暁の新聞配達吸血鬼-ペーパーデリバリー・ヴァンパイア-
まだ日の出の気配もない深夜四時。星々が輝く夜空の下、入り組んだ路地を一人の少年が風のように駆け抜けていった。
脇にはありったけの新聞を抱え込み、ほいほいと路地に面した郵便受けに投入する。
ピュ~♪ ピュルル~♪
広い道に出ると、走りやすくてさらに脚が軽くなる。最近覚えた演歌を下手な口笛で再現しながらポンポンと新聞を配っていく。カコンカコンと返事をするように郵便受けの蓋が鳴る。それが自分の仕事ぶりを称えているようで、聞けば聞くほど嬉しかった。
「最後は高城さんのお家――っと」
少年はようやく足を止めて視線を上げる。
都会からやってきたという高城家は高台に居を構え、そこに行くには長いつづら折りの坂を上らなければならない。坂の多い暁島は新聞配達員にとって優しくない土地だが、その中でも高城家への配達は嫌われていた。
少年はぺろりと舌を出すと、その場で膝を曲げて高台の上を睨んだ。
「よっしゃ行くぞ。せーのっ……」
ぐっと力を込めて、一気に解き放つ。
少年はほぼ垂直に五十メートルほど跳び上がり、音と衝撃を殺すようにゴロンと転がりながら着地する。起き上がると新聞を投函し、服に着いた砂利を払う。
額の汗をぬぐうと、少年は腕時計を確認する。時刻は四時半ごろ。東の空はわずかに白んでいた。
「仕事完了! 今日もバッチリ時間内だ!」
販売店へ報告に戻ってくると、先に配達を終えた茜が配達バイクの点検をしていた。
「あ、ダンテ君。遅かったわね」
振り返る茜の鼻の頭に、黒い油汚れが付いていた。ダンテと呼ばれた少年はニヤつきながら、これ見よがしに自分の鼻を指して顔を近づけた。
「茜ちゃん、顔汚れてんぜ! ブサイクがもっとブサイクになったな!」
「……うっさいわね」
それだけ言うと、袖でごしごしと鼻をぬぐった。つるりとした鼻先がダンテに向くと、彼は「うむ、それでよろしい」と偉ぶった。
ダンテは日の出前でホントに良かったなと思った。明るかったら、頬の赤さと熱さがバレてしまうかもしれなかったから。
暁島は人口千人ほどの小さな島だ。一か月前にこの島に流れ着いたことで、ダンテの新聞配達員としての人生が始まった。
かつてこの国には吸血鬼が住んでいた。彼らの数は人間と比べて非常に少なかったが、人間とほぼ見分けがつかない彼らは恐怖の象徴でもあった。
しかし百年前に行われた吸血鬼狩りにより彼らはほぼ駆逐された。ダンテは追い詰められた両親の手で小さな棺桶に入れられ、人間の手から逃がされた。
百年の間に彼らが住んでいた土地は大災害に見舞われ、運良く人間に見つからなかった棺桶は川に流され、海を漂い、やがて暁島にたどり着いた。
百年の眠りから覚めたダンテは、眠りにつく前と世界が様変わりしたことをすぐに悟った。
幸い吸血鬼の存在は忘れ去られたようだが、だからといって子供の吸血鬼が一人で生きていくのは難しい。いつまでも棺桶で隠れて眠っているというわけにもいかない。
「とりあえず、お金がいるよな。人間の生活に溶け込まないと……」
それがダンテが下した結論だった。
初めての職探しだったが、働くなら新聞配達員は悪くないなと当たりをつけていた。朝刊の配達なら日の出前に働けるし、日中は隠した棺桶の中で休んでいればいい。人間より遥かに優れた身体能力も役に立つ。
当然履歴書など用意できなかったが、暁島唯一の新聞販売店は人手不足で、田舎ならではの適当さのおかげですぐに採用された。
茜ともその場で知り合ったが、はっきり言って一目ぼれだった。ただ、恋する気持ちの表現方法など分からなった。
ちなみに、ダンテの本名は“ダンテ”ではない。名付け親は販売店店長の宵山で、このような流れで決まった。
「お前さん、バイクも使わずに配るの速いなあ。まるで韋駄天だよ」
「イダテン?」
「とっても足の速い神様のことさ。お前さんの名前は長いし、イダテンって呼んでいいか?」
「――別に構いませんけど」
「んー。でも、お前さん“韋駄天”って見た目じゃないしなあ。ちょっと変えて、“ダンテ”ってのはどうだ? ちょっとゴツイかね?」
「――いえ、いいと思います」
「よっしゃ、決まりだなー」
内心複雑だったが、本名が広まるのはまだ危ないかもしれないし、仕事仲間たちに「ダンテ」と呼ばれるうちに段々しっくり来たのも事実だった。
まだ梅雨も明けきらない七月のある日の深夜三時。ダンテが販売店に赴くと、店がいつもより慌ただしいことに気付いた。
「おう、ダンテ! 早く手伝え!」
