しだけどきりとする。歳下とはいえ、女性の顔がこんなに近くなるのはこの世界に来てからは初めてだからかもしれない。
俺は悟られないように装いながら静かに立ち上がった。すると彼女の頭の位置が下がった。
なんというか、撫でやすそうな位置にある。
「…………」
「どうしたの?」
「なんでもない」
可愛い背丈だな、と綺麗にまとめられたピンクゴールドの頭を見つめていると、俺の視線に気づいたのか、彼女は不思議そうな顔をしていた。
彼女の勧めで外へと向かう。
外とは言うが一応図書館の敷地内だ。館内を突っ切った先に、テラス席といえばいいのだろうか、屋根付きのエリアがあるのだ。普段俺は利用しないが、彼女と互いに勉強を教え合うとなるとある程度大きな声で話もするため、外に出ようという彼女の案には大賛成だった。
暖かな春の風が俺と彼女の髪を揺らし始めた。
暑くもなく寒くもない、ちょうどいい気温だ。
俺たちは適当な席を選び、横並びに座った。そしてそれぞれが準備を始める。
ロゼリスは鞄ではなく、布製の封筒のような物を持っており、中からノートとペンを取り出した。ノートの表紙にはなぜかジラーフラの文字で「花言葉」と書かれている。花言葉? 精霊の言葉という意味だろうか。俺の使っている翻訳魔法のペンダントは、時々不思議な訳をする。俺の知る日本語に勝手に訳してくれるのだが、今みたいに意味合いの異なる訳をされることも多かった。ノートの中身は恐らく精霊の言葉でもある日本語について書かれているのだろう。
「タクミくんのノートを見せてくれる?」
ロゼリスと相談して、まずは俺が先に言葉を教わる流れになった。俺はパラパラとノートのページをめくる。
「ああ。ジラーフラの文字の読み方は、発音が分からない所が多い。字の形はなんとなく分かってきたくらい」
「凄い。殆どあっているわ。これはどこかの本に載っていたの?」
「いいや、児童書を書き写していて法則に気が付いた」
「児童書を読んで勉強していたのね」
俺が渡したノートを見たロゼリスは、かなり驚いた表情をしていた。そのわけを聞くと、そもそもこの国には母国語を説明する本がほぼ無いのだという。文法とかそういう類いの本だ。
「大陸国の人とも基本の言語は一緒だし。それにもしも言葉が通じなくても、外交の時とかは会話と文字を読むだけならその魔法具で解決するから、なかなか勉強する人が少なくて……本も無いのよね」
そう説明したロゼリスは徐に自分のノートを開いた。
中身は全てジラーフラの文字で書かれたもの。「わたし」「できる」など日本語についての内容が書かれている感じだ、結構しっかり書かれている。彼女の日本語勉強も、俺と同じで教科書のない勉強方法だ。いや、むしろ俺はこの国の本を読むことで文字の勉強はできるし、会話も直接聞けるから彼女より勉強しやすい環境にあると言える。となると彼女は、かなりの努力家の勉強家なのかもしれない。
俺は俺のノートを見返して、教えてもらいたい箇所を順に追った。
「まずはここの……読み方が難しくて。どう発音するんだ」
「えーっとね……」
ジラーフラの言葉は、まあまあ分かりやすい文法をしている。とはいえ全ての言葉を一から覚えるのだから中々の暗記量だ。
日頃、ガルベラやナタム、クラスメイトや寮の仲間に教えてもらうこともあるが、それでも分からない箇所は山ほどあって。合う時間には限りがあって、全部は聞けない事も多々ある。
特に文法によって語尾や発音が異なるものが多く、そこが難しい。そのあたりを中心に彼女に質問していく。理解の悪い俺の頭に怒ったりせず、何度も優しく丁寧に教えてくれるロゼリス。
優しい子なんだな。
俺も必死に彼女の話を聞いて、それから言葉を復唱していった。
*
「ちょっと休憩しましょう」
「そうだな。次は俺がロゼに教える、でいいよな」
「うん」
