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第1話 孤児の少年

 その日、エリオスは誰に起こされるでもなく目が覚めた。

 普段は床に落とされるまで起きない彼にしては珍しいことだ。


 エリオスは寝ぼけたまま薄く目を開く。見えた天井がいつもと違う気がして思わず手を伸ばせば、白く綺麗な手が視界に映りこむ。

 握って、開く。珍しくもない動作を繰り返しているだけなのに、なぜか強烈な違和感を覚えた。


「え……? は、ああぁぁっ!?」


 ぼんやりしていた意識が一気に覚醒する。背中を預けていた布団の感触も、起き上がった拍子に流れ落ちた髪も、自分の喉から発せられたはずの声も、広い部屋も白い肌も何もかも見覚えがない。


 慌てて辺りを見回し、部屋の隅に鏡に目を留める。彼は布団を蹴散らすと、足を縺れさせながらもそちらに走り寄った。

 ……鏡、というのは目の前にあるものを反転させてそのまま映し出す道具のはずだ。鏡を部屋に置けるほど裕福な生活をしていない孤児であっても、見たことが無い訳ではないし己の容姿ぐらい把握している。

 その冷たい鏡面に映っていたのは間違いなく、自分の知っている自分ではなかった。


 ありきたりな茶色の髪に、少し珍しい空色の瞳。薄く日に焼けた肌、剣だこの取れない掌、体の至る所に残る傷跡。それがエリオスだ。


 だが鏡の中からこちらを見つめているのは。

 癖のないさらりとした白銀の髪に、星に照らされた夜空のような色の瞳。太陽を知らない真っ白な肌、人形のように整った美しい顔立ちの、少女。


 エリオスの面影なんてどこにもない。容姿どころか、性別でさえも彼とは異なる。


「なんなんだよ、これ…………いっ!?」


 混乱から抜け出せないエリオスに突然、激しい頭痛が襲い掛かった。


「ぐッ、ああああああああっ!!」


 脳が焼かれているかのような熱い痛みに頭を掻き毟る。

 痛みと共に流れ込んできたのは記憶の濁流だった。鏡に映る、少女の記憶。味方のいない王宮で生きる、孤独な第二王女の十年間だった。




 冷めた料理、毒入りスープ。

 あまりの空腹に街へ下りて盗みを働くこともあった。

 母はおらず、父にも会えない。

 味方がいない、安全も保障されない。

 毎日毎日、王宮の敷地の隅にある小さな屋敷でひとり、本を読みながら代り映えのない日々を過ごしていた。




「ッ、はぁっ……」


 頭痛が落ち着く頃には、膝をついて肩で息をしていた。額から滲んだ汗が一滴、床に落ちてしみを作る。

 呼吸が落ち着く頃に顔を上げてもう一度鏡を見ると、苦しそうに喘ぐ青ざめた少女と目が合った。


 少女の記憶によれば、彼女はエリオスと同じで十歳になったばかり。しかしそうとは思えないほどに華奢で、栄養が不足していることは一目瞭然だ。

 頭に焼き付けられた記憶で、この少女がどのように生きて来たのか、まるで自分のことのように思い出せる。栄養が不足している原因も、これだけ叫んでも誰も来ない理由も、全て()()()()()()


 けれど、いや、だからこそ。


「や……いみわかんねーよ」


 力なく呟くと同時に脳が限界を迎え、そのまま意識が遠のいていく。

 この状況を受け入れるには、もうしばらくかかりそうだ。




 *




 ――一年前。


 貧民街、孤児院の地下室。

 薄暗いその部屋で、ごりごり、ごりごりと規則的な音が反響する。倉庫として使われ、日に数度しか人が立ち入らないその場所で、少年は薬草をすり潰していた。


「っし、でーきた」


 少年――エリオスはそう呟くと、すり潰した薬草やら雑草やらの中から香りの良いものを数種類選んで器に入れ、混ぜ合わせる。彼は自分の手を鼻に近づけ、その手に残る匂いを嗅いだ。