珍しく店長が荷下ろしをしていた。茜も汗を流しながら新聞を運んでいる。
「どうしたんですか?」
「夕凪さんが急に体調を崩してな。今日は来られないそうだ。せめてもっと早く連絡してほしかったが……」
夕凪はこの販売店で一番の古株で、ダンテも茜も彼から仕事を教わった。しかし還暦を過ぎた夕凪はすっかり体力が衰え、休みを入れる頻度が上がっていた。ダンテがすんなり採用されたのも、その点が理由の一つだった。
「と、とりあえず手伝います! こう見えて力仕事は得意ですから!」
「そうか! そんじゃ、俺と茜ちゃんでチラシを入れていくぞ」
「承知しました、店長」
ダンテは人間離れしない程度の力を発揮し、トラックからひょいひょいと新聞を店内に運び込む。急いでチラシを折り込み、普段より十分ほど遅れて配達に向かった。
ダンテ・茜・夕凪の三人で配達するところを、今日は二人で配達しなければならない。配達量が一・五倍になる上に、夕凪の担当区域は当然不慣れなので、いつもと同じペースなら二倍の時間は覚悟しなけれならない。しかしそれでは「配達が遅い」と苦情が寄せられるだろうし、何より朝日を浴びれば致命傷になる。
「今日は今までで一番の時間勝負だな。よしっ」
ダンテがぺろりと舌を出す。本気になるときの癖だ。
「焦らないでね、ダンテ君。なんなら、夕凪さんの分は私が全部配ってあげるけど。担当区域も近いし」
「大丈夫だって! 俺の俊足を舐めるなよ!」
「……ならいいけど」
茜が眉をひそめる。ダンテとしては、このピンチを逆に利用して彼女にいいところを見せたかった。
「そんじゃ行ってきます!」
「おう! あんま気負うんじゃねえぞ」
店長と茜に見送られながら、ダンテは自分の仕事を開始した。
現在の時刻は三時半。日の出は五時。この短時間で普段の一・五倍の仕事をするのは人間には不可能だったが、幸か不幸かダンテは吸血鬼。人目がない深夜は彼の独壇場だった。
「今日は本気中の本気だ……!」
ダンテは靴と靴下を脱ぎ、適当な場所に置くと、裸足でアスファルトを蹴った。
タンッタンッタンッタンッ――
寝静まる夜の島に小さな足音が響く。吸血鬼の脚は風を追い抜き、少々乱暴だが的確に新聞を投函する。夜目が利き、動体視力にも優れるダンテにとって難しいことではなかった。
「おっと、アパートか」
島では数少ないアパートが彼の担当区域に二棟ある。どちらも八部屋しかない小さなアパートだが、郵便受けは各部屋の扉に付いているので配達が地味にめんどくさい。
「ちょうどいい。一回やってみたかったんだ」
ダンテは舌を出すと、手に取った新聞を丸め、道路から扉に向かって投げつけた。
「ほいっ、ほいっ、ほいっ!」
連続で八回。投げられた新聞は弾丸のように飛び、狙い通りに各部屋の郵便受けに潜り込んだ。
「いよっ! ナイッシュ!」
思わずガッツポーズ。しかし音が大きかったのか、一室の明かりが点いた。
「やべっ! これは要練習だな――っていうか、緊急時以外やるべきじゃないな」
その場から逃げるように駆け出した。
一度に持ち運べる新聞の量は少ないため、ダンテは販売店に戻って補充しなければならない。普段は一回だが、今回は夕凪の分があるため一回余分に戻る必要がある。
その二回目の補充に向かうと、店長の宵山が新聞をビニールでラッピングしていた。
「――うおっ! もう配り終えたのか!? ちゃんと配ってんだろうな?」
「苦情が来てないってことは、ちゃんと配ってるって証拠でしょ。それよりどうしたんですか?」
「それがな、もうすぐ雨が降るんだと。にわか雨だが、かなり雨脚が強いらしい。濡れた新聞なんて配れねえからな」
その理屈はわかるし、宵山の天気の勘は鋭いので逆らう気はない。しかしラッピングを待っていると、およそ二倍速で稼いだアドバンテージが無くなってしまう。
「――うし、終わった。待たせて悪かったな」
「い、いえ。その分休めたので……」
実際は気もそぞろで、脚が今にも駆け出しそうに貧乏ゆすりしていた。ひったくるように新聞を受け取ると、勢いそのままに駆け出した。
「いっ、行ってきます!」
「おう、頼んだ!」
あっという間に遠ざかるダンテを見送りながら「何であいつ裸足なんだ?」と首をひねった。
夕凪の担当区域を回るのは、彼に仕事を教わった数回のみ。加えて宵山が危惧していたとおり雨が降り始め、ダンテの脚は明らかに鈍り始めていた。足は滑りやすいし、速く走るほど顔に打ち付ける雨粒が弾丸のように痛い。