気付けば一時間近く勉強していたのだろうか。
少し喉が渇いたなと思ったタイミングで、俺たちは休憩を取ることにした。
しまった、飲むものも何も持ってきてないな、そう思った俺の横で彼女が金属性の筒を袋から取り出す。なんだろう。形や大きさからして水筒、ではなくコップだろうか。
コトン、と音を立てて。彼女は俺の前にもそのコップを置いた。すると彼女は手をかざした。
「どうぞ」
彼女が手を上げると、先程まで空だったはずのコップの中に並々と水が注がれている。え、手品? いや違うこれは彼女の魔法だ。彼女の水魔法。
確か以前話をした時に、彼女は水魔法を使うと言っていたような気がする。それだろう。
「あ、ありがとう。いただきます」
勉強中はすっかり忘れていた魔法の存在。
彼女の突然の魔法に驚きつつも、俺はペコリと頭を下げてコップに手を伸ばした。そしてコップの中身を口に含む。中身は常温の、水だ。水だけどどこか爽やかな柑橘系の香りがする。
(美味い……)
こんなに美味い水が瞬時に作れるのか。魔法って凄いな。
あまりにも前触れもなく自然の流れで魔法を使った彼女。そうだ、彼女はこの世界に産まれてからもう十八年も魔法を使っている子なのだ。このくらいの魔法は酸素を吸って息をするくらい日常の当たり前なのだろう。
彼女と俺の違いを感じる。違う世界で生きてきたという事実を突きつけられる。
だが、いつもならここで少し気分が落ち込むことが多いはずなのに、今日は違った。この世界の事や彼女の事をもっと知りたい、学びたいと前向きに思えたのだ。
(ここの生活に慣れてきたのかな)
不思議と落ち着いた気持ちでいることに驚きつつ、俺はコップの中の残りを味わった。
ふぅ、と小さく息をついてから大きく伸びをする。だいぶリラックスしていたが、今度は俺が先生になる番だ。俺は姿勢を正そうとした。
「………*タクミくんは*※***・、遂に…•*・*の?」
「え? あっちょっと…」
彼女も、随分とリラックスしていたらしい。
俺はペンダントをテーブルの上に置いていて、彼女もその存在を忘れたまま俺に話しかけてきて。案の定殆ど会話が聴き取れなくて、俺は慌てて掴む勢いでペンダントに手をかざした。
が、同時に彼女の手が俺の手の上へと重なった。
俺より冷たいロゼリスの手、だ。あれ、なんだこの状況。
何度か瞬きをしてみるものの、目の前の重なった手は、どう見ても重ねられたままだ。
手?! 重なっちゃったよ、どうする俺?!
前の植物園の時は恐らくそうする必要があったから、彼女は俺の腕を掴んでいたけれど。今は状況が違う。どちらかがペンダントを持っていて、魔力を流せば会話はできるのだ。
恐る恐る視線を動かすと、視界の端には隣に座る彼女が映った。
ロゼリスはそのまま手を退かさないで、見事に固まってる。かといって、ここで俺が手を払いのけるわけにもいかねーし。
どうするか。
焦る俺に対し彼女は一向に視線を動かさず一点を見つめていた。
その視線の先は俺たちの手ではなく、俺のノートを見ていた。
「タクミくん」
「は、はい?」
「この、……この国の生活には慣れた?」
「へ? 生活?」
ロゼリスは俺に質問をした途端、ぱっと手を離すと自分のコップに手を伸ばして水を飲み始めた。どうやら彼女は特に気にしていないみたいだ。
なんだ、焦っていたのは俺だけじゃねーか。年上なのに一人余裕がなくて少し凹む。ああ、それに対して彼女は所作が凄く丁寧で。まるでどこか裕福な家のお嬢様とお茶でもしているかのような佇まいだ。
よし、今の事は無かったことにしよう。彼女の質問に答えよう。
「ああ、だいぶ慣れてきたと思う」
「そうなのね、良かったわ……」
こうして彼女の所作に意識が向けられるくらいには、この世界の生活に慣れて余裕ができたと思う。