「うん、今回は上手く出来た気がする。確か今日は鳥肉があったよなぁ」


 エリオスはイイことを思いついたと言わんばかりに口端を吊り上げる。散らかった器具や草を手早く片付け、香草の入った器を後ろ手に隠し、階段を駆け上がった。

 誰にも気づかれないよう、忍び足で台所へと向かう。台所では、犬の耳と尻尾を持つ獣人の少年と赤い髪の少女が今日の夕飯の支度をしていた。


「ねぇ、エルを見てない? 帰ってきてすぐにいなくなっちゃったのよ」

「見てねぇけど、どうせまた草でもいじってんだろ」


 二人は鍋の方を向いており、出入り口に背を向けている。獣人の少年、ダヴィが言っていた通りエルは草をいじっていたのだが、今すぐそばの廊下まで来ているとは気づいていないようだ。

 獣人の血を引くダヴィは人間の何倍も鋭い嗅覚や聴覚を持っている。そんなダヴィに気付かれないように近づくのは中々難しいことだが、出来ない訳ではない。


 近づいて目的を達成するまで気付かれないようにする、これはエルとダヴィがよく行うゲームだ。達成条件は様々で、虫を背中に貼り付けることだったり、ただ単純に肩を叩くだけだったりする。とにかく気付かれなければいいわけで、今回の場合の目的は香草を鳥肉にかけることだ。


 音の立たない歩き方、呼吸法。長い間をかけて磨き上げたそれらの技術を駆使して鳥肉に近づいていく。エルが台所に立ち入ったその時、ダヴィの耳がピクリと揺れ、尻尾がピンと立った。

 その瞬間、エルはそれまでの慎重さをかなぐり捨て素早く動き、数瞬差でダヴィが机の上に跳び乗る。勝敗は一瞬で決した。

 机に並べられていた調理器具が落下し、ガッシャーンと派手な音を立てる。その時にはもう鳥肉に香草がぶちまけられており、ダヴィがエルの手首を掴んでいた。


「俺の勝ち!」

「あぁくそまた負けた!」


 エルは拳を上げて喜び、ダヴィはしゃがみ込んで頭を抱える。ルイーゼは何の前触れもなく突然始まった勝負に驚いて目をぱちくりとさせていたが、頭が追い付くにつれだんだんと表情を消していく。


「……なにしてるの?」


 盛り上がっていたエルとダヴィは二人してぎくりと肩を震わせる。ダヴィはようやく自分が机の上に乗っていることを思い出し、顔を青くさせて即座にそこから跳び下りた。


「……台所で危ないことはしちゃいけないって何度も言ったでしょ! 怪我したらどうするの!」

「ご、ごめんなさい!」

「火だって使ってるし、今落ちた中には包丁もあったのに!」


 悪いのは全面的に自分たちで、しかも怪我を心配されているとなれば言い返すことなどできない。ルイーゼは二人より一つ年上のお姉ちゃんであり、ただでさえ逆らえない存在なのだ。


「もうっ! 今度危ないことしたらご飯抜きにするからね!」

「わかった! 絶対もうしない!」

「遊ぶときはちゃんと場所選ぶ!」

「……本当に?」


 二人はそろってコクコクと何度も頷く。その様子を見たルイーゼは溜息を吐き、表情を和らげた。

 お許しがもらえた二人は安堵し、ほっと息を吐いた。


「それじゃあ落としたものは片付けて、エルも夕飯の支度手伝って」

「はーい」


 エルとダヴィは床に散らばった調理器具を拾い集めていく。それについた汚れを落としていると、鍋をかき混ぜていたルイーゼがふと口を開いた。


「そういえば、どうしてダヴィはエルがあんなに近くに来るまで気付かないの?」


 どうして獣人のダヴィが人間のエルに気付かないのか。基本的な能力から違うはずなのに何故勝敗が五分五分なのか。ルイーゼが疑問を口に出すと、ダヴィがぎゅっと眉を寄せた。