「本当に悪条件だな、今日は」
幸いだったのは、担当区域の範囲のわりに配達先が少なく、高低差が激しいことだった。バイクでは時間がかかるが、縦横無尽に動けるダンテは人間には不可能なショートカットができる。
激しい雨も十分ほどですぐに止んできた。真上にはまだ厚い雲が残っているが、すべての新聞を配り終えたダンテにはもはやどうでもよかった。
「お、終わった……マジで疲れた……!」
疲労困憊のダンテは道路の真ん中で大の字に倒れていた。騒ぎにならないよう最小限しか人間の血を飲まないダンテは、吸血鬼のわりに持久力に乏しかった。
そこに、ひたひたと忍び寄る気配を感じた。
「……まさか!?」
ニャン。
彼の予想通り、そこには猫がいた。暁島には猫が多く、島民皆が猫をかわいがっているので非常に人懐っこい。
それは吸血鬼に対しても例外ではなく、彼自身もすぐに猫の魅力に取りつかれてしまった。
「ああ……猫ちゃん……ちょっと撫でてから帰るか」
すり寄ってくる猫を撫で回すと疲れが吹っ飛んでいった。つい頬が緩んでいくが、突如異変が襲った。
「熱っ!?」
煮えたぎる熱湯をかけられたような鋭い熱さ。
足元を見れば、朝日を浴びた素足が塵になって風に溶けていた。
ダンテは青ざめた。疲労と多忙と猫で時間を確認するのを忘れていた。加えて空の大部分が雲で覆われていたことで、時間の感覚が狂っていた。
「よりにもよって足を……」
消滅した体は影に隠れて休めば再生する。しかし困ったことに、ここは道路のど真ん中。猫では日差しを遮れない。
――えっ、嘘? こんなところで死ぬの? まだ百年ぶりに目覚めて一か月しか――!
頭の中が絶望に染められる中、ふっと目の前が暗くなった。
「何してるの? こんなとこで」
初恋の相手が、朝日を背景に立っていた。それはさながら後光を背負う女神のようだった。
ちょうど彼女の体と配達バイクが朝日を遮り、ダンテの苦痛を緩和してくれた。
「あ、茜さん!? なんでこんなとこに!?」
「配達が終わったからお店に連絡したんだけど、店長が『ダンテがまだ戻ってないから、手伝いに行ってやれ』って。心配してたわよ?」
そうか、店長の指示か。ある意味命の恩人になったが、彼女が自発的に来たのではないと知って少々落胆した。
「――茜ちゃん。ちょっと変な頼みがあるんだけど、聞いてくれる?」
「えっ、何?」
「ここから道の端まで、ゆっくりバイクを押してくれる?」
「別に、それくらい構わないけど」
そしてダンテは、怪訝そうな茜に見下ろされながら、バイクの陰に隠れて朝日から逃げ切った。
* * *
その日以降、茜とは顔を合わせづらくなった。
仕事を間に合わせるためとはいえ、あの日は少々力を出しすぎた。もしかしたら、朝日で溶けた足を見られたかもしれない。
一週間後、何度も迷惑をかけているお詫びにと夕凪がまんじゅうを持ってきた。配達前にみんなでほおばっていると、夕凪が茜に話を振った。
「どうだい、茜ちゃん。ダンテ君はだいぶ頼もしくなってきたかな?」
狭い店内。聞かなかった振りもできないので、素直に茜の反応を見る。
彼女は軽く視線を上げながら答えた。
「まあ、どちらかと言えば頼りになる――かなあ」
「そうかいそうかい」夕凪は微笑みながら顎先を撫でる。「じゃあ、男としてはどうだい? 少なくとも、ダンテ君は茜ちゃんに気があるみたいだが」
突如自分の恋心を暴露されたことに悲鳴を上げそうになったが、ぐっと拳を握ってこらえた。ここで暴れれば自分の職場が消滅する。
「そうですねえ」茜は口元に手を当てながら、じっとダンテを見つめた。「ダンテ君は、大事な弟って感じですかね。とりあえず、見てて飽きないです」
それを聞いて、宵山と夕凪は大笑いした。
「残念だったな、ダンテ君! でも君は素材がいいし、もうちょっと大きくなれば女の子の方から寄ってくるさ!」
そう言ってバンバン背中を叩かれて励まされるが、ダンテは心ここにあらずだった。
「夕凪さん、やめたれよ。こいつ、何か意味をはき違えてるみたいだぜ?」
「あ、ひょっとして『大事な弟』っていうのをポジティブに受け止めちゃった感じ?」
「見どころのあるガキだが、やっぱり内面はガキなんだなあ」
「違いないねえ」
もう一度大笑いする二人に釣られて、茜もつい笑みがこぼれる。
「おっと、いけねえ。野郎ども、配達に行ってこい!」
「はいはい。のんびり行きましょうかね」
「ほら、ダンテ君。ボーっとしない!」
「――ああ、はい! 今日もダンテは頼りになりますよ!」