この世界に慣れたか。来た頃はあんなにも今後のことが不安で怖かったけれど。今は魔法の事が受け入れられていないくらいで、それでも何とか授業にはついていけているし。何よりあの社畜生活から規則正しい生活に変わって、身体はかなり健康的になったと思う。
それに……目の前の彼女、ロゼリスとの関係も出会った頃とは大きく変わった。最初は泥棒疑惑から始まったのに、今じゃ勉強を教え合う仲だ、確実に良い関係性に変わっている。その事が今の俺には希望の光でもあった。
どんなことも、今は否定的なものであっても、時の経過と共にいい方向に向かうかもしれないと思える。
にしても中庭の泥棒疑惑か。あのロゼリスに捕らえられそうになったあの日が、もう懐かしく感じられる。
(魔法が掛けられた花か……)
触るだけであんな衝撃を受けるような強い魔法が掛けられていた城の中庭の花。あの時に咲いていた花は確か城以外の場所や城下町でも同じようなものを見たような気がするのだ。
「なあロゼ。話せる範囲でいいんだけど、中庭に咲いていた花は、そんなに高価な花だったのか?」
「え?」
もう彼女とは何度も会っていて、こうしてプライベートな時間に約束をして会うくらいの関係になったんだ。あの時のことを質問してもいいと思った。
「俺を捕まえようとしたくらい、花の中でも大事な花なのかな、と思ったんだ。でも、中庭だけじゃなくて他のところにも同じ花が咲いていたと思うから……」
あの花がそれほど大事なものだったのか、もしくは他の意味があって魔法が掛けられていたのか。そこが気になった。
だが、彼女は口を堅く結んでしまった。ああ、これはやっぱりNGな話だったか。彼女は両手を組んで目を閉じていて、それから少しして俺の方を向く。
「中庭については、私からは話せないの。でもね、あの花は精霊たちが好む花だから、だから沢山咲いているのよ」
「そうか分かった。ありがとう」
話せない、ということはやはり何らかの理由があるのかもしれないな。軽く聞いたわけではないけれど、あの中庭は花好きの王女様が大切にしている場所だというし、そもそも城の中にある場所だからもっと俺なんかが知ってはいけない国家の秘密的な大事なものがあるのかもしれない。
現に俺は花泥棒だと疑われて捕まりそうになっていたのだから。
まあ、これ以上は追究したところで彼女も答えられないのだし、俺も分からないだろう。
俺は改めて姿勢を正すと、ペンダントを手の中で転がした。
*
「さて。今度は日本語だな。
ロゼは随分と会話が出来ていると思う」
「うん。小さい頃から精霊たちの声ははっきり聞こえていたし、仕事柄精霊たちと会話もしているから、少しは話せるわ」
そう語る彼女の顔は笑顔だ。以前にも少し聞いたが、精霊の声を聴けるという人は彼女以外にもいるらしい。だがその精度にも個人だがあり、会話がはっきりと聞こえるのは稀なのだという。
「だからね、精霊の言葉についてこうしてお話できる事自体が、新鮮なの。嬉しいし楽しい」
にこにこと話す彼女の瞳が、いつもに増して輝いているように見える。相当嬉しいのだろう。教える側としても益々気合が入った。
「基本の言葉も精霊たちに教わったわ。決まった並びの順があるって」
ノートを捲った彼女が答えた。並び? もしかして五十音の事だろうか。それがもう分かるのだというのなら、確認をしつつ勉強したいと要望のあった平仮名から教えるか。
彼女が話し始めるタイミングをみて、俺はペンダントから手を離した。
植物園の時は動揺していたこともあって考えずに話をしてしまっていたけれど、今は言葉を教える時だ。あまり難しい日本語は使わないように説明しよう。
「〝あいうえお〟が基本になる」
「あいぅ……?」
「あれ? 違う?」
最初から躓いてしまったか。てっきり精霊たちから五十音を教わったのかと問えば、彼女は不思議そうな顔を見せる。違ったのか? でも先日貰った手紙には確かに平仮名で俺と彼女の名前が書かれていたはずだ。