「昔はすぐに気づけたんだぜ? でも最近は全然歩く音がしねぇし、エルがそこら中に香草をばら撒いてるせいで匂いが紛れてわからねぇんだ」

「俺の努力の賜物だな」

「なんでそんなところに力を入れちゃうの」

「そりゃ負けたくないじゃん?」


 確かに、普通に生きていれば足音を消す技術などいたずらくらいにしか使えない。それでも遊ぶため、勝つためなら地道な練習も意外と苦にならないものだ。


「ま、そのうちダヴィに全く気付かれないくらいにはなってやるよ」

「その前にオレが感覚磨いて一瞬で気付いてやる」


 負けず嫌いな二人にルイーゼはふふ、と小さく笑う。二人して次は勝つと言い合っていると、ダヴィの耳がピクリと動いた。


「随分大きな音がしたけれど、何かあったのかい?」

「あ、院長」


 振り返ると、台所の入り口にこの孤児院の院長が立っていた。院長はまだ三十代に達していないように見える男性だ。それでもエルが物心ついたころには既に院長をしていたのだから、相当若いうちからここにいる。院長はこの孤児院で最年少の一歳を過ぎたばかりの女の子、サラを腕に抱いていた。


「それは多分ダヴィが調理器具を落とした時の音だな」

「エルが勝負ふっかけてきたんだ」

「こらこら、二人とも怪我はないのかい?」

「それは大丈夫」

「それならよかった。でも台所ではしゃぐのは危ないから、もうしないこと」

「さっきルイーゼにも同じこと言われたぜ……いてっ」


 項垂れるダヴィの耳を、サラが無邪気に笑いながら引っ張る。それほど強い力ではなかったようで、ダヴィは大人しくされるがままだ。エルが便乗して耳を握ればそれは容赦なく叩き落とした。


「んで、エルは何をかけたんだ?」


 ダヴィはエルが香草をぶちまけた鳥肉を指差して、何事もなかったかのようにそう尋ねた。


「あぁ、今日は初めて見つけた魔草があったから混ぜてみた」

「初めて使う魔草って嫌な予感しかしねぇ……」

「安心しろ。毒はないって院長が言ってた」

「院長、これの効果は?」

「ふふ、一つ言うのなら、この魔草を鳥肉につけているのは初めて見たかな」

「それってヤバいじゃん」


 魔草、というのは特殊な効果を持つ植物のことだ。例えば茎を折ると爆発したり、軽傷であれば一瞬で治る薬の材料になったり、方向性はバラバラだがそれぞれ強い力を持っている。

 凄く不味いかもしれないし、凄く美味しいかもしれない。傷薬になるかもしれないし、焼いたら爆発するかもしれない。

 エルが香草を鳥肉につけて実験するのは食事を美味しくするということだけでなく、魔草を混ぜて役に立つ効果を持つものを探し出すためでもある。院長は毒の有り無しは教えてくれるが効果までは教えてくれない。成功率の低い博打のような実験であるが、エルはそれを楽しんでいるふしがある。


「とりあえず、食ってみればわかる。そろそろスープも出来上がるし、焼いてくか」

「お前一人でやれよ。オレとルイーゼは離れて見てるから」

「はいはい」

「私は向こうで待っているから、何かあったらすぐに呼びなさい」


 サラを連れた院長は一通り台所の確認を終えると他の子供たちのいる部屋へと戻って行った。

 魔草は爆発する、発火するなど危険なものも多いが、大怪我をするほど危険なものは院長が最初から弾いている。せいぜい軽い火傷を負う程度の効果しかなく、エルは実験をすることに対してそれほど恐怖を抱いていない。


「さぁて、やるか」


 いつものことだと諦めた様子のルイーゼと、なんだかんだ言って心配そうに見ているダヴィを横目に、エルは実験を開始した。



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