平仮名の並びといえば五十音を知っているのかと思ったのに。
「じゃあ、ひらがなはどうやって覚えたの?」
「いろは、にほへと……」
「まさかのそっち?!」
いろは唄とか久々に聞いた。ってか精霊に言葉を教えた人って、一体いつの時代の人なのさ。俺は彼女に馴染みのある方の並びを教えるべく、彼女のノートに文字を書き始めた。五十音を書いて母音と子音で分けてあるよ、と説明すると彼女が何か言っていた。おそらくジラーフラの言葉で「こっちの方が分かりやすい」と言ったのだろう。言葉は分からなかったが、表情からそう読めた。
それからというもの、隣から常に真剣な眼差しが常に送られて、あっという間に時間が過ぎた。
結構俺たちの勉強会は、何かを教え合うというよりも、ほぼお互いの言語レベルを確認し合うだけで終わってしまった。
というかロゼリスは思っていた以上に会話が出来て、でも文字は全く分からないというレベル。それに対して俺はまだ会話も読み書きも全くに近い状態だった。
あとこの短時間で分かったこと。ロゼリスはおそらく頭が良さそうだ。質問の内容が的確で、自分の分からない所がちゃんと分かっているという感じだった。
これは直ぐに上達しそうだ。やっべ、俺ももっと勉強しないと。
ロゼリスはというと、俺に会えない時は精霊たちに聞きながら文字を練習する、と意気込んでいる。
「精霊とはよく話をするのか」
「うん。朝起きてすぐと、あと眠る前にね。精霊が報告にくるの」
「報告? 何の?」
「んー……花の事かな」
「そうか。花の精霊だもんな」
確かに、彼女は数少ない精霊たちとコミュニケーションが取れる人材だ。きっと庭師たちの中でも重要なポジションの仕事を担っているのだろう。
若いのにしっかりとしているな、と思う。
彼女は未だノートに書き込みをしていて、俺はそんな彼女をぼんやりと眺めていて。
ふと、彼女の上半身を見て気がついた。
(バッチ、してない……)
彼女が、本人の魔力の形を示すバッチをしていないのだ。着ている庭師の制服、襟や胸ポケットなどには着けられそうな箇所はあるのに、だ。
学校では必ず着けるように言われていて、確か学校以外でも王宮で働くような人は着けることが多いと、ガルベラやナタムから聞いたはずだ。
王宮内ですれ違う他の庭師さんたちも、付けている人が殆どだというのに。
「ロ……」
なんで? と聞こうとして、でもやめた。
彼女ももしかしたら魔法の事で思うものがあるのかもしれないからだ。笑っているけれど表に出さないだけで、俺と同じように……。
現に今日の俺は、バッチを外してきていた。
学校から帰って、寮に戻った時のタイミングでだ。
別に非難されるような力でも何でもないはずだけど、今はまだ俺の火魔法については触れられたくなかったから。
「タクミくん? 何かあったの?」
そんなのお互い様だ。俺はまだ一方的に聞けるような立場じゃない。
いつのまにか彼女はノートを片付けていて。俺の目を真っ直ぐ見つめていて。
「いや。なにかロゼに質問しようと思っていたんだけど、内容を忘れた」
俺は精一杯、呆けてみせた。彼女は腑に落ちないといった微妙な表情をする。
そのあたりの話もいつか彼女に聞ける日が来るのだろうか。
それとも何かをきっかけに知る日が来るのだろうか。
その時には俺も自分の魔法について、受け入れることが出来ていたらいいなと思う。
「思い出したらまた聞くから」
彼女はそれ以上何も聞いてくることはなくて。でも不思議と嫌な雰囲気にはならなくて。
また一緒に勉強しようね、と彼女と約束をして。
図書館の前で挨拶をして、俺は寮の方へと歩き始める。
ふと気になって後ろを振り向くとやはり彼女の姿はもうどこにもなくて、ただ大きな城が目の前にそびえ立っていた。